番外編 落ちぶれマッドドッグ、破滅への第一歩
昼前の鐘が、街の屋根瓦の上で乾いた音を跳ねさせていた。城壁まで続く土の道は、陽に走る靄のせいで白んで見える。
ガリウスたちは、そこを影のようにふらつきながら進んだ。足裏の感覚は遠く、皮膚に貼りついた泥はもう乾いて固まっている。門番が槍の石突きをコツコツと叩き、近づく三人を見て顔を顰めた。
「……どこの浮浪者かと思えば、お前ら〝マッドドッグ〟か? おいおい、酷い有様だな」
「うるせえ。こっちだって色々あったんだ」
「そのようだな。入れ。とりあえず治療してこい」
「言われなくてもわかってんだよ!」
門番の言葉に、いちいち苛立つガリウス。
血と泥と焦げ、それから舌の裏に感じる鉄の味。森の中では、それが生きている証のように思えた。
だが今は違う。城門の影に入った瞬間、それはただの汚れになった。足を止めると、背中の汗が冷え、全身の傷が一斉に悲鳴を上げる。
「まずは、治療させて。もう限界よ」
シーラが喉の奥で掠れた声を出した。
指先が微かに震えている。血で黒くなった爪の間から、薄い皮膚が割れて白い。彼女は自分の指を見つめ、唇を噛んだ。
「俺もだ。まずは教会に行くぞ」
ガリウスは言い切り、肩を回して歩き出した。
サムソンが無言で頷く。
顔にこそ出していないが、彼も肋骨を痛めていることがその所作から見て取れる。もしかすると、折れているのかもしれない。
城門を抜けると、街の匂いが鼻を刺した。鍛冶場の熱と、焼き上げたパンの甘い煙。森の焚き火の煙と血の鉄臭さとは違う、生活の匂い。
当たり前の香りのはずなのに、何だかそんな日常の香りでさえ、今のガリウスを苛立たせた。
ほどなくして、教会に着いた。いつもは何とも思わない教会の白壁だが、今日は日光を跳ね返して妙に眩しく感じた。
扉を押すと、ひんやりとした空気が肌を撫で、乳香の香りが肺の奥に落ちてくる。祭壇前の神官がこちらを見て、穏やかな笑みを作った。それが近づくと、笑みがわずかに細くなる。
「治療を頼む。今すぐにな」
ガリウスが言うと、神官は慣れた手つきで小さな帳面を取り出した。
「冒険者の方ですね。では冒険者カードのご提示を。ギルド保険が適用されますので」
「ああ。おい、ロウ──」
そこで、ガリウスはふと後ろを振り返った。
こういった時、荷物番のロウに冒険者カードを提示させていたのだ。しかし……今、ロウはいない。
ガリウスたちの冒険者カードも、荷物の中だ。
「カードは……今はもってねえ」
「では、前金が必要になります。重傷の方もいらっしゃるようですし、〈治癒魔法〉の施術は段階を分けます。最初にこの額を」
神官が示した数字に、シーラの喉が鳴る。サムソンも、その額に眉を顰めた。
今、ガリウスたちは無一文だ。とてもではないが、払えるわけがない。
ガリウスは奥歯を噛み、吐き出すように言い放った。
「おい、ふざけんじゃねえ! 俺たちはSランクパーティー〝マッドドッグ〟だぞ! おめぇだって知ってるだろ!?」
「はい、存じ上げております。ですが、ルールはルールなので」
声は柔らかいままだったが、神官の目は笑っていなかった。
その言葉が、背中に冷水のように落ちる。聖堂の空気が一気に重くなった気がした。シーラが拳を握り、震える指先を見せつけるように突き出す。
「わ、私、手が震えて魔法が上手く使えないのよ! ねえ、お願い。早く治療して!」
神官はその指先を見てから、静かに首を振った。
「前金をお支払いください。それが、ルールです。祈りだけなら、捧げましょう」
神官は十字を切り、祈った。祈りは無料だ。だが祈りで傷は治らない。
ガリウスは短く舌打ちをして踵を返した。
「ギルドだ。先に預金を下ろす」
「それしかねえが……この格好でギルドに入るのかよ」
