集める者-1
買い物回
暖かく柔らかい毛布の中でアノスは眠っていた。
昨夜多くの兄弟たちを巻き込んだ『誰が一番年上なのか』という論争は真夜中まで続き、
結果太陽がすっかり昇った今になっても誰もベッドから這い出てこない。
日差しの陽気が窓から差し込み、照らされたアノスはその小さな手で毛布を引っ張り顔を隠す。
しかし彼女はそれを許さなかった。
「ほら、いつまで寝てるつもり? せっかく作った朝ごはんが冷めちゃいそうなんだけど」
勢いよくはぎ取られた毛布の向こうに立っていたのは仰々しく両の眉をつり上げたエリヤ。
この家に住む子どもたちの母。
銀の長髪を結わえたその姿は太陽の光の中に現れた女神のようだと、いまだ寝ぼけ眼をこするアノスは思った。
「なに笑ってるの? 私今怒ってるんだけど」
「いや、ただ幸せだなって」
なんでもない一日の始まり。
むしろ母のお叱りから始まった一日のはずなのにアノスの心は幸福に満ちていた。
求めていたなにかを得られたような満足感。
それがなにかはわからないが、幼い彼にはわからないままでよかった。
「それならその幸せ私にも分けてくれない? もう時間無いからみんなを起こしておいて」
エリヤは妙な発言に軽く首をかしげるが寝言の類だと思い深く追求せず、
子どもたち全員に軽く手を触れるとアノスにそう言い残して忙しなく部屋を出ていった。
そう、ここは子供たちの寝室。
そしてあの扉の向こうには家族全員で職を囲むテーブルがある。
いつもエリヤの隣に誰が座るかで喧嘩になるその席に今日こそは座れるだろうか。
「みんなを起こさないと」
その取り合いをするためにもみんなを眠りから覚まさなくてはならず、
アノスはベッドから抜け出して部屋の端から順に身体をゆすり声をかけた。
全員が全員ことなる反応を返しながらも最後には観念して毛布の隙間から這い出てくる。
男女含めた十数人の兄弟だというのに、誰一人似た見た目をした者がいないというのは今さらながら変な話だとアノスは笑った。
「ほら起きろ。エリヤが怒ってるぞ」
そして最後に起こすのは決まって一番仲のいい兄弟だった。
隣のベッドで毛布を蹴飛ばしながら眠るこの少年は兄弟の中で一番身体が大きい癖に一番子どもっぽい。
眠りも深いもので、目を覚ますのはいつも最後だった。
今日もその瑠璃色の髪に寝癖をふんだんに携え、両側にはねたその姿は絵本で見た犬のようだった。
「起きろってばボラル。朝ご飯が冷めて文句言うのはお前だろ」
その時、急に親友の目が見開かれる。
寝相によってつくられた歪な姿勢のまま無表情でこちらを見つめてくるその姿は、
それまでの陽気を一気に覚まさせる程不気味だった。
「お前こそさっさと目を覚ませよ」
振り返ればあれだけいた兄弟は一人もいなくなっている。
朝を迎えたばかりだったはずなのに窓の外は暗闇に閉ざされなにも見えなくなっている。
その光景を見たアノスはなにかを思い出しそうになった。
「いやだッ!」
それは無意識に声に出た叫びだった。
頭に浮かんできそうになるなにかを必死に拒絶する。思い出さない方がいい。
そのほうが幸せなんだと自分に言い聞かせ、痛む頭を押さえながら元の穏やかな日々を切に願う。
しかしその願いを嘲笑うかのように家はさらなる異変に包まれていく。
突然どこからともなく立ち昇った火はこの部屋を、否、この家全体を瞬く間に包み込む。
皮膚を燃やし喉を焼く熱がその身に迫ろうとしている時、ボラルの身体が犬のように変化する。
そのまま部屋を飛び出す彼をアノスは頭で考えるよりも前に追いかけていた。
「どこだよ……ボラルッ!」
先ほど火が上がったばかりだというのに部屋の中は煙に満たされていた。
みんなで囲むはずだったテーブルもすでに焼き壊れ、もはやここは求めていた安らぎの家ではなくなっていた。
「アノス……」
その時アノスの耳に届いたのはエリヤの声。
助けを求めるように自分の名を呼ぶその声に、彼は燃え猛る炎も恐れず駆けだした。
「エリヤッ! どこッ!」
両腕で顔をかばいながら進んで行くアノスに呼びかける声はどんどん大きくなっていく。
エリヤに近づいていることはわかっているのにどこにいるのかがわからない。
頭の痛みと共によみがえろうとする記憶を振り払いながら、彼は慣れ親しんだはずの家を迷うように進んで行く。
「ここにいるのッ!?」
辿り着いたのは長く生活している中で一度も開いたことがなかった扉の前だった。
開けようとするといつもは優しいエリヤが鬼の形相で起こりだす。
それゆえに誰も近づきたがらなかったその奥から、助けを求める声が響いている。
木造の家が良く燃える中、唯一鉄で作られたその扉は燃えることなく残ったままだった。
「待っててッ! 今助けるから」
しかし握るドアノブは燃え上がる炎に熱せられ簡単には触れない。
その熱さにアノスがもたついていた時、聞こえてきたのは耳をつんざくような悲鳴だった。
「エリヤッ! どうしたの、ねえッ!」
その声を聞いたアノスは手が焼けただれるのも構わずに重い鉄扉を開け放つ。
