早まる者-3
室内に吹き飛ばされた後、
ヘイツが追撃を仕掛けてこないのは移動できる範囲に限りがある室内での戦闘を避けたいからだろう。
片腕の攻撃手段を失った今となってはなおさら、自分から檻に飛び込む真似はしない。
先の一撃を叩き込まれまともな動きが出来なくなっているアノスには好都合だが、反面逃げ場がなくなっていることも事実だった。
「エリヤのことだったな。キミは彼女のなんなんだ?」
単独での攻め手が底を尽きた今、唯一の頼りがこの男だった。
元は彼の保護救出が目的でやってきたというのに。
イレギュラーが重なったとはいえ思い浮かべていた筋書きとは全く異なる展開にアノスは自嘲気味に笑った。
「……息子だ」
かつての妻であった女。その息子と名乗るこの男が何者なのかはいまだ不明なまま。
少なくともソラハより年上であろう彼とエリヤの間に血のつながりがあるとは思えない。
しかし彼の声に宿るなによりも強固な自信はそのつながりを超えうる何かを想起させるものだった。
「『預言書』を探せ、そこに彼女の過去があるはずだ」
それは彼が唯一知っているエリヤの秘密。
夫婦として仲睦まじい生活を送る反面、彼らはお互いの仕事に対し余計な詮索をしなかった。
彼自身が秘密主義の強い職場に勤めていたこともあり、家庭でその手の話題を振らないことが暗黙の了解となっていた。
そんな中、ソラハが生まれた直後、彼がエリヤの元を離れる直前にただ一言彼女が口走った『預言書』という言葉。
それが何を意味するものかは今をもってなおわからないが、その先にこの男が求める答えがあることは察しづいた。
仕事内容を不意に口にしてしまうことなど、その日が最初で最後だったのだから。
「預言書、か」
反芻するその言葉に思い当たる節はない。
具体性に駆ける言葉であることは口惜しいが、その一言で母の死の真実に一歩でも近づくのならこれ以上の収穫もない。
続けて語られる情報もないことを察したアノスは手にした刀を少女の父に手渡しながら、おそらく最後になるであろう言葉を交わす。
手渡す刃に先ほどまで溢れていた、神経を逆なでする狂気は宿っていない。
「あんた、名前は?」
「ニヘル。どこにでもいる名さ」
赤黒く脈打つ刀を受け取り、どこか恥ずかしそうに笑いながら名乗るニヘルは手のひらから滴る血で刃を重ね塗る。
砕かれたいくつもの骨が体を内側から突き刺しているというのに苦悶の声一つ上げない彼の精神はどれほど極まっているのか。
それは死を前にした者にしかわからない終わりゆえの極致だった。
・・・
裂かれた右手の痛みを噛みしめながらヘイツはアノスが牢獄から出てくるのを待っていた。
あの一合から仕切り直しというには長すぎる間が開いている。
訪れようとした決着の瞬間が先のばされ不完全燃焼な状況に治まりがつかないまま彼の闘争心はくすぶっていた。
「よお、小僧ォッ! いい加減に出てきやがれよッ!
