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持たざる者からの宣告  作者: 大悪紅蓮菩薩
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早まる者-2

新キャラ登場

 最上階の中心部。長い通路を抜けた先に設けられたのは、牢獄の中でも異質な部屋だった。

窓のない無骨な石造りの内装は同じだか、

そこに備えつけられているのは無数の針が立つ椅子や焼きごて、粗い刃がついた巨大なノコギリ、

その他人間を痛めつけることを目的として作られた拷問器具ばかり。

壁際に所狭しと並べられたそれらは

店先に展示されている商品のように誰かの手に取られる時を心待ちにしているようだった。


 そして唯一もので床が埋められていない部屋の中心には無数の鎖が高い天井のはりから垂れ下がっていた。

人を傷つける力を持たない唯一の器具だが、その用途は一目瞭然だった。


 天井から吊られている鎖の先には長身の男が括りつけられていた。

両の手の甲を鎖に貫かれ、地に足をつけることもできないまま首を垂れるその姿は一見首を吊ったようにも見える。

実際に、かすかに揺れ動きながらも苦痛の声すら漏らさない男の様子では死体と見間違われても不思議ではない。

しかし彼の頭の中では今も数々の思いが錯綜していた。


「ソラハ……」


 張りついた喉を震わせて数日ぶりに発したのは、この状況と引き換えに逃がすことのできた愛娘の名前。

窓のないこの部屋でどれほどの時間がたったのかわからないまま、彼女の安否をこの男はずっと案じていた。


 穿たれた手の甲からまた一筋の血潮が流れ落ちる。

全身を這って足先から地面へ滴り落ちる命の源は、後どれだけ彼を生に繋ぎ止められるのか。

続けざまに行われていた拷問もなんとか納まりを見せたが、その時つけられた生傷の数々が塞がることはない。

彼の足元に広がる血だまりは徐々に、しかし確実に広がっていた。


 この十数年、彼が娘と同じ逆徒としての生活に身をやつしながらも二人で生き延びてこられたのは、

ただ単に幸運だったからに他ならない。

この男もそれを自覚していたし、幸運が得てして長続きしないことも知っていた。

ゆえに娘との生活が永遠のものとも思っていなかったし、

それが奪い去られた時に下されるだろう死への覚悟も決まっていたはずだった。


「まったく……我ながら生き汚い」


 それは未練がましい己への苦笑だった。

娘を逃がすことに成功した時、彼は生きる上での役目を終えたのだと思った。

娘と共に生きると決めた夜。彼は腕の中で眠る少女の為なら死をも恐れぬと誓いをたてた。

今がその誓いを持って死にゆく時なのだとしたら、彼は娘を守り切った誇りを胸に潔く目を閉じるべきなのだろう。


 しかしこの期に及んで生への執着を捨てられないのはこの男の弱さゆえなのだろうか。

拷問という名の処刑を前にして彼はとっさに旧友の名を口にした。

娘が生まれる前。まだ彼が信徒として毎日を過ごしていた頃に友情を育んだ男の名を。

現在二層の守衛を任される隊長にまで上り詰めた男の名を。


 その名を語れば拷問の手が止まるとわかっていて、友人の経歴に泥を塗る行為とわかっていて利用した。

すべては自分が生き延びたいがために。すべてはまた娘に会うために。


 覚悟も友情も投げ捨てて、生き延びることを選んだ彼は目の前の鉄扉が開く時を待っていた。扉の軋みと共に旧友の声が届いたのなら、彼を出し抜いてでも脱出する意気込みだった。

