出会う者-3
ソラハは夢を見ていることに気がついた。それは少女にとって初めての感覚。
それまでの夢は目を覆いたくなるほどのものも、覚めなければよかったと思わずにはいられないものも、
実際に目を覚ましてみなければ夢だとは分からなかった。
目覚めの混乱の中、路地に吹き付ける風と共に新しい一日の始まりを告げる声が聞こえ、
初めて夢を見ていたと悟るのだ。
「おはようソラハ。よく眠れたかい」
そう、このすべてを包み込むような優しい声。
小さな少女の体を腕に抱いて、ささやきかける穏やかな微笑み。
自分を夢からすくいあげるはずのそれを見て少女は悟ったのだ。
今、自分は夢を見ているのだと。
「ううん。ちょっとこわい夢を見た」
夢の中の少女はソラハの意思に関係なく勝手に口を開く。
自分を包む腕に甘えるように抱きつきながら呂律のまわり切っていない寝ぼけた口調で幸せそうに語る。
「怖い夢?」
「お父さんがどこかにつれていかれちゃう夢」
夢。そんなはずはなかった。少女の目の前で父が連れ去られてから彼女は一睡もせずに街を逃げ回っていた。
追われる恐怖と、愛する人に二度と会えない不安に心をむしばまれながら。
そんな日々を悪夢だと自分に言い聞かせても、このような安らかな腕の中で目覚めることはなかった。
現実を突き付けられ絶望を知ったあの日々が都合よく目覚めるなどと、もう少女には思えない。
「大丈夫。お父さんはどこにもいかないよ。お父さんがソラハを守るからお前は安心してなさい」
それは願望なのだと少女はどこかぼんやりとした頭で考えた。
頼もしい父親。その腕に抱かれて、守られて、ずっとこの路地裏で生きていくのだという儚い希望。
もう叶わぬと知っているからこそ願わずにはいられないのかもしれない。
「うん、どこにもいかないで」
現実の少女と夢の少女の言葉が重なる。
その声に父はまた優しく笑うと大きく太い腕で彼女の頭を軽く撫でた。
心地いいその手のひらが幻想だとわかっていても少女は縋りつかずにはいられない。
たとえ記憶と願望が作り出した幻想であっても自分を唯一認めてくれる暖かさを拒むことなどできなかった。
しばらくしてその手が離れていこうとする。
どこか名残惜しそうにゆっくりと、頬をなぞるようにして。
少女はそうして消えていく手のひらを何とか捕まえようと手を伸ばす。
たとえ夢だとしても父が目の前からいなくなる光景を受け入れられない。
遠ざかっていく父を走って追いかけようとしてもその足は泥沼に使ったかのように重く、動かせない。
手を伸ばしながら叫ぶ少女の悲鳴に父はなにも答えてはくれない。
次第に白んでいく世界の中で少女は声を枯らした。
零れ落ちていく大切な人を繋ぎ止められない無力な自分を呪いながら。
「お願い……どこにもいかないで……」
張り付いた喉からかすれたように出てくるその声が響いたとき。少女の夢は終わってしまった。
・・・
目を覚ましたソラハの目にまず映ったのは枕元に備え付けられた机とそこに置かれたスープだった。
平たい皿に盛られたとろみがかったそのスープは熱を帯び雲のような湯気を巻き上げていた。
「ここ……どこ?」
見渡してみればあたりは倉庫のように大きな棚や木箱が山の如く積まれており、
そんな部屋になぜか置かれたベッドに彼女は寝かされていた。
物が多く窓も少ない薄暗がりの小部屋だが、こまめに掃除はしているのか汚らしい印象は受けない。
自分がどうやってこの場所に来たのか、眠ってしまう前は何をしていたのか、そしてどんな夢を見ていたのか。
気を失った前後の記憶が曖昧な中ソラハは置かれたスープの香りに気づく。
ほのかに甘みを帯びた優しい匂いはそれまで彼女が一度も嗅いだことのないものだった。
「あったかい……」
ソラハはその香りに引き寄せられるように皿へ手を伸ばし、手のひらからじんわりと伝わってくる温もりに震えた。
暖かい食事などいつ振りだったろうか。
少なくとも鮮明に思い出せないほどには遠く昔のことだった。
