出会う者-2
バトル回です
若者とフードの男が立つ石畳が瞬時に盛り上がり、地面からまさしく土色の腕が打ちあがってくる。
それは若者のバイソレッドにより生み出された土壌の手腕。
先ほど少女の足を止めたものとは大きさもスピードも比較にならない、
路地そのものを埋め尽くすほどの腕は大地から大樹のようにその姿を現した。
その出現により舗装された路地裏の小道は派手に砕け散り、粉々になった石畳は周囲の壁に弾き飛ばされる。
一瞬にして周囲は爆発現場のようなありさまとなった。
「無能者の逆徒が生意気なんだよッ!」
そんな中、舞い上がる砂煙の中からソラハを担いだ若者が素早く脱出する。
先制攻撃を仕掛けた若者だが、今の一手はあくまで揺動。
彼にとっての勝利はフードの男を無力化することではなく、
手の内にある逆徒を確実に試験管に指定された施設へ連行すること。
この場を離れ、そのまま男がこちらを見失ってくれる分には追撃の必要もない。
「もらっていくと言ったはずだぞ」
だが、砂煙の中から若者の首元に迫る腕は男がこちらを捕捉し続けているなによりの証拠。
彼を能力無しの逆徒であると断定していた若者はその追撃を全く予想していなかった。
唸りを上げながら喉元に食らいつこうと猛るその腕はまさしく猛者の一撃。
少なくとも一度や二度、夜道の喧嘩を掻い潜っただけの素人が放つものではなかった。
「くッ、舐めるなッ!」
しかしこの若者も同じく素人ではない。
彼は約十年間、騎士と成るべく己が身を鍛え学び続けてきた学徒である。
これしきの不意を突かれただけで崩れ去る努力などもとよりしていない。
瞬時に後方へ飛び去ると同時に先ほど上空へ飛ばした土腕を呼び戻す。
単純な落下速度を遥かに上回る素早さで迫る大腕は次の瞬間、五つに千切れるように分裂し雨の如く男の背を目掛け降りしきる。
超重量の土塊をまともに受ければどれほど頑丈な体であろうとも数日はまともに動くことなどできない。
ゆえに男は回避行動に映らなければならない。
そうしなければ伸ばした腕もろとも正確に狙われた土の流弾に撃ち抜かれることになる。
肉に一太刀入れるために半身の骨を捧げる馬鹿はいない。
それは戦いという場で生き抜くための生存理論。
これを蔑ろにして長生きできる騎士はいないはずだった。
「なにッ!?」
しかし、今相手取っているのは騎士でもなんでもない行きずりの流浪人。
彼の頭に教科書通りの危機回避法など備わっていない。
彼は若者の首を掴んだ腕を支柱に空中で体を反転させる。
予期されていない回転行動は正確無比に打ち出されていた流弾の命中をことごとく躱し、
男の両肩、両足を貫くはずだった土塊はすでに崩れ去っている石畳に再び撃ち込まれていた。
そして最後の一つ。伸ばされた腕を狙った渾身の一撃も首を掴んだ手を素早く離されたことで命中せず、
そればかりか回転の加わった男の身体から流れるように打ち出された裏拳が若者の側頭部を打ち払った。
「馬鹿なッ……!」
最小限の回避と的確な打撃をその身に受けた若者は混乱の最中にいた。
完全に死角からの攻撃を避けることだけなら幸運や感の良さでもまだ片付けられる。
しかしあの的確な反撃はいったいどう説明づければいいというのか。
少なくとも徒手格闘の技量において、
正体不明のこの男は騎士と成るため長年訓練を続けてきた若者を遥かに上回っている。
脳を揺らす衝撃に彼は膝をつきかけるが、騎士候補生として日々努力を積み重ねてきた意地がそれを許さない。
しかし続けざまに迫る回し蹴りを避け切る余裕は毛頭ない。
