第9話 覚醒
夜が、音をなくしていた。
風は梢を渡りながらも葉を鳴らさず、虫の声すら引き潮のように遠い。焚き火は儀式のために消した。残るのは、月と星が撒く冷たい光だけ。
〝黒の森〟の闇に、白い輪郭で切り抜かれた野営地。ロウとルヴィアは互いに一歩の間合いを挟み、真っすぐ向かい合った。
「……本当にいいのか?」
問いを投げると、ルヴィアは鼻で笑った。
彼女の肩が、軽く挑むように揺れる。
「はっ、何度も言わせんな。あたしはな……この為に今まで生きてきたんだ。後悔も躊躇も、今更あるわけねえだろ」
闇に浮いた黄金の瞳は、迷いを欠片も映さなかった。
その意思の固さに、ロウの胸の奥がきゅっと引き締まる。
自分も、覚悟しなければならないようだ。〝半竜のルヴィア〟の主となることを。
「それに……何なら、あたしはあんたを結構気に入ってる。あんたが主人なら、迷う理由はないさ」
飯も美味いしな、とルヴィアは肩を竦めた。その仕草はぞんざいなのに、言葉の芯は妙に真っすぐだった。
ロウは、その率直さが嬉しかった。
「そうか。実は、俺も君のことが結構気に入ってる。荒っぽそうに見えて結構繊細だったり、実は結構優しかったりするところとか、好きだぞ」
「す、好きって──はあ!? 何言ってんだ、このタコ! 冗談言ってる暇があるなら、さっさと始めろっての!」
言葉は荒い。が、暗闇でもわかるほど、頬に熱が差していた。照れ隠し。
ロウは喉の奥でくっくっと笑った後、表情を引き締め、息を胸の奥へと沈めた。
(……やれるのか、俺に)
従魔の契約は、プチ以来だ。しかも、今度の相手は〝半竜のルヴィア〟。力も格も、これまでの全てを凌ぐ存在。
そもそも、本当に彼女と契約など結べるのだろうか?
彼女は半竜で、しかもその生まれ方から鑑みても、竜よりも人間に近いと思われる。従魔の契約は人とは結べないはずだ。成功するかどうか、不安もあった。だが、彼女の母は〝ドラゴンテイマー〟を探せと彼女に指示したのだという。
おそらく、それができる確証があったのだろう。ならば、ロウもそれを信じるしかなかった。
息を吸い、吐く。胸腔の底で溜めていた魔力の栓を、そっと外した。
低く澄んだ波が、土の下までじわりと染みわたり――ルヴィアの足元に、淡い光が散り、六芒星が現れた。
「おっ」
足裏の感触を確かめるように視線を落とし、ルヴィアは目を見開く。驚きはあっても、退く気配はなかった。
この時点で、契約を拒絶されるなら、或いは契約不能な種族であるならば、紋は砕け散るはずだ。だが、光は揺るがず、むしろ濃くなっていく。半竜との契約は──可能だ。
「始めるぞ」
「……おう!」
互いの目で最終の意思を確かめ、ロウはさらに魔力を高めた。両腕をゆっくりと空に開く。
星明りが刃のように腕の輪郭を縁取り、喉から言葉が零れ出す。
「天よ、証人となれ。
星よ、我らを見よ。
大地よ、我らの歩みを抱け。
炎よ、血潮の証を照らせ。
我は名を差し出す者。
汝は力を宿す者。
されど今より、その隔たりは消え去らん。
我らの魂はここに交わり、
我らの誓いはここに鎖となり、
我らの絆はここに力と化す。
その牙は我が剣、
その翼は我が盾、
その炎は我が血潮、
その咆哮は我が声。
汝と我は、共に生き、共に戦い、
輪廻の果てすらも超えて歩まん。
ここに宣言す。
我と汝の名をもって……永遠の契約を結べ!」
最後の一語が夜へ放たれた瞬間──六芒星が白炎のように閃き、天へ真っすぐ光柱を穿った。
空気が震え、星々が遠くで瞬きを改める。
ロウの胸とルヴィアの胸の位置に、細い光の糸が生まれた。ひと呼吸のあいだにそれは太くなり、二人の心臓を一本の線で結ぶ。
ロウは一歩前へ出て、右手を差し出した。
ルヴィアも口の端を持ち上げ――差し出されたロウの手に、しっかりと自身の左手を絡ませた。
ぶつ、と骨が噛み合うような感触が手のひらに走った。次いで、魂が噛み合う感覚が胸の奥を貫く。熱と痛みが重なり、しかし痛みはすぐ熱に飲まれて甘い痺れに変わった。
光が、ゆっくりと収束していく。六芒星は土に沈んで消え、夜は再び冴えた青へ戻った。余熱だけが土に残り、あとは沈黙が面を張る。
