番外編 仲間の離脱と泥仕事
裁定の翌朝から、町の空気は変わった。いや、変わっていたのに、ガリウスの耳がようやくそれを拾い上げただけなのかもしれない。
石畳の目地にこびりついた昨夜の酒の匂い。鍛冶場の鉄が朝日に熱を吸い、微かな錆の粉を立ち上らせる。その向こう側で、乾いた笛の音がひとつ鳴った。
犬笛だ。すぐに近所の犬が二、三度、応えるように吠える。
それだけなら日常のはずだった。だが今日は違う。吠え声に笑いが混じる。
「おい、鳴いたぞ」
「マッドドッグも、首輪でも買えばいいんじゃねえの?」
くすくす、という湿った笑い。男が顎をしゃくる。
女は目を合わせない。子どもは指をさして、すぐに母親のスカートの陰に隠れた。
口の中に、鉄の味が戻る。噛みしめた歯の奥で、夜の森の残り火がまだ燻っている気がした。
ギルドから出てくると、正面の広場に募金箱が並んでいた。白い木箱に刻まれた聖女の紋、そして手書きの札『黒の森遭難者追悼・遺族支援』。
ひとりの男が、ためらいなく銀貨を投げ入れた。箱はふたつ並んでいた。右は『教会本庁』。左は『リナ追悼基金』。男は迷わず、左に。
僧衣の若い神官が微笑を作った。
「ありがとうございます」
ガリウスが足を止めると、神官は気づき、笑みを薄く引っ込めた。目は笑っていない。ガリウスが何をしたか、もう彼も知っているのだろう。
別の女がやってきて、箱の前で手を合わせる。
リナがどれだけこれまで陰ながら町の人々を助けてきたのか、皆よく知っているのだ。世話になった者は、ひとりやふたりではない。ガリウスはそんな光景を見る度に「無料で治してやるなんて能力の無駄遣いだ」とリナを叱っていたのだが、この光景を見ると、どっちが正しいかなどわかったものではない。
銅貨が複数、軽い音を立てて沈んだ。女はわざと視線を逸らし、ガリウスのほうは見ようともしなかった。
(……寄付なんざ、俺たちがSランクだった頃は、向こうから勝手に集まってきたってのに)
喉の奥が熱くなる。だが、吐き捨てる言葉は出さない。出したら終わりだ。
「よお、お漏らしマッドドッグ。パンツの替えは持ってるのかよ?」
ぎゃはは、と通りがかった冒険者がこちらを見て笑う。
殺してやろうかと思ったが、既のところで思いとどまる。
──私闘の厳禁。規律違反、即追放。
査定官も、もう許しはしないだろう。今はぐっと堪えるしかなかった。
ギルドの赤札は掲示板だけでなく、町の壁にまで貼られていた。
絵師が面白半分に描いたのだろう。『審査中』の赤い札を噛み千切ろうとする黒い犬。犬歯の間からのぞく舌の色が、不自然なまでに派手だった。
ガリウスは、それらに背を向けた。
拳が疼く。殴れば、斬ってしまえばすぐ楽になるのに──と、指の骨が囁く。だが、それはできない。やってしまえば、犬の首輪が本物の鉄になってしまう。
結局、宿に戻った。安い部屋だ。
拠点の屋敷〝マッドドッグの館〟は既に差し押さえられ、安宿でその日暮らしをするしかないのが、今のガリウスだった。
敷き藁は湿り、薄い窓からは市場のざわめきとパンの煙が細く入り込む。
扉を開けると、サムソンが立っていた。荷をまとめ終えている。肩のベルトに、斧と布袋。
「……なんだよ。ソロで討伐でもすんのか?」
ガリウスが言うと、サムソンは短く顎を引く。土埃の匂いが彼の鎧から抜けていた。
「いや。俺はもうこれを機に田舎に帰らせてもらうよ」
最初、意味が分からなかった。
言葉が脳に入る前に、血が先に走った。
「ちょ、ちょっと本気!?」
部屋の隅で頬を冷やしていたシーラが顔を上げる。
半竜から食らったビンタの影響で、治療後もまだ頬に腫れが残っているのだ。
教会に行けば治してもらえるが、今はその金さえない。
「て、テメェまで裏切るのか!」
ガリウスは一歩踏み出した。
胸の奥で火花が散る。危うく、拳が勝手に上がりかけた。
だが、サムソンの目がそれを止める。濁らない目だった。
「裏切る? 俺は裏切ってないだろ。これまでも、〝黒の森〟でも、半竜との模擬戦でも、全力でやっただろ。俺がいつ裏切った?」
サムソンの言葉が石のように足元に落ちる。拾う余裕はなかった。
シーラが口を閉ざす。ガリウスも、言い返す言葉を見失った。沈黙が藁の湿りに染み込んで、部屋が少し狭くなる。
サムソンは、続けた。
「それに、俺は金になるからとお前に勧誘された。Dランクまで落ちて借金背負って、その上ギルドから目をつけられたとなりゃ、もう無理だろ」
「おい、ふざけんなよ。その借金はテメェにもあるんだぞ!」
反射的に噛みつく。借金という言葉に、胃の皮がひと枚剥がれる音がした。
「ねえよ」
サムソンは肩を竦めた。
「さっきギルドに確認してきた。借金は、リーダーであるあんたが背負うことになるそうだ」
「な、なんだと!?」
耳の奥で血が鳴った。そういえば、裁定の場でそんな説明があった気がする。