こがね色に輝くそのスープを前にして少女の腹が力なく鳴いた。
彼女が最後に物を口にしたものずいぶん前のことだった。
「でも……人の物はとっちゃいけない」
人の目もないというのにソラハは父の言いつけを律義に守ろうとする。
彼女には枕元に置かれた食事がなにを意味するかも知らない。
この食事が自分の為にわざわざ用意されたものなどとはカケラも考えつかないでいる。
結局この空腹な少女は腹の虫が声高に食事を主張する中、その欲求を抑え続けた。
長年の路上生活で我慢には慣れている。それが悲しいことだと今の少女にはわからない。
その時、ベッドの足元でなにかが動いた。ずっとベッドの下にいたのか、横になったままのソラハにはそれまで見えていなかったなにかが素早く這い出てきた。
「えッ!?」
白と瑠璃色の体毛に包まれたその生き物は大きな犬。
少女がその姿を見るのは初めてだったが
王都の中でしか見られなくなってしまった獣の一種だということは父の話に聞いたことがあった。
引き締まった立派な体つきをした犬は、
その姿に似合わないリラックスしたようすで大きくあくびをしながら携えた黒色の瞳をソラハに向けている。
間の抜けた表情をしつつどこか力強さを兼ね備えているような不思議な面構えをしたその犬は、
彼女を一瞥すると部屋に置かれたものの間をスルスルと抜けていき部屋の奥に消えていった。
「……いっちゃった」
目が覚めてから不思議な事ばかりが起こっている。
逆徒である自分が室内に入れられ、それどころかベッドに寝かされている。
目を覚ませば暖かい食事が置かれており、同じ部屋には犬が寝ていた。
昨日までの生活とあまりにかけ離れた現状にぼんやりとしていたソラハの頭も徐々に混乱と共に覚醒していく。
ここはいったいどこなのか。自分は誰に連れてこられたのか。その目的は何なのか。
つのる疑問は少女の不安を呼び起こさせる。
先ほどまでまどろみの中で感じていた心地よさが彼女の焦燥にかき消されていくようだった。
「は……はやく逃げないと」
この場から逃げ出そうとソラハは起き上がろうと力を入れるが、その瞬間全身に痛みが走り抜ける。
数日間走り倒しだったためか彼女の身体、とくに下半身はめまぐるしく働く頭に反してまったく動いてはくれなかった。
身動きが取れない状況は彼女の恐れをさらに増幅させる。
心音がうるさいほどに高鳴っていく中、ソラハは一つの足音に気がつく。
忍び寄るその音はゆっくりと少女に近づいていき、枕元で止まった。
少女は恐ろしさに耐え切れず目をきつくつむった。訪れる不幸を目に入れないように。
いつもそうだった。
父から怖いことが起きたら膝を抱えて目を閉じてなさいと言われていた。
そうすれば次に目を開けた時には怖いことはなくなっている。
もう大丈夫と優しい声と共にあの手が頭に乗せられる。
それが目を開ける合図だった。
だが父のいなくなった今その合図をしてくれる人はいない。
たった一人になってしまった少女はただ目を閉じて待つことしかできない。
「目を覚ましたと聞かされたんだが、あいつの気のせいだったかな?」
だから今頭に感じる感触もきっと幻に違いない。
記憶に比べて少し小さなその手のひらは優しく温かい、慈愛の手。
その心地よさで少女は今朝見た夢を思い出す。自分を撫でてくれる優しい手のひら。
遠ざかっていくその手を握ろうとしても追いかけられないもどかしさ。
とても優しく、悲しい夢。今感じているこの幻も同じように消えてしまうのだろうか。
「いやだ……」
もう独りぼっちはいやだった。ソラハは離れていこうとする暖かな腕に手を伸ばした。
おいて行かないでほしいという小さな少女の願いを乗せた小さな手はしっかりとその腕を捕まえた。
「いかないで」
「ああ、どこにもいかないさ」
腕を掴んだソラハの手は穏やかな声と共に優しく包み込まれる。
たくましく彼女を抱きしめた父とはことなるその感覚は、まるで母親の抱擁。
