第22話 トラブルシューティング
昼下がりの陽は傾き、町はずれの関所から伸びる街道に、麦藁の塵と馬の汗の匂いが流れていた。
荷を軽く整えたロウとルヴィアは、少年から聞いた薬屋の名と薬の名を確認しながら、隣町へ向けて歩き出した。
ルヴィアには、もうフードを被らせなかった。翼も角も尾も、陽の下にそのまま晒していた。
もちろん、刺すような視線もある。肩越しに指をさす子どももいるし、それを見て驚いてやめさせる親もいた。それは、礼儀よりも恐怖ゆえだ。
だが、ロウはあえてそのままの姿で彼女を歩かせていた。
どのみち、ルヴィアにはずっと隣にいてもらうことになる。それならば、最初から「半竜の女が人間と一緒にいる」と知らしめていた方が楽だ。ロウの従魔として普通に同行しているのだと認知させた方が、後々の手間は少ない。
ただ、知れ渡るまでにルヴィアが嫌な思いをするかもしれない、という懸念があった。それに対して、彼女の返答はこうだ。
「何年そういう目で見られてきてると思ってんだ。ンなもん、今更気になんねーよ」
彼女は続けてこう言った。
「それに、都合がいいってのはあたしにとっても同じだ。今のあたしなら、もう逃げ隠れする必要はねえ。いつでも……殺してやるよ」
そう静かに言って、拳をぐっと握る。
その黄金色の瞳に復讐の炎が宿っていた。それは、親の仇、或いは、自分自身を苦境に貶めた竜人族たちへの復讐。
断じて、強がりではない。復讐への覚悟の証だった。
(……そっか。いつ、襲われるかわからないんだよな)
そこで、ふとそのことを思い出す。
竜人族は、半竜を血の穢れとして見ており、その存在を抹消したがっている。彼女はその手から逃れるため、これまで息を潜めて生きてきた。
しかし、〝ドラゴンテイマー〟と契約して力を得た彼女は、もう本家の竜人族を恐れる必要もない。
(俺も……もっと力をつけなきゃな)
ロウも、知らずと拳を握る。
ルヴィアの力の一部を得ているとはいえ、竜人族を前にすれば、きっと足手まといだ。ロウ自身が強くなる必要がある。そして、それを最も簡単にできるのが、従魔を増やすことだ。しかし、そうそうドラゴンとなど出会えるものではない。今は、自力を鍛えることを優先した方が良さそうだ。
町外れを抜け、畑の匂いが途切れた頃、峠の肩が見え始めた。
山影が路面に縞を落とし、涼しい風が吹き降りてくる。遠くに小さな砂柱が立っては崩れ、ほどなく別の場所にまた立った。隊商の車列が、峠の緩いカーブの先で止まっていたのだ。
荷車の脇に男たちが集まり、怒鳴り声が断続的に響く。馬の鼻息が妙に荒かった。片方の車輪は軸ごと歪み、帆布には斜めの裂け目が走っていた。鉄の匂い──血の匂いも混じっている。
ロウは歩調を崩さず近づき、先頭で腕を組んで状況を見ていた口髭の男に呼びかけた。
「おい、どうした?」
「ん? ……おお、〝半竜使い〟か。驚いた。半竜を従えてるってのは本当だったんだな」
男は一瞬ルヴィアを見てぎょっとし、次にロウの顔を見てから、どこか納得したように細まった。
昨日の噂は、予想以上に足が速い。どうやら、ロウは知らない間に〝半竜使い〟と呼ばれていたようだ。
「まあな。それで、どうした?」
「実は、情報になかった魔物が出てきたんだ。うちの護衛では手も足も出なくてな。どうしたもんかと立ち往生してる」
男が顎で崖下の薮をしゃくった。視線の先、薮の暗がりは獣道のように抉れており、そこに黒曜石のような破片が散っている。
近くの護衛は腕に布を巻いて座り込み、もう一人は矢筒を抱えながら蒼い顔で歯を鳴らしていた。荷車の側板には深い爪痕が刻まれ、焦げた木の甘い臭気が漂う。
「その強敵ってのは?」
「鎧蜥蜴だ」
「……なるほど。そいつは確かに面倒だ」
その名を聞いて、ロウも顎に手を当てる。
鎧蜥蜴──全身を鎧板のような鱗で覆った大型魔獣だ。矢は弾かれ、刃は滑る。腹や腋の鱗の継ぎ目に正確に刺さなければ通らず、しかも動きは鈍重に見えて実は速い。討伐はギルドでもBランク以上に推奨される相手で、行商の護衛にはまず手に負えないだろう。