そんなとこに引きこもってても俺ァいなくならねえぞッ?」
挑発するように声を荒げるヘイツの身体は切られた右手を除けばいまだ無傷。
四肢をふんだんに使用する格闘戦において、その四分の一を削られたことは大いなる痛手に違いないが、それも先ほどのカウンターを決めるまでだった。
武器を手放すか否か。後者を選んだアノスに彼はまさしく決定打となる一撃を見舞った。
狙い、形、体重移動、姿勢制御、それに交えたバイスによる加速、総てが噛み合った渾身の一打だった。
それを躱すことも、いなすことも、受け身すら取れずにくらった者がまともな戦闘を続けられると、ヘイツには到底思えない。
いくら片腕を落とされようとも、あのダメージを追った者に負けることはない。
その絶対的自信を持ちうるほどに彼のカウンターは完璧だった。
「だからいい観念しろよッ! なにも今すぐぶっ殺すわけじゃねえ。
背信行為には無駄に長げえ取り調べがつきもんだ。
俺ァ専門じゃねえから詳しくは知らんが、今後の態度によっちゃあまだやり直せる余地があるかもしれねえぞッ!」
だが彼の闘争心は冷めておらず、その熱は今もなおくすぶっている。
歯ごたえのある相手との戦いを楽しんでいたのも、そこに決着をみせたいと感じているのも本心。
しかしそれは彼個人の欲求にすぎず、
抵抗を見せない相手には騎士らしい高潔で姿勢で、事態を収拾すべく理性的な対応に努めなければならない。
正直なところこのような軟弱対応は好戦気質なヘイツとはかみ合わず。
本人も煩わしい決まりだと嫌っているのだが、敬服する部隊長直々に釘を刺されていた手前、反故にすることもできなかった。
ゆえに彼は口にする停戦の提案とは正反対の抵抗を望んでいる。
たとえ勝敗が決まっているも同然だとしても、この戦いの最後が両手を上げた降伏の姿勢で終わるなど興醒めもいいところだった。
ならば最後まで抵抗し、首だけになっても喉元に食らいつく往生際の悪さを掲げてみろと彼は心中で叫ぶ。
その考えは戦う者として生きてきたヘイツの人生そのものを現していた。
「いいから出てこいよッ! なあッ!」
そしてその声に応えるように彼は姿を現す。
黒いロングコートを身にまとい、フードで顔を隠した影。
瓦礫に手を突き、肩を上下させるその姿は相当のダメージを追っているように見える。
それほどの傷を負ってなお手放さなかった刀は今もその手に握られており、
ゆっくりと持ち上げられる切っ先は待ち構えるヘイツを突き刺すように捉えている。
「そうだよ、そうだよなあ。くるか? くるんだろ? こい、さあ早くこいッ! こいよッ!」
向けられる抵抗の意思表示にヘイツは歓喜の声を上げながら打ち震える。
満足に動かすこともできないその体でも、なお戦の灯を消さない彼の魂はなんと美しいことか。
そんな男をここで殺すことを惜しいとは思わない。勝利と敗北。
生と死の刹那に生きる戦士にそのような感傷はなによりも不要なことだった。
身を投げるようにこちらへ飛び込んでくるその姿には、つい先ほどまでの素早さも、身を切るような殺意の鋭さも感じられない。
しかしそれを期待外れとは言えなかった。
満身創痍の身体を突き動かしその死を咲かせるべく向かってきた生き様にこそヘイツは感動している。
その気概を持った者の命を断てることに感謝している。それゆえの敬意を彼は今ここで示す。
「戦士の最後だ。それに相応しいモンで逝かせてやる」
それまでただの一度も抜かなかった剣を彼は向かってくる男を前に引き放つ。
鋭く美しい月夜に輝く銀の剣。
自分と同じく戦いに殉じる者として抱いた想いをヘイツはこの剣に乗せ、幕引きとすることに決めたのだ。
「楽しかったぜ。テメェとの夜はたまに思い出して浸ってやる」
それは騎士として最大級の褒め言葉だった。
信念や思想の違いはあれど、その根底にある戦いへの真摯さだけは同じものと信じて、
彼は落下してくる男に介錯の斬撃を打ち放つ。それが合図だった。
「悪いが、私ではご期待にそえそうもない」
その瞬間、男のまとっていたコートが弾け飛ぶ。
四方に泥水のように飛び散る黒い物質はアノスがバイスで創り出していたもの。
四散したもの急速に成長する植物のように地面から這い出し、一斉にヘイツを取り囲んだ。
それは先ほどと同じように彼の移動を制限させるための檻。捕らえるための罠だった。
「馬鹿な……テメェ」
そしてコートと共に檻の材料となったフードの下から現れたのは拷問部屋にいたはずのニヘル。
隊長に変わってこの男と会うために彼は収容所にやってきたのだ。間違えようがない。
ろくな着地もできずに地面へ叩きつけられ倒れ伏す彼は、その無様な姿に似合わない勝利の笑みを浮かべていた。
「……ふざけんな」
ヘイツはアノスに謀られたことをその時ようやく悟った。
騎士ゆえの、否、己の戦いに対する矜持を踏みにじられたことに彼の怒りは最高潮に達していく。
その憤怒は施設内からソラハを担ぎ現れたアノスを見たことで完全に振り切れた。
「テメェッ! 小僧ォッ! ふざけんじゃねえぞッ!