ゆえにその扉が開いた時、聞こえてきた声を自分の願望が見せた幻聴なのではないかと疑った。

すでに視界を失い、顔を見ることはできないが、その声を聞いた瞬間、目の前にいるのが自分の娘だと彼は確信した。


「お父さんッ!」


 耳に届く涙に震えるその声は、彼が最も待ちわびていた福音に違いなかった。


 アノスが片腕を振りはらったのと同時に父親を拘束していた鎖が音を立てて砕け散り、

宙に繋ぎ止められていた彼は受け身も取れぬまま地面に崩れ落ちた。


「ひどい、こんな……傷だらけで」


 ソラハはいち早く父のもとへ駆けつけるが、その惨状に思わず口を覆う。

手足の爪ははがされ、指はそれぞれ明後日の方向に無理やり曲げられている。

背中につけられた傷の多くは化膿し、全体の肌は白く歪なものになり始めている。

そして一番ひどいのはその顔だった。


「ソラハ、どうしてここに」

「お父さんッ、目が……」


 彼の両眼には深々と横一線の切り傷が痛々しく残っており、その視覚はとうに失われていた。

片方の耳は丸々切り取られ、薄暗がりの部屋の中で生々しく脈を打ち続けている。


「これが……逆徒に与した者への制裁か」

「……君は?」


 不意に聞こえてきた聞き覚えのない男の声に、父親は警戒した様子も見せずに返事をした。

それは彼が娘の協力者であるとわかっていたからか。

それとも男の声があまりに強い悲憤に染まっていたからか。


 握った拳を震わせ、歯が砕けんばかりに食いしばる彼は目の前の惨状を怒りに振るえる瞳で見据えていた。

地に這う父を抱きかかえる娘。その光景を見るアノスの脳裏に彼の過去がよぎる。


 血を流し倒れる母、エリヤを必死に抱き起そうとする幼い自分。

そんなことをしても流す血を増やし死期を早めるだけだというのに、

焦りと混乱の中で、あの時の無力な少年はただ泣きわめいていた。

なにをすればいいのかもわからず、誰に怒ればいいのかもわからなかった十年前の夜。

あの悲劇が今夜また繰り返されようとしている。


「エリヤの話を聞くため、お前を探しに来たが、今は脱出が先だ」


 幸い父親の負った傷にすぐさま命を落とす程のものはない。

死に至らしめるよりも、痛みと苦痛を与え、長く血を流させることを目的とした拷問だったのだろう。

業腹なことに変わりはないが急ぎ手当を受けることさえできれば生き延びることはできる。


「エリヤ……? なぜ君が彼女のことを……」


 その口ぶりからして彼がエリヤのことを知っていることは明白だった。

今はその事実だけ確認できればいい。

この場でもたつき発見された場合、瀕死の男を担いで逃走する余裕はない。

とにかくこの場から離れることが最優先事項だった。


「まずはお前を逃がす。説明はそれからだ」


 そう、それからの時間は十分ある。

救い出した彼の回復を待つことなど、手がかりを十年待ち続けていたアノスには短すぎる。

だから、後に行うべきは、この雑な警備をすり抜けて帰路につくだけのはずだった。


「……誰を逃がすって?」


 初めに気がついたのは意外なことに少女の父親だった。

目や片耳を失ってなお、かつて養われた鋭敏な感覚は衰えておらず、

突如現れた異変を察した彼は警告の声を誰よりも早く発そうとした。


 数舜遅れて背後に現れた異変に気がついたのはアノスだった。

頭に染み付いた戦の心得は忘れようとも忘れられない、生きる上での貴重な道具。

その知識を信頼し彼はここまでやってきた。

その技術を上回る者がいつか現れることも覚悟していたはずだった。


 そして最後に気がついたのはソラハ。否、彼女は今でも状況を理解できていない。

わかっているのは突然、部屋の入口近くに立っていたアノスが立ち消えたこと。

そして一瞬のうちに巨大な大穴が壁に穿たれていたことだけだった。


「よりにもよって、今夜お目見えとは……」


 忌々しげに語る盲目の父が視線を向けるのは外部にまで開けられた大穴。

その先の空中でアノスと対峙する一人の騎士だった。


「解せねえな。今の一撃で意識飛ばしたつもりだったんだが。

ただのコソ泥と思いきや、なかなか腕がたつじゃねえか、お前」


 監獄の石壁をガラスのごとく容易に打ち壊しながら、

アノスを施設の外まで吹き飛ばした青服の騎士は白い歯をむき出しながら笑っている。

彼の放った拳はアノスの防御を打ち破り、殺しきれない衝撃は彼の胸に激震として響き渡っていた。


「なに、背中から奇襲をかけるような臆病者よりはな」

「おいおいよせよ。こっちは本気で褒めてやってんだ。幼稚な皮肉はポッケにでもしまっとけや小僧ッ!」


 皮肉に取り合うこともなく、

好戦的な笑みを浮かべた彼が次に放ったのはアノス自身を踏み台にして繰り出されたかかと落とし。

威力が大きい分、隙も大きいその技は本来体制を崩した相手への追撃として放たれるものだ。

振り上げたかかとは、振り下ろすその時まで致命的な弱点となり、

多少のダメージを与えたとはいえ正面に向かい合ったままの相手に繰り出すのはあまりにも悪手なはずだった。


「遅っせえッ!」


 しかし彼の放った蹴り落としはアノスの迎撃を間に合わすことなく繰り出される。

その素早さは単純な脚力や身のこなしで説明できるものではない。

それは彼の体だけが時間の流れを速めているかのようなデタラメな加速だった。


 ノーガードの頭頂部に全体重を乗せた足技がさく裂し、アノスは遥か下方の大地へと撃ち落される。

風を切る勢いで飛来する彼は地面へ接触する直前、その腕から黒糸を伸ばす。

その狙いは頭上。自らを蹴落とした騎士の足首へ。


「お前も、落ちろッ」


 糸は騎士の足に絡みつき、撃ち落されるアノスの勢いをそのまま伝え、彼共々大地へと引き寄せにかかる。

空中での安定しない姿勢の中、不意に身を引き寄せる力に騎士は抗えない。

