第12話 血濡れの手紙とペンダント
街道は、月の粉で白んでいた。
〝黒の森〟を離れてなお、風の匂いには湿った苔の名残が混じっている。遠くで梟がひとつ鳴き、空は薄氷のように冷たかった。
そんな中、ロウはというと、ルヴィアと肩を並べて言葉少なく歩いていた。時折靴裏が礫を踏み、乾いた音が尾のように伸びる。
やがて、草むらの陰に煤の輪と焦げた杭が見えた。小さな夜営跡だ。
鍋を掛けたであろう横木は折れ、焚き火の跡には白い灰が薄く被っている。灰の周りには、蹴散らされた足跡、斧の刃が抉った土の裂け目、そして……血の黒。魔物に襲われたのが、遠目でもわかってしまった。
近づくにつれ、鉄と腐りの匂いが鼻の奥に重く貼りつく。
月光は残酷だ。淡い光が、そこに横たわるひとつの亡骸をはっきりと浮かび上がらせる。
その亡骸は、若い男のものだった。胸を裂かれ、手は焚き火の方へ伸びたまま硬直していた。指先は、何かを掴もうとしていたのか、土の上を引っかいた跡を残している。
ロウは土の裂け目を指でなぞり、息を吹きかけた。
「酷いな。この感じ、寝込みでも襲われたか?」
「だろうな。見張りが居眠りでもかましたんだろ。ボンクラに役割を与えたところで、ろくなことが起きやしねえ」
ルヴィアはふんと鼻を鳴らし、周囲を見渡した。
夜営地は荒らされていた。袋も食糧も、ほとんどが持ち去られている。
だが、ひとつだけ、草陰に半ば埋もれるように、小袋が残っていた。血で染まって、黒ずんでいる。誰かが、慌てて隠そうとして、隠しきれなかった……そんな位置だ。
ロウは膝をついて、その小袋を拾い上げた。濡れて硬くなった紐を外し、中身を確かめる。小さな銀のペンダント──古いが、丁寧に磨かれていたのだろう。月の光を素直に返している。
もうひとつは、丁寧に折られた紙片だった。血で端が滲んでいるが、文字はまだ読める。
手紙を開いてみると、そこには故郷に残した妹に宛てた言葉が並んでいた。
『心配かけてごめん。必ず帰る。今度こそ、いい稼ぎを持って帰るから。家の屋根も直そう。ペンダントはお守りだ。お前が泣き虫だから、代わりにこいつが守ってくれるようにって、母ちゃんがくれたやつだ。俺が帰ったら、笑って迎えてくれ』
最後の一行は、血で途切れている。それでも、『必ず帰る』の文字だけは、やけに濃く目に刺さった。
ロウはしばらく黙って紙を見つめ、そっと折り畳んで袋に戻した。拳が知らず握られていた。
宛先は、書いてある。町へ戻る街道からは外れるが、行けない距離でもなかった。
(この人は帰れなかったけど……せめて、想いくらいは)
胸の内で決意が形になっていく。
手のひらの小袋が、ただの布きれ以上の重みを持って感じられた。
「おいおい、ロウ。頼むぜ? お前、またしょうもないこと考えてんだろ」
横から、乾いた吐息が漏れた。ルヴィアだ。
彼女は頭の後ろで腕を組み、死体を見下ろしていた。黄金色の瞳は面白がるでも哀れむでもなく、ただ砂漠のように乾いた光が宿っていた。
「あんたが何を考えてるのかは、何となくわかる。でも……ほっとけよ。そいつはただの死体だ。そんなもんにまで気にかけてたら、便所に流した小便にまで祈らなくちゃならなくなる」
舌に苦く残る冗談。
続け様に、ルヴィアは肩を竦めて軽口を続けた。
「弱ぇ奴から順に腐って土に還る……それで万事オーライってわけさ。だろ?」
ルヴィアらしいな、と素直に思った。彼女はきっと、そういう場所で生き延びてきたのだ。優しさより先に、生存の算盤を弾く場所で。
それでも、とロウは顔を上げた。ルヴィアの黄金色の瞳と正面から視線がぶつかる。
「ルヴィア。俺は……この手紙を届けてやろうと思う。今ここで俺が見つけてしまったことが、運の尽きだと思ってくれ」
