第24話 竜の翼
夕暮れの路地に、ラムと油の匂いが薄く滲んでいた。石畳の継ぎ目はまだ昼の熱を吐き、看板に彫られた月と蛇の影が、風に揺れる洗濯物の間をゆらりと滑る。
酒場兼宿屋〝ムーン・ドラッグ〟──ここ以外の選択肢を、ふたりの足はもう持ち合わせていない。
扉を押すと、いつもの鈴がしゃらりと鳴った。客はまばら。壁際で骨の出た指が博打札を弾き、奥の卓では眠った男の鼻が低く鳴っていた。カウンターの内側では、ウェイバーが磨き上げたグラスの底を覗き込んでいる。
ロウとルヴィアはカウンターに並んで腰を掛けた。ロウは指で銅貨を弾き、ひとつ、ふたつ、と弧を描かせてウェイバーの前へ飛ばした。
「そいつで一杯頼むよ」
「おいおい、ロウの旦那。これじゃあミルク代にしからねえよ。不足分はテメェの財布に請求するぜ?」
上目づかいに銅貨を覗いたウェイバーは、肩で笑う。
「わーってるよ」
「ツマミもいるかい?」
「ああ、頼んだ」
「へいへい」
ウェイバーは気怠げに返しつつも、手の動きは早い。琥珀色の酒が二つのグラスにとくとくと満ち、すぐさま厨房側へ身を翻す。火が鳴り、油が弾け、香草の青い匂いが立った。
ロウはグラスを持ち上げ、ひと口だけ口に含んだ。喉に沈む熱が、峠の風と昼の汗を遠くへ押しやった気がする。
包丁の音に合わせるみたいに、ウェイバーがにやりと顔を上げた。
「そういや、鎧蜥蜴を倒したそうだな。もうこっちでも噂になってるぜ。半竜の姉ちゃんが鎧蜥蜴にゲンコツ食らわせたってな」
「もう伝わってるのか。早いな」
「そのゲンコツ代がさっきの銅貨数枚だ。ったく……骨折り損のくたびれ儲けだぜ」
ロウが感心する横で、ルヴィアは肘を突いてわざとらしく溜め息を吐いた。琥珀の面に、黄金色の瞳がゆらりと沈む。
ロウは苦い笑みを漏らして、肩を竦めた。
「そう言うなよ。お前だって、子供に抱き着かれて嬉しそうにしていたじゃないか」
「バッ──別に嬉しそうになんかしてねえよ!」
顔を赤くして反射的に反論したあと、ルヴィアはグラスの縁で唇を隠した。
少年が抱き着いて礼を言ったとき、確かに少し目を細めていたように思うのだけれど。まあ、それはここでは突っ込まない方がいいだろう。変に怒らせて暴れられても困る。
それ以上言うなよ、と言わんばかりに、ルヴィアの尾の先が、ロウの座る椅子の脚をとん、と小さく叩いた。
「へい、おまち」
ウェイバーが皿を三つ並べる。胡椒を利かせた豆の熱、燻した魚の薄切り、肉の煮こごり。湯気が細く立ち上り、ランプの灯のなかで溶けた。
「……何だか、あんたと組んでからモノを運んでばかりだ」
ルヴィアがフォークで料理を摘まみつつ、呆れたようにそう呟いた。
「そうだったか?」
「ああ、違いねえ。違いねえさ、ロウ。手紙とペンダントに、さっきの薬。そんで、あんたの胸ポケットの中にあるそいつもだ。あたしは配達員か? くだらねえ」
ルヴィアは杯の口で、ロウの胸ポケット──リナの聖印──の方を小さく指した。ふんと鼻を鳴らし、そっぽを向く。
なぜ不機嫌なのか、いまひとつ腑に落ちないが……言われてみれば、確かにここ最近のロウたちは〝運ぶ〟行為の連続だ。最強の半竜と組んでやっていることが、お仕置きとおつかいではどうにも閉まらない。
「いいんじゃねえか? 案外、お前さんらに向いてるのかもな」
カウンターの中で、ウェイバーがくっくと喉を鳴らす。
「はあ? 何であたしらがそんなことしなきゃなんねーんだよ」
「半竜の嬢ちゃんよ。この世界にはな、意外にもモノを運んでほしい連中ってのが多いんだ。そんで、それは冒険者ギルドの活動範囲外でもある」
「そうなのか?」
ルヴィアがこちらに顔を向けて訊いてきた。
「まあ、な」
ロウは頷き、杯を置いて言葉を選んだ。
冒険者ギルドは討伐や護衛や探索が主業務で、依頼はギルドを通すことで信頼が担保される。だが、その分規律や制約が多く、自由は少ない。組織に属することで安定は得られるが、同時に〝組織の判断〟に縛られるからだ。昨日の査定官を見ていても、それは痛感した。彼のような監査役でさえ、圧力ひとつで本来の仕事ができなくなるのだから。そして……それが、組織というものでもあった。
「ふぅん……めんどくせぇな。モノ運ぶくらい、ついでにやってやりゃいいのに」
ルヴィアはあっさり言って、杯を煽った。喉が上下し、翼の付け根が小さく動く。
ロウはその横顔をぼんやり見つめつつ、ふと彼女の言葉を思い出す。
『あたしの意見を言っていいなら……あんまり人間の組織には組み込まれたくない、ってのが本音かな』
彼女は以前、Sランクパーティーとして冒険者ギルドで働くかどうかという話になった時、こう言っていた。