その先でうつ伏せに倒れていたのは紛れもなく愛する母親だった。
腹から血を流す彼女は死んでしまったように動かない。
「いやだ……。嫌だ、嫌だよエリヤッ!」
アノスは泣きながら倒れる母に縋りつく。
そこに感じる温かさが生命の証なのか、炎に炙りまわされた結果なのかさえもうわからない。
しがみつくばかりで母親を助ける方法もわからないまま彼は泣いた。
どうしようもなく無力な自分に怒った。
その悲痛な声が届いたのか倒れるエリヤの手がゆっくりとアノスの頭に乗せられる。
喧嘩や怪我の絶えない子どもたちが涙を流すと彼女は決まって彼らの頭を撫でた。
優しい彼女を象徴するその手にアノスは一抹の希望を抱く。
「どうして?」
しかし顔を上げたアノスの目に移ったのは焼けただれ、目や口、顔中の穴からウジを湧かす変わり果てたエリヤの姿だった。
そこに先ほどのような美しさは微塵も残っていない。
「どうして私を幸せにしてくれなかったの?」
腰を抜かしながら後ずさるアノスにエリヤは恨み言を呟きながら四肢で地を這うように近づいてくる。
異形の化物のような姿で迫ってくるその恐怖に少年は頭を抱えただひたすらに謝っていた。
「ごめんなさいッ! ごめんなさいッ! ごめんなさいッ!」
助けられなくてごめんなさい。
生き残ってごめんなさい。
生まれてきてごめんなさい。
思いつく限りの懺悔をその場で繰り返すがエリヤは止まらない。
腐り落ちた彼女に覆いかぶさられ、体ごと炎に焼かれるアノスはその時絶望を思いだした。
眠らせようとしていた記憶が急速に浮上しその時彼はようやく目を覚ます。
・・・
夢と現実の境界線が希薄になる目覚めの時。
悪夢からの脱却した安堵感に息をつくまで、アノスはしばらくの時間を有した。
壁にもたれかかるようにして眠っていた彼は全身の痛みを感じながら立ち上がる。
あたりを見回せばそこは見慣れた倉庫、兼自室だった。
「起きたかよ色男」
声に目を向けるとそこには長年共に過ごしてきた兄弟が床に寝そべりながらこちらを見ていた。
耳を立て豊かな毛並みを携えたその姿は夢で見たものと似ても似つかない。
「……ボラルか」
「うなされてたぜ」
「だったら起こしたらどうだ」
「そうしたさ。そしたらもっとひどくなりやがった」
これほどの悪夢を見たのは随分と久しぶりだった。
王都へやってきた当初、毎晩のように見ていた類の夢をぶり返したように見せられたアノスは額にじっとりと浮かんだ汗をぬぐう。
「夢は夢だ。エリヤを見つけた時、家はとっくに燃え尽きていたし、そもそもあの時私たちは家にいなかった」
あの悪夢は過去のトラウマと誇張し増幅させたもの。
幼かった彼が体験させられた絶望の心象そのものだった。
幸せが突如として姿を消し、母は死に、それを防げなかった罪悪感と無念さに彼は今でも攻め立てられている。
「もう十年になるな。あの時からお前は犯人捜しにとり憑かれたままだ」
十年。王都にやってきた当時、まだ十にも満たっていなかったアノスにその時間はあまりにも長いものだった。
母に与えられた知識を頼りに、力なき身でこの街をさ迷い歩いた。
生きられる場所を探し、生き延びる術を探し、そして生きる目的のために戦った。
その過程で失ったものは多く、得たものはあまりに少ない。
それでもやめるわけにはいかなかった。かつての誓いを覆すわけにはいかない。
「預言書という言葉。聞いたことはないが情報探索の足掛かりになるはずだ。
気の毒なことになったが、ソラハには感謝しなければな」
「ソラハねえ。お前もいまさらよくあんな子を見つけてきたもんだ」
ボラルはそばのベッドでいまだ小さな寝息を立てている少女に視線を向ける。
十年間まったく見つからなかった手がかりに、今になって偶然出会ったのは確かに不思議な事だ。
しかしアノスはその偶然を偶然とはカケラも思っていなかった。
世界が神の舞台装置であることを彼は確信している。
「運命、そうじゃなきゃ奇跡か」
「どっちもお前が嫌いそうな言葉だな」
運命、奇跡、定め、宿命。都合よく世界を動かすその概念をアノスは切に嫌っている。
それが今回のように己の都合にいいものだとしても。
否、都合のいい奇跡を身に受けたからこそ彼は神を嫌うようになったのだ。
「あの悪童は私に真実を追えと言っている。
奴の言いなりになるのは業腹だが、もとより私が求めていたものだ。
くれてやるというならもらってやるさ」
愛する母とうり二つの姿をした少女。
まるで十年の時を労したアノスへの褒美のように現れたこの娘を彼は決して手放さない。
ソラハというこの女を新たな起爆剤として、その復讐心は燃やされていく。
「あの子も巻き込むつもりなのか?」
その時口走ったボラルの言葉にアノスは一瞬硬直した。
巻き込む。復讐に生きる自分のそばに他者を置くとはそういうこと。
血や死と共に生きる男にかかわる女が生涯を平穏無事に過ごすなど、それこそ都合のいい話に過ぎる。
「……そうかよ」
無言の返事にボラルは呆れたように首を振ると、のそりと立ち上がり伸びをしながらアノスに背を向け部屋を出ていった。
