ペトリコール
彼女がそこにいるのは決まって水曜日だった。
僕は学校終わりの道すがら、毎日その河川敷を通って予備校に向かうのが日課だった。向かう先はともかく、川面が夕暮れに照らされて、辺り一面をオレンジ色に彩る景色を横目に自転車を走らせるのは、そんなに嫌いではなかった。
ただ思い返してみると、彼女を見かける日はそんな夕焼けも厚い雲に覆われて、今にも雨が降り出しそうな空模様の日が多かったように思う。
いつも「ペトリコール」の匂いがしていたから。
最初に彼女を見かけたのは、僕が高2だった頃の秋くらいだと思う。正確な日付まではさすがに覚えていないけれど、ぽつりぽつりと小さな雨粒が空から滑り落ち始めていたことは覚えている。僕はその日、たまたま傘を持っていなかった。
朝の天気予報では降水確率10%だったはずなのに、昇降口を出る際に天を見上げると、機嫌を損ねた赤ん坊のように今にも泣き出しそうな曇天だった。
大きくため息を吐きながら自転車を漕ぎ出してまもなく、タイミングを見計らったかのように小さな雨粒が頬を掠めるようになった。
早くしないと本降りになるかもしれない。
気持ちペダルを回す足に力を込め、いつものようにその河川敷を通り過ぎようとした時――どこまでも透き通りそうな凛とした歌声が僕の耳に届いた。
自転車を止めて道路から草の茂る河川敷を見下ろすと、長い髪の少女が一人佇んでいた。見覚えのないセーラー服は、隣接する市内の高校のものだろうか。
背格好からは僕と同年代に見えたが、それも本当の所は分からない。
歌っている曲には聞き覚えがあった。90年代に流行ったJポップだ。
彼女の声に耳を傾けている何分かの間、雨足は強まらなかったが特に弱くもならなかった。ぽつりぽつりと宙を舞う雨粒は、まるで彼女の歌声に合わせてリズムを刻んでいるように思えた。もちろんそんなのは僕の錯覚に過ぎない。
雨粒を気に留める様子もなく曲を歌い終えると、不意に彼女が振り返った。
気の強さを表すように少しだけつり上がった目が、睨むように僕を見る。
盗み聞きしたつもりはないけれど、何となく居心地の悪さを感じた僕は、彼女から目を逸らして再び自転車のペダルを踏み込んだ。
こんなところで立ち止まっている場合ではなかった。これ以上雨足が強まっても、僕にはそれを遮る術がない。濡れネズミになるより他ないのだ。
後になって気付いたが、彼女も傘を持っていなかった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
初めて彼女を見かけてから三ヶ月ほど後のことだ。
今年度のセンター試験も終わり、いよいよ受験シーズンが本格化し始めていた。それは僕の大学入試のタイムリミットまで残り一年という意味でもある。
その日はとりわけ寒い一日で、朝から氷点下と今年一番の冷え込みを記録したかと思えば、日中も時折氷雨がちらつくほど底冷えしていた。
僕は相変わらず学校が終わると、河川敷に向かって自転車を走らせた。特に意味はないけれど、何となく足を向けてしまうのはなぜなのか自分でも分からなかった。
ところが、水曜日なのに彼女の歌声が聞こえて来なかった。
僕は不思議に思いながら自転車を止めて、いつものように河川敷に視線を落とす。歌ってこそいなかったが、彼女は変わらずそこにいた。
河川敷に降りる階段の縁に腰を下ろし、何事か考えているような素振りだった。後ろ姿から表情までは窺えない。
それまで話し掛けたことは一度もなかったのだけれど、彼女の声を聞けないのが少しばかり残念に思ったのだろうか、気付いた時には話し掛けていた。
「今日は歌わないの?」
僕の問い掛けを彼女は予期していたかのように答える。
「……あたしの声は、もう必要ないんだってさ」
「それ、どういうこと?」
「あたし、ガールズバンド組んでてさ。ボーカルやってたんだけど、歌の方向性が合わないからって、クビになっちゃった。もう別の子をボーカルに引き抜いたからって……」
