最期は君と共に
※辰哉目線
「俺も今年で22かぁ…」
そんなことを考えながら、この崖の上で何時間もぼんやりと海を眺めて無意味な休日を消費するのも、もう何年目だろうか。毎度毎度もう行くのはやめよう、行っても何も現実なんか変わらない。そう思うのに、足が勝手に向かっていってしまうのだ。あの崖にーいや、俺が求めてるのはすそんなものじゃない。あの日、あの時、この場所で消え去ったモノの余韻だ。そして無論、本当は崖の上で何も考えず海を眺めているわけではない。ずっと、俺の頭の中を飽和させては、無意識の内に涙を流させる追憶があるのだ。
母親の夜遊びと育児放棄、父親の家出…。
当時高校1年だった俺−村神辰哉は、家では誰にも相手にされないどころか、16歳にして家のことをすべて背負わされた。ストレスですべてが投げやりになり、学校に友達もおらず、成績も悪く先生からも見放されていた。生きるのが全く楽しくなくて、やめてしまいたくて、この世界なんかなくなってしまえと毎日のように思っていた。
「わたしは誰とも打ち解けられない自分が大嫌いで受け入れたくないけど、絵なら自分が心地良いって思える世界を自分の手で作り出せるから…。」どういうわけか放課後の教室で二人きり。気まずさで絵を描いていた彼女に声をかけたときに、言われた言葉だ。こんな抜け殻のようだった俺が、クラスで空気のような存在だった彼女から聞いた初めての言葉がこれだった。彼女は毎日のように放課後の教室で1人、絵を描いていたが、それがなんの絵なのかはよくわからない。彼女曰く、線を重ねていって自分だけの世界を作り出しているとのことらしい。俺はいつの間にか、その手がかきだす世界を横で眺めているときだけは、すべてが輝いて見えた。気づいたら好きになり、高2を目前にして、付き合った。
春休みは毎日のように二人でどこか違う場所まで行っては、何時間も絵を描く姿を見ていたものだ。学校では表情を隠している紗季が、学校の外で俺と一緒の時は生き生きとしていて、屈託のない笑顔を浮かべてくれる。それがどうしょうもなく嬉しくて、いつの間にか彼女にだけは心を開けるようになり、何があっても守りたい存在になった。なのに、高2でクラスが別れ、テストやら学校行事やらで忙しくなり、ほとんど会えないまま時間がダラダラと過ぎていった。まるで、俺の生活がまた無彩色に戻ったみたいだ。「まぁ、もとに戻っただけだ」そう自分に言い聞かせるも、どこか心が空っぽになっていく感覚を、無視することができず、俺は頭を垂れた。
そんな中、その日は突然訪れた。午前1時。無の境地と化した俺の家で、突然スマホがバイブし、俺は飛び上がりそうになりつつ、着信主を確認した。紗季だ。俺も紗季も連絡を取り合う相手などいない。最も、連絡を取る習慣が、俺らにはなかったのだ。−このときの俺は、久々に紗季と話せることが何より嬉しくて、無彩色だった目の前が、一気に色を取り戻したような感覚に浸っていた。早く声が聞きたくて、電話も割れる勢いで、スマホを手に取った。
ー紗季のたった一言で人生が変えられてしまうなんて、知りもせずに。
「ねぇ…辰哉、まだ、起きてる?」
ー紗季の声を聞いた瞬間、俺は凍りついた。久々に聞いたそれは…嗚咽混じりだった。なんと言えばいいのかわからなかったのと、俺の何よりも大切な存在が傷つけられたという事実がショックでスマホを落としそうになった。梅雨の時期にふさわしい、土砂降りの雨の音だけが無音の空間に虚しく鳴り響く。俺のするべきことは、何だ?そうだ、彼女のそばにいることだ!
「あの、辰哉、わたし…」
紗季の言葉も聞かず、俺はすぐ行くから待ってろ!っと叫んで電話を切り、玄関まで突っ走った。今紗季がどこにいるのかも知らないのに。
玄関を勢いよく開け、傘も持たずに走り始めようとするとー見慣れた丸メガネ、無造作に伸ばした雫の滴る長い髪、びしょ濡れの制服ー俺の1番大切な人が、雨と涙で濡たぐちゃぐちゃな顔をして、突っ立っていた。俺を見つけた瞬間、こういったのだ。
「辰哉…わたし、人をしなせちゃった。昨日、放課後の、教室で。」
「わたし、」紗季が、
「人をしなせちゃった。」人を殺した…?
「昨日、放課後の、教室で。」数時間前に?
紗季が何を言っているのか、俺には全く分からなくて、しばらくしゃくりあげる紗季を無言で凝視してしまった。夏だというのに、小さくなって肩を震わせて。
「いつも、わたしに嫌がらせしてきてて、もう限界で、自分を、抑えきれなくて。」
「気づいたら、肩を突き飛ばしてて、倒れたまま動かなくて…。打ちどころが、悪かったんだろうな。」
「みんなの視線が、痛くて、そのまま、逃げ出して…。」
紗季が話している間、俺は意味もわからずにただただ相槌を打っていた。
「おい、一旦落ち着け。いくら頭打ったからって、余程の打ち方しないと、普通は死なねーよ。」
紗季が言ってることをやっと理解した頃、俺は至って冷静になれた。俺の大切な人をいじめたそいつが悪いのに、なんで紗季が罪の意識に苛まれなければいけないのか。どうしようもなく腹がたったが、今は彼女を罪の意識から開放させてあげたい一心で、なだめようとする。が、紗季はどしゃぶりの雨にも負けないんじゃないかってくらいに声をあげて泣き出した。今は何を言っても無理そうだ。そう思った俺は、彼女を家に上がらせ、濡れた制服から俺の服に着替えさせ、俺のベッドに寝かせた。メガネを外した紗季の素顔はどうしょうもなく可愛いかった。そのまま2時間くらい、ベッドの中で震えていた紗季の背中を撫で続けた。「お前は何も悪くないよ。」と、無力な言葉をかけながら。
