二大勢力の重圧
ザルガンドロ伯爵令嬢を巡っては、皇帝家のティーレントゥム家と帝国最大諸侯のカーンロンド家が熾烈な獲得競争を何年も繰り広げてきた。政争に巻き込まれたくないザルガンドロ伯としてはこの2家は避けたかったが、他の諸侯はティーレントゥム家とカーンロンド家に睨まれるのを恐れてザルガンドロ伯との縁組には乗ってこなかった。他家にとってザルガンドロ伯領は火中の栗になっていたのだ。結果として、ザルガンドロ伯は帝国二大勢力のどちらかを選ぶか、娘を一生独身のままにするか、しか選択肢がなくなってしまった。
こうなってみると、ザルガンドロ伯領を獲得したのはファルカーメイス家にとって幸運だったのか不運だったのか。
大公ロレンフスとの具体的な縁談交渉に要したのは2年に過ぎないが、ティーレントゥム家とカーンロンド家はザルガンドロ伯ヴァル・ファルカーメイス・スポンゾットに娘が生まれたときから縁組を迫っており、ザルガンドロ伯は十数年にわたって重圧を感じていた。
ザルガンドロ伯は、他にもラールゾン伯位を持っている。ファルカーメイス家がもともと保持しており、ペルンロフトが獲得しようとしていた爵位だ。ザルガンドロ伯位を失っても、ラールゾン伯位は残る。所領は半減するが、それでも上級貴族として生きていける。ザルガンドロ伯は、いっそのことザルガンドロ伯位を帝国に返上しようとまで思い詰めていた。だが、それではザルガンドロ伯領は帝国直轄領となり、実質的には皇帝のものになってしまう。ワルヴァソン公に「まさか返上するなどと考えておらぬだろうな」と圧力をかけられ、これも解決策にはならなかった。
ワルヴァソン公は、カレナーティアとプエリーエン伯ゾルエンエルの縁組を迫っていた。プエリーエン伯はワルヴァソン公の弟グルナーゼ公の嫡男で、ワルヴァソン公の甥である。今は儀礼称号を名乗っているが、いずれグルナーゼ公を継承することになる。
これに対してティーレントゥム家は、カレナーティアの婚姻相手として大公ロレンフスを立ててきた。こうしてザルガンドロ伯はいよいよ追い詰められた。
「よりによって帝位継承者とは……」
現在は帝国で2番目の地位にあり、将来は頂点に立つと予想される人物。ロレンフスに匹敵し得る男など帝国には存在しない。そして、これを断るということはもはや帝室との決定的な断絶を意味する。そのとき、帝室からどのような扱いを受けることになるかと考えただけで食が細る。夜も眠れない。
だが、この縁組を承諾した場合、得るものは多い。ファルカーメイス家の家格は上昇し、優遇されることは間違いない。それはさまざまな場面で有利に働く。娘がロレンフスの子を産めば、ザルガンドロ伯はロレンフスの次の皇帝の祖父となる。「ファルカーメイスの血が流れる皇帝」という想像も、ザルガンドロ伯の胸を熱くさせなかったわけがない。
そんなとき、ザルガンドロ伯の城館を突然訪問してきたのがワルヴァソン公だった。
「ザルガンドロ伯、久しいな。帝都に行くついでに寄らせてもらった」と言いつつ、ワルヴァソン公はザルガンドロ伯の手を取ってニヤリと笑った。
訪問するなら、通常は数日前に先触れを出す。先触れも出さずに突然現れたのはザルガンドロ伯を驚かせるためであり、ザルガンドロ伯領の城館に居ることも知っていた、つまりザルガンドロ伯の動きを把握しているということでもある。笑顔で行われた、あからさまな恫喝である。「皇帝の外戚」という想像で浮かれているザルガンドロ伯の頭に冷や水をぶちまけに来たのだ。
ワルヴァソン公の意図を一瞬で理解し、ザルガンドロ伯は背中に嫌な汗をかいた。必死で笑顔を取り繕うが、誰の目にもそれは成功していなかった。そして新たな伝説が生まれた。
「ワルヴァソン公にほほ笑みかけられる方が恐ろしい」
ワルヴァソン公も、皇帝がロレンフスを立ててくるとは思っていなかった。この切り札に対抗する手札はない。であれば、地の利を生かすしかない。ザルガンドロ伯に思い知らせるしかない。「お前のすぐ隣に居るのは私だぞ」と。
帝都とザルガンドロ伯領の間には10日以上もかかる距離がある。一方、ワルヴァソン公領の中心都市デルゲゾルムからザルガンドロ伯の城館までの距離は1日。「ザルガンドロ伯が頼るべきは誰なのか、とくと考えよ」と、ワルヴァソン公は笑顔だけで訴えかける。ザルガンドロ伯は脂汗をかき続けた。
皇帝につくかワルヴァソン公につくか。どちらを選んでも、もう一方に睨まれることは確定している。ザルガンドロ伯はこのような状態で1年間を過ごし、気力体力ともに憔悴しきっていた。