「もうすぐ店長が目を覚ます頃だろ。その前にその子、起こしておけよ」
店長。扉をくぐった時そう付け加えた彼の言葉をアノスは頭を掻きながら噛みしめていた。
・・・
「拾っただあ?」
部屋を出た先にある質屋の店先。
そこの商品である椅子の一つに座りながらパイプ煙草に火をつけようとしていた眼鏡の女は、
突然のアノスの言葉にすっとんきょな声を上げた。
「ああ、親を亡くしたようでな。私が面倒を見ると決めた」
「私が……て、あんたねえ」
ズレた眼鏡を直しつつ煙草を握りしめる彼女がこの店の店主であり、長年アノスに部屋を貸し与えている女だった。
何色もの布地を混ぜ合わせたようなエプロンを身に着け、
伸び生やし放題のくせ毛を頭にのせたその姿はずぼらでだらしない印象を抱かせる。
たしかに店に置かれた家具や食器、服、その他なにに使うのかわからない珍妙な商品どもが乱雑に並べられているさまから見て、几帳面な性格とは言えまい。
「もしかしてここに住まわせるつもり? 家主の断りもなく?」
「倉庫には十分飽きがある」
アノスの自室兼倉庫には売れなくなった商品を押し込む棚やら箱やらが山ほど置かれているが、
少なくとも人ひとり問題なく寝泊まりできるスペースはある。
もう一度部屋を整頓し直せばソラハ一人分の生活空間など優に確保できるだろう。
それに売値も買値も微妙な彼女の質屋にこれ以上商品が増えるとも思えなかった。
「そりゃそうだけど、いきなりそんな見ず知らずの子を家に上げるのはちょっと……」
「私を拾っておいて今さらなにを言う」
「あん時とは状況が違うでしょうが」
煙草をアノスにつきつけ声を荒げる女は頭を抱えながら朝っぱらからの目まぐるしい展開に辟易していた。
何年も前、ボロボロになって路肩に倒れていた少年が今度は自分で女の子を拾ってくるなど、
彼女は想像だにしていなかった。
「頼むオゼリィ。この子は私と同じだ」
「えぇ……? そりゃあんたは用心棒に役立つし、
作る彫刻は売れるしでこっちも感謝してるから、聞いてやりたい気持ちはあるけどさあ」
そこで店長、オゼリィは改めて拾われたという少女、ソラハの顔を覗き込む。
アノスの背後に半身を隠すようにしていた彼女は彼に促されおずおずと前に出てくる。
緊張した面持ちの姿はその可愛らしい容姿も手伝って微笑ましいものだった。
「は、初めまして。ソラハ、と言います」
「ふうん。可愛いね、客受けしそう」
顎に手を当てながら少女の周囲を回りその全身を観察するオゼリィ。
全体的に痩せこけ、手足も細く不健康感は否めないが、それもしっかりとした食事を与えればなくなるだろう。
そうなった彼女が店先に立てば売り上げに貢献することがあるかもしれない。
しかし腑に落ちないことがあまりにも多すぎた。
「こんな子あんたどっから拾ってきたの?
やせっぽっちだし、貴族の娘誘拐してきたわけじゃなさそうだけど」
一度風呂に入れたためか、その姿は通りすがりに一目見られたくらいではただの痩せた少女にしか見えない。
サイズが大きすぎる服装も伸ばし放題の髪も、十分個性の範疇として受け入れられる。
とくに後者に関してはオゼリィも人のことをとやかく言える髪形をしていない。
しかしこうして近くからまじまじと見ていると、どことなく違和感を覚えてならないのはなぜなのか。
常にこちらを警戒しているような気配も、不安げにアノスを見る視線も、
人見知りの少女であるならなにも不思議なことはないというのに。
「親を亡くしたってのは?」
「候補生の試験に巻き込まれたらしい」
冬の訪れと共に始まる騎士候補生たちの逆徒狩り。
普段、数が多く拘束しきれない三層の逆徒たちを試験の名の下に一掃する毎年の恒例行事。
候補生たちの実践的能力を測ることができる上、街の掃除にも一役買うこの試験は民衆にも受け入れられているものだが、
数年に一度や二度、不幸な事故を耳にすることがある。
限定的とは言え、街中でバイソレッドを使用するのはまだ未熟な候補生たち。
使用を逆徒に対してのみと制限しても、流れ弾や出力過多の力が街や人に被害を与えることがあるは事実だった。
「両親二人とも?」
「いや、母親は幼い頃からいなかったらしい」
「この子に聞いてるんだけど」
ソラハに対する質問をことごとく、フォローを入れるよう答えていくアノスにオゼリィは疑念の視線を送る。
嘘を言ってはいないが馬鹿正直に真実を述べてもいないアノスはいつも通り堂々とした様子を崩さないが、
反面ソラハは冷汗すらかき始める始末。
「昨日の今日だ。あまり深掘りするのも酷だろう」
「そらまあ、そうけどさあ」
もともと情に弱い面を持つオゼリィにこの言葉は少なからず効いた。
もしやこの女の子がここまで狼狽えているのは自分が必要以上に少女の過去を問い詰めたせいなのかと、一瞬にして思い悩ませるほどに。
彼女は改めてソラハの顔を見る。
たしかに緊張と不安を浮かべた落ち着かない顔だが、そこに悪意や邪なものは感じられない。
少なくとも盗みかなにかを働きにアノスに取り入ったわけではなさそうだった。