こんな小賢しい手で俺の戦いを汚しやがってッ!」
怒りに燃えるヘイツは暴走ともとれる無形さで檻を打ち壊さんと暴れまわる。
しかし囮として残ったニヘルがそれを許さない。
彼の握った死骸の刃はいまだ形を成したままその手にとどまっている。
もはや起き上がる力もない虫の息の彼だが手にした刀を動かすことはできた。
切っ先を向けるのは檻を叩き壊さんとするヘイツの背中。
怒りにまみれこちらを警戒していないその声を頼りに定めた刀身はその形を急速に膨張拡大していく。
瞬時に伸びていくその切っ先が繰り出したのは伸縮による刺突攻撃。
その不意打ちはなににも遮られず躱されず、まっすぐにヘイスの肩口へと突き刺さった。
「……クソが、テメェもかよ」
しかし狙いもつかない、たった一度の盲人の刺突が致命傷になるはずもなく、結果は彼の敵意をニヘル側に引きつけただけだった。
だがそれでいい。それが彼の目的だった。
気休めにと持たされたこの刀で自分ができるのはこれぐらいだと。それが囮としての役割だと。
ボロボロだった彼の体は地面へ衝突した際に完全に崩壊し刀を手放した腕を最後にその感覚も失われていた。
痛みすら感じなくなったニヘルは張り詰めていた精神の糸をようやく切らす。
急速に意識が暗がりに沈んでいく中、完全にアノスらを見失ったヘイツがその傍らに立つ。
「介錯はしねえぞ」
肩に刺さった剣を無造作に引き抜きながら、彼は失望の声とともにニヘルを見下ろす。
いつの間にか広がっていた血だまりを踏みしめながら
屍となりつつある者を囮として利用した背信者の行いにヘイツは苦々しく顔を歪めた。
「結局背信者にまともな戦士なんかいやしねえってことか。ああそうかい、わかったよ」
すべては己の見込み違いだったと納得する彼はニヘルの正面へと回り込みその生死を確認するかのようにしゃがみ込んだ。
全身を苛む激痛を最期まで受けていたというのに、その死に顔は実に満足そうな、すがすがしい顔だった。
自らの役目を全うし、それを受け継がせたことで、もはや彼に憂いは残っていなかったのだ。
「……気に食わねえ。死ぬのは負けた時だろうが。負けたやつがなに笑ってやがる」
そう静かに悪態をつくヘイツ。
彼の周囲に残ったのは囮の死体と、檻と刀の形を失った赤黒い腐臭の血だまりだけだった。
・・・
木々の間をよろめきながら抜けていくアノスの背中でソラハは考えていた。
父が言った自分のために、人として生きるということ。それがいったいどういうことなのか。
混乱する頭ではわからない。
「もう下ろして、アノス」
悲しみと恐怖で硬直していた体の自由がようやくきくようになったのは森林地帯を抜けた頃だった。
四層で暮らす平民の家々が見え隠れしだしたこの時まで、自分たちを追ってくる気配は感じられず、
二人はようやく警戒心を解きほぐす。
静かに息を上下させるアノスはその場に生えていた木の幹に背中を預けながら腰を下ろし、
身に受けたダメージの深さを痛感していた。
「大丈夫?」
「……お前もな」
背中から下ろされたソラハは傷だらけの身でありながら自らを背負ってここまできたアノスを労うように声をかけ、
その言葉を言うのは自分だと思っていた彼も同じく口を開いた。
森を抜けるまでの間、まったく言葉を交わさなかった二人はお互い不器用に気を使ってぎこちないやり取りを交わし合う。
体はもう動くのか、傷は痛まないのか、ボラルはもう帰っているのか。
特定の話題を避けるようにして続く意味のない会話にやがて二人は再びどちらともなく閉口した。
無音の空気が流れる中、聞こえてくるのは風にそよぐ木々のざわめきと、眠りから目を覚ましだしたかすかな鳥の声。