雨が弱くなり始めた頃、紗季が突然口を開いた。
「ありがとう。最期に会わせてくれて。」
何を言っているのか分からず、紗季の次の言葉を待つ。
「わたしはもう、この世界には居られない。絵の中にも居場所が無い。」
今にもその存在が消えてしまいそうな、弱々しい声で言う紗季。俺は、何故か必死になって言った。
「おい、何を、いってんだよ。俺たちは、何があってもずっと一緒だろ?」
「わたしみたいな犯罪者が会うべき人じゃないんだけどね。辰哉は。でも、最期にどうしても会いたかった。」
そう言ってベッドから起き上がる。
「わたし、どこか遠いところでしんでくるよ。ありがとう辰哉、だいす…」
次の瞬間、俺は全力で紗季の腕を引き、そのまま抱き寄せた。紗季の目が丸くなる。
「頼むから、お願いだから、俺を差し置いて消えないでよ。俺も、一緒に連れてって。」紗季が居なくなると言うことは、また生きていたくない世界で一生ひっそりと生きていなかければならなくなると言うことだ。母親が帰って来ない夜を初めて1人で過ごした小6の時、父親が出ていってしまった中2の時。これまでの絶望をすべてかき集めても足りないくらいだ。もしこの先何年もそんな世界で生きていかなければならないくらいなら、紗季の意思を俺に変えることができないのなら。俺の1番大切な人と共に最後を迎えたかった。誰にも邪魔されずに、二人で楽な世界に行きたかった。
「今日、もう一度日が沈んだら、ここを出て、遠い遠い誰もいない場所まで行こう。」俺と紗季は、この時「永遠の共存」を近いあい、そのまましばらく泣いた。
財布を持って。ナイフを持って。スマホは…迷ったがこの先は俺が唯一連絡を取っていた相手とずっと一緒に居るのだから、必要ないとして、置いていくことにした。
最後の支度が一通り終わると、昨日の夜を寝ずに過ごしたこともあり、そのまま寝てしまった。
ふと目が覚めると、紗季がハサミを手に持ち、髪の毛に入れようとしていた。俺はぎょっとして、ハサミが入る前に紗季の腕をつかんだ。
「おいおい、いくら何でも自分ではできないだろ。俺が切ってやるから、そこ座ってな。」
紗季は素直に応じ、長く無造作に伸ばしてた髪が、短くなっていくのをじっと待っていた。丸メガネに長く伸ばした髪をしていた紗季が、メガネを外したボブヘアの可愛らしい女の子に変わった。その姿を見ていたら、なんだかこの子がこのあとこの世界から姿を消すのが惜しいと思えてしまった。俺と一緒に死ぬのは、もったいないと思った。
「よし、じゃあ、行くか。 人殺しのお前と、ダメ人間の俺だけの最後の旅に。」
俺たちは住み慣れた街を後にした。駅に向かってただ歩いた。ふと横を見ると、紗季が手に何も持っていないのに違和感を感じた。それもそのはず、二人で会うときはいつも絵を描くためのスケッチブックやら筆記用具やらをデカいカバンに入れて持ち歩いていたのだから。
「絵、もう描かないの?」
「うん。わたしにはもう、絵の世界を作り出すことさえできなくなったから。」
意味がよく分からなかったが、この旅の目的を考えたら、まぁそういうことだろう。
「要らないものは、全部捨ててきた。今のわたしが欲しいのは、辰哉だけだから。」
後から聞いたが、長い髪を出発前に切ろうとしてたのは、ただ邪魔だったからだそうだ。そのことが、紗季は本気で自分の人生を終わらせようとしているのだと言うことを俺に痛感させ、何故か今更胸が苦しくなった。いや、だめだ。俺は、この世界から逃げ出して、何もかも捨てて、紗季と二人で最期を迎えるんだ。もはや紗季が消えてしまうこの世界に価値などない。
そう自分に言い聞かせながら、駅に歩みを進め、俺たちは終電に乗って終点までのキップを買って、逃げ出した。
「ねぇ辰哉。この花吸ってごらん。美味しいよ。」
早朝、誰もいない土手。その中で紗季は無邪気な笑顔でしゃがんで花を吸っていた。二人でどこか行く宛も無くひと晩あるき続けて疲れ果て、ふと俺が腹減ったなと口にした途端、すぐ近くの土手へ走り出していったのだ。紗季ってこんなふうにはしゃげたんだな。俺は、静かに絵を描いている紗季しか知らない。色の無い俺の世界を心地いい世界へ導いてくれる面しか知らない。一緒に居る時間は長いけれど、こんなにも言葉を交わしたのは初めてだったな。そんなことを考えてながら、俺たちは保育園児のように、花を吸いつづけた。
その後、二人で公園のベンチに座り、いろいろなことを話した。家族のこと、自分の学校生活のことなど、これまで知らなかったお互いのことを全部全部。紗季はどういう訳か、親の顔を知らなかった。生まれた頃からずっと、親戚をたらい回しにされ続けてたらしい。もともと人と打ち解けるのに時間がかかる性格の上、何度も学校を変えなければならず、いつも独りだったらしい。俺の過去もすべて話したあと、
「誰にも愛されずに生きてきたのは、ふたりとも同じだね。」
紗季はそう言って微笑んだ。俺は二人の間に不思議な信頼関係が出来ていくのを感じる。思わず紗季の手を握る。もうその手に昨日の震えは無い。この子となら、もう何があっても怖くない。そして、俺もこの子が消えてしまわないように、守り抜こう。
ーこれから二人で最期を迎えようとしてる俺たちに対して、そんな矛盾した無駄な決意を、俺は固めたのだった。
