第1話 元恋人と、相棒と、追放宣言。
「ロウ……お前さぁ。無能なくせに、何でそんな図々しく生きてられるわけ?」
夜の〝黒の森〟──Sランクパーティー〝マッドドッグ〟の夜営地にて、リーダー・ガリウスのそんな声が聞こえたかと思えば、次の瞬間にはロウの腹に硬いものがめり込んでいた。
「ぐえぇぇっ……」
拳だ、と理解した時には遅かった。肺の空気がぶち抜かれ、視界の端で焚き火の火の粉が飛び散る。胃の底から逆流した酸っぱ苦い液体が喉を焼き、ロウは堪えきれずに、土の上へ吐瀉物をぶちまけた。
「……おえッ、おええええッ」
「くそが。汚ねぇんだよ」
ガリウスは吐き捨てる声と同時に、ロウの頬に靴の先が入る。
地面が跳ね、星が散った。続いて、肩、背、脇腹――怒りに塗れた衝撃が、順番を無視して降りかかる。
殴られるたび、身体のどこかが鈍い悲鳴を上げた。
しかし、ロウは奥歯を噛み、声を飲み込む。声を出せば、また面白がられるだけだ。
それに、これはいつものことだった。毎日毎日、こんなことには慣れている。それに、ロウは大事な荷物持ち。殴るだけ殴ったら、どうせすぐに〈治癒魔法〉で治させる。
それがわかっているから、仲間たちも誰も助けなかった。魔導師のシーラも、重戦士のサムソンも、こちらを見向きもしない。
しかし、その時……耳の奥で細い唸り声が震えた。
ロウははっとして、焚き火の影に丸くなっている小さな影へ意識を向ける。そこにいたのは、小熊ほどの大きさの小さな竜。鱗は煤けた灰色、角は芽のように短い。竜族の最弱種にして、ロウの唯一の従魔――プチドラゴンのプチだ。
(プチ……動くな。じっとしてろ)
心の中で命じると、プチは潤んだ瞳でロウを見つめ、歯を食いしばるみたいに口を結んだ。
弱くても従魔は従魔だ。主の痛みに反応してしまう。だが、それでも大人しくしていてほしかった。
今出たら……殺されてしまう。それは、間違いないのだから。
これまで、何度プチが殺されそうになったかわからない。でも、その度に身代わりになって、自分が痛みを受けた。
プチは、ロウにとって唯一の従魔。殺させるわけにはいかなかった。
目の前の靴がもう一発、腹に突き刺さった。胃液が逆流してくるが、必死に耐えた。
堪えろ。吐くな。吐けばまた――。
「ねえ……ガリウス。もうやめて」
その時、柔らかな声が焚き火の音を割った。治癒師にして幼馴染、そして……元恋人のリナだ。深緑色の髪が、炎に鈍く照らされる。
ガリウスは肩を竦め、つまらなさそうにロウの襟から手を離した。足元の吐瀉の汚れを見て、わざとらしく舌打ちをする。
「リナ。お前の幼馴染は本当に無能だよなぁ? お前はこんなにも優秀なのにな」
言いながら、ガリウスはこれ見よがしにリナの腰に手を回した。熱のない笑みでロウを見下ろす。その視線は、嘲り以外のなにものでもなかった。
リナは何も答えず、すっと顔を伏せる。もちろん、ロウとは目を合わせなかった。合わせられるわけがない。そんなことは、ロウもわかっていた。
ガリウスはそんなロウたちの様子を見て、ふっと鼻で笑った。
「ロウ、やっぱお前もういらねーわ。今回の依頼終わったらクビな」
「え?」
「追放だ、追放。前から思ってたんだよ。お前に〝マッドドッグ〟の名は相応しくねーってな」
わざとらしく肩を竦めて、そう言い放つ。
その声音には、悪意しかなかった。
(相応しくないって……そっちから誘ってきたくせに!)