心中に相反するその穏やかな情景は、ちっぽけな不幸になど気にも留めない神の意志を表すものなのか。
天を睨みつけるように見つめるアノスはいまだ明けない夜空へ無情なる神への憎しみを込めていた。
そのとなりへソラハは並ぶように座る。
腰を下ろす彼女は何も言わずただじっと動かぬまま、かすかな森の音に耳を傾けるかのように目を閉じていた。
彼女が今なにを考えているのか、誰を想っているのか、それは言うまでもない。
「……父親のこと、すまなかったな」
もとより情報を聞き出すための接触だったがそれは彼の救出を前提とした話だった。
彼女が父について話したのはその部分を期待した所も大きかったのかもしれない。
エリヤに関する話を聞けたとはいえ、ニヘルは救えず、結果的に彼の死にアノスは携わってしまった。
自分がこの場に現れなかったら彼はまだ命を繋いでいたかもしれないと、そう思わずにはいられない。
「アノスが謝ることじゃないよ」
しかしそんなアノスの謝罪をソラハは首を振って受け取らない。
父が死を選んだのは自分のためだったのだからと。
彼女がその目に涙を浮かべないのは現実を受け入れられないからではなかった。
自分を逃がすため一度は捕まり、二度目は自らの意志でその命を落とした父親。
そんな彼を救えぬ無力にさいなまれようとしていた時に聞こえた、『生きろ』という言葉。
その意味を彼女はずっと思案している。
自分を犠牲にしてでも娘を守ろうとする愛。
娘と、そしてなにより自分の意志を守り通すための愛は、美しくも身勝手な信念。
自分のために父を失う娘がどのような気持ちになるか彼は一度でも考えただろうか。
守ってくれと頼んだことはなかった。守らせてほしいと頼まれたこともなかった。
すべてはニヘル一人のエゴにすぎず、だがソラハもその身勝手を当然のものと受け入れて生きてきた。
父の言うことを信じ、全身を預けたまま日を越してきた。
ずっとその背中に甘え、矢面に立つ彼と対等な立場なれるはずがなかった。
それが親子というものなのかはわからない。
しかしそれえゆえにニヘルは最期まで娘を導く者としてあろうとしたのだろう。
そんな彼が生きろと言った。父がそばにいた頃は思いもしなかった死への誘惑。
アノスに出会う直前、ナイフを手に取ったソラハの耳をかすめていったあのささやきを自分のために乗り越えていけと少女は告げられた。
逆徒である彼女に付きまとうであろう迫害と弾圧。
それをうけても死を選び取ってしまわないようニヘルはこの言葉を託したのかもしれなかった。
「それに……」
加えソラハには一つわかっていることがあった。
アノスと出会い、あの部屋で初めて父に関する話をした時から彼が決して口にしなかった言葉があることを。
「お父さんを探すって言った時から、アノスは一度も『助ける』って言わなかったでしょ?」
それは意図的に選ばなかったわけではなかった。アノスは本心から彼を助け出すつもりでいた。
少女を悲しませないため、そしてなによりエリヤの情報を得るために必ず彼女の父を見つけ出すと。
しかし大切な者を救い出せなかったという彼自身の過去が、無意識に救うという言葉を口にさせなかったのかもしれない。
アノスは自分でも気づいていなかった点を指摘され、かすかに眉を動かした。
「わたし、生きるよ」
立ち上がりながら呟く彼女にまとうのは悲愴ではなかった。
父を失った悲しみは消えない。その痛みは深く彼女の心を抉り一生消えない傷となってしまった。
しかし失ったかわりに得たものもあった。それが生きるという決意。
「自分のために……生きる」
父が最後に残した言葉がはっきりとわかったわけではなかった。
自分のため、人としていきていくということ。それがどのような生き方なのかは、あやふやなまま。