彼女の記憶に母の思い出は一つもなかったが、不思議と少女にはそう思えてならなかった。
「お母さん?」
理屈の立たない奇妙な心地よさに包まれ、ソラハは無意識にそう呼びかけてしまった。
生まれて一度も、声を聞いたこともない母親。
もし彼女の母がそばにいてくれたら、きっとこんな風に彼女の手を包んでくれただろうか。
自分が声を出した事にも気づかぬままでいる少女を前にして、
苦笑するように話す若い男の声が聞こえてきた。
「母さん……か。顔を見られる前に女と見間違われたのは流石に初めてだな」
「え?」
そうしてソラハは目を開く。
先ほどまでの不安がいつの間にか嘘のように立ち消え、残っているのは説明のつかない安心感。
これまで父親以外からは向けられたことのなかった自分を受け入れてくれる感情が、
枕元に腰かける黒服の青年から彼女に伝わっていた。
濡れ羽色の頭髪に女性と見まがうほどの美しい容姿。
そしてその顔に妖しく光る赤の瞳。間違いなく路地裏で少女を救ったフードの男だった。
たった一瞬しか見えなかった男の素顔だが少女にはあの赤い目が忘れられない。
食い入るほどに自分を見ていた赤い目玉。
恐ろしさすら感じたあの赤光を見間違うはずもなかった。
「粗末なベッドだが、道に転がるよりは寝心地もいいだろう」
しかし今ソラハに声をかける男の目はひどく穏やかなもので、そこに宿る光も先ほど垣間見た恐ろしさは感じない。
かすかな笑みを浮かべて少女を見下ろすその姿は大切な我が子を見守る親のようですらあった。
「よく眠れたか?」
ソラハの額に手を当てながら男は彼女に問いかける。
逆徒に対する嫌悪など微塵も感じられないその声色に戸惑いながら少女はぎこちなく頷いた。
その反応を見て男は安心したように一息つくとまだ手が付けられていないスープに目をやる。
「お前に聞きたいこともあるが、お前が俺に聞きたいことも山ほどあるだろう。
だがまずはこいつだ。手は動くな?」
男はまだ温もりが残ったスープの器をソラハに手渡した。
漂う湯気に乗ってやってくる香ばしく甘い匂いは我慢を決め込んでいた少女の腹を再び刺激した。
「食べていいの?」
「お前のために用意したんだ。
滋養をつけるなら他にもいろいろあるだろうが、いきなり消化に悪いものも喰わせられないんでな。
それで我慢してくれ」
男に木製のスプーンを手に握らせられ、ソラハはスープをひとすくいした。
暖かく、虫や泥水も混じっていないこがね色。鏡のようなそのスープを少女は恐る恐る口にした。
「うまいか?」
また涙が流れた。父親がいなくなってからというものソラハは泣いてばかりいた。
涙を流してもなにかが変わるわけではないのに、不思議と溢れてくるものは止まらなかった。
涙は悲しい時に流れるもの。過去に少女がそう言った時、父は半分しか正解をくれなかった。
『お父さんが一番泣いたのはソラハ、お前が生まれてきた時だよ』
そう父が言った言葉の真意がわからずに当時の少女は首をかしげていたが、
その意味が今になってやっと彼女にも理解できた。
たった一人で生きていくしかないと諦めかけていた自分に差し伸べられた一条の光。
孤独に沈みかけていた体を引き上げてくれた愛情。
その思いが形になったものが今口にしているものなのだと。
「……おいしい」
零れ落ちる涙は暖かかった。震える口からは喜びが漏れた。
背中をさするその手のひらが彼女の存在を肯定する証だった。
ソラハな誰かに受け入れられる喜びを噛みしめながら小さな口でゆっくりとスープを飲み込んでいった。
その暖かさは体中に広がっていき、冷え込んだ彼女の心を少しずつ溶かしていった。
・・・
器がカラになった頃には日も落ち始める時間になっていた。
窓に差し込む夕日を見ながら、自分が長い間眠ってしまっていたことに少女は気がついた。
「落ち着いたか?」
「うん、大丈夫」
長い時間をかけてスープを口にしていた間、男はずっとそばで彼女を見守っていた。
ソラハにはそれがなんとも気恥ずかしく、むず痒かゆく、そして心地よかった。