ならば確認しなければならないのはあと一つだけ。
「まさかとは思うけど一応、念のため確認させてね」
そう告げるや否や、オゼリィはソラハの左手を握るとその手のひらを確認した。
彼女を連れてきたアノスを信用していないわけではなかったが、
素性のはっきりしない者をそばに置く以上これは避けて通れないやり取り。
相手は不快に思うかもしれないが、後で牢屋行きになる危険性を考えればやむなしだった。
開かれた手のひらに逆徒を示す咎の掌紋はなかった。
「まあ、変わり者のあんたでも流石に逆徒なんか拾ってこないか……」
安堵のため息をつきながら彼女は脱力したように椅子へと再び腰かける。
質屋の店主に長年使い倒されたその椅子は大きな軋みを上げながらも主を受け止めた。
「失礼なことして悪かったねソラハちゃん。かもしれない精神ってのは商人に欠かせないもんなんだ」
「それじゃあ」
「言っとくけど貸すのは寝床だけだからね。飯はちゃんと自分で買うなり作るなりするんだよ」
「助かる」
安心したような声を出すソラハに彼女は突き放すように言うが、
そんなオゼリィの声色などお構いなしにアノスは礼を言ってくる。
その声は彼女の優しさがそれにとどまらないことを知っている声だった。
「ただ、本当に金がない時は、店を手伝えばその日の飯ぐらいは食わせてやるから。
その時は早く仕事覚えるんだよ」
煙草の灰を落としながらぶっきらぼうにそう言う彼女はもう一度パイプに煙草を詰め始める。
話はこれまでというように背をこちらに向け火をつける彼女の声色は素っ気ないが内心の甘さを隠し通せるほどではなかった。
「買い出しに行ってくるが、なにか必要なものはあるか」
これでは売り上げも上がらないはずだと苦笑するアノスは、ソラハの背中を押して店から出ていこうとする。
その彼女が身に着ける大きなシャツを横目で見ながらオゼリィは鼻を鳴らした。
「もう少しましな服を買ってやんな。お前のお古だろそれ」
その服は彼女がアノスを拾った当初に与えたものだった。
成長した後も着れるようにと店の中で一番大きなものを渡したのを覚えている。
それをあんな小さな女の子に着せるアノスの精神を彼女は軽く疑った。
「朝から変に気を張らせるんじゃないよまったく」
連れたって店から出ていく二人を見送りながら、オゼリィは額に手を当て心底疲れたように首を振った。
そして入れ替わるようにやってくるボラルを見つけると舌を鳴らして彼を呼び寄せる。
行くか行くまいか少しの間迷ったように動きを止めていたボラルだが、しつこく舌を鳴らし続けるオゼリィに観念したように近づいて行った。
「お前も大概だけど、あの居候よか大分素直だよ。
あたしの気持ちを分かってくれるのはお前だけかもねえ」
雑に頭を撫でられながらボラルも内心彼女と同じようにため息をついた。
・・・
「よかったのかな」
店から出たソラハは小声でつぶやくように尋ねる。
彼女が視線を落とす先は自身の左手。焼き付いた掌紋が巧妙に隠された手のひらだった。
その皮膚が一瞬だけ歪みをみせかすかに黒く染まる。
薄皮のように少女の手に貼りつき肌に擬態するそれはアノスのバイスで形作られたものに違いなかった。
「こうしなければ、また路上生活に逆戻りだ。こちらも持ち家がないのは情けないことだが」
オゼリィがお人好しで甘い人物であろうと逆徒への認識は他の信徒となにも変わらない。
いくらソラハの素行が良くとも、親しみ深い間柄になろうとも、その手に焼きつく紋様を目にしただけで彼らは逆徒を敵とみなす。
「私もボラルも自分の事情を全て話しているわけではないし、
彼女が自分の全てを私たちにさらけ出しているわけでもない。
気に病むことはないさ。嘘を言ったわけでもない」
たしかに父親が候補生の試験に巻き込まれたことも、小さい頃から母親がいなかったことも本当のことだ。
加えてどちらもソラハが逆徒ではないとは言っていない。
「うーん」
なんとも屁理屈じみたことを説かれ、ソラハは腑に落ちないというように唸り声を上げる。
逆徒である者が人並みの生活を送るためにこれくらいの詭弁は仕方ないと自分に言い聞かせながらも、
嘘をつき続けなければならないことに彼女の良心は揺らいでいた。
「……オゼリィにも言えることだが、過度な優しさは不運を呼び込むだけだ。
最低限の倫理を残して、後はどうとでも割り切っておけ。生き延びたいのならな」
「……うん」
それは人を傷つけ盗みを働くことを良しとしなかったニヘルの言葉に相反するようで、
しかしその本質は似通ったものだった。
生きる上で非情になりながらも、人としての尊厳までは捨て去らない。
その尊厳を捨て去らねば成せない行為の線引きが、アノスとニヘルで異なるだけなのだろう。
「それで、これからなにしにいくの?」
とりあえず逆徒であることを秘密にしていくと納得したソラハは
どんどん人の多い場所へ進んで行くアノスに不安げな声をかける。
これまで人目を忍んでいた彼女にとって、逆徒であることを隠していようとも向けられる信徒の目には敏感になってしまう。