この街は空き家だらけの過疎地域で、寝泊まりする場所には全く困らなかった。来る日も来る日も、紗季を連れて空き家を見つけてはそこにとどまる。運が良ければ食料さえあった。昔住んでた人が蓄えてた非常食だろうか。まだその人は生きていて、また戻ってくるかもしれないと分かっていながらも、二人で盗み食いして生命をつなぎ続けた。唯一の不自由といえば、風呂に入れないことだろうか。でも、今更どんなに悪いことをしようが、この夏の時期に風呂に入れず不快だろうが、どうだってよかった。紗季と一緒にいられるなら。紗季は今は生きているが、いついなくなるかわからない。それが怖くて怖くて、食料を見つけたら、紗季に限界まで食わせた。もともと食が細いのにも構わずに。そして、紗季が生きていられる内は俺には彼女を守る義務があるので、俺もまだ死ねないと思った。
警察に捕まらないように、俺と紗季は毎日移動を続けた。この世界のあぶれ者の小さな逃避行の旅を、毎日飽きもせずに。紗季はずっと笑っていた。これまでためていた幸せを全部放出するかのように。どこで生命が尽きるか分からない、危ない旅。それでも、そんな日々が永遠に続いてほしいと願うくらいに、幸せだった。ー俺は旅の目的を忘れたのだろうか。結局必死に生命をつなぎ続けてるじゃないか。呆れるよな。
「わたしみたいな人間が、こんなに幸せな時間を過ごしてて、良いのかな。」
ある日の夜、寝る間際に彼女はそういった。あれから2週間、紗季は大分やつれていた。そりゃそうだ。四六時中警察から逃げ続けて、疲れるに決まっている。
「紗季。ずっと一緒だよ。」
「辰哉。もし、目の前で全く知らない人が、辛いことがあって命をたとうとしてるのを見たら、どうする?」
なんでいきなりこんなことを聞いてくるのだろうか。なんだか嫌な予感がする。
「え、あの、俺のセリフは無視かよ。てか、急にどうしたんだよ。変だぞ。」
「…ごめん。そろそろ体力的に限界かも。明日は、ここに居よう…?」
紗季が警察からの逃避を、拒んだ?明らかに危ない選択だ。というか、今日は紗季と会話が噛み合わない。とりあえず、1つ1つ聞いてみようとしたが、既に紗季は眠っていた。ほんと、仕方ないやつだな。俺もそのまま、紗季の隣で目を瞑った。
一瞬にして目の前が凍りついた。空き家の窓から警察の姿を捉えたからだ。手に持っているのは…俺の写真が貼られたポスターだ。明らかに俺らの逃避行を終わらせようとしている。まだ眠っている紗季を叩き起こし、警察が来たことを伝えた。動きたくないのか、紗季は俺が思ってたような反応をしてくれなかった。警察が来たというのに随分と気だるそうだ。きっと疲れが溜まっているのだろうが、そんなことを気にしている場合ではない。やっと見つけた幸せを、俺は守り抜かなければならない。もう、大人の勝手な都合に縛られるのは、懲り懲りだった。
まるで鬼のようだ。何人もの警察が走って追いかけてくる。俺たちは、誰にも気にされない存在。まさか通報されるなんて。いったい、誰が…?いや、そんなことは今はどうでも良い。誰にも、紗季は渡さない。俺の幸せも、渡さない。夏だというのに、今は身の回りに水がない。無心で紗季の手を引いて走り続けてる内に、視界がグラグラしてきた。俺らとは対象的にのんびり鳴き続けているセミがうるさい。
ずっと下を向いて走り続け、ふと前を見ると…絶望で目の前が真っ暗になった。俺の視線の先には…崖。これ以上前には、進めない。終わった。俺はまた、失うの?
…いや、まだ、まだだ。あんな過去があって、友達も、他の奴らが当たり前のように持っている家族の愛情も何もかも諦めてきた俺。こんなにも何かを諦めたくない気持ちは、久々だった。ナイフを取り出して警察に突きつける。本当は、「最期」に使う予定だったのに、まさか警察への脅しに使うことになるとは。相手は拳銃を持っているのだから、こんなの無意味だと、分かっていながら。
ガシッ。後ろから腕を捕まえられた。紗季だ。こんな時に、なんで止めてくるんだ!?
「おい!離せよ!邪魔すんなよ!二人でやっと掴み取った幸せを、お前は終わらせる気か!?ホントは俺との関係を終わらせたかったのか!?」
初めて、紗季に怒鳴った。やばいと思ったけれど、パニックで謝るどころじゃない。
俺はただ警察とにらみ合う。ナイフを突きだす。紗季は、腕を離してくれない。
「もう!やめて!」
緊張を破るように、紗季は声を張り上げた。ふと見た彼女の表情は、初めて話した頃のウジウジした雰囲気もない。ここ2週間の旅で見せてくれた笑顔もない。ただ、真剣な眼差しだった。紗季のこんなに強い表情は、俺は知らない。警察は向けていた銃をおろした。俺もナイフをしまう。
「辰哉、わたしのこと、愛してくれた?」
紗季は途端に優しい表情を俺に向けてきた。その目に涙が浮かんでいる。
「あ、当たり前だろ!俺は、紗季とずっと一緒に居るんだ!誰よりも大切な人だ!」
紗季は何故か一瞬哀しそうな表情を浮かべる。だが、それが合図だったかのように、大粒の涙を流し始めた。顔は、笑顔を浮かべたままで。涙は、夏の太陽に照らされて、キラキラと輝いていた。
「残念だけど、そのお願いを叶える権利は私にはない。でも、私のこと好きなら、私のお願い、叶えてね。」
警察さえも、業務を忘れてじっと紗季の次の言葉を待っている。
「辰哉。あなたは、まだ生きれるの。だから、道を間違えた、私の分まで、生きてね。あなたはダメ人間なんかじゃない。ホントは、過去のことも乗り越えて、わたしがいなくても、生きていける強い人なの。」
紗季が何を言いたいのか全くわからない。なんて返せばいいのか分からずアンドロイドのような表情を浮かべる、俺。
「辰哉がいたからここまでこれたの。だから、死ぬのは、わたしだけでいいよ。」
その時、紗季はポケットから錠剤を2つ取り出した。口元まで持っていく。その時俺はやっと紗季の言葉の意味を理解した。ついにその時が来てしまったのだ。
「ありがとう、だいすき…」
バカ、やめろ!
