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 寒い。寒い。体が凍りつくように寒い。私は布団を頭からかぶり、暗闇の中でぶるぶると震える。

 気づけば六月に入っていた。雨と湿度と結婚の季節だ。憂鬱と祝福の季節。降るのは雨とライスシャワー。ブルーな色。

 暦上ではすでに夏となるが、七月八月ほど日差しが強力なイメージはないし、六月生まれが一口に夏生まれだと言っていいのかなと考えてしまう部分もある。私は実際六月が誕生日だけど、梅雨生まれと言うことにしている。

 それでも六月は夏だ。暦上は春の五月と違い、確実に夏だ。

 だのにどうして、こんなに寒いんだろう。

「さむい……」

 カチカチと歯が鳴る。肌が粟立つ。視界は紗がかかったように薄ぼんやりとし、輪郭が不明瞭に映る。

 最初に違和感を覚えたのは涼名くんとりっちゃんとCDショップで騒いだ翌日だった。朝起きると何となく体が重かった。生理前でホルモンのバランスでも崩れているのだろうかと思ったくらいで、特に何も考えず学校に行った。幸い、授業中にぼんやりとしていても誰も私を叱る人はいないし。案の定、その日の授業内容は全くと言ってもいいほど覚えていない。一日ぼんやり、ゆるみ切ったまま過ごした。

 それから段々、どんどん、日に日に、体が不調を訴え始めた。体が重いや気怠い、そんな軽い症状が続き、そこに頭痛と腹痛、節々の痛み、咳、目眩、悪寒……さまざまなものが加わって押し寄せる。学校に行けたのは最初の三日ほどだけだ。それからはずっと、ずっと、家から一歩も出ていない。二度くらいあっただろう五日ごとの逢瀬にも行けていない。何もしていない。涼名くんが言っていたおすすめのバンドの曲だって聴いていない。

「何で、こんな……」

 呻くような声が枕に吸い込まれる。どうしてこんなに体調が悪いのだろう。熱はない。けれど不調は如実に私を苛む。どうして、何で。何で急に、こんなにしんどいの。

 焦燥感、強迫観念。ぐるぐると重たいものが積もっていく。母みたいに暴れて全部吐きだしてしまいたくなるけれど、それをするほどの元気もなかった。重たいものはそのまま澱のように沈み、無遠慮にかき混ぜるとぐちゃぐちゃと濁って汚くなった。骨の髄から腐敗していくような気さえする。

 しばらく家の外どころか部屋の外にも出ていないけれど、父も、母も、何を言うことはない。もう心配どころか怒られることもないんだって、また気づいてなかったことに気づけたよ。体調が悪くても、もう誰も私を心配してくれないのかもしれない。

 家にこもり始めてから、私が気づいただけで母は三度癇癪を起こした。大体それは父が仕事から帰った夜中で、たぶん、あの人なりの甘え方なんじゃないかなと他人事のように思った。父はやっぱり何も言わないのだろう。言えないよね、癇癪の原因はちゃんとここにいるのに無視するもんね。病んでしまった母に無視する父、世界から無視される私。ああ、うちの家は一体どうなっているんだよ。

「……」

 茉莉花!

「……」

 春野。

「……会いたい……」

 今この世界で、私を私としてちゃんと見てくれる二人に会いたい。りっちゃんの笑顔と涼名くんの落ち着いた声。それを思うだけで私の沈んだ心は上を向く。

 誰も心配してくれないって言ったけど、訂正。あの二人だけはきっとそんなことはない。五日ごとの逢瀬で公園に姿を現さない私を今どう思っているんだろう。来ないねって言いながら待っててくれてるのかな。心配してくれているのかな。五日ごとに、律義に。あの二人はたぶんそう。私も、二人が来なかったらそうするだろうから。そう思うだろうから。最初のほうだったら疑念と不信を抱いただろうけど、もう来ないつもりなのかなって思っただろうけど、もう私たちの関係はそんな次元じゃないから。