揺れた頭ではバイスを十分に制御することも叶わず、
衝撃を最小限に抑えるべく再び狙われた側頭部を彼は片腕で防御する。
鉛を撃ち込まれているかの如く重い一撃は張られた盾ごと彼の体を後方に吹き飛ばした。
浮き上がりかけた体をなんとか体重移動で地に保たせられたのは、
少女を抱えていた分、総重量が大きくなっていたのが幸いしたからか。
いや、そもそも逆徒というおもりを担いでいなかったなら先の一撃を回避することもできただろう。
もはやこの男を振りきれるとも思えない。
そうであるならばわざわざ戦いの邪魔となる荷物を抱えておく道理もなかった。
若者は蹴りを受けた腕の感覚を確かめるように振るうと、もう片腕で抱えていたソラハを無造作に壁へ叩きつけた。
この時点で当に意識を失っていた彼女だがその衝撃には苦悶の声を漏らす。
その様子を見た男は呆れたような仕草で首をかしげた。
「女は丁重に扱うべきと私は思うが?」
「生憎、逆徒に色目使うほど女に困っちゃいないんでな」
双方軽口を叩きながらお互いに自身にとって最適な間合いを計る。
まだ頭の揺れが完全に収まりきらず、
制御の完全でないバイスを使用するべきか若者が決めあぐねている中、
フードの男は相変わらず息も荒げずに体を不気味に揺らしている。
彼が若者の予測通りバイソレッドを持たない逆徒だとしたら、
その戦闘技術はどこで養われたものだというのか。
騎士候補生である若者たちは長い在籍期間のなかで能力の訓練は言わずもがな、
バイスを交えた、もしくは純粋な格闘訓練も腐るほどこなしてきている。
若者の持っていた自信も一逆徒に対するものであればなにも不思議ではない。
異常なのは確実にフードで顔を隠した目の前の男の方だった。
「腰の剣は抜かないのか?」
若者が思考を巡らせる中、突如男から放たれたのは揺さぶりの言葉なのか。
彼は若者が腰に下げた直剣を顎で指しながら得物を使って見ろと、挑発するように言って見せた。
その言葉に露骨に不快な感情を覗かせる若者は剣の柄を押しとどめるように手で抑える。
「なんだ? 剣を抜かせたことを酒の席にでも語ろうってのか」
「バイスのみを武器として戦うのは愚策ではないかと言ったまでだ」
感情を読ませない落ち着いた声色。
あれほどの動きを見せて、なお外れないフードに隠された表情はいまだ確認できないが、
その言葉が余裕に満ち足りたものであることは言うまでもない。
腰に下げた直剣はバイスとの併用を考えて、全ての騎士に与えられる基本兵装。
ある種騎士であることの証明でもあるその武器は信念をかけた勝負にこそ使われるべきものだった。
けして逆徒の捕獲に使用されるほど軽いものではない。
「言わせておけば……ッ」
侮辱に熱くなりかける心を静めて若者は冷静に暗闇をまとったその素顔を見定める。
その視線の先が捉えている者は誰なのか。
たった今対峙している若者か、それとも背後で倒れている少女か。
「貴様、この女になぜこだわる?」
少なくともこの男が強者に類される者であることは間違いない。
そのような人物が見境なく逆徒の捕獲を阻止しようと活動しているのなら、騎士団に何らかの情報が入ってくるはずだった。
騎士の責務を妨害する行為は投獄されても不思議でない重罪であることからも、そのような行為は異質で目を引く。
しかしそんな人物が現れた話など若者は一度も聞き及んだ覚えがない。
「こんな背信行為を毎日続けているわけでもないのなら、なぜこの女なんだ」
まだ戦いは続いている。
張り詰めた緊張の中で投げかける問いは相手の隙を誘う戦術的手段にもなりえる。