…声にならない言葉を口にする前に、紗季は歩いていき、崖に背を向け、言いたいことをすべて言ったあとー
錠剤を飲み込みながら、頭から海に、真っ逆さまに、崖から落ちていった。
「紗季!紗季!さきぃぃぃぃぃーー!」
その後のことは、よく思い出せない。白昼夢を見ているようだった。ただ、崖から飛び降りようとする俺の両腕を二人の警察官に掴まれ、そのまま俺は捕まり、旅は膜を閉じた。
ーまた一つ、大切なモノを失ってー
村神辰哉の父親だと名乗る、あの場にいた男に連れてかれ、高校を卒業するまで俺は一度ももとの街には戻れなかった。だが、一度荷物を取りに帰るために、もとの家に戻ったとき、紗季は誰もしなせてなどいなかったことが分かってしまった。風のうわさだ。なぜ、俺の1番大切な人を苦しめたやつが、のうのうと生きて、紗季が消えなきゃならなかったのか。本当に、理不尽で、残酷な世界だ。そんな怒りを抱えながら、俺はまた、父親のもとで残りの高校生活を無彩色な世界でひっそりと過ごすのだった。
あれから6年。俺は22歳になった。大学進学を理由に、この町に戻ってきた。本当の目的は、別にあるけれど。休日になるたびにあの崖で何時間も体育座りで過ごす。
ー強い表情、優しい顔、キラキラ光る涙ー
この3つがふと頭に浮かぶたび、気がつくと俺は泣いていた。
俺はまだ、紗季がいなくなった世界を受け入れられるほど、強くはない。
とある休日。俺は6年振りに元の家を訪れた。いつものように崖に向かっていきそうな足を懸命に引き止めて。流石に無意味な時間をあの崖で飽きもせず過ごす自分に嫌気が指して、無理やり「家の片付け」という用事を作ったのだ。もう母親はこの家には帰って来ない。父親によると、去年再婚したそうだ。
俺の部屋は、あのときのままだった。俺のものであるはずのない女の子の制服が椅子にかけられている。メガネなどかけていない俺の部屋に、何故かおいてある丸メガネ。短髪の俺の部屋のゴミ箱に捨てられた、長い髪の毛。床に放置されたハサミ。
何もかもがあのときのことを思い出させる。また視界がぼやける。もうそろそろ俺の体から涙が無くなりそうだ。なんとか耐えて、とりあえず物を全部出して、使えるものと使えないものに分けることにした。
まず目についた机の引き出しを開ける…
中身を見た俺は、目を疑った。途端に部屋中の引き出しという引き出しをあさり、引き出しの中身をすべて放り出したあと、今度はベッドの下、カーペットの下など、思いつく限りの隠し場所を探った。
空っぽになった部屋。いや、正確には俺と、無数の紙切れだけが残った部屋。
その真ん中でうずくまり、俺はこれまでにないくらいに声を上げて泣いた。今はなき愛する人の名前を叫びながら。
「バカ、こんなの、気づくわけないだろ…!何年も、何年も俺を苦しめやがって!」
何時間もかけて片付けを終え、本当の意味で空になった家を後にする。空になった家とは対象的に、俺のポケットは愛する人からの贈り物でパンパンになった。もう俺の目に涙はない。今日、あの人のおかげで、俺はやっと前に進める。無くしたものを超える強さを得られる。俺の足取りは軽かった。
それから一度も、あの場所に足を踏み入れることはなかった。
※紗季目線
お昼休みののんびりとした空気感。賑やかな生徒たち。そんな中、今日も1人で
孤独を忘れさせてくれるような、自分が唯一居場所を見いだせる世界に引きこもるために、鉛筆を動かしている、わたし。明らかに異質な存在だ。でも、仕方がない。わたしは、あの輪の中には入れない運命なのだ。小学生のときも中学生のときも、話しかけても仲良く話してくれる子なんて、1人もいなかった。内気で、人に近づく方法がわからなくて、いつも的はずれなことを言っては、呆れられ人が離れていって…。だったら、近づかないほうが、傷つかなくて済む。独りは嫌だけど、そんな目を向けられるよりはマシだ。外界との繋がりを断ちたくて、学校では常に顔を隠し、うつむいてひたすら絵を描いた。
「そんなに線ばっかり重ねて…いったい何をしてるんだよ。」わたしに声をかける人などいないと思っていたので、一瞬空耳かと思ったほどだ。でもそんなはずもなく、目の前には怪訝そうな顔をして絵を覗き込んでいる、彼がいた。彼はいつも誰ともつるまず、無表情で窓の外を眺めているだけの人だった。わたしと同じで友達がいないのかな。だったら、わたしの考えとか、少しは理解してもらえるかもしれない。そんな淡い期待を抱いていた。
「なるほど。こんなクソな世界から抜け出せる方法見つけれたなんて、松永さんはすごいな。なぁ、他にも見してくんね?」絵を書く理由を話したとき、彼はこう言ってくれた。求められたのはわたしじゃなくて絵なのに、初めて自分の存在が他人から求められたみたいで嬉しくて、嬉しくて…。それからわたしが絵を描く姿を、彼はいつも見に来てくれた。わたしにそんな優しい表情を向けてくれる人に出会えたのは初めてで…いつの間にかわたしは彼には心を開き、学校以外の場所で会うときは、表情を隠すのを忘れていた。彼といるときだけは自分の存在意義を見いだせて、気がつくとずっと一緒に居たい存在になった。
「俺と付き合ってください…!」
わたしが彼に対して抱く気持ちが恋だと気づいた頃、彼ー村神辰哉は私のことを特別な存在として、選んでくれていたのだ!
高2になり、クラスが分かれると相変わらず1人だったけれど、別に平気だった。今はなかなかあえてないけれど、わたしのことを必要としてくれる存在がいてくれるからだ。
それを邪魔してくる集団が、高2になって割とすぐに現れてしまったけれど。
「ほんっと陰気臭いわぁ〜クラスの空気悪くなるからどっか行ってくんない?」
「こいつの分のスペース無駄でしょw」
毎日のように聞こえるように悪口を言ってくるのは、クラスの中心メンバーの女子たちだ。理由は簡単。地味で陰気だから。絵を描いているところにわたしの顔目掛けて輪ゴムを弾き飛ばしてきたり、わたしの答案をクラス中に晒したり、わざと足を引っ掛けてきたり…。今まではただ1人だっただけだったのに、それに加えて度重なる嫌がらせ。流石にわたしの心は応えていたけれど、わたしには絵と辰哉がいるって言い聞かせて、学校は休まなかった。ー抵抗しなかったせいで、このあと取り返しのつかない事態になるなんて、思いもせずに。
「マージむかつくわ。ボッチのあんたがかわいそうでかまってやってんのに。いっつも無視しやがってさ。」
いつものように、わたしは独りで絵を描いていたときのことだった。またいつもの女子グループが、わたしに嫌味を言ってきたのだ。どうやらわたしが相手にしようとしないのが、腹立たしかったらしい。いつものことだと思って、無視を貫く。途端にわたしは腕を引っ張られて椅子から落とされた。穏やかな教室に、椅子の倒れる音とわたしの悲鳴が鳴り響く。そんなわたしを見て、女子たちは笑っている。わたしはもう、彼女たちのおもちゃだ。
ーあんなに大きな音がしたにも関わらず、クラスの誰も振り向いてくれない。まるでわたしなんか居ないかのようだ。涙が出そうになる。でも、ここで泣いたら負けだ。感情を抑えるために、床を睨みつけて、心の中で辰哉の名前を叫ぶ。
「んげ、キモ。」
ふと顔をあげると、女子グループの中でもリーダー格の子が私の絵を見て顔をしかめていた。途端に血の気が引く。だってそれは、いつもの絵と違って、誰にも見せたくないものだったから。
「あんたっていっつも線ばっか描いて絵上手い人に見せようとしてるけどさw、これはないわ〜マジでキモすぎ。」
「ついに男が欲しくなったのね〜w言っとくけどあんたはただ妄想に浸ってるだけだから。現実見ろっての。」
「つか、あれじゃない?誰にも相手にされないから絵の中に相手求めてるんじゃないの?ほら、SHINYAってw名前まで付けてるw」
…それは、いつもわたしが描く抽象画ではなく、わたしの唯一無二の存在に思いを伝えるために下描きをしたものだった。一ヶ月後、辰哉の誕生日のために。それを全否定されて、すぐにでも飛び掛かりたい衝動に駆られる。
「ほんっと、あんたの生き方は恥だよ。い・き・は・じ☆」
もう、我慢できない。なんで、そこまで言われなくちゃならないの?なんで、生き方を全否定されなきゃならないの?…
なんで、大切な人への思いを、何も知らないあんたたちに、踏みにじられなきゃならないの?
