第2話 置き去りに
土はひどく冷たかった。
焚き火の残り火が遠くに赤く見える場所──テントから少し離れた茂みの陰で、ロウは手袋を外し、素手で土を掻き出していた。短剣の腹で硬い根を断ち切り、また掻く。湿り気を含んだ黒い土が爪の間に食い込んで、指の感覚が鈍っていった。鼻の奥にこびりついた焦げの匂いは、もう取れない。
腕の中の包みは、動くことはなかった。布越しでも分かる冷たさが、現実をいやでも突きつけてくる。ロウは深く息を吸い、そっとその包みを土の窪みへ横たえた。布の端から、煤で黒ずんだ短い角が、申し訳程度に覗いている。
「何で……何で、こんなひどいことができるんだよ。プチは……お前らの役に、立ってただろ」
声が震える。胸郭の奥に溜まった熱で、言葉がくぐもった。
プチドラゴンは、敵の気配に敏感だ。耳も鼻も、人のそれとは比べものにならない。〈索敵〉のスキルだって、人が扱うものよりも遥かに性能がいい。
だからこそ、プチはいつも敵がやってくる前に知らせてくれて、ロウはそれを皆に伝えてきた。不要な戦闘を避けてきたのだ。
回り道も撤退も、恥ではない。生き残るための最善の選択だと思っている。
けれど、ガリウスは敵を倒すことに意義を見出すタイプだ。血の匂いと勝利の快感にしか価値を置かない彼にとって、戦わないで済むことの恩恵は、薄かったのだろう。
ロウは包みの上に手のひらを当て、布越しの凹凸を指先でなぞった。そこに確かにいた相棒の形を、皮膚の記憶に刻みつけるみたいに。
「これまで……ありがとな」
掠れた礼をひとこと落としてから、ロウは静かに最後の土をかけた。手で均す。小さな盛り土が月の白に浮かび上がった。拾ってきた平たい石を二枚、目印に重ねる。
今日だって、プチがいてくれたから、強敵の多い〝黒の森〟で無用な戦闘を避けつつ、奥地までこれたのだ。プチの〈索敵〉がなければ、ここに来るまでに命を落としていてもおかしくなかった。
「でも……まあ、結局俺が悪いんだよな。戦闘用の魔物も従魔にできていたら、こんなことにはならなかったわけだし」
吐き出した言葉は、夜気に溶けるように消えた。
テイマーでありながら、ロウが契約を結べたのはプチドラゴンのプチだけだ。大狼も、小鬼も、契約の糸が結べない。その理由はわからなかった。ただ、竜族の最弱種にだけ、ロウの声が届いた。
それでも、プチドラゴンは街道沿いに現れる雑魚よりはずっと強い。プチがいれば、初心者向けの護衛や採集の依頼は難なくこなせた。リナとふたりで、少しずつ積み立てた小金は──着実に貯まっていっていたのだ。
(そもそも……冒険者になる必要なんて、本当はなかったんだよな)
土の感触が、記憶の底を掻き混ぜる。
ロウとリナは、小さな町で育った幼馴染だ。畑の土手で転げ回り、川で魚を追い、祭りの夜に綿飴を分け合った。
ある日、ロウは自分にテイマーの資質があると知った。森の外れで震えていた小さな影──そのプチドラゴンに、なぜか心の声が届いたのだ。怯えを宥め、怖くないよと繰り返すと、プチはおずおずと鼻先を寄せ、やがて胸元に顔を埋めた。あの体温を、一生忘れることはないだろう。プチと従魔の契約を結んだのは、その直後だった。
一方のリナは、修道院附属の学舎で神官を目指していた。治癒師としての才は早くから頭角を現し、すぐに高位神官になれる……周囲はそう期待していた。
でも、それだけだった。ロウとリナは、そんな普通の未来ある若者のふたりでしかない。
けれど、ある日、リナの唯一の育ての親である祖父が倒れた。病は重く、治癒師でも治せない病だそうだ。
治療方法は、ひとつ。エリクサーを飲ませることだけだった。
エリクサーは、庶民の生涯賃金を軽々と超える超高級薬だ。ふたりの稼ぎで届くものではない。