「……はあ」
僅かな間の後、ルヴィアはあからさまに呆れた溜息を吐いた。
けれど、その目には刺のような拒絶はない。面倒だからやめろとも、時間の無駄だとも言わなかった。彼女は続けた。
「やれやれだ。まあ……あんたのそういうとこ、あたしは嫌いじゃないけどな」
「ありがとう」
ロウは礼を言い、亡骸の手を静かに胸の上で組ませた。夜営跡の片隅に小さな石を積み、枝で簡単な印を立てる。荒くとも、見失われないように。
小袋は、ロウの胸の内ポケットに入れた。布の感触が心臓の鼓動と重なる。
歩き出すと、夜は少しずつ薄くなっていった。街道は丘をひとつ越え、畑の匂いを風が運ぶ。
東の端がわずかに白む頃、小さな村の屋根が見えた。白い壁、藁葺きの棟、囲いの低い柵。煙突からはまだ煙が上がっていない。
村の木戸をくぐると、門番代わりに立てられた横木の丸太がギギ、と軋んだ。犬が吠え、窓がいくつか開く。
「ひぃっ」
「ま、魔物?」
「い、いや……でも、人間みたいだぞ?」
ルヴィアを見た者たちの顔に、恐れと警戒が走った。
半竜なぞそうそう見るものでもない。恐れて当然だ。
老人が一歩退き、女が子を抱き寄せる。石を手に取る少年もいた。
「ったく……別に取って喰ったりしねーよ」
ルヴィアは諦めたように小さく笑うと、僅かに溜め息を吐いた。こうした目で見られるのは、彼女にとって慣れっこなのだろう。
ロウはそんな気配を拭うように両手を上げ、落ち着いた声で言った。
「朝から驚かせてすまない。俺はテイマーで、彼女は俺の従魔。害はないよ。届けたいものがあって、ここに来たんだ」
しばしのざわめきの後、村長らしき男が出てきた。日焼けした顔に皺が刻まれている。警戒は解けないが、眼は話を聞く色を宿していた。
続けて事情を説明し、小袋を見せる。
宛名を読み上げてみると、村長の表情がわずかに揺れた。
「ああ……その家なら、北の端だ。父も母も早くに亡くなって、兄妹ふたりで暮らしておった。兄の方は街へ行って冒険者になったと聞いとる。ついて来い」
案内された家は、小さな庭に萩が植えられた質素な家だった。戸を叩くと、眠気まじりの顔が覗く。
まだ十六か十七ほどの、あどけなさが残る少女だった。ルヴィアの姿を見て一瞬凍ったが、村長とロウの顔を見比べてから、恐る恐る戸を広げた。
「……はい。どちら様ですか」
「これを、届けにきた。君にだ」
ロウは深く頭を下げ、小袋を差し出した。
少女の手に渡ると、袋はやけに重そうに見えた。彼女は戸惑いながらも紐を解き、中身を取り出す。銀のペンダントが月の残光を受けてかすかに光り、紙片が手の中でほどけた。
「これって……」
手紙を読み始める。
最初は眉根を寄せ、次第に口元が震え、目尻が濡れていく。
「兄さん、兄さん! バカ……バカァ!」
手紙とペンダントを抱き締めて、彼女は咽び泣いた。村長が、そんな彼女の背中を撫でてやっている。
胸が痛くなって、ロウは彼女から視線を逸らした。ルヴィアも気まずそうに視線を移ろわせている。
「おふたりは……兄さんの知り合いですか?」
少し落ち着いたところで、少女が訊いてきた。
「いや。会ったこともないよ。ただ、ここの道中でそれを見掛けただけだ」
正直にそう伝えると、彼女は「そうですか……」と俯き、絞り出すようにして続けた。
「兄は帰ってきませんでしたが……想いは、ちゃんと伝わりました。ありがとうございます」
ロウは言葉を探したが、喉の奥が詰まって、上手くものが言えない。
何を言っても嘘くさくなるような気がして、ただ深く頷いた。
横でルヴィアが、黙ってその様子を見ていた。いつものような毒舌はなく、ただ涙に濡れたペンダントと手紙の上で、その瞳が細く瞬く。彼女にも、何か響くものがあったのだろうか?
