ザルガンドロ伯領
本作は『居眠り卿と木漏れ日の姫』およびその続編の登場人物を巡る番外編です。
世界観や人名のルールなどは『居眠り卿とナルファスト継承戦争』をご参照ください。
帝国歴223年6月、大公ロレンフスとザルガンドロ伯爵令嬢カレナーティアの婚約が発表された。
この婚姻交渉は2年にも及んだ。ある者は長きにわたった交渉の重圧から解放されたことを喜び、ある者はこの婚約ひいては婚姻がもたらす重圧を思って天を仰いだ。
皇帝の長子たる大公の相手ともなれば、ゆくゆくは皇妃になる可能性が極めて高い。ゆえに、伯爵家から大公妃が選ばれたことを不審に思う者も多かった。枢機侯や公爵の令嬢でなければつり合いが取れないと思うのが自然である。
ただし、ザルガンドロ伯領の場所を地図で確認すると、皇帝の意図が一目で分かる。あからさま過ぎて、戦慄を覚えることだろう。
ザルガンドロ伯領はワルヴァソン公国に隣接している。接しているというより、「食い込んでいる」と表現した方が実情に近い。皇帝から見れば、ザルガンドロ伯領を得れば最大諸侯のワルヴァソン公国の喉元に短剣を突き付けたような状態になるのだ。
ワルヴァソン公が帝都に上る際は、ザルガンドロ伯領を通るのが最短経路になる。ザルガンドロ伯領を通らなくても帝都には行けるが、大幅に遠回りになる。
平時は問題ない。最短経路を友好的に通り抜ければよい。だが、ワルヴァソン公が皇帝と敵対することになると事態は一変する。ワルヴァソン公は軍事的な自由度を大幅に奪われるだろう。ワルヴァソン公が兵を動かす際はザルガンドロ伯領が障壁になり、さらには皇帝軍の前線基地あるいは策源地にもなり得る。「敵対することは許さぬ」という、皇帝の無言の圧力だった。
元々、ザルガンドロ伯はワルヴァソン公が保有する爵位の一つだった。つまりザルガンドロ伯領はワルヴァソン公の領地だったのだ。だが、先々代のワルヴァソン公インゼルロフト2世が次子ペルンロフトにザルガンドロ伯領を与えたことで事態が一変した。
なぜ戦略的な要衝をワルヴァソン公自ら手放したのか。それは今となっては知るよしもない。結果論としては、これはインゼルロフト2世最大の失敗であった。現ワルヴァソン公インゼルロフト4世は、今でも祖父の失策を思い出しては「あの愚か者のジジイ」と毒づいて、こめかみに青筋を浮かび上がらせている。
なぜ失敗だったのか。ザルガンドロ伯となったペルンロフトは、男女2人の子をファルカーメイス家と二重に縁組させた。ファルカーメイス家の所領をこの婚姻によって得るつもりだったのだが、ペルンロフトにとっては、そしてカーンロンド家にとっては、これが裏目に出た。
ペルンロフトが死に、さらにペルンロフトの息子がペルンロフトの後を追うように病死してしまったのだ。ペルンロフトの息子は子をなす前に死んだため、ザルガンドロ伯領に残ったのはペルンロフトの娘とファルカーメイス家の男子ということになり、ザルガンドロ伯位はファルカーメイス家の男子の子が継承したのである。
他家の所領を武力で奪うことは、帝国法によって固く禁じられている。さまざまな根回しや皇帝および諸侯との関係性などによって、武力を行使してもうやむやにされることは多々ある。しかし、宮廷工作をしくじれば帝国による徹底した討伐を受けることになるため、やはり武力を用いるのは得策ではない。そこで各家とも婚姻政策にいそしむことになる。
だが、婚姻を通じた所領の拡大は一種の賭けであり、誰が長生きするかが正否を分ける。長命な家系であるカーンロンド家にとっては分が悪くない賭けになるはずだったが、ペルンロフトには運がなかった。