父意外の人がこれほどまで近くにいたこともなく、誰かを食を囲んだ経験もないというのに、
この黒服の男がそばにいる状況を彼女は自然に受け入れている。
彼に手を握られた時から感じている不思議な安心感。
助け出されたことによる信頼以上のなにかが少女を落ち着かせているようだった。
「じゃあ話をする前に、私はお前をなんと呼べばいい?」
名前はなんなのかと直接聞かなかったのは名を持たぬ逆徒も数多くいるためだろう。
言葉を選びながら話す男の様子には壊れ物を扱うような繊細さと慎重さが垣間見えていた。
「ソラハ……が、名前」
少女は父に名付けてもらった名前をぎこちなく伝える。
誰かに自分の名前を教えることも彼女には初めての経験だった。
「ソラハ……。耐える者という意味だな。いい名前だ」
名を褒められた少女はなにを褒められたのかもわからないまま恥ずかしそうにうつむくが、
なにかに気づいたように男の顔を見上げる。
「えっと、じゃあ、あなたはなんて呼べばいい?」
自分を助けてくれた恩人の名前を少女は知らない。
二人きりのこの部屋ではそれが不都合になることもないが、
ソラハは自分の名前を聞かれたとき心に生まれた暖かさを目の前の恩人にも感じてほしいと思った。
「アノスと呼んでくれればいい」
その言い方にはどこか含みがあるようにも聞こえたが、無垢な少女には理解の及ばないことだった。
ソラハはアノスという名前を小さな声で繰り返し、いち早くその名を覚えようとしているようだった。
「あのす……アノス。アノスはいい名前?」
「どうだかな? 名付けたやつに直接聞かないことには」
少女の名を褒めた割には自分の名に対して言葉を濁す。
そのようすにソラハは首をかしげるが他にも聞きたいことはたくさんあった。
「アノスは、なんでわたしを助けたの?」
前提としてこの国の人々は逆徒をひどく嫌っている。
そのわけを学のない少女は知らないが
今まで受けてきた数々の仕打ちから刻み付けられた彼女の常識にアノスは反した行動をとっている。
「今までそんな人、誰もいなかった」
戯れに食べ物を恵んでくれる人さえ彼女の前には現れなかった。
父と共に何年も街をさまよい歩き続け、親切にしてくれたのは同族である逆徒だけ。
時にはその同族にも裏切られながらソラハは生きてきた。
そんな彼女を助けたアノスはこの国では異端な存在だ。ではなぜと。
ただ心優しい人だからという理由では片付けられない理屈が彼の中にあるはずだった。
アノスはソラハの問いにすぐには応えなかった。
口をつぐんだままの彼の様子を少女はしばらく不思議そうに眺めていた。
青年の中性的な容姿も相まってどこか憂いを帯びたその表情。
額縁の中にいても不思議ではないその姿は狭苦しい倉庫部屋にはあまりにも美しいものだった。
「似ていたんだよ。大好きだった人に」
雫のようにこぼれたその声は優しく、切ない。
質問したことを一瞬後悔させるほどに彼の言葉は悲しみと後悔の海に浸されていた。
かすかに浮かべたままの笑みも青年の抱える悲愴を拭うことはできず、痛ましい心の傷はソラハの頬を抜けていった。
「そう、あまりにも似すぎている」
アノスは少女の頬に手を当てながら、その熱を感じていた。
夕焼けに輝く銀色の頭髪、心配そうに揺れる空色に澄んだ瞳。
そして芽吹きの季節に吹く暖かな風のように流れる声。
そのすべてが遠く過去にアノスの失ってしまったものの生き写しだった。
「私がお前を助けたのは、聞きたいことがあったからだ」
名残惜しそうにソラハの頬から手を放して話を切り出す彼は、なにかに縋るような不安げな顔をして、少女を見る。
「お前の母親について、なにか覚えていることはないか?」
生きていたいか。そう初めて声をかけられた時と同じだった。
姿形は坦々とした落ち着きを見せていても、その内には常に不安が渦を巻いている。
あの時の恐ろしい瞳の奥にいたのはその渦が波立てた動揺と焦りだったのかもしれない。