若者は口を開きながらも男の一挙手一投足に目を光らせていた。
「運命だよ」
しかしそのような間抜けな返答は、反対に質問を投げかけた若者の緊張を刹那の瞬間解きほぐす。
まるで婦人向けの娯楽小説にでてくるような歯の浮くセリフをこの男は不意に口にした。
「なにを……」
その瞬間に男は動き出していた。駆けだす初動は予期できないほどに迅速。
地を這わんばかりの低姿勢で繰り出された疾走は瞬く間に若者との距離を詰めにかかり、
崩れた地面を掘削するように踏み込まれる俊足は短い間合いであるにも関わらず男を段階的に加速させていく。
「クソッ!」
反射的に剣へと伸ばしかけた腕を若者は止め、代わりに繰り出すのは地面と壁より打ち出される岩石の砲身。
計四問からなるバイスで創り出された即席の砲撃小隊は一人の男に狙いを定め、うちに詰め込んだ砲弾を打ち放つ。
「二の轍は踏まねえッ!」
正確な狙いを逆手に取られ躱された一斉掃射の流弾とは異なり、
砲台より放たれる四つの岩石弾は発射間隔をずらしながらそれぞれ異なった軌道を描き迫りくる。
うちの一つは男を狙わず、足場を更に打ち壊すことで彼の体制を崩しにかかる。
しかし男はなにを思ったか今にも着弾しようと迫るその岩石へと自分から向かっていった。
「バカなッ!」
砲弾は音速に届きうる速度で目標を粉砕するべく驀進している。
その着弾地点に自ら飛び込むことがどれ程馬鹿げた行為かは子どもでも容易に理解できよう。
だが若者には目の前の男が単なる自殺行為を行ったとは思えなかった。
最初の揺動からしてこちらの予想を上回ってきた謎の男に向けられる油断などとうに枯れ切っている。
「返すぞ」
物質や想い問わず乱れ弾け飛ぶ路地の戦場で、驚くほどに冷静な男の声が猛る若者の背を這うようにして届く。
その一瞬の寒気と共に彼の目は驚愕に見開かれていた。
亜音速で打ち出された、人の頭部ほどの大きさの岩石砲弾を
男はあろうことか己の足で受け止め、子どもの玉遊びのように蹴り返す。
バイスを持たない逆徒には勿論、肉体強化の力を持つ信徒でも容易にはできない芸当をこの男はやってのけた。
「この、バケモンがッ」
もはや理解する時間もない。
若者はとっさに地面へ手を触れると路地の通路を丸ごと塞ぐ土壁を展開し、跳ね返された砲撃を防ぎにかかる。
瞬く間に完成した壁は即席の防壁としては最高の完成度を有していたが、それでもなお衝撃を殺しきることは出来ない。
岩石の着弾と共に響く衝撃は触れたもの全てを粉砕し、壁を挟んだ若者もろとも吹き飛ばす。その破壊力は彼自身が打ち出した時点の威力を優に上回っていた。
「なんなんだ……なんなんだお前は」
同族ではない。このような男が逆徒であるはずがない。
若者の心は自分の予測が外れたことやバイスを持つ身でありながら逆徒の味方する不可解さよりも、
常軌を逸した力量を持つ男への恐怖に満ちていた。
修練の中で実力とそれに見合った自信をつけてきた。
友や先達と切磋琢磨し青春を信念と力に捧げてきた。
しかし、そうして培ってきたことごとくが目の前の男には通じない。
顔の見えないその男は息も乱さず、地に伏す若者をただ見下ろしていた。
「悪いが、ここまでだ」
たしなめられるように告げられたその言葉は騎士を目指す若者にとって最大の侮辱だった。
格下と断じた者に敗れ去り、あげく排する障害とすら見られていなかった己を彼はようやく自覚する。
この男は駄々をこねる赤子の児戯に付き合っただけなのだと。
「ありえない……」
己が最強の騎士、などという幻想はとうの昔に捨て去っていた。