「終わった、のか?」
「ああ。完了だ。何か変わったか?」
「…………」
ルヴィアは指を握り、開き、掌の内側を見つめる。
それから顔を上げ、背の小さな翼を一度強く打った。月光を切り裂くようにその身体が浮上する。
宙に留まったまま、彼女は動かなかった。夜風が衣をはためかせ、沈黙が張り詰めていく。
そして──夜空が、吼えた。
それは彼女の声であり、竜の咆哮でもあった。解き放たれた魔力の奔流が見えない嵐となって輪を描いて広がり、野営のテントを紙片みたいに吹き飛ばした。周囲の木々を大きく撼がせ、星の光が波紋のように歪んでいく。
「ま、マジかよ……」
ロウは息を呑み、空中の彼女を眺めていた。
それ以外の言葉が、出てこなかった。
そこにあったのは、圧倒的な圧。これまで見たどんな強者よりも濃密で、馴染み深く、同時に畏ろしかった。胸の線で繋がったせいか、その圧が『敵のもの』ではなく『こちら側のもの』として肌に馴染んでくる。
ふわり、と彼女が降り立つ。足が土を踏む音すら、さっきより深い。
ロウは訊いた。
「気分はどうだ?」
「……最高の気分だよ、ロウ。まるで、王室のふかふかベッドに臓物をぶち撒けるみたいにな」
ルヴィアは八重歯を見せて、口角を上げてみせる。
その悪趣味な例えに、ロウは思わず肩を竦めた。
「そいつは随分と愉快そうだ」
「ああ。今のあたしを前にすれば、きっと神だろうが子犬みてぇに尻尾巻いて逃げるだろうさ」
その言葉に嘘はない。握った拳の奥で、まだ雷が鳴っているみたいに魔力が鳴動している。
ルヴィアは一歩近づき、ロウの胸元へ視線を落とした。脈動が線を伝い、彼女の鼓動が自分の胸に重なるのを感じる。
彼女は訊いた。
「なあ。変わったのは、あたしだけじゃねえだろ?」
「え? あっ……!」
言われてようやく、己の内の変化に意識が追いついた。
半竜の覚醒に気圧されて見落としていたが、ロウの魔力も跳ね上がっている。いや、魔力だけではなかった。身体も軽くて、骨や筋が強くなったのを感じる。呼吸の一拍ごとに、体の芯が一段深く沈んでいった。
「はぁぁッ……!」
気合いを込め、ロウも魔力を解き放った。
皮膚の下で光が走り、世界の輪郭が一段くっきりする。夜の匂い、土の温度、遠くの葉の裏の湿り気。すべてが手に取るようだ。
「凄いな……これが、〝ドラゴンテイマー〟か」
自分の両手をまじまじと見つめた。
力が溢れてくる。なんだか、自分の身体ではないみたいだ。
「やるじゃねえか。ただ──夜中にちょっと、騒ぎすぎたみたいだな」
ルヴィアが顎で背後を示す。
ロウは振り返り、そして息を呑んだ。
闇の縁に、黄の目がいくつも浮かんでいる。
単眼巨人、ミノタウロス・ロード、ミノタウロス、オーガ、ワーウルフ……〝黒の森〟の住人たちが、まるで祭礼に集う影のようにずらりと並んでいた。
自分たちの棲み処を揺さぶった波に怯え、敵意を持って出向いてきたのだろう。怯えた様子を見せているが、彼らとて〝黒の森〟の住人たち。やられるくらいならば先にやってやる、という気概さえ感じた。
「どうする、〝ドラゴンテイマー〟?」
ルヴィアはにやりと笑って訊いてきた。
「話し合いで済むなら、その方がいいな」
「バカ言えよ。誰が通訳できるんだ。言っとくけど、あたしはできねーぞ」
「俺もできない。それなら……」
ロウは一歩、前へ出た。
武器はもうない。けれど、どう動けばいいか、体が知っていた。半竜の魂と繋がるこの身体が、踏むべき足の角度、握るべき拳の形を、まるで昔からの癖みたいに教えてくる。
深く息を吸い、吐いた。
「腕試しも兼ねて、準備運動といこうか。あ、森は壊すなよ? ふたりの墓もあるんだ。力の差をわからせるだけにしよう」
ルヴィアは八重歯を悪戯っぽく見せた。
「……あいよ。マスター」
その言葉が合図になった。
ふたりは同時に地を蹴る。影と影の境目へ、月光の刃をまとって飛び込んだ。
星の下、夜の呼吸が一度止まり──次の瞬間、黒の森で最も静かな夜が、最も派手に波打ちはじめた。