だが、その時は別の屈辱で頭がいっぱいでそれどころではなかった。
また、それと同時に別のことまで記憶に蘇ってくる。
ロウの握力。石の床の冷たさ。股間の温かさ。それらが一度に脳裏に過り、思わず吐き気を堪えた。
サムソンは表情を変えず、さらに釘を打つ。
「それに……ロウとリナを見捨てたことに関しては俺にも責任はあるが、やっぱり死人を使って嘘を吐いたことは、引っ掛かるものがある。リナはお前と付き合っていたんだろう? いくら心まで奪えなかったとしても、死んだ自分の女の死さえ悼んでやれないんだ。どのみち、俺だって同じように裏切られるんだと思うようになるよ」
サムソンの視線が、ちら、とシーラに滑った。言葉は出さない。だが視線に言葉が載っている──お前も裏切られるぞ、と。
シーラはぎょっとして、俯いた。ぽとりと落ちた水布を慌てて拾い、彼女は目を逸らす。
「テメェ……そのまま無事で抜けられると思うのかよ」
喉が鳴る。ガリウスは憤りを噛みちぎった。
「思うね」
即答だった。
サムソンは言葉を継いだ。
「ギルド規定で私闘は禁じられてるのは、知ってるだろ? ギルド側にも、今後俺の身に何かあったらガリウスを真っ先に疑えと伝えてあるよ」
「なっ……テメェ!?」
肩の筋肉が勝手に膨らみ、拳に血が集まる。だが、拳は宙に浮いたままだ。落とせば終わる。わかっている。
サムソンは、ふと口元だけを柔らかくした。
「そういうわけだ、ガリウス。お前との冒険、結構楽しかったよ。こんな最後になって、残念だ。ただ……いい夢は見させてもらったよ。これからの活躍を祈ってる。じゃあな」
それだけ言って、彼は荷を担ぎ、背を向けた。
扉の蝶番が乾いた音を立てる。まるで重いものを置いていったかのような、軽い足音だった。
シーラが濡れ布で額を押さえた。サムソンの背中が角を曲がって消えるまで、誰も何も言わなかった。
*
その日の昼、ガリウスはシーラとともにギルドへ向かった。
掲示板の前は混んでいた。木札はびっしりと貼られ、上の方から剥がれ落ちた紙が床に散らばる。
赤札──『Sランクパーティー〝マッドドッグ〟審査中』は、昨日の位置からさらに目立つ場所へ移されていた。誰の悪戯か、札の角には犬の耳が描き足され、鼻の位置には穴が開けられている。鼻の穴に開けられた穴から、子どもが覗いた。ガリウスと目が合った途端、ゲラゲラと笑って逃げていった。
「仲間を囮にして帰ってきたのに、真っ先にやることが酒だったんだってな」
「赤札の下で飲む酒はさぞかし安かろうよ」
耳に入ってくる。言葉は刺さらないふりを続ければ、そのうち本当に鈍る──そう信じたかった。
受付に向かうと、窓口の女は目を泳がせる。しかし、貼り付けた笑みだけは崩さなかった。
「依頼はあるか」
ガリウスは冒険者カードを差し出して、言った。
この冒険者カードはロウが持って帰ってきたものだ。紛失して新しいカードの再発行待ちだったのだが、『せめてもの情け』と言って、置いていったらしい。そのお陰で、新たに依頼は受けられるが……癪に障る話だ。
「えっと……Dランクパーティーの〝マッドドッグ〟さん、ですね。雑用依頼がひとつあります」
「Dランクパーティー、ね」
ガリウスが自嘲的に呟いた。背後で、シーラが小さく咳をする。喉の渇きが滲む音だ。
「内容はこちらになります。……下水清掃、ゴミ搬送、屠殺場の手伝い、港荷下ろし。ですが、いずれも競合が多く……」
掲示板の向こうから、別の声が飛んだ。
「ゴミ搬送は俺らが先に受けたよ」
「港は昼に二便だけだ。もう枠はねえ」
その言葉に、受付係が申し訳なさそうに首を傾げる。
ガリウスは紙を奪うように取って中身を見た。字が滲んで見える。顔の火照りのせいか、昨夜の酒の残りか。いや、違う。
男の笑い声が水のように耳の中で揺れて、目の焦点が合わないだけだ。
「……下水だ。下水清掃をやる」
選ぶしかない。誰も選ばないものを、選ぶしかなかった。
下水は、町の腹の内側にあった。鉄の匂いではなく、血の鉄臭さとは別の、腐敗に混じった臭い。腐ったものと混ざり、甘ったるい膜をつくる腐臭だ。
蓋を開ける。湿気が肌を撫でる。長靴に泥が絡みつく。
スライムの薄皮が、壁に貼り付くように増殖していた。棒で剥がし、袋に詰め、石灰を振る。
シーラは詠唱で灯りを点けようとして、指先の形が崩れた。火花が一度、まばたきするように弾け、すぐに消える。
彼女は唇を噛み、別の手で印を結び直した。今度は灯った。
「もう……ほんと、最悪」
シーラの憎々しげな呟きが漏れる。一瞬、ガリウスに向けられた言葉かと思ったが、独り言だったようだ。
すぐに袋が一杯になって、持ち上げる。すると、スライムの一部が跳ね、水飛沫の中に混じった酸が頬に落ちた。
指で拭うと、ぬるりと滑った。皮膚が薄く溶け、舌に古釘でも転がしたみたいな味が滲んだ。
(くそ、くそ、くそ! ふざけんなよ、ちくしょう……!)
