第17話 酒宴
砂埃がゆっくりと沈む。
観衆のざわめきは、驚愕の余韻と一緒に肺の底で固まっていた。誰もが息を吐くタイミングを見失っている。舞台に立つのは、尾を揺らす半竜ただひとり。壁際には三つの影が折れ伏し、呻き声すらない。
勝敗はとうに決しているのに、歓声は上がらなかった。
その気持ちは、ロウにもよくわかる。
リナを欠いているとはいえ、〝マッドドッグ〟はこのギルド最強のSランクパーティーだ。いつもなら、彼らの名だけで場の温度が上がる。
だが、その三人は今、無残に横たわっている。しかも、左手一本で、殺さないように優しく仕留められてしまった。
強すぎる実力差は讃嘆より先に沈黙を生む。人は、あまりにも隔たったものを目の当たりにすると声を失うものだ。
ロウは小さく息を吐き、査定官の方を向いた。
「それで……査定官」
「はい」
「これでこいつらの荷物は俺のもの、それから俺の言い分が正しかったとギルド側も認める、ということでいいですか?」
「……元より、そのつもりでした。彼らの治療後、追って正式に裁定を下すつもりです」
査定官は一度だけ顎を引き、眼鏡のブリッジに指を添えた。
「それは何より。この期に及んで、ギルドマスターが反対することはありませんよね?」
「もし反対してそちらの半竜に暴れられたら、このギルドはおろか町が滅んでしまいます。その心配は御無用です」
査定官がちらりとルヴィアを見て言った。
「おいおい、あたしのことを何だと思ってやがんだ。やらねーよ、そんなこと」
ルヴィアが不満げに鼻を鳴らす。黄金色の瞳が斜めに細くなった。
査定官は「失礼」と短く詫び、職員に目配せして担架を呼んだ。観衆も徐々に現実へ戻り始め、圧し殺していたざわめきが、用心深く空気に戻っていく。
ロウはくるりと観衆へ向き直った。胸の奥でひとつ線を結ぶ。ここから先は、刃ではなく繋がりの話だ。
「さて、皆。この通り、〝半竜のルヴィア〟は俺の従魔になったものの、まだそんなに人間の町に慣れてなくてな。彼女の歓迎会も兼ねて、ギルドの酒場で飲み会でも開こうと思うんだけど……皆も一緒に飲まないか? もちろん、お代は俺持ちだ」
言いながら、ロウは背後の〝マッドドッグ〟の背嚢をばん、と叩いた。
その乾いた音が合図になったみたいに、幾つもの顔が見合わせ、そして一気に弾ける。
「うおー! ロウの旦那、さすがだぜ! 俺はお前らについていくぜ!」
「ケチ臭〝マッドドッグ〟とは器が違うぜぇ」
「おい、ルヴィアちゃん! 俺と飲もうぜ! ここの麦酒は美味いんだ」
「バカ野郎、俺が先だ! 半竜と飲んだって自慢するんだよ」
さっきまで壁際に貼り付いていた連中が、肩をぶつけ合いながら笑い出す。練習場の土の匂いまで、晴れやかに感じられた。
打って変わった熱気に、ルヴィアはきょとんとする。尾の先が、戸惑いを示すかのように揺れていた。
ロウは彼女の方を向いて肩を竦めてみせる。
「冒険者ってのは、その日暮らしでいつ死ぬかわからない連中だからな。案外、こんな感じなのさ。依頼で敵味方に分かれて戦う時は仕方ないと割り切るとして、それ以外で背中から刺される理由はなくしておきたいってね。荒くれ者だけど、悪い奴らじゃないよ」
「なるほどね。それでいうと、あいつらはそのあたりも失敗してたってことか」
ルヴィアの視線が、担架に載せられていく三人へ滑る。
彼女の声音に、情はない。ただ、正確な評価だけがあった。
「そういうことだ」
この町で〝マッドドッグ〟のやり口に不満を抱いていた者は確かに多かった。
唯一のSランクだったという看板が、長いこと口を縫い留めていただけだ。蓋が外れた今、空気は軽い。先程のガリウスの騙し討ちも、尾を引くだろう。
「で? その歓迎会ってのは、もちろんあたしも飲んでいいんだよな?」
「もともとお前のための歓迎会だ。好きなだけ飲め。どうせ、ここの連中全員分の酒代を出してもこの金は使い切れないんだ」
その一言で、ルヴィアの顔がぱっと晴れた。
無邪気さすら覗く笑みだ。よっぽど、酒が好きなのだろう。
「よし来たっ。おう、お前ら! うちのボスがこう仰せだ。あたしと飲み比べしてぇ奴は一列に並びな!」
彼女の呼びかけで、歓声がまた一段と高くなった。肩と肩がぶつかり、笑いが跳ねる。
場は練習場から酒場へと雪崩のように移動していった。
ギルド併設の酒場は、いつもの倍は騒がしかった。椅子の足が鳴り、卓が叩かれ、杯が延々と行き交う。台所の暖炉はフル稼働で、肉の焼ける匂いと香草の蒸気が混ざり、空気は旨いもので満ちていた。