「言っただろ。買い出しだ。お前を見つけた日は結局行けずじまいだったが、話を聞きたいやつがいる」
アノスは歩き続けながらも少女の不安を感じ取ったのかその手をとると、その背に彼女を隠すように身を引き寄せた。
突然の力に姿勢を崩しかけるソラハは転倒を避けるため彼の腕にしがみつく。
「すぐに慣れろとは言わない。今日は特に人も多い。今日はそうしておけ」
「……わかった」
自分の腕とは違う、太く力強い腕。その腕を握りながら彼女は先日アノスが激闘の末、
多くの怪我に見舞われていたことを思い出す。
「ねえアノス、昨日の怪我……」
「ここから人込みになる。離れるな」
アノスはまるで言及を避けるかのように歩を早める。
心配をかけまいとする彼なりの気づかいなのか、それとも知られたくないなにかがあるのか。
どちらにせよ、その瞬間飛び込んできた景色に関心を奪われてしまったソラハにはわからないままだった。
質屋から五つほど角を曲がればそこは第三層の大通りだった。
冬の早朝だというのに通りを埋め尽くさんばかりの人々が時折通る貴族の馬車を避けながらそれぞれの買い出しに勤しんでいる。
その波に飲まれながらもアノスはソラハの手を握って進んでいく。
少女は今まで路地の隙間から遠巻きにしか見てこなかった群衆を目の当たりにし、
その目を回しながらなんとか足を動かしていった。
客を呼び寄せる謳い文句は常に道の両端から飛び交い、
その声にかごを下げた女性たちが引き寄せられるように群がっていく。
店はしっかりと建物を構えた立派なものから、混みあった道のど真ん中に布を臆面なく広げただけのものまで様々だった。
売られているものも肉、野菜などの食物や帽子や服、カバンなどの装飾品。
先ほどオゼリィが吸っていたようなパイプを歩きながら押し付けるようにして売っている者もいる。
混沌としつつも賑やかなこの通りはまさしく国の繁栄を象徴する場所に違いなかった。
人にもまれ飛び交う情報量の多さに面食らいながらも、この楽しげな空気に不安な気持ちも吹き飛びソラハの胸は静かに踊っていた。
ここにいる全員が逆徒に抱いているだろう思いもこの時は忘れて、初めて経験したこの騒がしさに彼女は思いをはせていた。
「こんなにたくさんの人見たの初めて!」
「感謝祭も近いからな。商人たちも書き入れ時なんだろう。抜けるぞ」
騒がしい通りで会話を成立させるため、
声を張り上げながら喋る二人は通りを斜めに横切るように進むと反対側の路地へと抜け出した。ソラハは初体験の濁流に息を乱しながらも、大通りから抜けてしまったことに不思議な顔をしている。
「買い物するんじゃないの?」
「あそこは人が多い分押し売りも多い。いろいろと不慣れなお前を連れ歩くのは大変だろ。
それに私が買いたいのは物ではない」
そう言って再び歩き出すアノスは大通りに背を向けて歩き出す。
まだまだ人気は多い、とはいえ先ほどの大群衆を見た後では道を一つ外れただけで寂れた通りに見えてしまう。
逆徒であるソラハにはこちらの雰囲気の方が親しみ深いものだろう。
喧騒から離れるのに比例して人も店も減っていく。
まばらに見える看板を掲げた建物も扉や窓を閉め切り、営業しているかどうかもわからないものばかり。
すれ違う人々も酒瓶を小脇に抱え、足元のおぼつかないような者ばかりになってきていた。
「一人家に残しておくわけにもいかないから連れてきたが、ここに入ったら余計なことを口にするんじゃないぞ。
なにか聞かれても頷くだけにしておけ」
「え?」
アノスは言うが早いか看板もなにもない一軒の建物の前に立ち止まるとノックもなしにその扉を開け放ち中に入っていく。
早朝だというのに薄暗い店内へ、彼の手を握ったままのソラハも同様に吸い込まれるように引きずられていった。
窓を閉め切った店内は壁や天井から吊り下げられた燭台が灯す小さな火に淡く照らされていた。
暖かみにあふれる暖色の光が空間全体を包む内装は随分と洒落たものだ。
椅子や机に身体を預けながらいびきをかく何人もの男たちいなければ、その雰囲気も引き立つだろう。
「おっと、いらっしゃい。お前さんが人を連れてるなんて珍しいこともあるもんだ」
店の店主なのか、カウンターの奥に立っている彼も酒瓶を持ち顔を赤くしている。
相当騒いでいたのかそばには割れたグラスが無残な姿を晒していた。
「ヒゲワシはいるか?」
そんな滅茶苦茶な店内の様子をいつものことのように流し目で見ながら、
カウンターに手を突き体を支えるようにして立っている店主にアノス声をかけた。
ソラハは転がっている皿やら瓶やら酔いつぶれやらをおっかなびっくり避けながらその後ろに続く。
「ヒゲぇ? あいつなら角の方で潰れてるよ。嫌なことがあったようで、ヤケ酒さ」
店主がそう言って指さすのは入り口の反対側、店の一番奥に位置するテーブル席。
四人ほどが座れそうなその席にたった一人、酒瓶を離さないまま突っ伏している者がいる。
否、男であるかどうかはわからない。
昨日のアノスのようにフードを被るその素顔はうつ伏せになっていることもあって確認できない。