叩き落した相手と同様の力で地に叩き伏せられんとしている彼はいまだ笑みを浮かべたままだった。


 爆音と共に施設前に立ち昇るのは土と砂でできた噴煙の塔。

常人なら確実に死に至る衝撃を受けてなお土煙の中に二つの影は揺らめき立っている。


「テメェ随分な石頭してるみてえだが、今のを見るに単純な肉体硬化ってわけじゃなさそうだな」


 煙をまとい歩みだしてくるのは無傷のまま肩を回す赤毛の騎士。

短く切りそろえられたその頭髪は彼の好戦的なイメージをそのまま体現しているようだった。


「お前の蹴りが軽いだけだろう。速いだけが取り柄ならそこらの羽虫の方がよほど鬱陶しい」


 頭を振り、ぐらつく視界を正しながら煙の中で起き上がるアノスは立ちふさがった障害に苛立ちの視線を向ける。

あとは脱出のみというタイミングになって姿を現したこの騎士は、

少なくとも半端な警備に勤しんでいた先ほどまでの連中とは違った。この男に遊びはない。

ふざけた口調とは裏腹に、

こちらへ浴びせてきた二度の攻撃はどちらもまともに食らえばそれだけで命を失いかねない打撃だった。


「まったく最近のガキは目上のモンに対する口のきき方ってもんを知らないのかね」

「力に酔ってばかりの半端者に下げる頭など持たんさ」


 呆れたように頭をかく騎士と淡々と構えの姿勢を取るアノス。

対照的雰囲気の二人だが宿る戦意はどちらも計り知れるものではない。

拳を鳴らしながらゆっくりと間合いを詰める騎士はなにがそんなにおかしいのか、嬉々とした笑みを崩さない。


「言うねえ、口が悪い男は嫌いじゃねえぜ。

俺もこの立場になってから気持ち悪いおだて口調が増えて気が滅入ってたんだよ」


 それは抑圧されていた本能を解放する快感の笑みなのか。

彼の内に押しとどめられていた戦いへの欲求が今爆発しようとしていた。


「聖王騎士団第三部隊巡回班長ヘイツ・ネイバックだ。

施設内に侵入した賊を発見。これより掃討にかかる。

テメェ、力はあるが騎士でも、戦士って感じでもねえな。

無頼の輩に抜く剣はねえが、それでもやるか?」


 名乗りを上げ、腰に下げた剣は抜かぬまま徒手での構えを取るヘイツ。

鍛え上げられたその肉体は、積み重ねられた激練の日々を思わせる曲線の凶器。

刃を持った得物でこそないが、その恐ろしさを相対するアノスはひしひしと感じている。

その腕に捕えられた時こそが自分の最後になると覚悟するほどに。


「せいぜいそのプライドを折られないことだ」


 しかしそんな中、放たれたこの軽口は絶望の淵に立たされたゆえの虚勢ではない。

彼の根底にある余裕は、こんなところで自分が終わるはずがないという確信からくるもの。

母親の復讐を果たすまで死にきれないと誓った己への絶大な信頼の表れだった。


「抜かせッ!」


 犬歯を覗かせて吠えるヘイツはその言葉と共に、視界から掻き消えたと錯覚させる程の速度で鎮圧対象に迫る。

地を蹴る音のみが残留する彼の肉体は不可視の流星となり、繰り出される薙ぎ払いは賊の全身を打ち砕かんと猛る。

単純な回避で躱しきれる速度ではないと一瞬で判断したアノスはとっさに正面へバイスの隔壁を展開し防御にかかる。

だがそんな薄壁一枚でヘイツの猛撃は止まらない。


 振り抜かれた腕は轟音を鳴らし、その衝撃は壁もろとも周辺の草木すらなぎ倒しながら、しかし空を切る。

障壁の向こうで無様を晒していると思われたアノスは切り裂かれた壁を飛び越えヘイツの視界から逃れると、

剛撃の踏み込みで体勢を硬直させている彼へ先ほどの趣向返しかのように全体重を乗せた踵落としを見舞った。


「へぇ」


 しかし完全な隙をついた迫撃の一打だというのにヘイツは興味深そうに笑う。

頭上からの意識を刈り取らんと迫る襲撃に微塵の危機感も覚えていない。

その瞬間またもや彼の動きが歪に変化する。

時間を早回ししているようなその動きは体重移動の際に発生する慣性すら無視して、

必中と思われた一撃をなんなく回避させる。


 そればかりか振り下ろされる足を反対に掴み取ると、たわむ剛腕でアノスを収容施設へと投げ飛ばした。

その投擲の瞬間にも常識外の加速がヘイツの身体に発生し

アノスはその衝撃を持って再び施設の壁を粉砕しながら吹き飛ばされていった。


「さっきの硬化といい、妙な糸といい。察するに物質形成能力か?」


 投げ飛ばした本人は首を回しながらアノスのバイスにあたりをつけていた。

初激を防いだ硬化、自分を引き寄せにかかった糸、そして防御と目くらましを兼ねた防壁。

一人につき一種類しか得られないバイスの力でここまで多岐にわたる使い方ができるのは、

それほど応用が利くということだ。

暗闇を照らす炎が物を燃やし尽くすこともできるように、

一つの力でこなせる芸当は必ずしも一つではない。


「珍しいバイスだが、多芸なだけじゃ俺には勝てねえぞ器用貧乏ォッ!」


 呼びかけるようにして瓦礫の山に叫ぶヘイツは、

その中から飛んでくる石くれの牽制攻撃をはしゃぐように笑いながら躱す。


「そういうお前は体内時間の加速か? 大口をたたく割には単純な力だな」


 瓦礫を踏み壊しながら這い出てくるアノスは

一連の攻防で使用された相手のバイスが肉体内の時間を操り加速する力だと断定した。

それが予備動作による隙を著しく減少させていたカラクリなのだとしたら厄介な事この上ないが、

その力を単純なものと彼は笑う。


「……隊長のお使いだなんて損な役回り押し付けられたもんと思ってたら、

こりゃあとんだ土産もんだぜ」


 自分のバイソレッドを看破されてもなおこの男は笑っていた。

むしろそのことが嬉しくてたまらないというように額に手を当て、肩を震わせている。

歓喜だ。ヘイツは久方ぶりにあいまみえた強敵との戦いに打ち震えている。

気の抜けた訓練でも格式ばった決闘でもない。