「お……かあさん?」
ソラハはアノスの問いに少なからず動揺した。今まで記憶になかった母親。
日々の暮らしの中で思い出すこともなかった母親。
その存在を先ほど目の前の青年から感じたばかりであったから。
「どんなことでもいい。どこで暮らしていたかとか、どんな仕事をしていたのかだとか」
少女の混乱冷めやらぬ中、アノスは矢継ぎ早に問いを投げかけていく。
出身地、生活地域、仕事、服装、言動、友好関係。
そのすべてがソラハの母親に関するものだった。
しかし物心つく前にいなくなっていた母親のことなど彼女は知らない。
「お前に似ていたか?」
「わからない」
救ってくれた恩人の助けになりたいと少女は嘘偽りなく思っている。
しかし投げてよこされる質問は幼い彼女には知りえないことばかり。
首を横に振りながらわからないと答えるソラハの姿は、
まるでアノスの期待に応えられないことを謝っているかのようだった。
「なら声は?」
「……わからない」
アノスの声に積もっていた焦りや不安が次第に膨れていくようだった。
口を開き、首を振られるごとに彼の声は沈んでいく、
やっと手にした希望への手がかりに亀裂が走っていくさまを脳裏に浮かべすらした。
この少女はなにも知らない。冷静に考えれば当たり前だった。
生まれた者への洗礼として握らせる聖石。
それの聖なる神の意志が赤子の手に逆徒の証である掌紋を焼きつけるようなことがあれば、
その者は次の日が昇る前には、人目を忍んで道端に打ち捨てられてしまうのだから。
そのまま死の許しを神に与えられても、同じ逆徒に拾われ生き延びようとも、
生みの親を覚えている逆徒などそうそういるはずがない。
しかしアノスはその露ほどの可能性を信じるしかなかった。
まるで定められた運命であるかのように彼はソラハと出会った。
その容姿も声もかつて自らを包み込んでくれた母親の姿そのものだった。
彼はその残滓を捜し求めるために生きてきた。
失った理由を探すため、失うことになった元凶を探し出すために。
心が固まってしまったように同じ思いを抱き続けて、そうしてやっと見つけた手がかりがソラハだった。
「エリヤという名前に……聞き覚えは?」
「……」
アノスの最後の問いにソラハは力なく首を振った。
その姿を見た彼は額に手を当てると深く、大きく息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。
脱力するように肩を落とす彼の様子を見てソラハは罪悪感に押しつぶされそうになる。
自分を助けてくれた恩人が自分のせいで悲しんでいる。彼女にはそれがなにより辛かった。
「そうか……そうだな」
だから吹っ切れたふりをして失望を隠そうとするアノスの姿を見てソラハはいたたまれなくなった。
そうしなければ前に進むことができなくなってしまうというのか。
「ごめんなさい」
「いや、いい。変なことを聞いて悪かったな」
謝るソラハにアノスはいたって冷静に対応していた。
目に涙も浮かべず、泣き言も口にしない。
それが彼の強さなのか、それとも表に出してしまえば崩れ去る脆弱さの証なのか少女にはわからなかった。
「今日はもう眠るといい。まだ休息は必要だろう」
ベッドに下ろしていた腰を上げるとアノスはもう一度ソラハの頭を撫でる。
求められた情報を与えられなかったにもかかわらず彼は少女に何も言わなかった。
他人を助け、多少の骨も折り不満の一つでもあってよさそうなものだが、
青年は本心から少女を休ませようとするだけだった。
「でも……」
無条件ともとれるアノスの優しさにソラハは複雑な思いを胸に抱いていた。
大切に扱われるのは嬉しく安心するが、その心地よさに浸っているばかりではいけない気がしていた。
それは父に頼りきりだった今までの自分への戒めなのか。
しかし立派な決意を抱こうとも有益な情報一つ彼女はまともに与えられない。
その情けなさを覆い隠すかのようにソラハはシーツを口元までたくし上げた。