寒さに凍えているのか、別の理由で震えているのか僕には判断がつかなかったけれど、とにかく彼女の肩は小刻みに震えていた。
重苦しい沈黙をかき消したくて、僕はそっと自分のコートを、彼女のいつにも増して小さな背中に掛けた。
「だったら、ソロでやればいい。歌が好きなんだろ?」
「……だけど、そんなに簡単じゃない。今は何のために歌えばいいか、分かんない……」
「じゃあ、俺に聴かせてくれないか。君の歌声」
彼女は驚いたように顔を上げて、僕の目を覗き込んだ。
「どうして、あなたに?」
「俺が聴きたいから。……それじゃあ、ダメか?」
「……変わってるね、あなた」
彼女の目尻に浮かんだものが涙だったのか、雨粒だったのか、僕には分からなかった。
ただ一つ確かなのは、それが僕の初めて見る彼女の笑顔だった、ということだ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
それから一年の月日が流れた。
大学入試が本格化し、学校も予備校も自由登校になっていた。つまり、僕がその河川敷を通る必然的な理由もなくなったということだ。
僕と彼女は相変わらず何かを約束することもなく、お互いのことを何も知らないまま、毎週水曜日の夕方に河川敷で顔を合わせ、彼女の歌に耳を傾けた。
ただ、それだけの関係だった。
それだけの関係が、終わりを告げようとしていた。
その日は本当に珍しいことに、雲ひとつない快晴だった。
「俺さ、もうここを通らないんだ」
「……えっ?」
キラキラと水面に反射する夕焼けに染まった彼女の横顔が固まる。
「俺、もうすぐ高校を卒業する。大学に入ったら、ここを通る理由もなくなるんだ。ライフスタイルが変われば、毎週水曜の夕方、ここに来られなくなる」
「そっか、そうなんだ。そうだよね……」
言い訳染みてしまった僕の言葉に、彼女は自分を納得させるように呟いた。
「ありがとう、あたしの歌を聴いてくれて」
「俺が聴きたいって言ったんじゃないか」
「それでもさ。あの日、あたしの声を聴きたいって言ってくれて、嬉しかったんだ」
彼女がはにかむ横で、僕は心臓を摘まれたような面持ちだった。
何か言いたいことがあるような気がした。言わなくてはいけないことがあるような気がするのに、気だけが急くばかりで、僕の口からは何も言葉が出てこなかった。
「もしさ、あたしが本当に歌手になれたら。また、あたしの歌を聴きに来てくれる?」
「……当たり前だ。応援してる、必ず聴きに行く」
「うん。……約束だからね?」
それが彼女と交わした最後の会話になった。
実は何度か思い出したように河川敷に足を運んでみたことがあるのだけれど、彼女の姿は一度も見つからなかった。それからの彼女を、僕は何も知らなかった。
いや、そもそも僕は根本的に、彼女のことを何も知らなかったのだ。連絡先も、何歳なのかも、本当に隣の市の高校に通っているのかも、名前すらも。
そんな馬鹿なことがあるのかよ、と自分でも思う。しかし、そんな当たり前の事実に気が付いたのは、僕たちの不思議な関係が終わりを告げた後だった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
その日も水曜日だった。
大きな雨粒が窓を打ち付ける、強い雨が降る日の夜のことだ。
とある歌番組を見るともなしに眺めていた時、とんでもない衝撃が僕を襲った。
艶のある黒髪ロングと、気の強そうな少しつり上がった目。どこかで見たことがある顔だな、という僕の第一印象は、彼女の歌声を聴いて確信へ変わった。
彼女だ、彼女に間違いない――。
初めて出会った頃から、10年の歳月が流れていた。
彼女は本当に、歌手になったのだ。
何とかして連絡を取りたいと僕は思ったのだけれど、どのように連絡を取れば良いのか皆目検討もつかず、ひとしきり途方に暮れた。