純粋な強さだけが己の存在を証明する戦場に彼は今立っている。


「初戦の奴らはだいたいこのバイスに混乱して勝手に自滅することが多いんだが、

どうやらお前はそんなタマじゃないらしい。

そうだよ、そういう手合いとの勝負が戦いってもんだよなあ」


 冷めやらぬ興奮はヘイツの頭を完全なる戦闘色へと染め上げていく。

たかぶる闘争への欲求はもはや彼自身にも止めることはできない。

込められた力によって全身の筋肉が軋みを上げる中、

語られる言葉は戦いに没入していく自分自身への激励だった。


「さあやろうぜッ! この戦いで俺はまた一つ、強さの証明を得るんだッ」

「さっきから一人でぶつぶつと気持ちが悪い。力自慢がしたいなら酒場の喧嘩にでも混ざっていろッ!」


 駆けだすヘイツを前にアノスも同様に動き出す。

高速で動き回り手数で相手を潰しにかかるあの手のバイスに最も有効なのは無駄に動き回らず、

その場にとどまったうえでのカウンター狙いだろう。

しかし体内加速という相手の特性はそのセオリーを覆す力がある。

実際、先ほどのかかと落としによる反撃は決定的な隙をついたものだったというのに、

バイスによる力技のみで回避される結果になった。

その時点で相手の攻撃を待ち、反撃に転じる先ほどまでの戦法は使えない。


「班長の肩書は伊達ではないということか」


 ならば決定打を叩き込む方法は完全なる不意を突いた奇襲攻撃。

応用の利くバイスにはそのぶんの攻め手があり、油断や慢心を誘うからめ手はアノスの常套手段。

騎士の掲げる真っ向勝負にはなからつき合う気など毛頭ない。


「オラいくぜついてこいよォッ!」


 駆けるアノスの正面に回り込みながら、その俊敏さを多分に活かした波状攻撃をヘイツは仕掛けてくる。

対応しやすい正面を攻撃面に選んだのは、その裏をかく戦法を取るためか。

はたまた騎士の精神が成す正当さゆえの行為か。


「だとすればそれがお前の敗因になる」


 駆けだしながら左手のひらに小型のナイフを形成し、

暗器のように隠し持つアノスは向かってくるヘイツの拳を受け止めに入る。

波状攻撃の一打撃に過ぎないその拳は素早いが、こちらを屠れるだけの重さはない。

躱すことができない瞬息の正拳は彼の構えた腕に吸い込まれるように撃ち込まれた、ように見えた。


「見え透いてんだよッ!」


 インパクトの瞬間、打ち出されたかに見えた拳は引き戻され、

代わりに繰り出されたのは全身を反転して放たれた回し蹴り。

攻撃法を瞬時に切り替える手順はそれまでの身体の流れを完全無視する滅茶苦茶ものだが、

彼のバイスがそれの芸当を可能にさせてしまっている。

それは不意打ちですらない、天井知らずの加速が織りなす形無しの格闘術。


 牽制を受け止めるためのガードでは無論、重みを持った一撃である蹴りを防御することなどできない。

だが迫る横一線の剛脚をアノスは突き出した肘で迎え撃つ。

尖らせた肘の極点をバイスで硬化させた一点集中の刺突は制服をまとっただけの足を優に貫く鉄杭と化した。


「しゃらくせェッ!」


 しかしやはりと言うべきか、無理やりな体制異動を駆使するヘイツによって刺突攻撃は不発に終わる。

それによって彼の回し蹴りも空振りとなるが、その勢いを利用した脇腹への二段蹴りはもはや避けようがない。

狙いのずれた一撃は急所を免れるがその衝撃は軽傷と済ませられるものではなかった。


「どうしたよ小僧。口が達者な男は嫌いじゃねえが、口だけの男は嫌いだぜ俺は」


 反応速度という点で絶大なアドバンテージを持つヘイツには、やはり攻撃待ちのカウンターは通じない。

彼には肘の硬質化を確認してから回避行動へ移れるだけの時間がある。

単純な加速能力では成しえない高速の思考処理。

それが彼の操る体内時間操作の真価とも言えよう。

それを理解していてもなお、迎撃という手段を使わざるをえない状況へ事を運ばれたのは単にヘイツの実力だった。


「……まだ一発くらっただけだろう。勝負が決まったようにはしゃぐなよ」


 そう、まだ一撃だけだ。肋骨一つ折れちゃいない。

こんなもので敗北とされるならアノスの戦歴は黒星にまみれている。

だが彼がここに立っているのは今まで生き続けてきたから。

今まで勝ち続けてきたからに他ならない。最終的な白星はまだその手の中に掴まれている。


「言っただろ。せいぜいプライドが折られないよう気張っておけ。

私は負けない。特にこんなものをよこした神に忠誠を誓ったお前らにはな」


 肩で息をするアノスの背後に黒の瘴気が立ち昇る。神より与えられたおぞましい死骸の霧。

先ほどまで形成されていた物からは感じることのできなかった不快感が、不定形の霧から滲み出てくる。

しかし相対するヘイツはそのおぞましさに眉一つ傾けない。彼が顔を歪めるのはアノスの言葉に対してだった。


「神……神への忠誠ね。確かに俺らには大事なこった。批判も大いに結構。

それも俺らの忠誠心を試す試練だ」


 放たれた不遜な発言に声を返すヘイツの表情は寛容な言葉とは裏腹に苛立ちにまみれている。

今まで狂気といえども笑顔を崩さなかった男の迫力は立ち向かうアノスへ外圧となって降り注ぐ。


「だがよ、テメェ、たった今もその恩恵を存分に受けているクセしやがって、なに寝ぼけたことほざいてやがる。

俺とここまでヤレてんのも、そもそもここに侵入できたのも全部その力があったからだろうが」


 力を行使しながら、それを与えてくれた神を侮辱する。

ヘイツにはそれがなによりも許せない。

神からの恩恵を受けながら、その祝福に感謝しない傲慢な態度が鼻につく。

それまで戦いの高揚感に浸っていた彼の思想は急速に冷やされていった。


「その力があるからこそ、俺たちの国は発展し、戦乱の覇者として君臨できた。

それを『こんなもの』だと? 