「わかった、おやすみなさい」
「ああ、お休み」
自分の無力を恥じながら口にした言葉に返ってくるお休みの挨拶。
挨拶を欠かさないことも父の教えだった。
毎晩まどろみの中で彼が頭を撫でながら口にしていたのを少女は覚えている。
一度は自分に、二度目は空に。
遠い昔の薄れた記憶の中で、ふと浮き上がってきたのはいつかの夜の思い出だった。
寒い夜だった。もしかしたら雪が降っていたかもしれない。
月も曇天に覆いつくされいつも以上に真っ暗な路地裏だった。
震えるソラハは父に抱きしめられながらまどろんでいた。
頬を赤く染めたその顔を心配そうに撫でる父はたしかにこう言った。
「お休みソラハ。お休みエリヤ」
「なに?」
横たわったまま呟いた少女の言葉に部屋から立ち去ろうとしていたアノスは振り返り、
彼女が発した言葉の意味を確かめるべく早足で詰め寄った。
「今のは?」
「お母さんのこと、お父さんならなにか知ってるかもしれない」
エリヤ。今まで思い出しもしなかったその名前はまどろみと忘却の彼方に押しやられていた。
彼女の父が母親の名前を教えることもなかったことから意図的に隠していたのかもしれない。
しかしこうして思い出せたことでアノスの役に立てたのなら、彼女にとって喜ばしいことには変わらない。
だが問題がある。
「でも、お父さんは騎士たちにつれていかれちゃった」
少女の父が手がかりを握っていたとしても彼がどこに連れ去られたのかを少女は知らない。
父親を探し出すことは彼を助け出すことにもつながると考えていたというのに、
少女は肝心な情報を持ち合わせていなかった。
「育ての父親がいたのか? だが生みの親本人ならともかく……」
反面アノスは少女とは全く異なる思考を巡らせていた。
女の逆徒が母性を働かせて捨てられた逆徒の子を育てようとするというのはよく聞く話だが、
反面男の逆徒が父親の真似事をしているなどという話は彼も聞いたことがない。
そもそもその父親を見つけたとしてエリヤの情報を持っているのかというのも怪しいところだった。
「いや、そんなことは今更だな」
もとより打算的に行動することなど彼はとうにやめている。手がかりなど全くなかった。
ゆえに、たとえどれだけ可能性が低くともそこに掴める何かがあるのなら手を伸ばす。
その考えで彼は今朝少女を助けたばかりだ。今更下手な思考を巡らす必要はない。
「お前の父親を探す。朝までにだ」
「お父さんを助けてくれるの? でもどうやって」
颯爽と身をひるがえして歩き出すアノスの背に少女は問いかける。
ソラハは知らなかったが、四層のはずれ、
生活圏から離された城壁近くの森林に設けられた収容施設の存在をアノスは把握していた。
しかし施設の場所を知っていようとも
その中からたった一人の人物を見つけ出すのが至難の業だということに変わりはない。
「久方の出番だな、ボラル」
アノスは扉を開き、続く廊下でこの部屋を守る番人のように座っていた者に声をかける。
ボラル。それは人の名前なのか、呼ばれたその者は開けられた扉の隙間から這いだし、
アノスの足元をすり抜けるようにしてその姿を現した。
「さっきの、犬?」
それは先ほどソラハが目を覚ましたと同時に部屋を出ていった、大きな瑠璃色の犬だった。
ボラルと呼ばれた彼は部屋に入るとアノスとソラハを交互に見て、なにか戸惑っているような様子を見せた。
相変わらず屈強な体に似合わない姿を晒すボラルに少女は首を傾げ、青年は優しく笑った。
「ボラル。この子なら大丈夫だ」
腕を組みながら自信ありげに言葉を口にするアノスは犬であるボラルに話しかけている。
獣にも詳しいとは言えないが、犬が言葉を話さないことぐらいはソラハも知っていたので、
人に話しかけるのと同じように声をかけるアノスの行動を不思議に思った。
「……そりゃ本当か? 女を見た目で判断するのは危険だって言うぜ?」
その時、部屋の中でアノスでもソラハのものでもない太い男の声がボラルの口から吐き出された。