しかしその答えを探していくうえでもここで立ち止まるわけにはいかなかった。
「……私のところにくるか?」
ソラハに次いで立ち上がるアノスは少女の瞳を見据えながら告げる。
エリヤを知っていたニヘルは死に、もう二人がともに行動する理由はない。
あるとするならそれはアノスの一方的な執着。
「それは、わたしがお母さんに似てるから?」
その言葉にアノスは短く頷く。彼が幼いソラハに母親であるエリヤの面影を見ているのは事実だった。
ソラハ自身ではなくそこに見る記憶に執着していることをアノスは否定しない。
そんな彼が差し出す手を少女は複雑な思いで見ていた。
「でもわたしはお母さんじゃないよ?」
この手をとり、彼の庇護下に入ることはソラハが生きていく最も安全な選択なのだろう。
彼女には他者を押しのけて路地裏の生存競争を生き抜く経験も力もない。
そんな少女を無条件で守り、生かそうとしてくれるアノスは彼女にとって実に都合のいい存在だった。
しかし彼という恩人の想いを利用するような行為はどこか心苦しく罪悪感を呼び起こす。
自分が生きるために誰かを利用しなければならない。
幼い少女にはそのことが残酷なように思えてならなかった。
「それでも私が決めたことだ。私はもうその顔を死なせない。絶対に」
その考えをアノスは断じる。あくまでこれは自分のわがままだと彼は言う。
その強固な決意はけして覆らず、ゆえにそれを利用しろとでも言うように手を伸ばし続ける。
ボロボロになった腕が少女を待っている。ソラハはその腕に自らの手をゆっくりと重ねた。
果ての空が徐々に明らみ、夜が終わろうとしている。
・・・
第一層。王の住まう城。その城内、騎士団の本部が門を構える一画に片腕を包帯で吊られたヘイツが立っていた。
神を奉るための厳かな装飾がほどこされたその部屋に呼びだされた彼を正面から見据えるのは至極色の長髪をなびかせた一人の男。
椅子に腰かけ、書類を片手に持ちながらその瞳をまっすぐと向けている。
「なにがあった」
短く。短く告げられた言葉が部屋全体に、そしてヘイツの胸へと異様なほどに響き渡る。
それは聖王騎士団第三部隊長を務める彼が放つ威厳が成すものなのか。
隊長と呼ばれるにはいささか若く見えるその容姿からは想像もつかない緊張感が部屋を満たしていた。
「ネイバック。私は収容所へ拘束された背信者への面会を貴公に命じたはずだ。
それがなぜ、収容所半壊などという結果を残すことになる」
表情からも、声色からも、怒りや苛立ちといった感情は見えてこない。
実際に彼は事務的な事実確認を求めているに過ぎなかった。
そんな人物を前にしているだけだというのに、ヘイツはまるで戦火飛び交う死地にでもたっているかのように顔をこわばらせている。
「加え、私に立ち会いを求めた当の背信者は死亡し、警備担当の騎士数名が軽傷を負った。
逆徒の囚人に犠牲が出なかったのは幸運だったな。
そんなことがあれば罰則では済まなかっただろう」
敵意も殺意も戦意すらない目の前の男に、ただ一辺倒な声をかけられているだけでヘイツの精神は擦り切れていた。
彼がこと強さというものに敏感であるがゆえに、
目の前に佇む男の強者としての格を知っているがために、滲み出る冷汗は止まらない。
「話せ」
「はッ!」
口を開くことを許されたヘイツは片腕を後ろに組んだ敬礼姿勢のまま語りだす。
面会予定だったニヘルの部屋に出向いたこと。その部屋に囚人以外の誰かがいたこと。
その者たちが囚人を逃がそうとしていたこと。そのうちの一人と戦い、取り逃がしたこと。
「失態だな」
「申し訳ありません」
「私になにを詫びることがある?」