俺は普段から不敬がどうのって話にはあんまり興味がねえが、向けるべき恩くらいはわきまえてるぜ?」


 他人より大雑把な自覚のある彼でさえ力の源である神に絶大な信仰を寄せている。

自身を強者たらしめる力の源流を司った者だというのだからそれも自然な事だろう。

だが目の前の賊はその常識を鼻で笑って見せる。


「どいつもこいつも、へりくだるのが随分とお好きなようだ」


 神を悪童といったアノスは、すでにそこから信徒との認識が噛み合っていない。

そんな者同士の行き違いが不毛なものであるとわかっていても、お互いの信念がお互いの価値観を容認できない。


「こんな力、神様にとっちゃただの暇つぶしだ。

そんなものに俺の大切なものを、エリヤを弄ばれて感謝しろだと? 

お前こそ寝ぼけたことを抜かすな」


 神がいるのならなぜエリヤは死なねばならなかったのか。

誰よりも優しく、誰よりも美しかった、皆から愛されるべき女をなぜ神は殺したのか。

母を失い親友と共に王都へたどり着いた時、神に向ける信仰ほど無意味なものはないと彼は悟った。

すべては神を楽しませる茶番の舞台装置なのだと確信した。


「お前みたいなのは初めてじゃねえよ。事件や事故、世界中で起こっているなんかしらの不運。

それを全部ひっくるめて神のせいにしようってんだろ? 