ガリウスは心の中で怒りを漏らしつつも、無言で作業を続けた。
止めない。止めたら、何かが崩れる。崩れたら、二度と立たない。そんな予感があった。
地上に戻る頃には、日は傾いていた。
ギルドに戻って、成果を報告し、わずかな報酬を受け取った。
その時、入口のほうで誰かの口笛が短く切れた。二度、三度。
近くの酒場から笑い声が上がる。
「鳴るねぇ」
「いい鳴きだ」
ガリウスは首筋の皮膚が少し硬くなるのを感じた。拳が汗ばむ。視界の端で赤札が揺れ、その赤が血の色に見えた。
「早く行こ。早くこの頬、治したいのよ。人前に出れやしないわ」
シーラが小声で袖を引いた。
そういえば今日ずっとフードを被っていると思ったら、頬を隠すためだったのか。
教会には行きたくないが……仕方ない。万が一シーラにまで抜けられたら、途端に依頼が回らなくなる。
通りを斜めに横切った。夕暮れの鍛冶場から、まだ鉄槌の音が続く。
その手前、教会の前に、まだ募金箱は置かれたままだった。今度は青年が銅貨を二枚、ぱらり、と投げ入れた。箱の横に立つ神官が、やはり微笑んでいる。
「……よお、こいつの頬、治してやってくれ」
ガリウスは苦々しい気持ちを抑えながら、その神官に話し掛けた。
「承知しました。それでは、中へ」
神官は変わらず笑顔を保ったまま、シーラを中へ促した。
治療後、ふたりは宿に戻った。
部屋は妙に広かった。さっきまでいた巨体がいないぶん、空気の反響が違う。藁の匂いが薄い。
シーラは黙って寝台に腰を下ろし、手を握りしめた。
「……どうするのよ、これから」
掠れたような声。
答えはある。働くしかない。だが、それを言葉にすると、途端に小さくなる気がした。
「言わなくても、わかってんだろ」
ガリウスは窓を開け、夜の空気を吸い込んだ。鍛冶場の熱は消え、パンの煙に代わって、下水の湿り気がほんの僅かに混じる。
遠くで犬が一声、短く鳴いた。
窓を閉じて、藁の上に横になった。背中に藁が刺さる。視界の端で、シーラの苛々した様子で魔力を整えていた。
どれだけ魔力を整えていても、それを使う機会すら与えられないような、雑用依頼。彼女にとっては、苛立つことだろう。
だが、笑いものになるよりマシだ。
ガリウスは天井の木目を数え、数え間違え、数え直した。
きっと、明日もまた雑用の依頼しか回ってこないのだろう。
だが、誰も助けてくれない。
その事実だけが、布団の重みのように、胸にかぶさった。
息を吐くと、鉄の味が少し薄れた。
ガリウスは目を閉じる。目を閉じても、赤は瞼の裏に残っていた。
ロウの言葉が、蘇った。
『お前との時間に幸せを感じてたなら、あそこで俺のところに戻ってくる必要なんてなかった。そうだろ? あの時お前たち四人の正解は、俺を見捨てて生き残ることだったんだからな。なあ、どうしてだ? お前を愛していた女は、何で生きる道を捨てて俺を助けに来た? ひとりで残ったところで助からないことなんてわかっていたのに、何で助けに来たと思う? お前に満足している女が、わざわざ死ぬ覚悟であそこに残った理由は何だ?』
深く深く、ロウの言葉が突き刺さる。
何も反論できなかった。
そして、ガリウスが彼に言ったことも、まさしく自分に向けて返ってくるブーメランでしかなかった。
毎晩リナを求めていたのはガリウスの方で──彼女は、一度も喘ぎ声など上げたことなどなかったのだから。まるで作業が終わるのを待つように、ただガリウスが果てるまで、彼女は耐えていただけだった。
(ちくしょう……ちくしょう……!)
犬笛がもう一度、短く鳴った。