 次の五日ごとの逢瀬には、どれだけ体調が悪くてもあの公園に行こう。這ってでも、倒れても。二人に会えば体調不良なんて取るに足らないことだ。大丈夫。

 ああ、すごく二人に会いたい。会ったらたくさん話をしよう。今までよりももっといっぱい、たくさん、言葉を交わそう。もっと知りたいし知ってほしい。ああそうだ、ずっと聞けていなかった連絡先も、もうそろそろ聞いてもいいかな。

 次に二人に会った時のことを考えているうち、寒さから現実逃避するように私はゆるやかにそのまま眠った。


 ぱちりと目が覚めた。目覚めた瞬間、あれって思った。

「……あたま」

 しゃらしゃらと頭を振ってみる。痛くない。

「……悪寒」

 布団を剥いで起き上がってみる。体は震えない。

「……目眩」

 立ち上がって動いてみる。ふらつきはない。

「お腹も痛くない、咳もない……」

 あれって首をかしげる。あれだけ不調を訴えていた体が、何の兆しも見せない。突然のことに私自身が戸惑う。さっき眠る前までしんどかったのに。

 どうやら今は夜らしい。闇に沈んだ部屋は物の輪郭を黒に溶かす。張り詰めようなしんとした空気がぴんと蔓延って、世界から音がなくなったんじゃないかと思うくらい、暗闇に沈む部屋は静けさを覚えた。

 今は何時で、いやその前に今は何日だろう。六月になったまでは覚えているけど、それからは眠ってばかりで時間の経過が全く分からない。さっき寝る前は明るかったんだけどな。

「……! 五日は、」

 五日ごとの逢瀬はいつ? 今日? 明日? 次の時には這ってでもあの公園に行くって思ったことは覚えているけど、肝心の日づけが分からない。今日は一体いつなの?

 混乱してしまい右往左往と暗い部屋の中をうろつく。ああどうしよう。いつ行ったらいいんだろう。いつ行ったらあの二人に会えるんだろう。会いたい。その焦燥だけが無闇に募っていく。

「……あ、」

 ぴたりと足を止める。顔を上げる。すとんって落ちてきた。

「もう行っとけばいいんだ」

 日にちが分からないなら、時間が分からないなら、もうあの公園に行っておけばいい。そこで待っていればいずれ二人は来るし、もしかしたら、五日ごとじゃない日にも二人が来ていて会えるかもしれない。そうだ、きっとそれが一番いい。

 決まると早かった。私はすぐに部屋を出た。音無しの世界に私の動作音だけが主張をする。

 部屋から出るのでさえも久しぶりだった。静けさと張り詰めた空気に満ちた廊下をひたひたと歩く。私が動くことによって新雪の積もったような静寂が壊れていく気がしたが、そんなのどうでもよかった。

 一階に下り、そのまま家を出ようとした。けれど私は吸い寄せられるように、薄く扉の開いた一室に近づく。そうっと中を覗くと、豆電球の明かりが頼りなく宵闇を照らしている。両親の寝顔が薄ぼんやりと見て取れた。

「……」

 父も母も、何もなかったかのように暢気な顔で眠っている。腹が立つくらい、幸せそうで平和そうだ。涙が出そうなくらい、気が抜けた。

「……バイバイ」

 行ってきますと言っても返ってくる言葉がないのは知っているから、一方的な挨拶をこぼして踵を返す。送りだされる言葉なんて当然なく、私は一人家を出た。

 外は清明な空気に満ちていた。さっき時計を見てくればよかったけれど、今は夜ではなく朝方なのかもしれない。匂いや気配が、すんと澄んだ朝の空気に近い。両手を広げて深呼吸をすると随分気持ちがよかった。

「うわ、星めっちゃ綺麗……!」

 黒色に塗り込められた空には銀の粒が溢れていた。今にも落ちてきそうなそれは空を彩り、ここは宇宙の一端に在る場所なんだと思い知らされる。手を伸ばしたら掴み取れそうなほど星々は近く、美しかった。

「ジャンプしたら取れないかな」

 手のひらを夜空に向け、ぴょんぴょんって何度か飛んでみる。指先は虚空を掻くばかりで到底星を捕まえることなんてできなかったけど、光の粒子は全身に降り注ぐから気分は悪くなかった。