下手な理屈ばっかりこねやがって、だからガキだってんだよ」


 そんなアノスの主張をヘイツは真っ向から断じにかかる。

人生においてその身に不幸を被ったものはなにもアノスだけではない。

この王都で暮らす敬虔な信徒たちにも辛いできごとは公平に降りかかる。


彼の所属する第三部隊は貴族たちの暮らす第二層の治安維持を主な任務とし、

その性質上、都に巻き起こる多くの不幸を目にする。

それは馬の暴走による事故などの偶然起こってしまったものや、

権力闘争の果てに家そのものを失うことになった自業自得なものまで、律義に数える暇がないほどに。


「自分の不幸を誰かのせいにすんのは気分いいよな。

その元凶を見つけ出して? 糾弾できりゃあさぞかし気分は英雄だろうよ」


 不幸の原因が身近な者に、ましてや自分にあるだなんて思いたくはない。

偶然の悲劇に見舞われた時、あふれる悲しみと怒りを何者にもぶつけられず持て余す被害者はその標的に神を選ぶ。

お前が万能ならばなぜ自分を救ってくれなかったのかと、駄々をこねる子どものように。


「だがな小僧、そんなてめえ勝手な自慰にはなんの意味もねえ。

弄ばれたもんってのがテメェの女かおふくろかは知らねえが、それっぽっちの不幸この街の誰もが経験してる。

かわいそうな自分に酔うのは勝手だが、その鬱憤を俺らの神に見当違いにも転嫁してんじゃねえよッ!」


 落ち着きを取り戻していたヘイツの語りは再び高まりを見せていく。

対峙する逆賊の主張は幼稚でとりとめもなく、

そんな薄弱な理論で神を侮辱した事への怒りが彼の動力源へと成り代わっていく。


 現実を生きる人々はたとえ不幸に見舞われたとしても、その壁を乗り越え前に進む努力をする。

ヘイツから見たアノスの言い分はその努力を怠ったまま、あまつさえ善良な神に見当違いの怒りを向ける身勝手の極みだった。

それを真理とはばかる賊を認めることなどできはしない。


「教育ってのはガラじゃねえからよ、さっきも言ったがこれは喧嘩だ」


 開いた間合いを再び詰めるべくヘイツは再びバイスを発動させる。

神と己の力を信じ磨き上げてきたバイソレッド。その強固さを認めさせることが彼の勝利。

反論をねじ伏せ、強さを証明することこそ勝利だった。


「結局はそうだ。負けたやつが勝ったやつの言い分を聞く。弱肉強食、単純でいいじゃねえか。

ペラペラとくっちゃべってばかりじゃあ、せっかく温まった体が冷えんだよッ!」


 単純な彼には単純な答えを導き出すための単純な手段が必要だった。それこそが戦い。

敗者が全てを奪われ、勝者が全てを得る、子供でも分かる単純な結果がそこには生み出される。

その結果だけをよすがとして生きてきた彼に、もはや語る口は不要だった。


「同感だな。もとよりお前たちとは交わらない平行線の主張だ。

共感や同調を得たいとも思わん。否と断じるなら、その反論ごと切り伏せるまでだ」


考え方の単調さを比べたらアノスも負けてはいない。

なにしろ彼の明確な精神指標が固まったのが十年前だ。

名実ともに小僧に過ぎなかったころから彼の想いは微塵も変化していない。

エリヤを奪った何者かとその光景をただ見ていた神を彼は許さない。

誰になにを言われてもその答えだけは変わりようがない。


「そうだそうしてみろッ! お前を否定する俺をねじ伏せてみろッ!」


 やれるものならと、たび重なる加速によってかき消えるヘイツをアノスは捉えられず、

しかしそんなことを悲観する暇などない。

軌道の見えない敵に対する攻撃手段を模索しつつ、絶え間なく繰り出される連続攻撃をかろうじていなしていく。

一撃が軽いのは相変わらずだがその蓄積が後の致命を生む。

迎撃が通じないことをわかっている今、馬鹿正直に攻撃を食らい続ける余裕はない。


「いつまでもお前の駆け足につき合ってやると思うな」


 不可視となるほどの加速が織りなす疾風の打撃がいよいよ百を超えようとしていた時、突如彼の足が止まる。

否、アノスにより止められる。彼の周囲から先の障壁のように地面よりせり上がってきたのは無数の格子。

迫るヘイツごと自身を囲う黒い格子は縦横無尽に大地を疾走する彼の機動力を根こそぎ奪い取る。

少なくとも先ほどのような移動速度にものを言わせた戦法は取れない。


「考えたな、だがそれでどうするッ?」


 体内の時間を操るヘイスのバイスが純粋な接近戦においても猛威を振るうのは先の一合からアノスも理解しているはず。

ゆえに彼の狙いはこの先にある。

これまでにないほどの至近距離で向かい合う二人はどちらともなく格闘の構えを取り直す。


「しゃべり過ぎると体が冷えるのだろう?」

「違いねえッ!」


 その言葉は先手を誘うための挑発。その狙いをわかっていてヘイツは誘いに乗った。

無論慢心からではなく、強者たる自分に確固たる自負を持つがゆえに。

相手が罠を仕掛けるというのなら、その罠ごと踏み砕くのが戦いにおける彼のスタイルだった。


 繰り出される拳は素早いが見切れないものではない。

バイスは使用されているが疾走により加えられていた速度が失われた今、

不可視とさえ思えた打撃はかろうじてその軌跡を追えるものにはなっている。


「そらッ! もう後がねえぞッ!」


 しかし拳が見える域にまで落ち込んだとしても、その狙いとふり抜きの速度が異常なものであることに変わりはない。

徐々に己が創りだした檻の端へと追いつめられるアノスは、全ての攻撃を捌きながらも一向に反撃へ移る気配がない。

背中をつけ、後がない中で一層勢いを増す連撃を受け止めるその負担は先ほどまで被っていた以上のものになっている。


 その本末転倒とさえいえる彼の有様をヘイツは笑う。

自分を閉じ込め移動を制限したまではその判断力に舌を巻いたが、その後の組み立てがあまりにもおざなりにすぎる。

これでは先の状況の方がまだ反撃の余地があったと、敵である彼ですら思い至った瞬間だった。


 突如背面に展開されていた格子が粘土のように歪み、人ひとり分ほどの小さなそのたわみが生み出された。

アノスはヘイツの放つ衝撃を利用し後方へ飛び去ると、その隙間に檻からすり抜けるようにして脱出する。

彼はすぐさま檻をもとの形状に戻すべく再び格子を硬質化させようとするが、それはあまりにも無謀な戦略だった。


「ふざけてんのか、テメェ」


 こと素早さにおいてアノスを優に上回る彼がその隙を逃すはずがない。

形状をもとの檻へと戻そうと変化が始まるよりも早くヘイツも彼を拘束していた檻から脱出する。

そしてそのまま愚かな逆賊へと押し迫った。