ああ、きっと、コイツらが居るせいで、わたしはー生絵を描けなくなるだろう。辰哉に思いを伝えることさえ恥だと決めつけられるだろう。やっと掴んだ幸せ、あんたらの、せいで、
もう、いやだ…
一瞬にして、こんなにもたくさんの思いがわたしの脳内を駆けていった。ついにわたしは、理性を失ってしまった。もう、止められなかった。
さっきの言葉を放ったリーダー格の子は相変わらず大爆笑していた。わたしは無我夢中でその子に詰め寄り…
バンッ…ゴン…
気づいたときにはもう、手遅れだった…。
肩で息をしながら顔をあげると、そこにあったのは床に倒れ込んだまま動かない人。そして、さっきわたしが落ちたときには向けられなかった、痛いほど多くの視線。ようやくわたしは何をやってしまったのか、理解した。息が苦しくなる。上手く呼吸ができない。そのまま倒れてしまいそうだ。
もう、わたしの居場所はどこにもない。人をしなせたこの手で描き出す世界はもう、暗闇以外のなんでもない。つまり、わたしは絵の中ですら、もう生きられないのだ。
わたしはここに居られなくなり、そのままみんなの視線を振り切って教室を飛び出した。廊下を突っ切る。その間も、みんながわたしを見ているような気がして、息ができなかった。苦しい。助けて…。だれも、わたしを知らない場所まで、連れてって。
雨が強まりだした。それにも関わらず、ただ公園のベンチの上でうずくまったまま、何時間も過ごした。涙があふれて止まらない。あんなことをしてしまった自分への恐怖と、生き方を否定された屈辱と、これから先のことを思って。そしてー
わたしの1番大切な人に、もう顔向け出来ないことへの絶望感で。
「お会計3325円になりまーす。」
日が沈み出した頃、わたしは薬局にいた。
買ったのは…睡眠薬一箱だ。本当は3箱ほしかったけど、わたしの所持金では足りなかった。高2になって嫌がらせされるようになってからは、財布とスマホは常に制服のポケットに入れていたので、荷物も持たずに教室を飛び出しても、この2つは持っていたのだ。スマホで調べたところ、一箱50粒入りの睡眠薬3箱分は、睡眠薬の致死量に当たるらしい。わたしがしなければいけないことはー「死」という形で償うことだ。そう、これからその義務を遂行するために、わたしには睡眠薬が必要だった。薬局から出るとき、ふと大切な人の顔が浮かんだけれど、すぐに打ち消した。
幽霊みたいに宛もなくさまよいながら、わたしはこの量の睡眠薬でこの世界からどう消えようか頭を悩ませていた。
春休みだというのに、わたしたち2人は海に来ていた。砂浜に持ってきたレジャーシートを広げて、わたしはまた絵を描いていた。彼は、わたしのその姿を優しいまなざしで見つめていた。海に来た理由は単純で、ただいつも行かないような場所に行きたかったというだけだった。そんな軽い気持ちで選んだ場所だったのに…
「あの、俺にとって松永さんは、この海よりもデカい存在なんだ。俺をこの何もない世界から連れ出してくれたんだ。だから、これからもずっと一緒にいたいんだ。」
「俺と付き合ってください!」
帰り際、夕日が海に照らされる。その中で、彼の言葉にわたしの頰が夕日と同じ色に染まる。嬉しさと恥ずかしさでそのままコクリと返事をするわたし。
突然頭をよぎった海での思い出。わたしの今までの人生で、そのありのままの光景を一生忘れたくない思い出。また涙が溢れてくる。だって、こんなにも美しい思い出の場所を、わたしは今からこの世界との、辰哉との永遠のお別れの場にしてしまうことを思いついてしまったのだから。本来は1回1錠のはずの睡眠薬を念の為2錠。それを飲み込む瞬間、わたしは海に真っ逆さま。
決意を固めたわたしは、海に向かって歩いて行くことに決めた。海の場所なんて、ここからじゃわからないけれど、あるき続ければ着けるだろう。もしいくら歩いてもだめだったら、どこかで餓死できるかもしれない。自分でもすごく恐ろしいことを考えていると分かっていた。でも、それよりもっと恐ろしい罪をわたしは犯したのだ。
時刻は午後11時。ついに歩き出した。
ー泣きながら、心の中でわたしの1番大切な人の名前に無意味な謝罪をしながら。
歩き初めて30分ほど経っただろうか。足が全く動かない。震えるし、もつれてる。何やってるの、わたしはもうこの世にいちゃいけない人間なのよ。何今更動けなくなってるの。早く、行かないと。早くしないと
どんどん辰哉に会いたい気持ちが強くなるじゃない…!!
相変わらず土砂降りの雨。その中でわたしは動けずに立ちすくむ。打ち消せば打ち消すほど、あの人の顔が思い浮かんで苦しくなる。わたしに会う資格なんてないって言い聞かせるほど、会いたくなる…!!