「……そうだ、ジャングルジムに登れば届くかも」

 ぱっと浮かんだ考えは我ながら妙案で、楽しい予感に胸が躍る。その衝動に突き動かされるまま、私は走った。呼吸をするたびに澄んだ空気が細胞に染みていき、あれだけしんどかったのが嘘みたいにどんどん体が軽くなる。ああ、今ならどこへだって行けそう。楽しくなってきて笑いがこぼれる。

 切れかけの電灯が息絶える寸前のように明滅する。暗い住宅街に淡い星影は導にはならないくらい頼りない。信号は利用者がいないから気をつけて通ってねの点滅だけを繰り返す。時折道路を車が走っていき、どこか遠くのほうから救急車のサイレンの音が聞こえた。

 静かに息づく静かな町を私は駆け抜ける。たまにくるりと飛んだり跳ねたり、スキップしたり。気の向くまま思いの向くまま、踊るように朝に眠る町を走った。

 横断歩道に出る。ここはおじさんと柴犬が散歩していたところで、ああそうだ。

「涼名くんと初めて会ったところだ」

 すっかり忘れていたけど、確かにここだった。道路を挟んだ涼名くんと目が合った気がしてすごい勢いで追いかけたんだっけ。振り返ってみても、私が無理やり押し切ったとは言えよく会ってくれる気になったなと不思議に思う。

 もう一か月以上は経つのだろうか。必死だったあの頃には思いもしなかった。こんなにあの時の男の子と、そのあとに会う女の子の存在が大きくなるなんて。

 電柱に貼りつけられた貼り紙が外れかけのようで、微かな風に煽られてひらひらと下部がはためく。それはこのあいだ見かけた、ひき逃げ事故の情報を求めるものだった。さらっと流し読むと、どうやら四月にここで事故があったらしい。

 ふーんと声に出さないくらいで流して、利用者がいなくて信号の役目を果たしていない横断歩道を渡る。また白線だけを踏んで歩いた。目の前で事故があったからこの公園で子供たちは遊ばないのだろうか。何となくそう思った。

 何も考えず公園に入って、目を見張った。

「!」

 一番最初の時のように佇む二人。ブランコに座るりっちゃんと柵にもたれる涼名くんという構図すら一緒で、あの時と違うのは空の色だけだろうか。

 公園の入り口で私は固まった。呆然とその光景を見つめた。だって、何か色々びっくりしてしまった。

 何の気配もないまま、ふいに、りっちゃんが振り向いた。それでさえもあの時と同じだった。

「茉莉花」

「っ、りっちゃん!」

 何でこんな時間なのに二人がいるんだろうとか、今日は逢瀬の日だったんだろうかとか、脳内を巡ったことはたくさんあった。けれど疑問を全部置いてけぼりにして、私は用意ドンって空砲を打たれたように駆けだす。立ち上がったりっちゃんは鈍い明かりを灯す電灯の下で、憐れむような慈しむようなあの聖母の笑みを浮かべた。