「水を一杯くれ」
「おいおいまたかよ。ここは酒場だっちゅうにいっつも水ばっか頼みやがって。
そんなかわいい面しちゃいるが、下戸なわけじゃねえんだろ?」
アルコールを頼まない常連客に悪態をつきつつ、店主は近くにあったグラスを適当に拭うと水と氷を入れ差し出した。
「酒は思考が鈍る」
水を受け取ったアノスはそれを口にせず潰れたままの、ヒゲワシと呼ばれた人物のテーブルに置くと椅子を引きその正面に座った。
自分の対面に人が座ったことに気がついたのか、彼は猛獣のような唸りを上げながらゆっくりと体を起こした。
「お目覚めか?」
「……酔いつぶれた僕を優しく目覚めさせるのがよりによって君とはね、美人さん」
アノスの女顔をからかいながら目の前に置かれたグラスに口をつけるヒゲワシ。
その顔は名の通り鳥類を模した仮面に隠されていた。
くちばしの下にグラスを突っ込むようにして水を飲むその様子はなかなかに奇妙なものだ。
「随分と飲んだようだな」
「僕だって日頃の鬱憤を酒で吐き出す時ぐらいあるよ。なに、体を壊す程じゃないさ」
心配ご無用とアノスに手のひらを見せる彼はその後ろに立つ少女の存在に気づく。
所在なさげにあちこちへと視線を動かすその姿をヒゲワシは仮面の奥からじっと見つめていた。
「おやおや、美人の次は美少女ときた。なんだいなんだい水商売でも始めるの?
それとも、もしかしてその子も男だったりする?」
「預言書という言葉を聞いたことはあるか」
おどけたように大仰な手ぶり身振りで指さしてくる彼の手を無視し、アノスは今日この場を訪れた要件を端的に伝える。
その言葉を聞いたヒゲワシはそれまでのふざけた態度を止めて、もう一度酔いを覚ますように水を一気に飲み干した。
「予知者ならこの三層にもたくさんいるね。
翌日の天気や、人の未来を限定的に覗き見るバイスは珍しくない。
そういう奴らが書いた本なら、あるいは預言書と言えるのかもしれないけど。
君が言っているのはそういうことじゃなさそうだ」
表情を変えないままこちらを見つめてくるアノスに肩をすくませながら彼は机に肘をつくと密談をするように顔を近づける。
「ずっと前の話だ。それこそ君と出会う前。
僕がまだ情報屋として駆けだしだった頃にそんな話を一度聞いたことがある。
当時の師匠がやり取りしているのを後ろで見ていただけだったけどね」
「どんな奴がその言葉を?」
「うーん。これはずっとあっためてた話だしなあ」
食いつくアノスにヒゲワシはもったいぶるように顔を引くが、その調子に相手が乗ってこないのを見ると残念そうにため息をつく。
彼としてはもう少しこのノリにつき合ってもらいたいのだろう。
「まあ、あっためすぎて腐ってるような話だから言うけど、あの青い制服は騎士団の人間だったね」
「馬鹿なッ!」
投げやるようにつぶやかれた情報にアノスはらしくもなく声を荒げ立ち上がる。
その様子に対面していたヒゲワシは勿論、後ろにいたソラハ、遠巻きに様子をうかがっていた店主までもが驚きの表情を浮かべた。
エリヤが関わっていたとニヘルが言っていた預言書。
それに騎士団が関係しているというのならエリヤは騎士団の関係者ということになってしまう。
記憶の中で微笑む母親が騎士として働く姿など、彼は到底思い浮かべられない。
なぜなら彼女は騎士団が掲げる規範に逆らうまねをして自分たちを育てていたのだから。
「あー、揉め事なら外で頼むぞー」
ただならぬ気配を感じて店主が恐る恐る声をかけ、その言葉で冷静さを取り戻したのか、
ややあってアノスは再び腰を下ろす。
まだどこか混乱している頭を冷やしながらも彼はこの王都でエリヤがなにをしていたのかを考えていた。
「預言書とやらに騎士が関わってちゃ不都合なの?」
「……いや、手がかりが狭まったのはありがたい。少なくとも上層に行かなければならないのはわかった」
国王が住まう城と、騎士団の本部が門を構える第一層。
そして貴族の生活圏である第二層。
誰もが出歩くことのできる第三や四層と異なり、上位層には国の発行する通行証がなければ入ることはできない。
不法にこの地へやってきたアノスとボラスはそれを手に入れることができないまま、
エリヤにまつわる情報を広大な下位層で探しまわっていた。
辺境の小屋で子を育てていた温厚な母親が貴族だとも、ましてや騎士だとも考えられなかったために。
長年の捜索が空振りに終わったわけを察してアノスは自称気味に笑った。
「しかしそうなるとどうやって上層へ行くかだな」
貴族でない者が通行証を得るにはなんらかの形で貴族に雇われるか、貴族側から呼び出されるか。
どちらにせよ上層へ足を踏み入れる正当な理由がなければならない。
貴族に雇われ屋敷に拘束されながらエリヤの情報を探すことなどできないし、
そもそも貴族の知り合いなどいないアノスには雇われ、呼び出される機会などあるはずもなかった。
「そういうわけだ。通行証を手に入れる手段はあるか?」
「ないことはないよ」
ここからが本題だというように改めて情報を求めてくる客にヒゲワシはそう言って腰に付けた大きなカバンをまさぐる。