ロウは怒りに拳を握りしめたが、何も言い返さなかった。
何となく、そろそろ追放されそうな気はしていた。リナを手籠めにしたなら、もう自分は不要だろう、というのもわかっていた。
ちらりとロウはリナを覗き見た。
リナは反論することもなく、ただ俯いているだけだった。炎に照らされた横顔は辛そうに歪んでいたが、その瞳がロウを捉えることはなかった。
ガリウスは気怠そうにあくびをすると、顎でテントを示した。
「リナ、そのゴミを治療したら俺んとこ来い。こっから帰るまでは、ちゃんと荷物持ってもらわなきゃ困るかんな」
そうとだけ言い残すと、彼はテントの幕を乱暴に押し分けて消えた。夜気がひやりと流れ込み、焚き火の煙を揺らす。
リナはロウの隣に両膝を突くと、両手を組んで祈りを捧げた。
「光の女神ファシエルよ……傷つきし者を、癒したまえ」
すると、彼女の手から淡い光が流れ出し、ロウの身体へ染み込んだ。
温かいものが内側から沁みる。裂けた皮膚の端が近づき、血の味が薄れていく。
「大丈夫……?」
リナは、囁くように問いかけた。
「ああ。慣れてるからな」
舌に残った酸を水で流すみたいに、ロウは短く答えた。
リナは眉根を寄せ、それでも努めて明るい声を作る。
「ロウが役に立ってることは、ガリウスもわかってるはずだから。索敵、荷物持ち、他にもパーティを支えてくれてるって」
「だったら、追放なんてしないだろ」
「……でも、これでもうロウは自由だから」
言葉が焚き火の上で弾けて、すぐに冷えて落ちる。気まずい沈黙が、ふたりの間に薄い膜のように張り付いた。
ロウは視線をずらし、焚き火の向こうにぷいと横を向くプチを見た。小さな鼻先が、まだ怒りで震えている。
(……悪い。お前まで巻き込みたくないんだ)
悔しさは熱ではなく、鈍い重りになって沈んでいく。
Sランクパーティー〝マッドドッグ〟におけるロウの役割は、単純明快だ。荷物持ち、火起こし、野営の設営、道具の手入れから交渉など。それに加えて、プチのスキル〈索敵〉で危険を先読みし、最短のルートを拾うこと。所詮、完全なる裏方作業だ。
ロウはテイマーでありながら、戦闘用の従魔を一体も使役できなかった。竜族を名乗るのも憚られるプチドラゴン……それが、ロウの唯一の従魔だ。
ガリウスが気に入らないのは、結局その一点に尽きる。
今日の昼もそうだ。あと一歩、ミノタウロス・ロードの討伐は叶わなかった。
サムソンは重い戦斧を軽々と振り回し敵を追い詰め、シーラが炎の矢を雨のように降らせた。リナは傷を癒して強化魔法で味方を支援し、剣士ガリウスが様々な剣技やスキルで敵を突破。あと一歩のところまで追い詰めた。
けれど……ミノタウロス・ロードには、逃げられてしまった。部下を犠牲にして、逃げ出したのだ。
もちろん、プチの〈索敵〉でミノタウロス・ロードの気配は追った。だが、ここ〝黒の森〟は奴らの庭。いろいろな抜け道を使われ、結局見失ってしまった。
その怒りと不満を、ガリウスは……誰かにぶつけないではいられなかった。
その対象が、ロウだ。こうして討伐に失敗したり、依頼が上手くいかなくなると、ガリウスはいつもロウに八つ当たりした。
「……もし傷が痛んだら言ってね」
治療を終えると、リナは手を引き、気まずそうな笑みを浮かべた。そして、ロウから目を逸らして……テントの方へと向かっていく。
焚き火の影で、その様子を眺めていたサムソンが「うへぇ」と間の抜けた声を漏らし、斧の柄に顎を乗せた。シーラは無言で横目でテントを見て、失笑を浮かべていた。
「タダ働きになったってのに、今夜も楽しむつもりなのかしらね?」
「タダ働きになったから、せめて楽しみたいんじゃねーの?」
サムソンが応えると、シーラがげんなりとした。
「あいつらが使った後のテントで寝たくないんだけど。なんか臭いそうだし」
「おーおー。怖ぇ怖ぇ。女の嫉妬は怖ぇなぁ」
「はっ? 殺されたいの?」
サムソンの軽口に、シーラが苛立ちを見せた。
言葉の刃が焚き火の赤に照らされ、互いの顔をちらつかせる。
「……ああ、もう。ほんとにうざい」
シーラのその棘は、ロウにも向いていた。
彼女がガリウスを好いていたのは、皆が知っている。そこへロウと一緒にリナが加入し、ガリウスはリナを選んだ。
だからシーラは、ロウとリナを内心で──いや、隠そうともしない──嫌っていた。
(そんなの、俺に言われても困る)
ロウはちらりとシーラを見てから、心の中でそう不満を漏らす。
もちろん、口には出さない。余計な一言で燃え移る火種を、幾度も見てきたからだ。
「……何こっち見てんのよ、この無能。お前なんかが来るからおかしくなったんじゃない!」
黙っていることすら、シーラの神経に触れたのだろう。彼女が、唐突に毒を吐いた。
その声に反応して、プチが低く唸る。