隊長はロウとルヴィアを交互に見比べ、躊躇いがちに唇を結んだ。
「それで……行きずりのあんたらにはちょいと頼みにくいんだが」
「あたしらに倒せってか?」
ルヴィアが隊長の言葉を読み、先に言った。
隊長が気まずそうに頷く。
「……うむ、まあ。そういうことになる。どうだ、ロウ。もちろん、ちゃんと報酬も出す。ギルドを通さないで依頼を出すのは本来ご法度なんだが、事態が事態だ。頼めないか?」
「ギルドを通さない、か」
ロウは視線を峠の向こうへ流しながら、呟く。
少年の銅貨が手のひらに乗った感触が蘇った。そもそも、今受けているこの『御遣い』も、ギルドを通していない依頼だ。もしかすると、そのギルドを通す通さないというそのひと手間のせいで、救われない依頼が案外多いのかもしれない。
今回の件だって、冒険者に依頼を出すにはこの隊商から人を冒険者ギルドに送ってから依頼を受理してもらわなければならない。一日でも早く着きたい隊商からすれば、面倒なことだろう。
「大丈夫だ、問題ない。引き受けるよ。どのみち、ここは通らなきゃいけないからな」
ロウは少し考えてから、答えた。
隊長の顔が、ぱっと明るくなる。
「本当か! それは助かる!」
「ああ、任せておいてくれ。ルヴィア、頼めるか?」
「あいよ。ビッグボス」
ルヴィアはわざとらしく恭しく振る舞い、八重歯を見せて口角を上げる。
それから、ロウとルヴィア、それから隊長を先頭に、隊商は再度進み始めた。
谷の底から、低く硬い擦過音が上がってくる。岩石を擦り合わせたような音に続いて、湿った空気が逆流していた。
「……くるぞ」
隊長が低く呟く。
薮の奥で地面が細かく脈打ち、路肩の小石がじり、と転がったその次の瞬間──薮が外側から押し広げられ、黒鉄の甲冑をまとった巨躯が這い出してきた。
陽の光が斜めに当たり、鱗板の一枚一枚が鈍く光る。鼻先にある裂け目からは、灼けた泥のような息が漏れた。
護衛の誰かが悲鳴を飲み込み、馬が前脚を上げて嘶く。ロウは踏み込みの距離を測りながら、肩越しに隊長へ声を投げた。
「馬を抑えろ。隊列は崩すな」
短く頷き合うと、隊長は部下へ指を飛ばした。
綱が引かれ、車輪に楔が打ち直される。ルヴィアは鎧蜥蜴の正面に立ち、頤を少し上げた。
「さあ、デカブツ。あたしと遊ぼうぜ」
挑発の声に反応して、巨獣が顎を開く。
喉の奥で火が擦れる音が一瞬だけした。熱線が来る──ロウの脳がそう告げた瞬間には、ルヴィアの身体はもう消えていた。
滑空、というのだろうか。彼女は山肌を舐める風に乗り、半身を捻って死角に潜り込んでいた。鎧蜥蜴の吐息が路面に白い筋を焼き、砂が焦げる匂いがむっと立ち昇る。
「ほらよ」
ルヴィアの拳が、体側の胸郭の継ぎ目へ突き刺さった。
音は鈍いのに、衝撃は鋭かった。金床に落ちた鎚のような衝撃が山に反響し、遅れて地響きが返る。鎧蜥蜴の体側の鱗がひと呼吸で蜘蛛の巣状に割れ、黒い血がぶしゅりと噴き上がった。巨躯が傾ぎ、尾が暴れ、土塊が飛ぶ。
「あたしからの餞だ。蜥蜴に神様がいるなら、クレームはそいつに言いな」
二撃目は、真正面からのカウンターだった。
顎の裏、喉の薄皮一枚の下にある硬い骨を拳で打ち抜く。
巨獣の眼が白目を剥き、四肢から力が抜けた。巨体が地面に落ちるまでの間に、ルヴィアはすでに一歩退いて砂埃を避ける余裕を見せていた。
峠にあった音が、継ぎ目なく一斉に戻ってくる。護衛の誰かが「あっけにとられる」という言葉の見本みたいな顔で口を開いたまま固まり、隊長は唖然とした表情のまま手袋を外して額を拭った。
「半竜が〝マッドドッグ〟を子ども扱いしていたという話は聞いていたが……驚いた。まさか、これほどとは」
「あの程度の魔物の討伐なら、あいつにとっちゃスライムを相手にすんのと変わらない作業なのさ」
ロウは肩を竦めて見せ、ルヴィアに視線で礼を送った。