その中から取り出したのは小奇麗に刺繍がほどこされた白い封筒だった。
蝋で固められた封印には随分と厳かな男の横顔が浮かんでいる。
「似合わないものを持っているな」
「貴族が催すパーティーの招待状さ。
カノイの近況報告会を兼ねた、仮面舞踏会だとさ。しかも送迎馬車つき」
「カノイ?」
「有数の貴族さ。王家の娘を妻にしても王位を継げなかった訳あり貴族だけどね」
もしその招待状を使えるのならば少なくとも内壁の警備を気にする必要はなくなる。
顔を隠す仮面舞踏会というのも実に都合がいい。
そのでき過ぎともいえる都合のよさこそアノスが神を嫌う理由だった。
封筒の裏に書かれた説明書きを読みつつ彼はその文面を見せてくるが、
アノスがそれを手に持つ寸前に取り上げるようにして封筒を手元に戻してしまう。
これ以上は見返りが必要ということだろう。
「そんなものどうやって手に入れた?」
「自分に不利な情報を広まる前に買い取りに来る貴族もいるのさ。これはその時の追加報酬」
仰ぐように封筒を揺らすヒゲワシは仮面の外からでも笑っているのがわかる。
いつもは集め聞き及んだ情報を売る側として接触してくるアノスが買い手に回ったことがうれしくてたまらないのだろう。
「いくらだ? それとも情報か?」
情報の価格に相場などない。千人にまったく役立たない情報をたった一人が高額で買うこともある。
価格交渉の際に必要とされるのは相手がどれほどその情報を必要としているか見極める観察眼。
今回アノスはわかりやすく動揺を見せたこともあって相当な額を吹っ掛けられるものだと思っていた。
「いや、今回はどちらも結構」
しかしヒゲワシは首を横に振りながら始まってもいない交渉を拒否する。
その言葉に含まれた意味をなんとなく察しながらもアノスはその真意を確認するため口を開く。
「ということはタダでよこしてくれるということか?
預言書の話といい、今日は随分と口が軽いなヒゲワシ」
「さっきのはそれこそ君ぐらいしか必要としてない情報だろうしね。
君は商人をゆすれるネタをよく持ってきてくれるから、まあサービスだよ」
封筒をカバンにしまい込み、再び向き直る彼は仮面ごしにアノスの目を見つめ、自分が求めている見返りを語りだした。
「ここ最近三層と四層の境目で行方不明事件が多発しているのは知っているか?」
「いや」
いつになく真面目な口調で話し出すその声色は先ほどまでの弾むような声とは打って変わって、
沈み込むような深く落ち着いたものだった。
「初めにその話を聞いたのはまだ季節が変わる前だった。
寄り集まっていた逆徒の集団を誰かが襲撃したってね。
正直逆徒がどうなろうが知ったことじゃなかったけど、それが連続して起こるもんだから僕も耳を立てていいたんだ」
四層との境。それは先日アノスがソラハを見つけた場所でもあった。
もとより身を隠しやすい路地が多い三層には逆徒が多く住み着いている。
普段騎士の目が届きにくいことから四層間際に集まるのも当然だろう。
「異変が起きたのはついこの間さ。
それまで逆徒しか狙っていなかったそいつが今度はなんの罪もない信徒までさらい始めたんだ」
「なぜその事件が同一犯によるもものだと?」
「現場を見れば一目瞭然だったさ。
連れ去られたのはみんな女だったんだけど、それを守ろうとした男たちはみんな血でも吸われたみたいになってたからね」
「殺されたのか?」
「いや、衰弱はしていたけど逆徒も信徒にも死人は出なかった。
意図的かはわからないけど、犯罪者でも逆徒の呪いは恐ろしいってことかね」
逆徒の呪い。逆徒を生きるという罰から解放した者に降りかかると言われる不幸。
それは神が直接、初代国王告げたという戒めの呪い。
その話が真実であるかどうか、いまとなっては確認のしようもない。
そしてそれ以上に重要なのは信じる者が国の大半を占め、
少なくとも、呪いは厳然たる事実として彼らの中に訪れることになっている。
「それで? まさかその事件を解決しろとでもいうのか?」
「そのまさかさ」
このような話をこのようなタイミングで伝えたのだからそういうことだろう。
呆れるように手をかざすアノスにヒゲワシは当然のことのように頷く。
「なぜ私なんだ」
「君だけじゃない。僕の情報を欲しがる人たちにはいろいろと報酬を変えて頼んでるよ。
最も早く解決した者にだけにってね。君も一番に解決できなきゃあの封筒は無しだよ」
もう一度カバンの端から封筒を少しだけ覗かせ、おかしそうに声を上げる。
その声色はいつものようなおどけた調子に戻っていた。
無機質な仮面に似合わない軽い言動は対する相手に己の真意を見せないための防御壁なのだろう。
個人主義で他者との距離に人一倍敏感な彼がこのような人助けの依頼をしてくることがアノスには意外だった。
「なぜお前がこんなことを? 慈善活動に目覚めたわけでもないんだろ?」
その言葉にヒゲワシは仮面の中でニヤリと笑うと、座っている椅子に足を乗せ体を抱き寄せるような縮こまった姿勢で楽しげに語る。