バイスの操作に余計な集中力を使っているのかアノスは一歩もその場から動かない。

この期に及んでまだ策があるというのか。

ヘイツは脳裏にその可能性を思い浮かべたがどちらにしても彼の疾走は止められない。

その拳が届きうる間合いまで数歩。体感時間では秒にも満たない一瞬で詰められる秒殺の間合い。


 その一瞬の間合い。

一瞬で届くが、まだ拳が届かないその間合いこそがアノスの狙い。


 檻に開いた穴から自身へ向けて一直線に飛んでくる拳なら不可視の速度も関係ない。

アノスは己の拳を腰元から引き払うように突き出す。

その一見不格好な裏拳にも見える手の動き。

加えその初動は相手の素早さを鑑みてもわずかに早すぎる。これでは放った腕は空しく空を切るだけだ。


 しかし騎士であるヘイツは、否、騎士であるからこそ彼はアノスのその構えに一瞬の悪寒を感じ取る。

わずかに拳の間合いが外れたこの距離で対峙する男が取った構えは居合。

手元から瞬時に引き抜き対象を断ち切る抜刀術の構えだった。


「なんだ……そいつは」


 アノスの握った手の中に赤黒い霧が収束していく。

霧は固まり液状に。それがまた固まり形を成していく。

事は一瞬の創形だがバイスにより思考速度が著しく速まっているヘイツにはその段階が鮮明に見て取れた。


 凝結した塊は骨子となり、その周囲を覆うように赤黒いなにかが集まっていく。

外骨格に肉を塗りつけていくようなその光景はあまりにおぞましく、気持ちが悪い。

その完成が近づくにつれ禍々しい出生を持った得物はたぎる怨嗟に相応しい力を震わせ始めた。


 彼の手の中で創造された一振りの刀は血、肉、骨、爪、髪、すべてがないまぜになり形を成した死骸の刃。

それがいったい誰の肉体だったのかはわからない。しかし確信をもって言えた。

その得物は比喩でもなんでもなく、まさしく死骸なのだと。


「切り伏せる。そう言ったはずだ」


 刃渡り分の間合いを新たに得たアノスが繰り出すのは瞬く間に相手を一刀のもと切り裂く抜刀術。

今までの徒手空拳から無拍子に変化したその攻撃手段にヘイツは完全なる不意を突かれる。

物質形成能力でわざわざ刀を創り出し使用するなどという、あまりにも非効率な戦法はある意味彼の想像を超えている。

ヘイツはこの一瞬に限り、速度という面において目の前の男が自分を上回ったことを認めた。


「だがよ」


 しかし、たったそれだけで、敗北に伏する者が果たして騎士の班をまとめる者となりえるか。

己の想像を覆されたのだから仕方がないと、勝利を諦めるような男が人の上に立つことなどできようか。

否、断じて否。


「舐めてんじゃねえぞッ! こんなもんで、この俺が負けるかァッ!」


 放たれた斬撃。その切っ先が迫る速度は長物の形質上、徒手格闘戦での拳速を遥かに上回る。

ヘイツの時間操作に届きうる域に達している一太刀は彼のバイスによるアドバンテージを喪失させる程の斬撃。

必殺の機会をうかがいその真価が発揮されるまで伏せられていた必殺の隠し玉。

だが彼はそれを純粋な反射神経と身体能力のみで躱しにかかる。


 バイスを発動させ思考能力を極限まで早めても、なお振り抜かれる剣撃の速度は読み切れない。

読み切るまでの思考時間が足りない。それほどまでにこの一撃は速い。

ならばこの一合を制すのはバイソレッドの強さではなく、これまでの修練で磨き上げてきた瞬発力と胆力。


「勝つのは俺だァッ!」


 それは目を疑う光景だった。

下方から首を両断する勢いで迫る斬撃をヘイツは全身を背面にのけ反らせ紙一重で回避する。

腹から首元にかけての薄皮を裂かれながらもダメージを最小限に抑えたその姿勢は、

しかし次の瞬間には身体全ての急所を晒す致命の体勢となる。


 首、心臓、腹、足、全てをさらけ出すことになるその体制は次に迫る追撃をカケラも考慮していないものだ。

確殺と思われた一撃を躱して見せたのはヘイツが放った土壇場の無鉄砲さ。

だがその場しのぎゆえの大きすぎる隙をアノスが見逃すはずもない。


「終わりだッ」


 居合で振り上げた刃を反転させ素早く両手に持ち替えたアノスは、全身の急所を晒すヘイツへ再び致命の刃を振り下ろす。

死骸の刀は恨みの情念をたぎらせ獲物むさぼるべく飛び掛かる。

すべてはこの一撃で終わると、この戦いを見た者すべてが思っただろう一瞬。


「終わらねえッ!」


 振り下ろされた刃を鮮血が吹き出す右の手のひらで握りしめながら受け止めるこの男。

彼だけは自分の敗北を認めない。刀を肉に、骨まで沈み込ませながら、握るその手を放さない。

片腕を犠牲に戦いを続行するその行為は狂うほどの勝利への執念が成す業。

痙攣する腕をいまだ堅牢な精神力で従えながら、眼前で目を見開くアノスへ彼は最後の反撃に出る。


「俺を終わらせられるのは、あの人だけなんだよッ!」


 刀ごと身を引き寄せられ放たれたのは鳩尾への二連撃。

腹に刺さる膝と続く蹴り上げの衝撃に血反吐を吐いた瞬間、聞こえてきたその言葉はいったい誰に向けた言葉なのか。

アノスにはわからない。


「往生際の悪いッ」


 体を宙に浮かす程の衝撃が身を貫く中、彼もまた満身創痍の彼方にいた。

活動不能になるほどの攻撃すら受けていないものの、断続的に受け続けてきた無数の攻撃がここにきて響き始める。

腹に受けた衝撃は身体の限界を告げる引き金となり、これ以上の長期戦は危険な領域となる。


「いい加減に倒れていろッ!」


 ヘイツの片腕が潰れている今、その隙を叩かぬ手はない。

アノスは手にした刀を空中で握り直すと彼の右側面へと肉薄していく。

そこに負傷者への遠慮や同情は存在しない。

いかにして相手を打ち倒し、いかにして己が地に立つか。

戦う者の思考はそれに尽きる。それはヘイツも同じだった。


「テメェこそ、いい加減くたばっとけやァッ!」


 切り下ろされる刃は彼の繰り出した上段蹴りとかち合う。

いくら鍛え上げられたものといえど、肉体と人を切り刻むことに特化した刀とでは後者に軍配が上がるのは日を見るより明らか。

ゆえにアノスは相手の迎撃を予想できていなかった。


 薙ぎ払うようにして放たれる彼の蹴りは迫る刀の腹を捉える。

軸に加えられた衝撃によって刀の軌道がずらされ、アノスの振り下ろした刀は地面へと深く突き刺さった。

神速に迫らんばかりの剣撃に寸分の狂いなく打撃を打ち込むその力量は彼のバイスを考慮してもすさまじい。

片腕を負傷した痛みなど微塵も感じさせないその早業は勝利を勝ち取る覇者の気概が成すものなのか。