努力を積み重ねたとしても届かぬ高みに立つ騎士は無数に存在すると彼も理解していた。
実際に前線を引退した学舎の教官にすら最後まで歯が立たず、苦渋を舐めさせられたことも数えきれない。
しかしその差はこれからの実践経験と、何より信仰の強さで埋まると思っていた。
神より与えられたバイソレッドという超常の力。
幼少の頃、その力について初めに教わったのは信仰がなによりの源になるということだった。
授けられた恩恵に感謝し、信徒として神を崇拝することで初めてバイスの力は発揮されるのだと。
「なのに、なぜ俺はお前に……ッ」
彼は毎日欠かさず祈りの時間を設けた。一巡りに二度の休日には欠かさず教会に足を運んだ。誰よりも神を信じ、感謝し、崇拝してきた自負が彼にはあった。
ゆえにその神に仇なした逆徒を許せなかった。
恨み嫌悪し、高まった憎悪を晴らす機会が卒舎試験という形でようやく訪れたというのに、
あろうことかその逆徒に与する者に彼は敗北した。
「なぜ神を信じる者が負けるッ! なぜ俺の前に貴様は立っているんだッ!?」
自分とすれ違い、倒れる少女のもとへ向かおうとする男の足に若者は縋るように掴みかかると、
現状の理不尽さを思いのままにぶつける。
のたうつように体を動かして、必死に男の顔を見上げながら若者は叫ぶ。叫ばずにはいられなかった。
「敬うべき神など幻想だ」
男がつまらなそうにそう返した時、若者は初めてフードの下に隠された目を垣間見る。
暗闇に包まれたフードの中で、その赤き瞳だけが不気味に輝いていた。
眼光はまっすぐと若者へと向けられ、その力強さは彼が内に秘める信条の強固さを示すようだった。
「幻想……だと?」
「神がいるとすれば、それはカゴの外から私たちを笑う悪童だよ」
それはこのガズラという国を支える信仰の全否定だった。
神が繰り広げた戦いの末に現れた大地にこの国は再建され、後に刻まれる歴史の中でも神への敬愛は不変のものだった。
バイスを与えられ、その力を持って発展した経緯から見ても当然の感情。
信徒のために力を分け与え、国の再建に貢献した存在が善神以外のなんだというのか。
若者はその神を悪童と断じる男を驚愕の思いで見つめていた。
開かれた瞳孔は焦点を合わすことなく揺れ動き、
怒りと動揺が混ぜ合わされた感情は敗北を受け入れかけていた彼の闘志を再び燃焼させる。
「貴様……俺の、俺たちの信仰を妄執と抜かすのか」
男の足を握る力が徐々に強まっていく。次第に軋みを上げるほどになっていくその力は立ち昇る彼の怒気をそのまま投影していた。その気迫は周囲の大気すら震わせ、瓦礫の山は音を立てて振動し始める。
「あるいは過信だな。お前らはその力の源を神の善意と得意げに吹いて見せるが、
いったいその根拠はどこにあるという」
骨が砕けんばかりの圧をかけられているにも関わらず男は涼しい声色を変えずに淡々と述べ続ける。
いや、かすかに。かすかにだがその声は苛立ちに染まっている。フードの中の表情は変わらず、声も震えていない。しかし若者の怒りに反応したかのように、彼はここにきて初めて素の感情を滲ませていた。
「貴様ッ!」
その絶叫は信仰心の爆発だった。
すでに戦いで傷ついた身体を突き動かすのは信じる神を侮辱された怒り。
バイスを使う身でありながらその根源に払う敬意を微塵も持たない背信者への怒りだった。
若者は片腕の力だけで掴んだ男の足を持ち上げ、反撃すら間に合わせぬ勢いで投げ飛ばした。怒りによって高められた信仰の影響なのか、その力は先ほどの比ではない。
「貴様は倒すッ! 今、ここで、俺が倒すッ!」