あれは強がりではなく、傷の形がそのまま表に出た言葉だ。半竜として迫害されてきた過去から、人間の組織に属することに拒絶感があるのは間違いない。性格的にも、組織に所属して指示を受ける生き方よりも、自由に生きていたいタイプだろう。
ロウだって、ギルドに問題を黙殺された記憶は新しい。マスターからの「Sランクとしてやってくれ」という申し出に妙なざらつきを覚えたのは、その違和感がどうしても拭えなかったからだ。
ウェイバーが肉の煮こごりを指先で示し、「溶けるぞ」と顎で促す。ロウは笑って頷き、それを口に運んだ。舌に乗せると、温い灯りみたいにほどける。
ほどける、という言葉に引きずられて、頭の中の糸が一本、するりと抜けた。
「……それ、いいかもな」
思考の残り香みたいな声が、自分の喉から出た。
さっきの少年、それから手紙を届けた村娘がふと頭の中をちらついた、というのもあったかもしれない。
金ではなく、誰かの笑顔や想いを運ぶのも悪くない。ふと、そう思ったのだ。
「あん? 何がだよ?」
ルヴィアが煙草を取り出し、いつものように先端を咥えたまま首を傾げた。
瞬く間に、小さく燃えて、煙草の先端から煙が上がる。
「モノを運ぶ仕事。〝運び屋〟だよ、ルヴィア。ギルドができないなら、俺たちでやってやればいい」
「あっ……」
黄金色の瞳が、ランプの灯を映して見開かれる。
カウンターの向こうでウェイバーが、面の皮の分だけ広い笑みをつくった。
「いいじゃねえか、〝運び屋〟。案外需要あると思うぜ? それっぽい相談が、俺んとこにも結構舞い込む。ギルドに相談できねえ依頼だとか、人や荷物を秘密裏に運んでほしいだとか、な。そいつを頼める奴がいりゃあ、俺の商売も上手くいくんだがなぁ」
俺の商売も、とわざとらしく付け足すのがウェイバーらしい。だが、その実利はお互い様だ。斡旋の口は多いほどいい。
ロウはルヴィアに目を戻した。彼女は八重歯を見せて笑っていた。
「さて、ロウ。面白い話になってきたな。どうする? ちなみに、あたしは乗ったぜ。無問題だ」
笑いの種類が、戦いに向かう時のそれとは違う。好奇心、というものだろうか。少なくとも、かなりすっきりしているらしい雰囲気を相棒からは感じた。
そんな笑みを見て、ロウの中で何かが音を立てて定まった気がした。腹が決まる、とはこういう感覚かもしれない。どこへ行けばいいか、身体がもう知っていた。
「……よし、俺も乗った。〝運び屋〟、ここに開業だ。色々大変だろうけど、付き合ってくれ」
「あいよ、ビッグボス」
ふたりは杯を軽く打ち合わせ、喉に滑らせた。
ウェイバーがすかさず酒を注ぎ足し、口を曲げた。
「よぉ、お前ら。どうせ始めるなら、屋号くらい決めとけよ。看板があったほうが色々やりやすいぜ? 俺も紹介しやすい」
「ふむ、屋号か……」
「そういうのはあんたに任せるよ。あたしは別に、何でもいい」
ルヴィアは天井に煙草をふかして言った。吐き出された煙がランプの火にやわらいで、天井近くでほどけていく。
ロウはその白をぼんやりと目で追いかけた。視線の端で、彼女の背の小さな翼が、ぴくぴくっと二度、無意識に動いた。
翼。運ぶ。風。そして、竜。何かがぴんと繋がって、ふとした単語が漏れ出る。
「……竜の翼」
「ん?」
「俺たちの屋号。〝竜の翼〟でいいんじゃないか?」
ルヴィアは一拍だけきょとんとして、それから、にやりと口角を上げた。
「いいね。気に入った。そいつでいこう」
そう言って、彼女が自分の吸っていた煙草をロウに渡す。
意味を汲み取り、ロウはその煙草を一口だけ肺に落とした。ほんのり湿った吸い口の感触と、ラムの甘さが舌の裏に残る。煙を細く吐いて、それを彼女に返した。
ルヴィアも同じように一口吸ってこちらに向けて笑みを浮かべてみせる。そんなロウたちの様子に、正面のウェイバーがケッと毒づいた。
「ったく、見せつけやがってよ。まあ、いい。〝竜の翼〟の開業祝いに、この俺様が一杯奢ってやる」
ウェイバーが瓶を軽く掲げ、グラスに気前よく琥珀を足す。
ロウはグラスを持った。縁越しに見る世界は、少しだけ輪郭がやわらかい。けれど、向かう先ははっきりしていた。
運ぶべきものは、世に溢れている。薬、手紙、誰かの願い。或いは、人や想い出。それらを、全て運んでやろう。ふたりの手で。
「それじゃあ、ロウ。あたしらの新しい翼に──」
「ああ。乾杯だ」
ロウとルヴィアは小さく笑みを交わしてから、杯を掲げて呷った。
こうして、半竜と人間の二人は、同じ屋号を掲げて歩き出す。
この時こそ、伝説の運び屋〝竜の翼〟が始まった瞬間だった──。