サムソンは自分たちの血だらけ、泥だらけの様子を見て、うんざりだという表情を見せた。
天下のSランクパーティーの装いには程遠い。どこの難民かと思われるだろう。
「仕方ねえだろ! さっさと行くぞ!」
ガリウスが怒鳴った。
ガリウスだって、そんなことはわかっていた。だが、金がない。金がなければ、装備も着替えも整えられないし、風呂にも入れないのだ。
街の通りはいつものように賑やかだ。鍛冶場からは鉄を打つ音。市場から雑踏の笑い。それらが、やけに遠く感じられた。生きた匂いの中で、自分たちだけが剥き身の骨格のように浮いている。
街の人々も、ガリウスたちを見てひそひそ話をしていた。最初は「見世物じゃねえぞ!」と怒鳴っていたガリウスだが、もう言い返すのも面倒になっていた。
冒険者ギルドの扉を押すと、薄暗い涼しさが流れ出てきた。掲示板の前で人だかりができ、酒場の方からは昼間の騒がしい笑い声。視線がいくつか彼らに寄ってきて、ガリウスたちの装いを見てからぎょっとして、すぐに目を逸らした。
受付に向かうと、見慣れた顔の受付嬢がガリウスたちを見て目を丸くし、次に眉根を寄せた。
「お戻りになったんですね。……ひどい格好。どうされたんですか?」
「受けていた〝黒の森〟の討伐依頼だが、失敗した。早速で悪いが、預金を──」
「……失敗されたのですか。では、少々お待ちください。査定官を呼びますので」
「査定官?」
聞き慣れない言葉だった。パーティーの昇降格に関わると噂に聞いているが、一度依頼に失敗したくらいでは出てこないはずだ。
「Sランクパーティーの依頼失敗はギルドの信用に関わります。任務の失敗で、降格の査定がされるのです」
「なんだと!? そんなの聞いて──」
「待て、ガリウス。ロウが言っていただろ」
ガリウスがそう怒鳴ろうとするが、サムソンが腕を引いて、耳打ちする。
そうだった。そういえば、Sランクパーティー昇格の際の説明会もロウに行かせていたのだった。確か、そんなようなことを言っていた気がする。
それから暫く待つと、灰色の上衣を着た男がすぐに現れた。
査定官だ。薄い眼鏡の奥の目が、三人の汚れと傷を一瞥し、すぐに人数の不足に気づいた。
「……おや? ガリウスさん。ロウさんとリナさんはどうなされたのですか?」
その問いが、受付の空気を変えた。周囲の視線が少しだけ近づいたのが分かる。ガリウスは僅かに顎を上げた。
「……死んだ。〝黒の森〟で」
査定官は瞬きもせず、帳面を開いた。声の調子は変わらない。だが、言葉は硬かった。
「事情を伺います。パーティーメンバーの見捨て……救難義務違反の疑いがあります。依頼も未達成とのことなので、そちらについても詳しく事情を聴取させてください」
「な、なんだと!?」
「Sランクのパーティーは、Aランク以下と違い、詳細な事情聴取と査定が義務づけられています。ロウさんに説明したはずですが?」
ガリウスは、肺の奥にまだ残る森の冷気を吐き出した。
まずい。このままでは、全ての責任を自分が背負わされることになる。
ほんの一瞬だけ目を閉じ、その次の瞬間には声を作っていた。
「よ、予想外の敵に囲まれたんだ! でも……ロウとリナが自分たちが囮になると志願してくれた。俺たちは、そのお陰で生き延びられたんだ!」
言葉は滑らかに出た。自分の声ではないように軽い。
そもそも、どうせふたりは死んでいるのだ。死人は反論しない。なら、どうと言ってもいいはずだ。
「そうよそうよ! 私も見ていたわ!」
シーラがすぐに乗った。震える指を胸元に引き寄せ、早口になる。査定官の眼鏡がわずかに光った気がした。
一方のサムソンは黙っている。顎の筋肉が硬くなって、しばらく動かなかった。
「おい、サムソンも見てただろ?」
「……ああ、そんな感じだった」