予想していたことではあるが……ルヴィアはあっという間に人気者になった。
性格が性格だ。口は悪いが、拍子のいい冗談を惜しまない。ロウよりも冒険者向きの性格をしていた。
それに加えて、酒も滅法強い、というのも人気の秘訣だ。酒豪で名の知れた冒険者たちが次々と挑みかかっては、尽く返り討ちに遭って卓の下へ転がっていく。笑いと悲鳴の境目が曖昧で、誰も彼もが楽しそうだった。
依頼報告に戻ってきた冒険者が扉を開けては目を剥き、半竜の姿に狼狽し、事情を聞かされてからは肩で笑い、そして当然のように混ざった。
ロウは麦酒をちびちびやりながら、その景色を少し離れた席から眺めていた。
上手く回せるか不安もなくはなかったが、杞憂だったらしい。
(これで、ルヴィアの話はすぐに広がるだろうな)
狙いは、そこにあった。
半竜の外見は、無条件に恐れを呼ぶ。だからこそ、最初は隠した。
だが今は違う。ありのままの姿で、彼女は笑って酒を交わしていた。その光景が噂になれば、この町に限っていえば、〝半竜のルヴィア〟は恐怖ではなく、痛快な伝説として定着する。
そして何より──楽しそうな彼女を見るのが、単純に嬉しかった。
話を聞いた限り、ルヴィアの生い立ちが楽なものであったとは到底思えない。孤独と背中合わせの日々を、何度もやり過ごしてきたのだろう。
だからこうして知り合えたのなら、これからは肩の力を抜いて笑っていてほしい。そう思うのは、ロウのわがままかもしれないが。
(……ありがとな、リナ。お前のお陰で、俺はこうして戻ってこられたよ)
杯を持ち上げ、ほんの少しだけ掲げる。
リナが守ってくれたから、あの瞬間、あと一歩分だけ命の線が延びた。そのお陰でルヴィアが間に合い、ロウは今ここにいる。それは紛れもない事実だった。
それに……こんな気持ちになっているのは、ロウひとりではなかった。
「ロウのあんちゃんよぉ。俺は一文無しの頃、リナちゃんに無料で治療してもらったんだ」
「あんないい子を見殺しにするなんて、俺は信じられねえよ! くそ、ガリウスの野郎め……!」
「何であんなクソ野郎と付き合っちまったんだ、リナちゃんよぉ……!」
気づけば、ロウの周りには幾人かの冒険者が集まり、泣き笑いの顔で杯を傾けていた。彼らの話すリナは、ロウの知らない場所でも人助けをして、静かに信頼を集めていたらしい。自分だけが喪って、自分だけが悲しんでいるのではない──それだけで、不思議と胸の痛みが少し鈍くなる。でも……
(ああ、ちくしょう)
リナの話を聞いていると、思い出さなくてもいいことまで思い出してしまう。
彼らとどんな風に話していたか、自分とどんな風に話していたか。そして、最後の言葉まで脳裏にくっきりと蘇ってきて、思わず目頭が熱くなってくる。
(今日は、あんまりいい酒にはならなそうだな……)
そんなことを考えていると、不意に賑やかな声が飛んできた。
「おい、ロウ! いつまで隅っこでそんな小便みてぇな酒飲んでんだ。男なら火酒だろ?」
ルヴィアが火酒の瓶を片手に掲げ、顎をしゃくっている。頬はまったく赤くなく、けろりとしていた。
「火酒はあんまり得意じゃないんだ。他の連中に付き合わせろよ」
「こいつらじゃ相手にならねえよ。弱すぎる」
その言葉通り、彼女の周りには飲み潰れた亡骸が幾人も転がっていた。
逞しいはずの腕がテーブルからぶらりと垂れ、鼾が交錯している。
「やれやれ……どんな肝臓してやがんだよ、お前は」
「いいからよ。あたしと飲みな、ロウ。そんな辛気臭ぇ顔してたら、せっかくの酒が抜けちまう。今日は飛ぼうぜ。そんで、全部忘れちまえばいい」
そう言って、ルヴィアは火酒の瓶を投げてよこした。
ロウは素直にそれを掴む。襟のボタンをひとつ緩め、深く息を吐いた。
彼女なりの気遣いなんだろう。雑だが、真っ直ぐだ。そういうところが、救いになる。
「ったく……俺はそこまで強くないんだ。潰れたら責任取れよ」
「そん時は、責任持ってあたしが寝かしつけてやるよ。『ベイビー、よい子だねんねしな』ってな」
「そいつは頼もしい。悪夢で魘される自信がある」
ふっと笑って、ロウは席を移った。
卓の上に新しい杯が置かれ、火酒が白い筋を描いて注がれていく。鼻に抜ける強い香り。
死んだ者は戻らない。けれど、生きている者には、今がある。なら、今をちゃんと掴まないと。
ロウはルヴィアの杯に自分の杯を軽く当てた。
小さな音がふたつ重なり──すぐに、酒場の喧噪で消えていく。喉が焼けるような熱さとともに。




