02 兄がいなくなりました1
帝国の北西にある肥沃な大地に、リーゼルの父シャーフ伯爵が管理する領地はあった。
野菜畑と牧草地が広がるのどかな田舎。たまに肉食獣人の山賊が悪さをする以外は、至って平和な領地だ。
その伯爵家では今、領地始まって以来の大問題が起きていた。
「旦那様! 領地中を探させておりますが、やはり坊ちゃまは見当たりません!」
執事の報告を受けたリーゼルの父は、執務机に両肘をつきながら頭を抱えた。
父は羊獣人。不安が募るとすぐに羊の耳が出現してしまう。その耳が不安を表現するように、くたっと垂れている。
「なんてことだ……。あいつは本当に逃亡してしまったのか……」
「あなた、どうしましょう……」
父の隣に寄り添っているのは、リーゼルの母。彼女はうさぎ獣人。寂しがりの母はいつも、父の隣を離れない。この緊急事態に不安を抱えているのか、ぷるぷると震えている。
そんな両親を見つめながら、リーゼル自身も困っていた。
父に似たリーゼルは、羊獣人として生まれた。
白に近いクリーム色の髪は、腰の辺りでふんわりカールしており、頭の両サイドの髪はくせ毛でいつもくるっと丸まっている。まるで羊の角のように。これも遺伝で、父の頭にも同じくせ毛がある。
瞳は母に似て赤い。背丈は肉食獣人に比べると低いが、草食獣人の中では平均値。
性格は、羊獣人であることと田舎領地で育ったこともあり、のんびりと穏やかだ。
そんな彼女には、双子の兄がいる。
兄の名前はリーンハルト。彼もリーゼルと同じく羊獣人として生まれた。
性格は母に非常に似ている。家族の中で誰よりも臆病な彼は、いつも妹のリーゼルの陰に隠れているような子だった。
そんな兄を惜しみなく可愛がっていたリーゼルだったが、その過保護さが仇となってしまったのか。十八歳の成人を迎えた昨夜、兄はとんでもないことをしでかしてしまったのだ。
この国では、貴族の後継者は成人してから三年間、皇宮にて官吏として働く決まりがある。
シャーフ伯爵家の跡取りであるリーンハルトも当然、首都へ行き皇宮で働くはずだった。
しかしこの国の皇帝は、肉食獣人である狼。皇帝が怖いリーンハルトは、昨夜のうちにどこかへ逃亡してしまったらしい。
(私が甘やかしすぎてしまったのかしら……)
今朝は、兄の逃亡を知ってから、リーゼルはずっと罪悪感でいっぱいだ。
それを両親に話したところ、「リーゼルだけのせいではない」と慰めてくれた。
実際のところ、リーンハルトに甘かったのは、リーゼルだけではない。両親も、使用人も、領民たちも、皆がリーンハルトに甘かった。
兄は臆病な性格に加えて、いつもリーゼルと一緒にいたせいか、穏やかで淑やかさを兼ね備えていた。
幼い頃は女の子の双子かと、よく間違えられたくらいで。今でこそリーンハルトのほうが背は少し高いが、気を抜くと可愛らしさまで負けてしまいそう。そんな危機感すら覚えさせられる雰囲気を、兄は持っていた。
そんな兄が、逃亡などという大それた行動を取ったことに、皆が驚いた。
どこかで肉食獣人に襲われていたらどうしよう。寂しくて泣いていないだろうか。
家門に迷惑をかけている怒りよりも、つい心配が先に出てしまう。
考えれば考えるほど不安は尽きないが、伯爵家にはもう一つ、重大な心配事があった。
それは、後継者を皇宮へ送らねばならないということ。
この国の貴族に課せられた責務であり、守らなければ謀反を企てようとしていると捉えられかねない。
「リーンハルトのことは根気強く探すにしても、まずは皇宮へどう説明するかが急務だ……」
重い沈黙の末に、父はそう切り出した。
しかし打開策を考えたわけではなさそうだ。相変わらず羊の耳が不安げに垂れている。
「下手な説明をしてしまえば、皇帝陛下のお怒りを買ってしまうわ……。かと言って、リーゼルを後継者として変更することもできないし……」
母の案が実現できれば、どれほど良かっただろうか。
可愛いリーンハルトのためならば、リーゼルは後継者を引き受けることもいとわない。
けれどこの国の法律では、爵位は男性しか継げないことになっている。
こればかりは、代わってやりたくても無理だ。リーゼルが男にでもならない限りは。
「私が男性に生まれていれば……」
そしてリーンハルトが女に生まれてれば。兄はもっと人生を生きやすかっただろうに。
リーゼルがぼそっとそう呟くと、父は名案を思いついたように羊の耳をぴこっと立てる。
「それだ……。リーゼルが皇宮へ行くのはどうだろうか」
「私が、ですか?」
驚いたリーゼルが目を見開いている間にも、父は確信に満ちた顔に変わっていく。
「うちは田舎伯爵家だから貴族の顔見知りも少ないし、二人は顔が似ているじゃないか。リーンハルトが見つかるまでの間だけでも、代わりに皇宮へ行ってくれないだろうか」
確かに成人を迎えた今でも、リーゼルとリーンハルトはよく似ている。リーゼルが男性の服装をして髪を束ねればリーンハルトの完成だ。
容姿に関しての不安材料は身長くらいだが、そこは父の言うとおり、双子を見分けられるほど親しい者など首都にはいない。
しかし、働くとなると話は別だ。言葉遣いや言動など、女性だと悟られないように振る舞うのはきっとすごく大変だ。
「私、男性ばかりの中で、上手に立ち回れるか心配ですわ……」
「そうよ、あなた。リーゼルだけに負担をかけるのはかわいそうよ」
「そうだよな……。無理を言ってすまないリーゼル。やはり私が直接、陛下にご説明しにくしかない」
淡い期待を潔く捨てた父は、決意したように真剣な表情を見せる。
「骨だけはっ……。領地に返してもらえるようお願いしてみるよ」
そして言葉を詰まらせながらそう呟くものだから、母の目には涙が浮かび始めた。
「あなたが食べられてしまったら私、悲しくて死んでしまうわ!」
ブラックジョークに聞こえる会話だが、獣人界隈では割とリアルに起こるから笑えない。
(お父様とお母様までいなくなったら、私も生きていけないわ!)
領地でのんびりと育ったリーゼルにとって、皇宮で周りを欺きながら仕事をこなすには、かなりの精神的負担がかかる。
けれど両親の命には代えられないし、下手をしたらこの領地ごと消えてしまうかもしれない。
領主の娘に生まれたからには、それなりの責任を果たす義務がある。
リーゼルは不安な気持ちを押し殺して、決意した。
「お父様、お母様。やはり私が行きますっ」