「あなたの名を口にしたという背信者。その者への面会を私に任せた信頼。
それを裏切ってしまったことに対して」
その言葉を受けた彼は苦笑するように鼻を鳴らす。
口端を軽く上げながら笑うその顔はある種親しみ感じるはずの表情だったがヘイツにそれを受け取る余裕はない。
「相も変わらず義理堅いことだ」
視線を書類に落とし、羽ペンを走らせる彼はそのまま報告を続けるように促す。
目線を外されたことでヘイツは身を縛るような緊張から解放された。
「どのような相手だった」
「物質形成のバイソレッドを使う男です。
顔を隠していたために容姿は不明ですが、年は若いかと」
「なぜ」
「かつての私と同じことを言っていたからです」
「ほう」
それはいつだったかヘイツが目の前の男によって騎士団に引き入れられた時のこと。
神の無慈悲さに嘆く少年にその間違いを説いたことがあった。
神が与える試練の残虐さと、それを乗り越えることの崇高さを。
「あの時の貴公はまさに狂犬だった」
「お恥ずかしい限りです」
懐かしむように目を細める男と、恥ずるように目を伏せるヘイツ。
その時だけは二人の間にどこか和やかな空気が漂う。張り詰めた上司と部下ではなく。
まるで仲の良い兄弟のような空気。一瞬で霧散するその雰囲気は確かに二人の関係性を表していた。
「他に、気になった点はあるか」
「……二つほど」
再び訪れた空気の中、彼は言うか言うまいか直前まで決めかねていたことを口にする。
「物質形成によって形成されたものは……人間の肉体でした」
「……というと?」
「奴はバイソレッドで身を守る盾や檻のような格子、それから刀など様々なものを創り出し戦っていましたが、
そのすべてが人間の死体を凝縮して形作られたものだということです」
それは聞くだけでもおぞましい能力。
神が創りだした最高傑作ともいえる人間を潰し、練り直し、意のままに操る。
バイスは神が人に与えし英知だが、この能力に関しては本当に神に与する力なのか疑問に思わざるを得なかった。
「そのことに確信を持ったのは取り逃がした後に奴が残した得物を見た時でした」
囮となって死んだニヘルの傍らで溶け落ちるようにして形を失った檻と刀は、
死体であるニヘル以上の死臭を巻き上げながらその場に広がっていった。
騎士として多くの死者を見てきたヘイツならまだ折り合いもつくが、
人死にを見たことのない一般人や候補生が目にすればその訳も分からぬおぞましさに震え立つのも当然だった。
「確かに聞いたことのないバイスだ。
至急管理部に報告し、類似能力が確認されているか確かめさせるとしよう」
騎士団には設立当初より、王都へ足を踏み入れる者に所有するバイスの報告を義務づけている。
バイスの悪用を抑制させるため。戦闘に有用な力を持ったものを騎士団が把握するため。
その目的は様々。稀有な能力であればあるほどその所在が筒抜けになる。
「勿論、正規の手段でここにやってきた者ならばな」
逆徒に手を貸すような者が馬鹿正直に能力調査など受けるはずがない。
形式とおりの報告と調査はさせるが、その結果が空振りに終わることは目に見えていた。
「それで、二つ目は」
書類にペンを走らせながら男はヘイツが気になったという二つ目の点を聞き出す。
紙をこする音が小さく響く中、ややあって彼は口を開いた。
「交戦した賊が……エリヤと、恐らく女性の名前です。
名前だけではどうしようもありませんが、奴が口にした唯一の特定材料ですので念のためと……」
その瞬間、書類に走らせていた男の手が止まる。
まるで一瞬にして凍り付いたように動きを止めた彼は書類に落としていた視線をゆっくりと持ち上げる。
その紅き瞳は驚愕に見開かれていた。