考えに考えてようやく思い付いたのが、所属事務所に手紙を送る、という方法だった。今どき古風なやり方だが、これくらいしか連絡をとる術がない。
該当の歌番組の出演者リストから彼女の名前を見つけ、さらに彼女の名前を頼りに所属事務所を検索した。ファンレターなんて生まれて一度も書いたことがなかったから、念には念を入れてファンレターの書き方までインターネットで調べた。
当たり前だけれど、どこの馬の骨とも分からぬ男から届いたファンレターなぞ、本人に届く前にマネージャーの検閲を受けて破棄されてしまうかもしれない。
そうならないように、できるだけ当たり障りのないシンプルな内容にまとめた。電話番号やLINEのIDも書いていないし、返事がほしいというようなことも書かなかった。客観的に見て今の僕は彼女にとって、本当にただの一ファンでしかない。
そもそも、彼女が僕のことを覚えているのかどうかも分からない。
僕が手紙を投函してからひと月ほど経った頃、見慣れない封筒がポストに届いていた。見たことのない筆跡。裏返すと、彼女の名前が書かれていた。
逸る気持ちを抑えて手紙を開けてみると、白い便箋が一枚と、何かのチケットと思しき長方形の紙片が入っていた。便箋の方に視線を走らせる。
“お手紙ありがとう。あたしを見つけてくれてありがとう。
今度ワンマンライブをやります。よかったら聴きに来て下さい。”
彼女は僕との約束を守ってくれたのだ。
今度は僕が彼女の約束を守る番だった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
ライブ当日は、初めて彼女を見掛けた日のように、ぽつぽつと霧雨の滴る日だった。
ここだけの話だが、もしかしたら彼女自身よりも僕の方が緊張していたんじゃないかと思えるほどだったのだけれど、端的に言って最高の時間になった。
彼女が紡ぎ出す全身全霊の歌声は、聴いている人の魂すらも揺るがせるのではないかと感じるくらい心がこもっていたし、何よりも当時のままだった。
閉演のアナウンスを聞き終えて僕が席を立とうとしたところで、スーツを来たスタッフと思しき男性に呼び止められた。
何か目をつけられるようなことでもしただろうか、と一瞬不安になったが、案内されるがまま幾つかのドアを潜り抜けると、彼女の名前が書かれた控室の前に辿り着いた。この男性はマネージャーだったのだ。
「彼女がお待ちです。手短にお願いいたします」
彼はそう言いながら、手元のカードキーでドアを開けてくれた。
「久しぶり。元気してた?」
「ああ……驚いた。本当に歌手になれたんだな、おめでとう」
あの頃のようにこちらを振り返った彼女は、朗らかに笑っていた。
「うん、ありがと。あんまり変わってないね」
「お互い様だと思うけどな。君の歌声も、あの日のままだったよ」
僕がそう口にすると、彼女の表情が曇る。
「ん……あなたが来てくれるかどうかは賭けだったけど、間に合ってよかった。まだ誰にも言ってないんだけど、あたしね。……このライブが最後のライブなの」
彼女が何を言っているのか、僕には分からなかった。
「……喉の病気なんだ。来月手術することになってる」
「そんな……治るんだよな? また歌えるようになるんだよな?」
いつか見た日のように、彼女の目尻に涙がにじむ。
「そんなの、あたしにも分かんないよ。だから最後のライブなんだ」
咄嗟に言葉が出ない。けれど、あの日言えなかったことを言わなくてはならなかった。
「あなたが聴きたいって言ってくれた私の声は、もう……」
「俺は、俺は……君の声が好きだし、君の歌う曲が好きだった。それはあの頃から変わらない。だけど、ひとつだけ変わったことがある。たとえこれから先、君の声が聞けなくなったとしても、俺は……君のことが好きだ。ずっと傍にいたい」
彼女は口元を押さえ、声にならない声で泣いている。
そして、どこからか「ペトリコール」の匂いがした。