建物の壁を打ち崩しながら吹き飛ばされていく男。
その姿をまばたきもせずに凝視しながら若者は立ち上がり、腰に下げた直剣を流れるように引き抜いた。
銀色に輝く刀身は粗悪な乱造品とは比べ物にならない、芸術とさえいえる美しさを有している。しかしその秀麗さも使い手の憤怒に今覆いつくされようとしている。
握られた柄から血管のようにバイソレッドの力が伝わっていく。
まるで剣を体の一部へと作り変えるかのように、銀に輝いた美しき直剣は土と岩石をまとう荒々しい破壊の大剣へと変貌を遂げる。
「抜かないのではなかったか?」
立ち込める煙の中から外傷もなく姿を現す男に若者は、もはや驚かない。
騎士として剣を抜いたということは己の総てをかけるということ。
その戦いに揺らぐ心があってはならない。
「これは聖戦だ。神に反する貴様は俺が騎士として、全力で切り伏せねばならない」
若者は迷いない瞳でそう言い放ち断罪の刃を男へと向ける。
土や岩石をまとったその剣はすでに超重の質量を有しているが、
それを持つ腕や切っ先は彼の信仰が如く微塵も揺らがない。
「聖王騎士団第一学舎所属。コーバ・ゴーエル候補生だ。
名乗れ逆賊。その罪俺が拭ってやる」
「知りたければ、言わせてみろ」
聖戦の誓いとして名を語った若者、コーバ。
その儀式的作法すら疎ましいのか名を語らぬ男。
両者は再び激突する。片や岩石の大剣。片や徒手空拳。
得物の有無は前者に絶大な優位性を生むが、そんな杓子定規な常識が通用する相手でないことはもはや言うまでもない。
「これすら受け止めるのかッ!?」
コーバの振り下ろした大剣は男の肩を撃ち抜いたかに見えたが、間に差し込まれた片腕が岩肌の刃を受け止めている。
切れ味を犠牲に破壊力を限界に高めた必殺の刃が容易に受け止められた事実にコーバは歯を食いしばる。
「まだだッ!」
だがその程度で一度たぎった戦意は鎮火しない。
覇気のこもった発声と共に大剣に宿る岩石の一部が爆発したかのように弾け飛ぶ。
零距離での面射撃という予測不可能な攻撃を前に男はとっさに後方へ飛び去った。
「間に合わすかッ!」
だがコーダの言う通り回避は間に合わない。
放射状に広がる岩石の散弾は両腕を重ね防御姿勢に入る男の全身をまとめて撃ち抜く。
攻撃が通った。しかしそれだけで手を止める愚かな行為を彼は繰り返さない。
「打ち砕くッ!」
先ほどの砲弾がバイスによって打ち返されたのなら、十中八九男の力は何らかの硬化能力だとコーバは考えていた。
騎士団内でもありふれたバイソレッドだがその応用性の高さは確かなものだ。
攻撃の際に破壊力を上げることも、防御の際に体を守る盾とすることもできる。
こと戦闘において攻守バランスの取れた能力だが、その反面突出した面を落ち合わせないことが弱点でもある。
そしてその抜け目をコーバは長年の修練で既に身に着けていた。
「これで、ぶち抜かれろッ!」
飛び去る男に放った追撃は俊足の突き。
爆発で散った剣先の岩石は鋭さを増し、その部分のみがさながら刺突用のレイピアのような形状に変化していた。
爆発的な破壊力を先端に一極集中させ貫く。それは硬化能力の表層を突破する常套手段だった。
迫る刺突攻撃は男の中心線を狙った正確無比な必殺の一撃。
防御姿勢を解かないまま空中に身を晒せば男は腹に風穴を開けられることになる。
「狙い過ぎは癖なのか?」
しかし男の発した声は危機感には程遠い感情しか乗せられていない。
彼は防御姿勢を解いた瞬間迫る剣先を掴み取ると、その刀身を支点として利用し、回避行動をとる。