毎日、リナは泣いた。ロウの胸でしゃくり上げ、袖を濡らした。
『リナ。冒険者になろう。短期間で大金を得るには、それしかない』
その涙を止めたくて、ロウはそう言った。
最初、冒険者なんて危険だ、そんなことにロウを付き合わせられない、とリナは乗り気ではなかった。しかし、ロウの説得によって、迷った末にようやく頷いた。
とはいえ、ふたりは戦闘経験があるわけではない。未熟なロウたちに請けられる依頼は限られていたが、プチとリナの〈治癒魔法〉があれば、簡単な仕事はこなせた。もちろん、ロウ自身も剣を学び、最低限の戦闘はできるようになっている。
荷車の護衛、薬草の採集、失せ物探し。汗だくの帰り道、剥き出しの空に向かって笑った夜がある。
いつの間にか、ふたりは恋人になっていた。ふたりで未来を語った。祖父が回復したら、王都に行こう、と。そこでふたりで何か店をやって、平和に暮らそう、と。
しかし、そんなある日──招かれざる誘いが来た。Sランクパーティー〝マッドドッグ〟からの勧誘だ。
どうして自分たちが、とロウとリナは何度も首を傾げた。実力も経験も足りない。だが、提示された報酬は桁外れだった。数か月同行するだけで、エリクサーに手が届く。夢のような条件に、ロウは目を瞠った。
結果……加入を決めた。リナの祖父の命は、いつまで持つかわからない。エリクサーが手に入るなら、早い方がよかったからだ。
けれど、その判断が正しかったかと問われれば、甚だ怪しい。
リナは、もともと高い能力を示していたこともあり、すぐに〝マッドドッグ〟の中でも重用された。
一方、ロウは戦力としては足りなかった。プチドラゴンしか使役できないのだから、当然だ。だからこそ、荷物持ち、野営、交渉、索敵──裏方を支えることで、居場所を作っていた。
それでも、ガリウスは不満だった。ロウの役割に『ガリウスのストレス解消』が加わるまで、そう時間はかからなかった。
いや、ガリウスにとっては、ロウの役割などどうでもよかったのだ。ガリウスがロウとリナを勧誘した理由は……ただリナを加入させたかっただけなのだから。
ガリウスは、町でリナを見た時に一目惚れしていたらしい。だが、リナの隣にはロウがいた。そうであれば、彼が採る選択肢は、ひとつだ。
そして……ロウからリナを奪うことに、成功した。
ショックだった。まさか、リナが裏切るとは思ってもいなかったから。
でも、彼女はあの通り、いつもロウを気に掛けていた。だから、期待してしまっていた。いつか、戻ってきてくれるんじゃないか、と。そんなわけ、あるはずがないのに。
サムソンが言っていたことは、正しい。あの時点で、ロウは脱退すべきだった。
『お祖父ちゃんのことは自分で何とかするから……ロウはもう、パーティーから抜けて』
ガリウスとの交際を決意したリナは、そうロウに告げた。
それでも、離れられなかった。リナが戻ってくると、愚かにもどこかで信じていたから。
その結果が……この小さな墓だ。
盛り土の前で、ロウは膝を折った。額を石に押し当てる。土の匂いが強くなり、瞼の裏が熱くなった。
(ごめんな……こんなとこで。ゆっくり、休んでくれ)
もう、地元に帰ろう。追放も言い渡された。〝マッドドッグ〟に居座る理由は、もうどこにもない――そう、思った時だった。
耳の端に、不穏な空気の震えが触れた。
刹那、森の奥から甲高い女の悲鳴が夜を切り裂く。
「きゃあああああ!」
シーラの声だ。
「な、何だってんだこいつらはよぉ!」
続いて、サムソンの低く怒鳴る声が重なる。
「しまった……!」
ロウは反射的に立ち上がり、はっとして小さな墓を見る。
そうだ。もうプチはいない。プチがいなくなった今、誰も〈索敵〉を使えないのだ。