彼女は肩を回して拳を軽く握り直すと、ひょいと片手を上げて応える。
「全く、参ったよ。報酬だが、どうすればいい?」
「金はいい。それよか、そうだな。ちょっとした流布をお願いしたい」
ロウはあることを思いつき、そう提案した。
隊商の彼らなら、うってつけの役目がある。
「それは構わんが……何を流すんだ?」
「簡単な話さ。部下と一緒に、これから行く先々で、『〝半竜のルヴィア〟は怖くない、人間の味方だ』ってなことを言ってくれりゃいい。実際、あの見た目だから怖がられがちなんだ、彼女」
隊長が目を瞬かせ、すぐにうなずいた。
顔に、さっきまでの緊張とは別種の真剣さが宿る。
「なるほど。任された。ただ、さすがにそれだけでは申し訳ない。うちの馬車に乗っていくか? 酒も食い物も自由に食っていいぞ」
「そいつはありがたい。なら、そうさせてもらおうかな」
これで隣町までの時間を節約できる。少年の母親の容態は一刻を争う可能性がある。
ここで得た「善意の伝播」という報酬は、別の道でも効いてくるはずだ。
砂塵の向こうから、軽い足音が戻ってくる。ルヴィアが翼の付け根のあたりをぽきぽき鳴らしながら歩いてきた。
「これで良かったかい?」
「ああ、上々だ。隣町まで乗せていってくれるってさ。しかも、メシと酒付きだ」
ロウが親指で馬車を指差すと、ルヴィアがその瞳を輝かせた。
「ほんとかよ!? じゃあ、早速飲もうぜ。もちろん、ロウも付き合うよな?」
「え!? お、俺はまだ二日酔いが……」
「二日酔いなんてものはな、迎え酒で治すんだ。そうすりゃそのうち酒にも強くなる」
「はあ……いいけど、もう飲み比べはしないからな」
ロウは抗うのをやめた。どのみち、これはもう彼女を従魔とした副作用だ。酒に強くなる他ない。
ルヴィアは呵々と笑い、尾で軽くロウの踝をつついた。「わかってるって」と言わんばかりの、機嫌のいい合図だ。
案外、酒と煙草と飯さえあれば、この半竜は幸せなのかもしれない。そう思ったと同時に、自分もそうかもしれないと気づいて苦笑する。
隊長の号令で車列が再編され、破損した側板には予備の板が宛がわれ、ロープが十字に掛けられた。馬の鼻面を撫でる手が増え、空気の緊張はほどけていく。道端では、鎧蜥蜴の巨体が斜面に転がされ、護衛が記念に鱗片を一枚拾い、懐にしまっていた。
荷台の一角に空きを作ってもらい、ロウとルヴィアは跳ね板に腰を下ろす。帆布の影は涼しく、干し肉と干し果実の甘い匂いが混じっている。揺れが腰に伝わり、車輪の軋みが一定の拍で鳴った。彼方に隣町の屋根が霞み、峠の向こうからは風鈴のような鈴の音──牛の首につけられた鈴だろう──が薄く重なってきた。
半竜と人間が同じ板に腰掛け、同じ方向を見て、同じ場所へ運ばれていく。隊商の男たちが最初のぎこちなさを忘れたように、ルヴィアへ水袋を差し出した。彼女はそれを受け取ると一瞬だけ相手の目を見て笑い、ぐいと飲んでから律儀に礼を返す。そのひと呼吸で、男の肩の力がふっと抜けた。ささいなやり取りが、噂より早く、目の前の印象を変えていく。
ロウは荷台の端に肘をのせ、空を見上げた。陽は少し傾き、雲が薄く千切れていた。風が帆布をくぐり抜けるたび、考えの縁をさらっていく。
ギルドを通さない依頼。銅貨の軽さに宿っていた重み。峠での隊長の申し出。そして今、荷車の上で笑っている半竜の女。
この運ぶという行為は、案外、世界の隙間をつなぐための仕事なのかもしれない。
「なあ、ロウ」
荷車が小さな段差を越え、揺れに合わせてルヴィアの肩が触れた。ラムの残り香と、煙草の匂いが微かに混じる。
「ん?」
「案外……こういうのも悪くないな」
煙草を一口吸って煙を吐き出すと、彼女は景色に目を向けたまま、そうぽそりと呟いた。
「……かもな」
ふっと笑みが浮かんで、同意する。
それはロウも思っていたことだった。何となく、進むべき道が見えてきた……そんな気がしなくもない。
荷車は峠を越え、下りの道へと差し掛かる。帆布の向こうで、空が広くなった。