わたしは水溜りの中にへたり込んだ。そして、足が勝手に住宅街へ向かいだした。そうだ。わたしは人をしなせてる時点で、もう辰哉には近づかせてもらえないはずだ。そしてどうせわたしはいなくなる。だったら、最期くらい会って思いを伝えても、良いよね?そう自分を正当化させながら。
目的を、間違えてはいけない。わたしが伝えることはたった2つ。人をしなせてしまい、自分もこれからいなくなること。今までありがとう。これだけだ。それが終わったら、わたしはすぐに彼の前から立ち去り、向かうべき場所へ向かわないといけない。辰哉を目の前にしてまた立ちすくんでしまわないように、辰哉の家の前に着くとわたしは何度もそう自分に言い聞かせ、30分かけて気持ちを落ち着けた。時刻は午前1時。インターホンを押すなんてもってのほか。彼のご家族に迷惑だ。意を決して彼に電話をかける。
「辰哉。、今、起きてる?」
あれだけ心の準備をしたのに、私の声は震えてしまった。気づかれてないと思ってたのに、辰哉は鋭い。心配そうな声を出してくる。久しぶりに聞いた、男の子の声。その声のあまりの懐かしさに、嗚咽が漏れる。上手く呼吸できないし、喋れない。なんとか口を開き、人をしなせたことを伝えた。そして、ありがとうを言って電話を切り、すぐにでも立ち去ろうとしたのに、彼は何かを叫び、彼の方から電話を切られた。ああ、きっとわたしのことが嫌になったんだ。話したくなくなったんだ。でも、これでわたしは気兼ねなく消えられる。彼の家のドアに向かって、震える声でありがとうと言った。
突然ドアが開いた。辰哉だ。やっぱりわたしが今1番会いたかった人だ。目の前の整った顔が幽霊でも見たかのようなぎょっとした表情を見せ、その後キリッとした眉が心配そうに歪んだ。やめて、せっかく諦めて海に迎えそうだったのに、そんな顔されたら甘えちゃうじゃない。
ーこれ以上、好きにさせないでー
気がつくとわたしは、あのときのことを泣きながら辰哉にすべて打ち明けていた。そして、連れられるがままに辰哉の家に入り、着替えさせられ、寝かされた。辰哉はわたしが落ち着くまでずっと、背中をさすってくれていた。掛け布団越しに伝わる、彼の手の感触。何かをささやく声。何もかも、全部全部、あたたかくてやさしい。そのせいで、わたしの感情は収まらない。もう、わたしは辰哉から離れられない。
雨が弱まってきた頃、わたしは目を覚ました。途端に罪悪感にかられる。わたしのような犯罪者が、彼の優しさを全面に受け取ってしまった。辰哉はわたしといるべきじゃない。こんなふうに人のことを守ろうとしてくれる、誰よりも強くてあたたかい人だ。辰哉が守るべきはわたしじゃない。辰哉には、別の相手と幸せになってほしい。だから…
ついにわたしは、これからしようとしていることを辰哉に伝えたのだ。不思議と、もう涙は出なかった。今なら行けそうだ。
彼は、行かせてはくれなかった。一瞬の内にわたしの視界は彼の胸元で遮られた。わたしは彼の腕の中にいた。肩が冷たく濡れていく。
「頼むから、お願いだから、俺を置いて行かないでよ。」
わたしは辰哉を振り切ることができなかった。辰哉はわたしを求めている。その事実で胸がいっぱいだ。嬉しい。もう、何が正しいかなんて、分かってるけど、最期くらいは、わたしの何より大切な人と、一緒に過ごしても、いいよね。やっぱり、辰哉と一緒にいたい気持ちは捨てきれなかった。もう、わたしの中に理性など居なかった。
辰哉が眠った。出発まであと4時間程。ふと部屋の隅に目をやると、何故かそこには教室に置いてきたはずのわたしの通学カバンがあった。ファスナーを開けてみる。そこにはちゃんと、いつも持ち歩いているスケッチブックが入っていた。きっと先生がわたしの机の上を片付けて、唯一仲の良い辰哉に持って行かせたのだろう。わたしにはもう犯罪を犯した手で自分の世界を作り出す権利は無い。でも、わたしの唯一の具象画、辰哉への誕生日プレゼントにする予定だった絵くらい、完成させてもいいよね。だって、わたしが描きたかったのは、いつもわたしのことを何よりも大切にしてくれて、全力で守ってくれるヒーローだから。それはわたしが居なくなっても変わらないから。
この瞬間、わたしの最期を迎える旅に彼は付いてくるけれど、絶対に彼を生きて返すんだという決心と、彼に素敵な人と幸せになってほしいという強い希望を抱いた。
彼が起きる前に。わたしは急いで鉛筆を動かす。これまでにないくらいの熱い思いを込めて。そして、完成させたあと、それを何十枚かに破った。その裏に一枚一枚思いを込めてひたすら文字を書く。あとは、彼の部屋にそれらをバラバラに隠すだけだ。いつか彼が旅からこの家に帰ってきたとき、彼はパズルのピースを全部見つけてくれるだろうか。見つからなくてもいい。わたしの思いが、彼に伝われさえすれば。もうわたしは、辰哉がいれば何もいらなかった。スケッチブックも、鉛筆も。
長かった髪を切ろうとした。辰哉が起きて止められたけど。彼には邪魔だったらと後で伝えたが、本当は最期は真正面から辰哉と向き合いたかったからだ。人に見られたくなくて、伸ばしてた髪。今はもう必要無い。
歩いて、歩いて、ただひたすら歩く。わたしより20センチも高いその背中のすぐ後ろを追うように。わたしの中では、今やこの世界にはわたしたち2人だけ。誰にも縛られない、2人だけの空間。どこまででも歩いていける気がした。。ここなら、誰もわたしのことを知らない。わたしのことをたらい回しにする親戚もいないし、虐めてくるクラスメートも居ない。居るのは、愛する人だけ。わたしのことを求めてくれる人だけ。わたしは、これ以上ない幸せに満たされた。もう息苦しくない。自然と頰が緩む。辰哉の手がわたしの頭上に伸びてきた。わたしの髪を掻き回す。その顔もまた幸せそうで、思わずわたしはうつむいたまま彼の腕に絡みついた。
ーああ、神様。もう少し、もう少しだけで良いから、このままで居させてください。何も奪わないで。与えないで。−
あれからわたしたちは遠い遠い知らない街まで来た。過疎地域で、人が少ない。誰もいない土手で、わたしは彼の過去の話を聞いてしまった。
「母親が、小5の頃からおかしくなってさ。毎晩22時に帰ってくるようになったんだ。その頃から、父親との喧嘩が耐えなかったな。俺はその頃から親に相手もされなくなって、ただ自室に籠もってゲームで気を紛らわしてた。」
彼の眉が寂しそうに垂れる。わたしは親というものを知らないけれど、同居家族に相手をされない、ましてや小学生の辰哉はさぞ辛かっただろう。