足が勝手に駆け出した。枝が頬を叩き、息が荒くなる。
焚き火の明かりが視界に飛び込んだ瞬間、目の前の光景に血が冷えた。
そこには、先ほど取り逃がしたミノタウロス・ロードがいた。血の泡を吹く鼻面、牛頭の巨躯。周囲には角の小ぶりなミノタウロスの部下が数体、獲物を囲む獣のように動く。
そして、森の陰からもう一体。一つ目の巨影が身を起こした。山を切り出したような筋肉の塊、岩のような皮膚に刻まれた古傷。中央に据えられた眼球が、ぎょろりと焚き火を映す――単眼巨人だ。
「やべえ! 雑魚どもはともかく、単眼巨人はやべえって!」
ガリウスが叫んだ。鎧は身に着けていない。テントから飛び出してきたばかりで、上着も半ばのまま、剣だけを掴んでいる。
リナもはだけた服を慌てて直しながら、鉄槌を構えていた。足が震えているように見えるのは、冷えか恐怖か。いや、考えるまでもない。
単眼巨人は、Sランクパーティーでも準備なしに挑むのは危険な強敵だ。しかも、ミノタウロス・ロードとの連携もある。寝込みを襲われたも同然なこの状況で、勝てる相手ではなかった。
「く、クソがぁッ! やるしかねえ、気合入れろお前ら!」
「おう!」
「根源の理、無窮の力……」
ガリウスが前に踊り出た。鋭い剣閃が夜気を裂く。続いて、サムソンの巨斧が唸りを上げて振り下ろされた。シーラの詠唱は最短で紡がれ、火矢が雨のように降り注ぐ。
しかし……単眼巨人はその巨腕一本で全てを受け止めた。
振り下ろされたサムソンの戦斧を握り拳で受け止めると、衝撃で地面が爆ぜた。泥と火の粉が宙に舞う。
単眼巨人がほんの少し力を籠めると、力の均衡は崩れ、サムソンの全身が弾かれるように吹き飛んだ。重い巨体が地面を転がり、木々をなぎ倒して止まる。
「ぐあっ……!?」
呻き声すら、森に掻き消された。
ガリウスの剣は、ミノタウロス・ロードの角に阻まれていた。刃と角が擦れ、火花が散る。ミノタウロスの巨体が肩からぶつかり、ガリウスは防御もままならず後退を余儀なくされる。
防具を身に着けていないのがまずかった。今では、どんな攻撃でも致命傷になってしまう。
そこへ、側面から別のミノタウロスが斧を振りかぶり、ガリウスの死角を狙った。
「光の女神ファシエルよ……盾となりて我らを守れ!」
リナの祈りと共に光の障壁が展開され、辛うじてミノタウロスの斧を逸らした。
今の〈聖なる盾〉が間に合わなければ、その一撃で終わっていた。
だが、障壁はひと呼吸と持たず、粉々に砕け散った。
ダメだ。リナの体力と集中力がない。戦いの前に余計なことをしていたからだ。
「くそォ、硬ぇ……!」
ガリウスは舌打ちし、剣技〈連牙閃〉を繰り出す。
鋭い剣戟が幾重にも重なり、ミノタウロスの胸板を切り裂いた。だが、それでも敵は倒れない。厚い筋肉が致命傷を拒み、血飛沫を浴びながらも巨躯はなお健在だった。
「根源の理、無窮の力……炎よ、降り注げ!」
シーラの〈火球〉が、いくつも天から降り注ぐ。
しかし、単眼巨人は岩のような皮膚で焼け焦げを受け止め、怯むどころか目の光をぎらつかせた。
次の瞬間、巨人の棍棒が薙ぎ払われる。木々ごと薙ぎ倒す軌跡に巻き込まれた炎の球が弾け飛び、シーラの詠唱が途切れる。
「きゃっ……!」
横薙ぎの衝撃波だけで、彼女の身体は地に叩きつけられた。
戦場は一瞬で蹂躙に変わった。
斧戦士は潰され、魔導師は怯み、剣士は角に押し込まれ、治癒師は支援に追われ攻勢に回れない。
四人の力が本来ならば軍すら圧倒するはずなのに──目の前の巨躯と群れの前には、ただの獲物に過ぎなかった。
「ダメだ! 逃げるぞ、てめぇら!」
ガリウスが退却を叫んだ。
荷物には誰も手を伸ばさない。荷物を管理していたのは、いつもロウだ。だから彼らの頭には、荷物を持ち出すという発想がそもそもなかったのだろう。