 走って、両手を広げてりっちゃんの胸に飛び込んだ。会いたかった、会いたかった、会いたかっ――。

「――え?」

 同じように両手を広げたりっちゃんに受け止められると思った。ううん、確かに受け止めようとしてくれていた。

 だのに何で、私はりっちゃんの背後でバランスを崩して膝をついているのだろう。

「え?」

「……茉莉花」

 名前を呼ばれるまま、戸惑いの中で立ち上がってりっちゃんを見る。私を振り返ったりっちゃんは笑っている。悲しそうに、寂しそうに、憐れむように。

「りっちゃん……?」

 柵から少し離れた涼名くんは、複雑そうな顔でりっちゃんのことを見ていた。

「涼名くん……?」

 今日も公園には私たちしかいない。銀の粉をまぶしたような星空の下、静寂に包まれた公園。遠い遠いどこかで明け烏が一声鳴いた。

「何、どうしたの? 何でそんな顔してるの……?」

 会ってないあいだに一体何があったの? 明らかに二人から感じる空気が以前と異なっていて私は混乱する。何で? 私は二人に会えてこんなに嬉しいのに。

 じわりじわり、何かが這い寄ってくる。ああやだ、何なのこれ。

「茉莉花」

 りっちゃん。早く笑ってよ。そんな何かを含んだような笑い方じゃなくて、口を開けて声を上げて元気に笑ってよ。いつもみたいに明るく快活に笑ってよ。

 すっとりっちゃんが手を出した。首をかしげながら私も手を伸ばす。握手かなって、その手を握った。

「っ!」

 握ろうとした。でも何でだろう、手中にあるのは空だった。

「茉莉花、あのね」

「あれ、何で?」

 りっちゃんの手は差し出されたまま動かない。そこに在る。何度もその手を握る。握ろうとする。けれど幾度チャレンジしても、りっちゃんの温度が私に触れることはない。するりと通り抜ける。まるで、精巧な映像を相手にしているようだ。

「りっちゃ」

「茉莉花」

 凛としたりっちゃんの声が、水滴が水面に落ちて作る波紋のように私の中に静かに広がる。戸惑いが消えないまま、ぼんやりと彼女の顔を見つめる。

 彼女はまだ、聖女のようにやわらかく笑っていた。

「貴女は、四月にあった事故で亡くなっている」

 世界が色を亡くした。音を亡くした。モノクロの無音に圧迫されて苦しくなる。

 今、りっちゃんは、何て言った。

「……え?」

「茉莉花は死んでるの」

「――っ、待ってよりっちゃん、何言ってるの。だって、私ちゃんとここに」

『どうしてあの子は消えちゃったの?』

 癇癪を起こした母の声が蘇り、否定の言葉はきゅっと急ブレーキをかけたように止まった。

 ここしらばくのことが走馬灯のように流れていく。誰も私を見てくれない。仲がよかった子も誰も私の名前を口にしない。机は残っているのに用意されないプリント、確認されない出欠。ぶつかった通行人は謝罪どころか文句の一つもなし、一瞥もくれずに通り過ぎていった。私がいなくなったと癇癪を起こす母親、何のフォローも入れない父親。気づくわんこと気づかない飼い主。隣にいたのに「一人で何してんの」って涼名くんに声をかけた彼の友達。

「……ああ……」

 それに、そうだ。どうして知らないフリができたんだろう。さっき見かけた剥がれかけの貼り紙。あそこにはきちんと被害者の名が明記されていた。被害者は女子高生の春野茉莉花さん、と。

「はは、そうだ。ほんと、私死んでるんじゃん」

 一度認識すると、事実はストンと私の中に落ちた。紛れもない事実で真実。逆に、今までよく気づかないフリができていたなと思う。ここしばらく頭を悩ませて傷ついてきた答えは、あまりにシンプルで簡潔だった。

 そうだ、私はあの横断歩道を渡っている時に突っ込んできた自動車にひかれたんだ。学年が上がって、新しいクラスにまだそわそわと落ち着かない時期だった。情報を求めているってことは、あのまま事故の相手は逃げたのかな。すでに死んでしまった私には犯人だとかあまり興味はないけれど、現実に生きる人たちにはそうもいかないのだろう。現状を知れば母が壊れてしまったことにも納得がいくし、父が何も言えないことにも理解ができた。結局のところ、原因はやっぱり私だったわけだ。

「何で気づかないフリができてたんだろ……二人は、最初から知ってたの?」

「うん、あたしは霊感があるから。玲斗は……」

 物憂げにりっちゃんが涼名くんを見やるから、つられて私も彼に視線をやる。涼名くんはりっちゃんを見て、それから私の後ろにあるブランコを見た。

「俺には最初から春野のことが見えてない」

「え?」

「玲斗はね、心の声が聴こえるの。……茉莉花はもうちょっと手前だよ、うん、そのまま五センチ右。そこ」

 ブランコを見ていた涼名くんの視線がりっちゃんによって調整されて私を向く。けれどその眼差しは景色を見る時と何ら相違なく、目が合ったという実感はなく無感動に私がいるだろう場所を見ているだけだ。