「信徒の誘拐もそうだけど、生死が判明しない以上騎士団は逆徒の誘拐事件を一刻も早く解決しなければならないはずなんだ。
もし犯人が逆徒を殺しでもしていたら、禁忌を犯す者を野放しにしておくことになるからね」
騎士の最も大切な責務は神の言葉と信仰を守ること。
彼らは神への侮辱を、そしてなにより神への反抗を許さない。
ゆえに逆徒を直接手にかけることはせず、どれだけ憎かろうとその殺害を禁じている。
その禁忌を犯せば騎士団はその者を徹底的に追い詰め、神に仇名した背信者として断罪するはずだった。
「でも一連の事件、騎士団の動きがあまりにも遅すぎる。
いくら三層の端っこだからっていまだに巡回すら増やさないのは明らかにおかしい。
と、そう思った僕はある結論に達したのさ」
「この事件には騎士団が介入していると」
「その通り」
騎士団が動かないのは犯人が逆徒を死なせないとわかっているから。
連れ去られなかった男たちと同じように生かしたままにしておくと確信しているに違いないとヒゲワシは言う。
「もしその証拠をつかむことができたら、どこに売っても金になる。
真正面から騎士団に喧嘩吹っ掛けるのはまずいけど、そこに顔が利く貴族やら商人やらには喉から手が出るほどの情報だろう。
逆徒を集めてなにしてるか知らないけど、信徒にまで手を出すべきじゃなかった」
前後に体を揺らしながら幼い子供のように声を弾ませヒゲワシはきたる特大のネタを心待ちにしている。
この王都で絶大な力を持つ騎士団だからこそ、その不祥事はなんとしてでも隠さねばならない。
そのための金に糸目はつかないと彼は考えているのだ。
「その推測が正しいものだったかどうかも含めて探し出せと、そういうことだな」
「わかってるんなら急いだほうがいいよ。
もう僕から話すことはないし、もしかしたら明日には別の誰かが事件を解決しているかもしれない」
席を立つアノスはそんな意地の悪い声を背に受けながら店を出ていこうとする。
その彼を慌てて追いかけようとするソラハの手をヒゲワシは掴み取った。
あまりの突然さに少女は声も上げられず、引きつった顔でこちらを覗き込む仮面を見ていた。
「君は……彼の名前を知っているのかい?」
その質問はどのような意味を持つのか。
アノスという名を知っているということか、それともなにか別の意図があったのか。
どこか含みのあるその言葉はアノスが初めて名を名乗った時の違和感に似ていた。
「おい」
その時発せられた声は驚くほどに鋭く、ヒゲワシを捉える。
とても冷たく、血の通っていない鉄杭の如き鋭利さは、そばにいたソラハもろとも突き刺す。
向けられる苛立ちと怒りは彼女が触れられたことでその姿を見せたのか。
母に似た少女に触った。
たったそれだけのことでこの男は先ほどまで親しげに話していた人にこれほど負の感情をぶつけられる。
先ほど声を荒げたことといい、彼をここまで乱すエリヤという女、
自分の母親だというその存在をソラハはどこか恐ろしく思えてならなかった。
「なんだよー、ちょっと話しただけじゃないか」
アノスの声を聞いたヒゲワシは手を放し、降参の意を表すかのように両手を上げた。
しかしその声はいまだその飄々とした態度を崩さず、彼が本当に臆しているのかはわからなかった。
「その子には先日会ったばかりだ。私のことなどなにも知らん」
「そんな子をわざわざこんなところまで連れてくるなんて。一人にしておくと心配なことでも?」
「ああ、いろいろとな」
どこか探りを入れるような言葉にアノスは早々と会話を打ち切り、今度はソラハの手を引いて店を出ていこうとする。
カウンターの前に差し掛かった時に、水の代金なのか一枚の銅貨を店主に投げ渡す。
店主は慌ててそれを抱え込むように受け取った。
「邪魔したな」
「今度こそ飲んでけよ? あんなのが住み着くぐらいには美味いぜ。大通りの店にゃあちと劣るかもしれんが」
「ああ、そうだな。考えておく」
建前か、それとも本心か。アノスはほんの少しだけ店主に笑みを向けるとそのまま扉をくぐり、二人は店を出ていった。
残されたのは大量の泥酔者と奇妙な鳥仮面だけ。
店主は一向に目を覚まさない男たちを眺め、気持ちを切り替えるかのように短く息をつく。
「さてと、そろそろこいつらを追い出さねえとな。ヒゲワシ、おまえも手伝え」
「いくら?」
「瓶一本サシ飲みでどうだ」
「おっさんと飲むのは報酬になんないよ」
店じまいの空気に次第に店内がざわつきだす中、
ヒゲワシは倒れ伏す男たちをつま先でつつきまわしながら握った少女の腕の感触を思い出していた。
一瞬のことで詳しくはわからなかった違和感。
手を握ったあの時に感じたかすかなおぞましさは、
他者という存在を敏感に感じ続けている彼でなければ気がつけないほど薄いものだった。
それこそ隠されているように。
「ただの気のせいか、彼女のバイスなのか。それとも……」
仮面の奥で含み笑うヒゲワシの顔は誰にも見えない。
彼はそのくちばしを撫でながら、あの少女がアノスにまつわるなにかを変えていく予感を感じていた。