それは先ほど流弾の雨を回避した身のこなしに酷似していた。
「生憎だったなッ!」
だが二度目の披露では二度目の不意はつけない。
コーバはその回避すら予測して先の突きを放っていた。
狂喜の笑みを浮かべ男を凝視する彼の瞳は目の前の男を出し抜いた歓喜に揺れている。
「そのまま離すんじゃねぇぞッ!」
その言葉と共に剣先を掴んだ男の手が拘束される。否、腕だけではない。
彼の全身が再び刀身へ吸い寄せられてきたおびただしい量の岩石に押しつぶされていく。
一瞬にして男の全身を覆いつくした岩石は能力者の意志によって収束の力を強め彼を圧殺しにかかる。
「終わりだ。逆徒に与し、神を嘲った己を呪いながら死に伏せろッ!」
単純な岩石の重量にそれらを操るコーバのバイスが加えられ、
今男にかけられている圧力は常人の身体を優に粉砕する程の威力となっている。
たった今、岩肌の隙間から鮮血が吹きだそうともなにも不思議ではない。
背信者を抹殺するため全霊の殺意を引き絞るコーバは無論手加減などしていないし、
度重なる興奮で半ば狂乱状態となってさえいる彼にそんな細やかな力加減など無意識化ですら実行できないだろう。
「悪いがこんなところで死んでいられるほど、こちらも無為な生を送ってはいない」
故に、その力の中心から聞こえてくる声はコーバの総てを受けきった事実を証明するものだった。
落ち着いた、穏やかとさえいえる声色は勝利の確信に歓喜していたコーバの目を覚まさせる。
「バカなッ、硬化能力を有していようとこの圧力に耐えられるはずが……
いや仮に耐えられたとしても抜け出すことが出来なくては意味が……」
冷水をかけられたかのようにコーバは落ち着きを取り戻すが、その先に待っていたのは絶望に他ならなかった。
彼の持つ異形の岩石剣。その先端で男の身体を覆う岩肌の隙間からゆっくりと、黒い霧のようなものが這い出てくる。
剣先から止めどなくあふれ出てくるその靄は剣の腹を伝ってコーバの手元へと近づいてくる。
「なんだ、これは」
鈍重な動きで手元を這うその姿自体は朝方の湖畔に舞っているような霧だ。
しかしその霧に触れた瞬間、コーバは今までに経験したことのないような嫌悪感をその黒い霧に感じていた。
見ていたくない。触れてほしくない。
臭いたつ悪臭は全身を強張らせ、首筋まで立ち昇る鳥肌は吹き出す冷汗に濡れていた。
その嫌悪感は逆徒に抱くものに匹敵しうる、むしろそれ以上の悪感情。
見かけはただの黒い霧だというのに握った剣を手放したくなるほどの不快感はコーダをむしばんでいく。
「やめろ、触れるな。触るんじゃない、くそッ」
恐怖ではない。その霧に抱く感情は恐れとはまた別の、いうなれば死骸への嫌悪感。
人や獣、植物など、かつて命を燃やして世界を生きてきたものどもの抜け殻。
腐敗し腐蝕し、異形の姿となって朽ち果てようとしている無残な死体。
コーバはその腐り果てた者たちに身体を覆われるような忌避感にさいなまれている。
「なんなんだッ、なんなんだよこれはッ!」
訳も分からず己の内からあふれ出てくる感情にコーバは混乱していた。
嫌悪の対象が眼前にいれば衝動を抑えることもできる。
恐怖の対象が目の前にいれば心の弱さを乗り越えるべく奮闘できる。
しかし、実体のない、ただの霧に抱く強烈な忌避感をどう対処すればいいのか彼にはわからない。
気持ち悪い、離れたいと、純粋な生理的嫌悪がコーバの頭を徐々に埋め尽くしていく。
そのような精神状態で操る不安定なバイソレッドの力が男を押さえていられるはずもなく、
濁流のようにあふれ出した霧によって岩石剣は完全に砕け散った。