ロウはそう考えかけて、やめた。彼女の胸の内は、彼女のものだ。ロウが思いを巡らせるものでもない。
その日のうちに、村人たちはふたりをもてなしてくれた。警戒は完全には解けていなかったけれど、手紙を届けたことへの感謝がそれを上回ったのだろう。
少女は台所に立ち、慣れた手つきでシチューを煮込み、焼きたてのパンを出した。塩気の利いた豚の燻製、丸ごとの玉葱、畑から抜いたばかりの人参。テーブルに湯気が立ち、家の中に温かい匂いが満ちる。
ルヴィアは最初、椅子に腰を落ち着かせることすら落ち着かない様子だったが、ひと口、ふた口と食べるうちに顔が緩んだ。スプーンを持つ手の肘がいつの間にかテーブルに甘えるように乗り、尻尾が椅子の脚をぱたぱたと叩く。
妹は最初びくりとしていたが、すぐに苦笑を浮かべていた。
結局、その日は少女の家に泊めてもらうこととなった。兄の遺品を届けてくれた。せめてものお礼だそうだ。
藁と綿が詰まった寝台は、野営の地面と違って、背骨を拒まず受け容れてくれる。それだけで有り難い。
「おおっ、羽毛布団じゃねえか! いいもんで寝てやがる」
部屋に入るなり、ルヴィアはベッドにどさりと倒れ込んだ。ぎしっと音を立て、埃の匂いがふわりと舞う。
言葉遣いは普段通りだが、その表情は普段よりも弾んでいるように見えた。
「どうだ?」
ロウは笑って訊いた。
「あん?」
枕に顔を半分埋めたまま、ルヴィアが片目をこちらに向ける。ロウは壁にもたれ、軽く顎をしゃくった。
「便所の小便に祈るのも、案外悪くないだろ?」
ほんの一瞬、ルヴィアの瞳に「やられた」という色がよぎる。すぐに彼女は小さく舌打ちをして、そっぽを向いた。
「毎回こんなに上手くいくかよ。でも、まあ……悪くねえ。飯も美味かったしな」
背を向けているが、尻尾の先は機嫌のいいリズムを刻んでいた。強がりの下にある素直さ。彼女のそういうところは、ロウも嫌いじゃない。
喉の奥で笑いを噛み殺し、窓の外を見た。村の夜は穏やかだ。遠くで犬が二度吠え、やがて静まる。風が屋根を撫で、月は傾いている。
どうしてだろうか? ふと、脳裏にプチの姿が浮かんだ。
小さな背に不釣り合いな荷縄を巻きつけ、ひいこら言いながらも足を止めないで荷運びをしていたプチ。坂道で何度も滑りそうになっていたが、それでも「きゅう」と声を上げてまた立ち上がっていた。
置いていかれまいと健気にロウやリナの前を行き、時に後ろを振り返って。いつもこちらを気にしてくれていた。
(もしかしたら……あいつは荷物を運んでたんじゃなくて、俺たちの未来も運んでいたのかもな)
胸の奥が、熱くなった。
馬鹿みたいだ、と自分で思う。けれど、その馬鹿みたいな思いが、今の自分を支えている気がした。
(運ぶ、か……)
モノでも、手紙でも、願いでも、約束でも。
誰かが自分では運びきれずに落とした何かを、拾って、届ける。こうやって何かを運ぶのも、案外悪くないのかもしれない。
「ルヴィア、明日中には町に着きたいからそろそろ──」
言い掛けて、やめた。
そこには伝承として語り継がれる〝半竜のルヴィア〟とは到底思えないほどの、安らかな寝顔があったのだ。
「寝顔は、年相応なんだな」
ロウは小さく笑ってから毛布をかけてやり、灯りを落とした。
闇が部屋を満たす。
隣の寝台で、ルヴィアが寝返りを打つ気配がした。布が擦れる音、ベッドが小さく鳴く音、その向こうで村の静けさが広がっていた。
(これも、届けなきゃな)
ロウは仰向けになり、元恋人の〈聖印〉を眺めた。
夜が、徐々に深くなっていく。だが、ロウに眠気が訪れる気配はまだなかった。
失ったものたちの顔を思い浮かべ、そっと目を閉じる。
どこかで梟がもう一度鳴き、村の犬が短く応えていた。風が屋根の藁を撫で、とてもゆっくりと時間が流れていった。