「小6のとき、父親が出張で居なかったのに、母親は一晩帰ってこなくてさ。あの夜は怖くて仕方がなかった。地震が来たらどうしようとか、変な人から逃げれるかなとか考えると、眠れなかったな。」
彼の表情が歪んでいく。わたしは、黙って聞くことしかできない。
「それから寝るときは毎日父親と一緒だったなんて、中学に上がったら恥ずかしくて言えなかったよ。そんな中で唯一信頼してた父親も…中2の時突然出ていった。」
彼はその時母親からこう言われたらしい。
「あんたも出てってくれれば、わたしは自由に出来たのに。」
言葉が、出なかった。世の中理不尽だ。何故辰哉のような強くてやさしい人がこんなつらい思いをしなければいけないのか。
「愛されずに生きてきたのは、一緒だね。」
わたしは、もうすぐ居なくならなければいけない。けど、辰哉はまだ生きれる。お父さんと再会できるかもしれない。できなくても、辰哉なら生きていれば素敵な人と出会って、いつか過去の苦しみが報われるだけの幸せが訪れるはずだ。お願い、あなたはまだ生きれるんだから、幸せになって。今はまだ幸せを見つけられないかもしれないけど。そんな思いを込めて、わたしは微笑んでさっきの言葉を言った。辰哉の手がわたしの手を優しく包む。わたしは、辰哉の幸せを願い、絶対に生きて返すと誓って、そっと握り返した。
来る日も来る日も、辰哉を追いかけ続けた。来る日も来る日も、辰哉にリードされながら、その日暮らしをする場所を見つけた。そこに食料があれば辰哉は容赦なく封を開け、わたしにどんどんどんどん食べさせてきた。夜はわたしより早く寝ることは無く、寝る前には必ず「ずっと一緒だよ。大好き。」と言ってくれた。幼少期の頃の悪夢を見てパニックで泣いて目覚めたときは、落ち着くまで俺はここにいるぞとか独りじゃないから大丈夫だよとか声を掛けたり、頭を撫でてくれていた。そんな彼のあたたかさに、何があっても最後はこの世の幸せをすべてかき集めたような笑顔を彼に向けられたのだ。身の丈に合わない幸せを受け取って。
けど、そんな優しさも日が経つにつれ、苦しいものになった。彼に優しくされればされるほど、わたしは旅を長引かせてしまう。睡眠薬を飲み込む勇気が起きなくなる。ふと身の丈に合わない幸せに罪悪感を感じる。旅を初めて10日、彼は何でもないように見えるが、目に見えて疲れていた。寝ている時間が長くなったし、最初は追いつくのがやっとだった彼の歩くスピードは、わたしが余裕でついていけるくらいになっていた。幸せを感じるほど、同時にどうしょうもなく苦しくなる。わたしが幸せを感じれば感じるほど、彼の幸せを奪っていくように思えた。彼の幸せを願う自分が、わたしの心の中でわたしのことを責めていた。彼を生きて返すために、わたしはどうすればいいのだろう。
「あの、明日の朝、○○町の○○番地まで出動お願いします。」
「どうされましたか?」
「高校生の男女二人組が家出して、先程の住所にある、空き家に潜伏しているんです。」
「そうですか。そのようなニュースはありませんでしたけど、事件ですね。ちなみに、あなたのお名前は?」
「松永紗季です。そして、家出してる高校生の二人組の名前は、松永紗季と、村神辰哉です。そう、実はわたしたちが本人なんです。ふたりとも親に当たる人物はおらず、特に村神くんは母親の夜遊びで家でずっと独りなんです。お願い、彼の、お父さんを、見つけてあげて…!」
「…まさか本人からの通報とは。わかりました。明日の朝、迎えに行きます。」
辰哉のことを話したとき、少し様子がおかしかったのは、気のせいかな。午前0時。辰哉が寝静まったあと、わたしはこっそり起きてきて、久々に電源を入れたスマホで初めて辰哉以外の人と電話をした。わたしが電話をした相手はー警察だ。
「辰哉。もし、目の前で全く知らない人が、辛いことがあって命をたとうとしてるのを見たら、どうする?」
わたしが寝る前、いや、寝たふりをする前に彼に訊いてみた。今、彼には辛い過去があって、この世界が残酷なものに見えている。そして、わたしと同じようにこの世から消えようとしている。けどね、もし辰哉がそんなことしようとしたら、誰かがきっと止めてくると思うんだ。だって、もし逆の立場なら、辰哉は止めに行くでしょ?だから、わたしと一緒にしぬなんて、絶対だめだよ。そう辰哉に伝えたくて、わたしは答えが分かりきっている質問をした。そして、わたしが体力の限界だから明日はこの場所に留まっていようと提案したのも、このためだ。辰哉を生きて返す方法なんて、もうこれしか思いつかなかった。だって彼は、どんなに自分が辛くても、わたしを守ること優先にしちゃうだろうから。
そして、わたしは、明日の朝、起きたらすぐに誰にも見られないうちに海に向かおう。睡眠薬を2錠持って。今は、いつも感じる幸せから来る苦しみはなかった。今は、辰哉と離れるのが寂しいとは思わなかった。幸せを、願うだけ。ただ、これまで辰哉と過ごしてきた思い出が、あまりにも美してくて、わたしにはもったいないくらいで…わたしは、笑みを浮かべたまま、声を出さずにただ涙を流していた。いつもの整った顔立ちからは想像できないような、ふにゃりとした寝顔の横に寝転がって。
ーありがとう。ずっと大好きだよ。ー
わたしはいったい何をしてるんだろう。わたしの大切な存在が苦しそうに息を吐きながら死物狂いで走っている。わたしの腕を引いて、何かを守る目で。後ろからは、警察の怒鳴り超え。まるで警察と一緒に追ってきているかのような、近づいてくるセミの鳴き声。わたしは、彼にただ幸せを感じてほしい。そのためにも、生きてほしい。ただそれだけなのに、そのために警察に通報したのに、今なんで一緒になって逃げてるんだろう。余計に彼を苦しめるだけなのに。もう、限界だ。いい加減苦しそうな彼を見たくは無かった。何かを守ろうと必死の形相で、行き止まりになったにも関わらず警察に襲いかかる彼を、わたしは止めた。彼に初めて怒鳴られたが、今のわたしはそんなこと気にも止めないくらいに落ち着いていた。
「俺は、紗季とずっと一緒に居るんだ!誰よりも大切な人だ!」
大切な人と呼ばれ、また顔が歪む。けれども、もう決心はついていた。この二週間でもう充分なくらいに愛をもらったから。わたしは笑顔を浮かべたまま、大粒の涙を流し、彼に思いを思いつくままに必死に伝えた。そして、何か言われる前に、
ー錠剤を2つ手に取り、
「辰哉の幸せがわたしの幸せ」
「まだ生きれるから、諦めないで」
「辰哉の記憶の中に、わたしはずっといるから、見守ってるから。」
「ずっとずっと大好き、こんなに愛した人、これまでもこれからも辰哉だけだよ」
いつか作ったパズルのピースに書いた遺言を思い出しながら、
パズルが完成したときに何が出来上がる?