小さな喉から搾り出される音はか細いのに、ロウにとっては大太鼓よりも大きかった。
(やめろ。やめろ、プチ。頼む)
ロウは手のひらを下に向けて見せる。抑えろ、という合図だ。
だがプチは、止まらない。短い角をわずかに立て、鱗をさざめかせる。度重なる主を侮辱する声に、従魔もいい加減耐えられなくなってしまたのだ。
そんなプチの態度が、さらにシーラの苛立ちに火を注いだ。
「は? プチドラゴンの分際で、何あたしに盾突いてんの?」
「……プチ、やめろ」
遂に、ロウは声に出した。
自分でも少し震えているのが分かる。
プチは振り返り、ロウを見た。ちいさな舌で、焦ったように鼻先を舐める。しかし──すぐに敵意を込めた視線を、シーラに送った。
その一瞬を、シーラは赦さなかった。口角が鋭く吊り上がり、手のひらに魔力が収束する。
「いい度胸じゃない。殺してやるわよ、このケダモノ」
「おいシーラ、やめ──」
「根源の理、無窮の力……死ね!」
弾ける音。空気が熱に歪み、焚き火の赤よりも白い光が一瞬だけ視界を焼いた。シーラの手のひらから放たれた〈火球〉が、一直線にプチを襲う。
何も、反応できなかった。
止める間もなかった。
そんな一瞬の間にその小さな身体が光に飲み込まれて──鳴き声が、喉から零れる前に途絶えた。
爆ぜた熱が、ロウの頬を舐める。焦げた臭い、翼と鱗と肉が焼ける嫌な臭いが、鼻の中で膨れ上がった。
すぐに絶望が、降り掛かってくる。
「う、うわあああああ! プチ! プチぃぃぃぃ!」
必死に呼び掛けるが、プチはぴくりとも動かなかった。
当たり前だ。Sランクパーティーの魔導師の攻撃を受けて、プチドラゴンが耐えられるわけがない。
「何でッ……何でこんなことするんだよ! プチは何もしてないだろ!?」
声が、自分のものじゃないみたいに割れていた。喉が裂け、肺が縮み、目の中に火の粉が入ったように熱い。
シーラは鼻息を荒くしてロウを見下ろした。
「うっさいわね! あんたもこのケダモノと一緒に燃やすわよ!」
それだけ吐き捨てると、彼女は鼻息荒く踵を返した。足音が土を踏みにじり、闇の中へ消える。
ロウは膝から崩れ落ち、まだ燻っているプチのもとへ這い寄った。
小さな身体は、あり得ないほど軽くなっていた。抱き上げると、腕の中で、壊れ物のように形を変えそうだ。
鱗は煤に覆われ、ところどころ剥がれていた。短い角まで黒く、灰がまつげに張り付いている。
(ごめん……ごめん、プチ)
声にならない声が、胸の中で崩れる。
守る、と決めていた。もうリナがああなってしまった以上、せめてこいつだけは守る、と。
それなのに……それなのに!
「ロウ……お前の過ちはな。このパーティーに居座ったことだ」
サムソンが、斧の柄を肩に担いで近づいてきた。
ロウと腕の中の黒い小さな塊を見て、酷くつまらなそうに息を吐く。
「恋人を奪われた時点で、お前は冒険者なんかやめてとっとと故郷に帰るべきだったんだよ。だったら、こいつは死ななかったし、お前も毎日殴られずに済んだ。そうだろ?」
サムソンの言葉は、焚き火の煙より冷たく、そして重かった。
返す言葉が見つからない。彼の言葉は、全て正しかった。ただリナを諦められなくて、リナがただの気の迷いで自分のもとに戻ってきてくれると思って、耐えていた。
でも……その結果がこれだ。
サムソンはそれ以上何も言わず、肩を竦めてロウに背を向けた。
そして、荒い足取りで立ち去ったシーラに駆け寄り、へつらうように声をかけながらその後を追っていった。
彼女の機嫌を取ろうと、何やら軽口を叩きながら闇の中へ消えていく。
テントの幕が、かすかに揺れた。
騒ぎを聞いたのだろう。半分服がはだけ、肩口に指の跡のような赤みを残したリナが、テントの中からこちらを見ていた。状況に気付き、慌てて服を直してこちらに出てこようとしたが──幕の内側から伸びたガリウスの手が、彼女の肩を掴む。
リナの顔が一瞬だけ歪んで、それから消えた。幕は容赦なく引き戻され、ばさり、と乾いた音を立てる。
テントの内側から笑い声が漏れ、すぐに闇に吸い込まれていった。
「プチ……ごめん。本当に……ごめん」
ロウは、プチを抱き締める腕にさらに力を込めた。
焦げた匂いが、自身の衣にも染みついていく。涙が頬を伝い、煤と混ざって黒い筋になった。
焚き火の火は、もうあまり大きくない。薪を足せばいいのに、手は動かなかった。森の暗さは、焚き火の輪の外側で何かが息を潜めているみたいに濃く、冷たい。
胸の奥で、何かが静かに千切れ、沈んでいった。
夜風が吹き、灰が舞い、プチの短い睫毛の上にもそっと降り積もる。
ロウは、ただその小さな遺体を抱き締め、震えながら、泣いた。
それ以外にできることは、ひとつもなかったから。
恋人も、相棒も……全て、失った。