砂を噛むような声で、サムソンも同意した。
それから、ほとんど聞こえないほど小さく、ぽそりと漏らす。
「……死人まで利用するってのかよ」
ガリウスはその言葉を聞き取らないふりをした。
サムソンの目が一瞬こちらを見たが、すぐに逸れる。
査定官は帳面に何かを記しながら、小さく息を吐いた。それからもいくつかの質問事項を受けて……査定官が、結論を述べた。
「報告は受理します。処分ですが──ランク審査保留、とさせて頂きます」
「なっ!?」
実質的な降格だった。
掲示板には『Sランクパーティー〝マッドドッグ〟審査中』の赤札が掲げられてしまった。これは実質、Sランクの依頼を受けられないことを意味している。
しかも、ガリウスたちは冒険者カードも紛失してしまった。装備の修繕費や治療費も全額自己負担となる。それに加え、カードの再発行が済むまでは、新規依頼は一切受けられないそうだ。再発行後も、この赤札がぶら下がる限り、高額報酬のA級依頼はまず回ってこないだろう。
暫くは、町に滞在するしかやることがなかった。
「……預金を下ろさせてくれ」
ガリウスは唇を強く結び、窓口で必要な書式に名を書いた。
こういった面倒事は、ロウがいつも代わりにやっていた。ロウの筆跡ではない、自分の乱暴な字が紙の上に滲む。
受付嬢が困った顔をした。ロウの名前を口に出しかけて、飲み込み、印章を押した。
金を受け取ると、三人はすぐに教会に戻った。金を持っていると、神官は迷いなく手を掲げた。光が掌から流れ落ち、裂けた皮膚が寄っていく。温かさが内側から沁み、痛みが薄くなった。
そこで、ようやく安堵したのだろう。外に出ると、一気に空腹が襲ってきた。
「よし……ギルドで飲むか。いくぞ」
ガリウスは短く息を吐いて、そう提案する。
空腹とこの陰気臭い雰囲気を払拭するには、飲むのが一番だ。
服を買ってからギルドに戻ると、ガリウスたちは併設酒場へと向かった。昼下がりの酒場は賑やかで、木の卓の油と麦酒の泡の匂いが重なっている。
いつもなら、ガリウスたちを英雄のように迎えてくれるのだが──扉を押した瞬間、いくつもの視線がこちらに突き刺さった。
(……なんだ?)
いつもなら駆け寄ってくる連中が、全然何も言いにこない。
まあいいか、といつもの卓に腰を下ろし、酒を頼んだ。
酒は、すぐさま卓に運ばれた。三人で乾杯することもなく、先ずは飲む。最初の一口は喉を焼いた。二口目で、舌の上の苦味だけが残る。
三人それぞれの顔が、ようやく和らいだ。
「やっぱこれがねえとな。やっとこさ生き返った気がするぜ」
「ええ、そうね。美味しい」
「全くだ。ちくしょう、俺のワイン、高かったのになぁ」
酒の旨味で心が解れかけてきたその刹那──声が浮かび上がってきた。
隣の卓、もうひとつ向こう、カウンター。その声ひとつひとつが、こちらに向けられていた。
「仲間を囮にして帰ってきて真っ先にやることが酒かよ」
「リナとガリウスは付き合ってたんだろ? 恋人まで囮にしたのか」
「ちげぇよ、もともとロウとリナが付き合ってたんだ。ガリウスは寝取りやがったんだよ」
「はあ? 同じパーティーの中で寝取り? 有り得ねぇ」
「そんで用なしになったからふたりとも見捨てたってのか?」
言葉の端々が、刃物みたいに角立っていた。
ロウとリナの名が、そこかしこで出ている。
ロウには、依頼の手続きを任せていた。雑用も、人の頼みも、契約関係も、全てロウの担当だった。
そういえば、奴は酒場でも他の冒険者と肩を並べ、地図の紙切れを広げて色々相談していた。リナも、親切心で怪我をしていた冒険者たちを地理してやっていたらしい。ふんぞり返っていたガリウスよりも、彼らにとってはロウやリナの方が身近な存在だったのだ。
(くそが……どいつもこいつもロウ、ロウって!)