 続く連撃を前に突き刺さった刀を抜く暇もなどない。

この攻撃を避けるには武器を手放し、再び不利な格闘戦へと持ち込まねばならない。

回避を優先し得物を失うか、刀を離さずこの一打を受けるか。それは一瞬の判断。


「いい度胸だッ!」


 アノスが選び取ったのは後者。

決定打となりえる渾身の蹴りを鳩尾に受けながらも握った刀を離さない。

無防備を晒す彼に向け放たれた一撃はその腹を貫かんばかりの衝撃を伴って打ち放たれる。

まさに必殺。

最初に二人が遭遇した収容所の最上階へとアノスを瞬く間に吹き飛ばすその威力は今までの牽制打とは比べ物にならない。


「だが間違いだ」


 吹き飛びながら打ち崩していく壁の残骸を全身に受けてもアノスは止まらない。

バイスを用い身体を硬化させるが一度に全身を覆うことはできず、彼の体はもはや満身創痍の域に達していた。

ようやく止まったのは希しくもソラハたちがいる拷問部屋。

父親をなんとかこの場から移動させようと苦心する彼女の前に、全身をズタ袋のようにしたアノスが飛び込んでくる。

この場で一番頼りになる彼のその姿は少女の絶望そのものだった。


「アノスッ! そんな……」


 あまりの凄惨さに駆け寄ることもできず、

彼が全身を震わせながら刀を支えに立ち上がる様をソラハはただ見つめていることしかできない。

助けなければと焦る心と裏腹に凍りつく身体は少しも動かず、そもそも彼女にアノスを救い出す力など備わっていない。

目の前の恩人も、抱える父も助けることができない自分にソラハは涙する。

無意味な涙とわかっていても止められない。


「……その泣き顔は、卑怯じゃないか」


 しかし零れ落ちる涙は拷問により全身を破壊された彼女の父親を突き動かす。

砕かれた関節を無理やり曲げながら立ち上がるその姿は朽ち果てたカラクリ人形のごとき歪さ。

だがその中に宿るのは父として、男として愛する者を守り抜く雄々しき決意だった。


「そこのキミッ! まだ生きているのなら一つだけ答えろッ!」


 しわがれる喉を震わせ呼びかけるのは娘と共に現れた名も知らぬ男。

たとえ目が見えずとも片耳に響きわたる轟音から、彼が騎士との激闘を繰り広げていたことはわかる。

エリヤの話を聞きたいと男は言ったが、そのためにここまでの死力をつくす彼は何者なのか。

わからない。わからないがもはやそんなことはどうでもいい。


「キミはソラハを守れるかッ! 

逆徒の娘を、私が死んでも、損得無しでキミは生かせるかッ!」


 情報を得るためだけにソラハを利用しているというのならそれでもいい。

だがもしそれだけでないなら、エリヤの存在を知るこの男が真に娘のことを想っているのだとしたら。

その時は彼にすべてを託す。


 瀕死の耳に届くその言葉にアノスはかつての、十年前の誓いを思い出す。

無力だったあの日。彼らの家が燃やされたあの日。

エリヤが、大切な母が血を流し倒れていたあの日。

胸に刻んだ復讐と安らかな死に顔を見送った苦しみを。


「私は、二度と、その顔をした女を死なせないッ!」


 ソラハを救った理由はエリヤの情報を握っていると思ったから。それは紛れもない事実。

しかしそれ以上に彼女は母の面影を残し過ぎている。

髪色や顔立ち、そして声。その総てが愛した母親そのもの。

そんな単純な理由で、アノスは生涯を通じてこの少女を守り抜こうとしている。

情報の有無などすでに関係ない。愛した女に似た女を守る。そこに高尚な理屈などない。

それはアノスが勝手に定めた意地だった。


「なら、どうか……この子を頼んだぞ」


 ゆえに信じられる。この男が娘に向ける自分本意なエゴこそ彼女を守る壁になる。

それはソラハにとっていつか身を縛る鎖となるかもしれない。

しかしそれでもなお娘を守ると決めたのも父親のエゴだった。


「頼む……? 頼むってなに、一緒に逃げるんでしょ」


 動揺の声を口にしながら己の手を握る少女に父はなにも答えられない。

無理に動かした体の傷口は開き、止まりかけていた血は再び吹き出すように流れ出ていく。

自らの死を早める行為に彼は一切の躊躇もしていない。


「こんな体ではこの場から逃げることも、いや逃げ出せたとしても待っているのは寝たきりの生活だ。

そんな有様じゃ、到底ソラハを守ることなどできない」


 まともに動かすことなどできないはずの身体を引きずりアノスへ近づいていく彼は、この場から逃げ出すことすら視野に入れていない。

自らの命より大切なもののために、この男は文字通りの死力を使い尽くす気でいる。


「妻を捨て、地位も捨て、娘を守ることだけが私の生きる理由だった。

それを果たせない身となった今、私にできるのは外の彼の足止めだけだ」


 その迷いのない声は死への絶望ではなく、命を繋ぐ希望を信じる声だった。

大切なもののために命を捨てる覚悟。その強固さをアノスは誰よりも理解しているつもりだった。


「あんたは……本当にそれでいいのか」


 その言葉に彼は苦笑する。


「いや、よくはない。よくはないが、最後にもう一度娘に会いたいという願いも叶った。思い残すことはない」


 心に刻んだ意志は誰にも変えられない。

死を持って助力に臨むというのなら、行うべきは説得ではなく彼の覚悟に見合う結果を導き出すこと。

ソラハと共にこの場から生き延びることだった。


「なに? 二人ともなに言ってるの? だめだよ……だって、お父さんは……」


 その思いを一身に受ける彼女はいまだ父の意図をくみ取れない。否、わかっているからこそ、その理解を拒んでいる。

無力な自分のために大好きな父親が命を落とそうとしている。その事実を認められない。

首を横に振りながら父の背にしがみつくソラハを彼は優しく引きはがす。

そしてなだめるように少女の頭に置かれたのはいつもの愛に満ちた慈しみの手だった。


「約束だソラハ。必ず生きろ。それは私の為でも、そこの彼の為でもない。

これから生きて、年を取って、喜びや悲しみを背負い乗り越えていくお前自身のために。

逆徒と言われようと関係ない。どうか最後まで……人として生きろ」


 それは今まで見たことがないほどに真剣な声。

有無を言わせない程に強く強く、胸のさらに奥深まで突き通すように告げられた言葉に少女は頷くしかなかった。

その小さな返事が視力を失った彼に届いたのかはわからない。

だがその返事を受けた父は柔らかな笑みを浮かべていた。


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