少女はその声が犬のものだと気づかずにあたりを見回す。
そんな彼女をよそに、アノスとボラルは当たり前のことのように会話を続けていた。
「酒浸りの遊び好きな女ならそうだろうが、
逆徒として生きてきたこの子にお前のことを言いふらす理由もないだろう」
「逆徒こそ一番信用できない相手じゃねえか。あん時のこと忘れたわけねえよな」
「この子はあいつらとは違う」
ボラルはアノスと違い、見ず知らずのソラハをやや警戒している様子だった。
なんの力もない逆徒である彼女をどこか恐れているような言動をとる彼が声の主だと、ソラハもようやく理解する。
「あなた、もしかして変身してるの?」
「……まあ、そういうことだ」
少女の質問にボラルは少し間を開けて応える。
自分の身体を変化させてしまうバイソレッドは大衆演劇で重宝されることから有名で、
少女の父が語る物語にもよく登場していた。
「ただ、こいつはわけあって元の姿に戻れなくなっている」
「そのことについて話す義理はねえよ。お前も、俺が人間だっていうことは誰にも話すなよ」
そう言ってボラルは少女に釘を刺す。
その目に気圧されて頷くが、いきなりのことで彼がなにを言っているのかソラハには理解しきれていない。
混乱している様子の彼女を見てアノスは力なく笑った。
「お前にいろいろあるように、私たちにも事情はある」
そう短く告げるアノスの言葉はこの話題を打ち切る歯止めの声だった。
そう言われては少女も黙っているしかない。
彼らにも聞かれたくないことの一つや二つあるのだろうと彼女は納得した。
「それで、俺はなんで呼ばれたんだ? こんなとこ店長に見つかったらまずいだろう」
「違いないな。手短に話す」
アノスはボラルにソラハの父がエリヤの情報を握っているかもしれないことと、
その彼が収容施設につかまっていることを簡単に説明した。
ボラルはその話を半信半疑という風に聞きながら横目でソラハを見つめていた。
「お前が嫌っているその鼻を役立ててもらうぞ」
「別にそりゃ構わねえけどよ。いいように利用されてるだけだと俺は思うぜ」
自分の父親を助け出させるために少女がホラを吹いている可能性を彼も懸念するが、
そのことについてアノスはすでに結論を出している。
「そうだとしてもようやく見つけた手がかりだ。指をくわえているわけにはいかない」
「……まあ、食わせてくれてる分の仕事はしてやるよ」
不本意そうな声を滲ませてボラルはアノスの頼みを了承する。
ソラハは二人を同じ志を持つ者たちなのだと思っていたが、彼の様子を見る限り必ずしもそうとは言い切れないようだった。
少なくともボラルはエリヤの情報を探す出すことに消極的だ。
そんな彼は少女の枕元に顔を突き出すと、いきなりその鼻先を彼女の首元に突っ込んだ。
「ヒャッ!」
「耳元であんま騒ぐな」
唐突にやってきたこそばゆさにたまらず声を上げるソラハはいたって真面目なボラルの言葉を受けて手のひらで口を塞ぐ。
しかし肌をまさぐられる初めての感覚に憔悴した少女は耐え切れない。
それは数秒の短い間だったが彼女が音を上げるには十分な時間だった。
「や、ちょっと待ってッ!」
こらえきれなくなったソラハは突っ込まれた頭を押しのけ、上がった息を整えながら首元を手で押さえた。
湿った鼻先を問答無用で押し付けられたことで彼女の首はわずかに濡れていた。
「こらえ性のないガキだな」
「お前もそれだけ嗅げば十分だろう」
後ずさりながら悪態をつくボラルにアノスも軽口を叩く。
いきなりの行動に戸惑いを見せるソラハは困惑の視線をアノスに向けた。
「こいつは臭いで人を探す。お前の臭いからな」
その説明をしている最中にボラルはなにも言わず部屋の窓から颯爽と飛び出していった。
それまで悠々とした動きしか見せていなかった彼の俊敏さに少女は目をむく。
一瞬にして視界から消え去った彼を気にも留めないアノスを見て、
一緒に行動するものだと思っていたソラハはまたもや首を傾げた。