ガリウスは拳を握った。骨が鳴る。
そして最期にロウに駆け寄っていくリナの横顔が、嫌でも脳裏に蘇った。
「……うっさいわね、あいつら」
シーラがグラスを持ち上げた手を止める。横顔の強張りから、かなり苛立っていることが見てとれた。
笑い声がひとつふたつと上がって、それを誤魔化すように、誰かがわざとらしく咳払いをした。
卓が軋む音と同時に、ガリウスの身体は立ち上がっていた。
「おい、てめぇ。俺を笑いやがったな? なめてんじゃ……ねえぞ!」
次の瞬間には、拳が前に出ていた。
隣の席の冒険者の男の頬が歪み、ジョッキが跳ねて泡が飛ぶ。
木の床に酒が散り、男も一緒に倒れ込んだ。酒の匂いが一瞬にして濃くなる。
「なにしやがる!」
「てめえ、ふざけてんのか!?」
「上等だ。やってやる」
「いくらSランクっつってもここにいる冒険者全員に勝てるわけねえからなぁ!」
怒鳴り声が上がって、他の冒険者たちも一斉に立ち上がった。がたん、とそこかしこで椅子が引かれる音が響く。
上等だ。全員ぶっ殺してやる──そう思った時、ガリウスの肩に重い手が乗った。
サムソンだ。反対側からシーラが腕にしがみつく。
「おい、バカ! やめねえか!」
「そうよ! 私たち、今審査中なのよ!?」
シーラがギルドの隅を見て、小声で窘めた。
視界の隅で、先ほどの査定官の眼鏡が光る。
そうだった。審査保留の身で騒動を起せば、もっと状態は悪くなる。
「ちっ……いくぞ、てめぇら。他で飲み直す」
ガリウスは何とか怒りを鎮め、酒場を後にした。
酒場の空気が一斉に逆立つ。背中から、冷たい言葉が投げつけられた。
「この人でなしマッドドッグが!」
「俺はな、金に困っていた時リナちゃんに無償で傷を治してもらったんだ! あんないい子を見捨てるなんて、信じられねえ!」
「Sランク様よぉ、仲間見捨てて飲む酒は美味ぇのかぁ!?」
プツンと抑えた怒りが上限を突破しそうになるが、査定官の顔を見て冷静さを取り戻した。
ここで暴れたら、降格では済まなくなるだろう。 怒りを何とか沈めて、ガリウスは強引に戸口へ向かった。
木の床が軋み、扉が鳴り、昼の光がまた目に刺さる。背後から、罵声と笑いが混ざった音が追ってきた。扉が閉まる瞬間、誰かがジョッキを打ち鳴らす音が聞こえてくる。
ガリウスは壁に手をついて、大きく溜め息を吐いた。掌に冷たい石の感触。呼吸が浅くなる。
「何が……何が悪いってんだ。俺たちは生き延びたんだ。生き延びたやつが正しいんだろうが」
「みんな、わかってないのよ……あんな怖い経験したことがないんだから」
シーラは大きく溜め息を吐いて、目尻を拭った。怒りで濡れた目が、街の石畳を拾い上げるように睨む。
サムソンは、そんなガリウスたちをじっと見ていた。目に、疲れと僅かな軽蔑が宿っているように見える。
彼は口を開きかけ、閉じた。代わりに、短く顎をしゃくった。
「さっさと宿にいくぞ。とりあえず、寝て過ごすしかねえだろ、今は」
サムソンの言葉に、ガリウスは頷きもしなかった。
それはわかっている。わかっているが、腹が立つ。
街の匂いは、遠い。背後の扉の向こうで、誰かがまた笑い、誰かが罵った。
かつては憧れられたSランクパーティー〝マッドドッグ〟の名が、たった一夜にして失墜してしまったように感じた。