強くて、たくましくて、優しく生きる、わたしの中にある記憶の辰哉だよ。辛くなったら、これを見てほしい。
バカにされても今までに無いくらい一生懸命に描いた辰哉へのプレゼントを思い浮かべながら、
錠剤を飲み込み、海に真っ逆さまに落ちていったー
入院着。病室のベッド。ふと目に入った、「松永紗季」と書かれたプレート。わたしは、自分が何故ここにいるのか分からなかった。いや、自分が誰なのかすら、しばらく分からなくて、ぼーっとしていた。
「お、やっと起きたね、紗季ちゃん。」
警官の格好をした知らない男の人がこっちを見つめてくる。今何が起こってるの?
3日前…。わたしは眠った状態で海で溺れているところを救助された。4日前、わたしから高校生男女2人家出事件の通報が入る。その時応対をしたのは自分で、わたしともうひとりの当事者、村神辰哉の父親だと教えてもらった。そう、あのときの警官は、辰哉のお父さんだった。そして、わたしは息子が愛した人だから何が何でも救いたくて、わたしが海に落ちたとき、海に入り込んでわたしを砂浜まで引き上げ、救急車を呼んでくれたらしい。また、落ちた場所が砂浜の近くで、本当に奇跡だったらしい。そう、説明された。
「なんで、なんで助けたんですか。ほっといてくれれば、わたしはやっと、楽に、なれたのに…!!」そのままわたしはものすごい早口で、これまであったことをその警官、辰哉のお父さんにぶちまけた。嫌がらせのこと、人をしなせたこと、辰哉と旅を決意したこと、過去のこと…。ただ黙って聞いてくれていた。そして少し落ち着いた頃、
「そうか。辛かったな。けどな、君辰哉はまだ生きれるって言ったよな?お父さんと再会できれば、いい人に巡り会えればってな。けど、君だって同じだろ?いい加減強くなれ、いい加減目を覚ませ。」
たしかに、わたしは自分の打ち解けられなさに嫌気が指すだけで、何も自分を変えようとしていなかった。ただ、自分にとって都合のいい世界に入り込んでいただけだった。絵という素晴らしい道具を、現実逃避のために使うことで。わたしは生きることから逃げてたんじゃない。自分を変えることから逃げて、辰哉をあんな危険な旅につきあわせたんだ。自分の弱さが悲しくて、情けなくて、わたしはその場で泣き崩れた。それでも、警官は淡々と言葉を続けた。
「君、口座持ってないよね。だから現金で一括で渡しとくね。懸賞金。何に使うかは、君次第だよ。俺の連絡先も渡しておくから、何かあったらいつでも連絡してね。」
懸賞金と、連絡先を置いて、彼は病室を出てしまった。その瞬間、感じたこともないような熱い思いが体の底からせり上がってくるのを感じた。
わたし、強くならないと。辰哉みたいに。
もう辰哉には会わないでおこう。少しは、自分に自身が持てるようになるまで...。
窓の外から優しい色の夕日が差し込んできた。
学費をある程度賄えるほどの懸賞金、これからわたしが残りの1年半を過ごす全寮制高校。そして、いくつものバイト先。
退院後、わたしは誰とも打ち解けられない自分、すぐに楽な方へ逃げる自分に勝つために、新生活を始めた。全寮制の高校に転入し、6時間目まで真剣に授業を聞く。放課後は、飲食店のバイト。自分の大学の学費を貯めるため。そして、社会に出てコミュニケーションを取れるようにするため。そして、寮で同室の子たちと少しずつだが会話をするようにした。学校が4時に終わり、すぐにバイトへ向かう。7時までバイトをして寮に戻り、夕食やお風呂を済ませたらもう21時半だ。バイトの無い他のルームメートたちはこの時間には既に勉強を終えて、それぞれ好きなことをしている。そんな中、遅れて1人で明日の予習や今日の復習をしてから0時に寝るという生活は、かなりしんどかった。土日もどちらかはバイトで取られる。加えて、やはり毎日のコミュニケーションはわたしには不慣れで精神的につかれてくる行為であった。課題が終わらなくて夜中の3時半まで起きたり、体力的にも精神的にも気が滅入ってふと涙が出てくることもあった。けど、きついと感じるのは変わろうとしてる証拠。そう言い聞かせ、また辰哉に会える日を願いつつ、私の足はあるべき方向へ向かう。
こうしてわたしは、残りの1年半の過程を終え、卒業した。そこには今までのうつむいた自分は居なかった。ルームメイトと談笑し、写真を取ったあと、胸を張って、見慣れた校門を後にする。
やっと、辰哉に会える。
わたしの心は踊っていた。
高校卒業から5年。わたしは23歳になった。実はまだ、辰哉には会えていない。何度か辰哉の家を訪れるも、誰も出てくれないのだ。強くなったわたしを、辰哉に見てほしい。今度は、お互いに傷を舐め合う関係ではなく、お互いに支え合える恋人同士になりたい。もう5年も、高校生の頃の辰哉を思い浮かべるたびに、懐かしさと切なさで胸がキューッと引き締められている。
わたしは、誰とも打ち解けられない自分を変えることができた。でも、辰哉への思いは、変えられなかった。
不意に朝の満員電車に詰まっている人をぼんやりと眺めてみる。するとそこには、
懐かしい整った顔、わたしより20センチも高い身長、短く切られた髪。
間違うはずもない。むしろあっちから私の視界に入ってきているかのように、私の目ははっきりと遠くにいる、さらに大人っぽくなった辰哉の姿を捉えた。懐かしさで胸がいっぱいになる。すると、向こうも私の方を向くなり、一瞬驚いたような顔をした。
満員電車が駅に着く。わたしは、人の群れとは逆方向に歩き出した。向こうからやってくる彼に、近づくために。
彼は、わたしの姿を捉えると、人混みの中で足を止め、両腕を広げた。その目に涙が滲んでいる。
「辰哉。しんや、しんやぁ…」
「バカ、俺が、どれだけ悲しんだか、分かってんのかよ。この彼氏不孝者がっ!」
彼の顔は笑っていた。というか 彼氏不孝者って何よって、おかしくて二人で思いっきり笑った。
彼の手がわたしの頭を掻き回す。それをされる懐かしさと恥ずかしさでどうにかなりそうだ。
「親父に聞いたよ。おかえり。良く、頑張ったなぁ。」
そのままわたしたちは人混みの中で抱きしめあった。きっと、もう何があっても大丈夫だ。