「一緒に行かないの?」
「収容所自体の場所は知っている。騎士候補生の試験の為にも使われる逆徒専用の牢獄だ。
ボラルにはお前の父親が拘束されている詳細な位置を先行して探してもらう。
しらみつぶしに牢を覗く余裕もないだろうしな」
その理屈だけではわざわざ別行動をとる必要性は感じられない。
ボラルと共に現地へおもむき、それから匂いを辿っていった方が父に会えるまでの時間も短くて済むとソラハは思った。
しかしそのことをアノスが思い至らなかったわけではない。二人が残ったのにも理由があった。
「ソラハ、お前の父親を確実に見つけ出すためには、お前自身の同行が不可欠になる。
ボラルが位置を特定しても同じ牢に逆徒が押し込められでもしていたら、
私たちには誰がお前の父親か判別できないからだ」
ソラハはもとより自分も同行する気だったが、改めて口に出して言われると肩に力が入った。
まだ体は上手には動かせないが多少の無理を通す根気ならこれまでの生活で養わされてきていた。
「施設には警備もいる。
やむを得ず遭遇戦になる可能性もあるが、基本は奴らの目を掻い潜って進まなければならない」
真剣な表情で潜入の方針を語るアノスに少女は細やかに相槌を打つ。
確かに、父の収容場所にあらかじめあたりをつけたとしても、その中で騒ぎを大きくしては意味がない。
ソラハはこの話が自分に向けての警告なのだと思った。
なにも言われていなければ父を見つけたとたん大声を上げてしまいかねない。
しかし同時に、なぜ今なのかという疑問も浮かぶ。
別に施設へ向かう道すがらにでも言えば済む話のようにも彼女には思えてならなかったが、
アノスの話には続きがあった。
「ただそこで問題になるのがお前の臭いだ」
「匂い?」
そのいきなりの指摘にソラハはなにが問題視されているのかもわかっていない。
父を探す手がかりとして先ほど匂いを激しく嗅がれたばかりだったが、
そのことについての話に立ち戻ったのかと彼女は軽く混乱した。
「むこうでまた匂いを嗅がせるってこと?」
「そうじゃない、お前の体臭の話だ」
体臭。その言葉を聞いてもなお要領を得ない様子だった。
体の臭いという意味は理解しているがそれがどんな問題に繋がるのかがわかっていない。
「要するにだソラハ。今お前は恐ろしくクサい。
すれ違った者全員がその臭いだけでお前を逆徒ではないかと怪しむ」
長い間の路地裏暮らしで染みつき慣れ親しんでしまった掃き溜めの悪臭は、
逆徒が嫌悪されるべき象徴ともいえるものだった。
神の恩恵を受け入れなかった不浄者ゆえのものと周知されていることもあり、
過度に不衛生な姿を街で晒せばたちまち騎士に目をつけられてしまう。
「お前が眠っている間に泥や汗は拭いたんだが、それだけではどうにもな」
そう告げられたソラハは毛布の下にある自分の身体を覗き込み、
そこで初めて身に着けている服装が継ぎはぎまみれのぼろ布から
首元のよれた大きなシャツに変わっていることに気が付いた。
またぐらにやたら解放感があることから下着の類も全て取り払われてしまったようであった。
「いつのまに」
少女にとって路地で着替えをすることも、その姿を不意に目撃されることも、何度かありはしたが、
さすがに意識のないうちに全裸にむかれたことは一度もなかった。
知らないうちに見られたことにどことない恥ずかしさを感じソラハは赤くなるが、それに構わずアノスは話を続ける。
「収容所にたどり着く前に騎士と揉め事を起こしても時間を無駄に喰うだけだからな。
出発前に風呂に入れなきゃならない」
そう言って彼は部屋の棚の中から人が丸々収まるほどの巨大な木製桶を引っ張り出す。
それはたった今この場所で再びソラハが裸にむかれることを示していた。
少し恥ずかしさが頬に残ったまま少女は軽々とアノスに抱き起される。
まるで壊れ物を扱いような丁寧さで服を脱がされながら、
少女は自分にも女性の良識というものが養われていたことを知った。