ガリウス、サムソン、シーラ、そして――
「ロウも早く!」
立ち竦んでいたロウの手を、リナが掴んだ。引かれるまま、ロウは走った。
森は敵の庭だ。木の配置も、獣道も、暗がりの深さも、奴らが知り尽くしている。背後で枝が折れる音が近い。土を蹴る重い足音が、咽び泣くように追ってくる。
プチがいれば、また違った。プチの嗅覚や聴覚があれば、より安全なルートから逃げられただろう。だが、今のロウたちに頼れるものはない。闇雲に逃げるしかなかった。
「やべえッ、このままだと追いつかれちまう……! そ、そうだ!」
ガリウスが振り返り、邪悪な笑みでシーラを見る。
ロウの背筋に、氷の刃が走った。
「シーラ、生贄だ! あいつらに生贄を捧げろ! ちょうどいい〝お荷物〟がいることだしなぁ!」
視線がロウを刺す。意味は、痛いほど分かった。
シーラも迷わなかった。走りながら、ロウに手のひらを向けて──
「根源の理、無窮の力……〈拘束魔法〉!」
空間から伸びた漆黒の鎖が、ロウの足に絡みついた。
鎖特有の冷たさが、骨に食い込む。
「うわっ!」
ロウは盛大に転んだ。膝と手のひらが石を擦り、血が滲む。
鎖を解こうにも、魔法であるが故にロウではどうにもできなかった。
振り返る暇もなく、リナの叫び声が響いた。
「ロウ!? ちょっとガリウス、シーラに何をさせたの!?」
「生贄に決まってるでしょ!? 私たちが生き残るためのね!」
シーラの声も必死だ。
サムソンが歯噛みし、視線を逸らす。
「……すまねえな、ロウ。俺たちが助かるにはもうこれしかねえ」
「へっ、どうせ追放するんだ。だったら、最後くらい役に立ってもらわねえとなぁ!」
サムソンの詫びを、ガリウスの嘲笑が掻き消した。
「そんな……!」
リナの声が震える。だが、三人はもう背を向けて走って行った。樹々の間へ、影がまっすぐ遠ざかる。
前方の闇が、ぬらりと動いた。
単眼巨人とミノタウロスたちが、樹間を横一列に埋める。鎖はまだ解けなかった。
ロウは地面に膝を突き、歯を噛みしめる。
もうダメだ。逃げられない。
「リナ、逃げろ! お前だけでも逃げてくれ!」
ロウは声の限り、叫んだ。
プチは死んだ。自分ももう死ぬだろう。ならせめて、この命を無駄にしたくなかった。しかし──
「そんなこと……できない」
リナが立ち止まり、ロウの前に躍り出た。
肩で息をしながら、鉄槌を両手で構える。月の光が、その横顔の汗をかすかに光らせた。
「なっ!?」
背後から、ガリウスの驚愕が漏れる。振り返ったのだろう。
「何やってんだよ、バカ女が! もういい、お前もそのゴミと一緒に死んじまえ!」
「待てガリウス! 俺のことはいいから、リナだけでも連れて──」
ロウの叫びは、木々に跳ね返って消えた。返事はない。三人の足音は、森の深部へと飲み込まれていった。
鼻息が熱い。獣の重たい息と、血の匂い。単眼巨人が一歩踏み出すたびに、大地が低く唸った。
ミノタウロス・ロードの角が月光を弾き、部下たちが刃を舐めるように舌で湿らせる。
治癒師ひとりで切り抜けられる相手ではない。それは、誰よりもロウが知っていた。いや、リナ自身もそれはわかっているはずだ。
「ロウには……触れさせないから」
リナの声は、震えていた。恐怖に怯えているのは明らかなのに、その背だけは退かない。涙を押し殺し、鉄槌を握る指が白くなるまで力を込めていた。
その言葉は、祈りではなく、命を投げ出す覚悟の誓いだった。
ロウは、鎖に縛られたまま、ただ彼女の背中を見上げる。
風が梢をかすめ、夜の匂いが入れ替わった。巨人の影が伸び、ふたりの上に覆い被さる。
リナは鉄槌を手に、単身──敵へと挑んだ。