否、もはやあれは霧ではない。
男の身体に繋がったまま密度を増していく黒い霧は次第に物質としての質量を有していき、
コーバにまとわりついた霧が晴れる頃には巨大な腐肉の塊がうごめきながら男を囲んでいた。
「……なんだよ、それ」
開いた口は震えていた。その震えは次第に全身へと伝播していき全身にたつ鳥肌は一向に収まらない。
気持ち悪い。あのうごめく黒い物体への嫌悪感が止まらない。
臭ってくる香りは吐き気を催す悪臭。
その中から滴るように零れ落ちるのは血液を思わせる赤黒い汁。
その異形はバイソレッドによって生み出されたものに違いないのだろうが、とても神の与えるような力には見えない。
その動き一つ一つにコーバの精神が蝕まれていく中、男は彼の質問に答えた。
「お前と同じさ。これが俺への贈り物だ」
その言葉と同時に赤黒いなにかは男の体に吸い込まれ、引きずられるようにして消えていく。まるで戻ることに抵抗しているようにも見えるその姿は地獄の門に連れ去られんとしている虜囚のようですらあった。
力を収束させた男の背中は驚くほどに静かなまま。
だがその背に感じる不気味さの正体が今のコーバになら理解できる。
男の中にはあの霧が渦巻き続けている。
肉の壁でそれを隠そうともあのおぞましい気配は漏れ出てくる。
少なくともあの男が隠そうとしないかぎりは。
「聖戦の続きをするのならば付き合うが?」
気だるそうに語る男は地面に突き刺さっていた剣を引き抜く。
コーバはそこで自分が騎士の魂を手放していたことに気づいた。
無様に尻を床につけ霧を払う間に、あれだけ誇りとしていた騎士としてのプライドを彼は投げ捨てしまっていた。
「そんな、俺は……」
顔を覆いながらコーバは地に這いつくばった。
例え武器がなくとも身に宿したバイスがあれば戦うことはできる。
しかし自ら騎士の象徴を手放してしまった彼に、神の使徒として背信者を断罪する資格は最早なかった。
それは高い信仰ゆえに科せられた精神的自罰。彼の戦意はすでに消え失せている。
「神へ捧げた戦いの結果だ。受け入れがたいというのなら、潔く改宗でもするんだな」
再び剣を地面に深く突き刺し男は背を向けた。
すでに自分を障害とも認識していない彼の姿にコーバが抱くのは不覚にも安堵だった。
あの腐肉をもう見なくて済む。あのおぞましさをこれ以上脳裏に刻まないで済むと。
立ち消えた恐怖の霧が晴れていき、早朝の青空が戻ってくる。
壁も地面も戦いで崩れ去り、光を遮るものがなくなった路地裏でコーバは張りつめていた意識をついに手放した。
・・・
そして男は歩く。長く薄暗い路地裏を一人の少女を抱きかかえ歩く。
気を失ったままの少女、その顔を男はじっと見つめていた。
汚れきってこそいるものの、その顔立ちは愛らしく美しい。
乱れた頭髪もしっかりと整えれば銀の光を放つようになるだろう。
彼にはその姿が鮮明に浮かんでくる。
思い浮かべるのはかつて自分を育ててくれた女性の微笑み。
闇夜に光る星のような銀髪を風になびかせて子供たちを見守った母の笑顔。
「エリヤ、もうすぐだ」
口にしたその名は失ってしまった家族の名前。
彼はその残影を追い求めてきた。頼る者もなく、行き着く当てもなくこの王都へやってきた頃。
思い知らされた絶望と己の無力さ。
それが今日を迎えるための供物だったのならなんと安い取引だろうか。
かつて失ってしまった彼女の姿が今この手の内にある。
男は打ち震える体を押し止め、高ぶる感情を殺しながら帰路を急ぐ。
この少女がずっと求めてきた復讐始まりだと確信しながら。