ザルガンドロ伯の憂鬱
彼にはもう一つの懸念がある。当事者である娘、カレナーティアのことである。
カレナーティアには、考えられる限りの教育を与えてきた。
帝国では、女性は男の所有物であるかのような扱いを受けるし、それが当然の社会である。ザルガンドロ伯自身にも、妻や娘をそのように扱っている面がある。カレナーティアの縁組を巡って何年も苦悩し続けながら、カレナーティア本人の意思を確かめようともしなかったことからも、ザルガンドロ伯の考え方は窺える。
娘の縁組先の決定権は家長たる父のものであって、娘には意見や希望を言う権利はない。それが帝国の常識であり、ザルガンドロ伯はその是非を考えたこともない。「太陽がなぜ東から上って西に沈むのか」に疑問を持つのは、「天文学者」と呼ばれる一部の変人(ザルガンドロ伯視点)に限られる。ほとんどの人間は、太陽とはそういうものだとしか考えていない。単に、「そういう世界である」と認識しているだけである。ザルガンドロ伯が特別頑迷だった訳ではない。
「そういう世界」でカレナーティアがどう生きるべきか。貴族の娘としてどう生きるべきか。世界と社会のありようを認識し、理解し、その中で正しく振る舞い、自身にとってより有利な環境を作り出す力が必要だ。
女は男のように領地を所有することも家臣を得ることもできず、重い剣を振るうこともできない。その中では、自分の知識と知恵だけが身を守る武器となる。愚かでは男に必要とされない。男に必要とされない女は、この帝国では生きていけない。「そういう世界」なのだから仕方がない。
世界のありようを恨んで1人惨めに死んでいくのも一つの生き方だが、カレナーティアには「そういう世界」であることを受け入れた上で賢く生き抜いてほしい。ザルガンドロ伯はそう願って、多くの貴族と同じく「良き妻、良き母」とすべく教育した。ザルガンドロ伯は自家の安泰とカレナーティアの幸福を心から願っていた。しかしカレナーティアの希望を聞くべきであるとは全く思い付かなかった。
今日もまた、「皇帝につくかワルヴァソン公につくか」で1日が終わった。家臣たちとも話し合いを続けてきたが、一向に結論は出なかった。後世、「議論が長引いて結論が出ないこと」を「ザルガンドロ評定」と表現することになろうとは、彼らは知る由もない。
「父上、お疲れのようですね」
憔悴し切ってぶどう酒をあおるザルガンドロ伯に、カレナーティアが声を掛けた。父の苦悩が自分に端を発しているだけに、カレナーティアにとっても人ごとではなかった。
「カレナーティアが気にすることではない。大人の責任である」とザルガンドロ伯は力なく笑った。正解など存在しないのだ。単に「選ぶ」勇気がないだけであった。こうして今日も、カレナーティアの意思を確認することもなく、一人で苦悩していた。
ザルガンドロ伯の継承者である長子ザットゾットはワルヴァソン公派であった。自分がザルガンドロ伯位を継いだとき、すぐ隣に強大な敵がいるのではたまらない。近い相手と結ぶべきである、と彼は主張した。そう、ザルガンドロ伯はザットゾットの意見は聞いたのだ。カレナーティアには意見を求めたこともないというのに。
ザットゾットは凡庸だ。といっても無能ではないので、大過なくザルガンドロ伯領を治められるだろう。だがそれだけだ。凡庸な自分によく似ている。
カレナーティアは違う。頭が良く、素晴らしい知性と教養を身に付けた。幼い頃は知恵が暴走気味だったが、長ずるに従って人の感情に寄り添う感性も培われた。
カレナーティアには、ファルカーメイス家の将来を賭ける価値がある。
だが……。