 ああ、本当に涼名くんは私が見えていないんだ。

「昔から、色んな声が頭の中に勝手に流れ込んできた。通りすがりの他人の感情、今笑って話している友達への悪口、大丈夫だよって生徒に笑う教師の人間臭い気持ち、時折心を読んだようになってしまう俺への同級生の心の内。それはもう、うんざりするくらいたくさん」

「ちっちゃい時は、お互い大変だったよね。あたしはあたしで色々見えちゃうし。あ、今はうまいやり方を覚えたから大丈夫だよ」

 あははってあっけらかんとりっちゃんは笑うけど、当時はもちろん大変だったんだろう。

「そういうわけで、俺には春野の姿が見えていない。今まで何か気を悪くさせてたらごめんな」

「や、それは全然……! むしろ、色々納得した」

 涼名くんが顔を上げずひたすらゲームをしていたこととか、そういえば私のことを一切見なかったこととか。思い出せばそうだったのかと腑に落ちる。一番最初、目が合ったと思ったのは私のただの気のせいだったようだ。

「でも、それって最初からだよね? そんな状況だったのによく話してくれたね?」

「……ヘッドフォンをしてるのは物理的に音を遮断するためなんだけど、実際これで大概は耳を防げるし。けどあの時は、春野の『私を見て』って声が全部を飛び越えて聴こえてきたから。それで辺りを見たけど俺には何も見えなくてそのまま歩き始めたら、声だけでも必死になってるのが伝わってくるくらいすごい勢いで呼び止められたから止まらないわけにはいかないだろ」

 淡く笑う涼名くんに苦笑を浮かべる。うん、そうだね。あの時の私は、きっと声だけではなく必死な形相をしていたんだろうと自分でも思う。

「心の声が聴こえるって、例えば今私が考えていることも分かったりするの?」

「理雪なら聴こうと思ったら分かるけど、春野は分からない。ただ、あまりに強い感情が浮かんでる時なんかは聴こえてきたよ。ジャングルジムの時とか」

 ああ、って声が漏れた。そういえば確かにあの時、私は家であったことを何も言っていないのに涼名くんは全てを知っているような顔で言葉をくれた。

「そっか。あ、ちなみにだけど、あの時ジャングルジムに登ってたことに本当に理由はないの?」

「……あの日は理雪が遅れて俺だけになるって分かってたから、春野が来ても俺には姿が見えないから先に行ってジャングルジムに登ったんだ。あの上にいれば、春野が来た時に絶対声をかけてくれるだろうと思って」

「……そうだったんだ」

 涼名くんにずっと私の姿が見えていないということがショックなのか、そんな状況にも関わらず私を見つけて気遣ってくれていたことを嬉しいと思えばいいのか分からない。ぐちゃぐちゃな思考の中、現実逃避のように「私は彼とキスすることはできないんだ」と馬鹿みたいに思った。

「……ねえ、私ってこれからどうなるの?」

 空を見上げると、さっきよりも星明りが薄くなったような気がする。真っ黒だった空に朝の色が徐々に滲み始めるみたいに、段々と天明の気配が濃くなってくる。

「茉莉花みたいに意識がそのまま残るのって、もちろん未練があって成仏できなくて現世に留まることもあるんだけど、でも茉莉花の場合はきっと四十九日のあいだだけだと思うの」

「ふーん、そうなんだ。今日って何日目なんだろう?」

 あれは四月の下旬だった気がするから……。

「四月二十七日」

「え?」

「春野が、事故に遭った日」

「それで計算すると、ちょうど今日で四十九日目なんだよ」

 りっちゃんがまた聖母みたいに笑う。ああ、今日はこんなのばっかりだ。自分の知らなかった自分のことがどんどん明かされていく。

「私、今日消えちゃうの?」

「……たぶん。それもきっと、もうすぐ、朝焼けとともに」

「……そっかあ」

 気が抜けて息が抜ける。このまま気を失えたら一番楽なのかもしれない。すっと溶けるようにこの瞬間に消えられれば。消えるまでのタイムリミットを宣言されるというのは、どうしたらいいのか分からなくなっちゃうね。

「茉莉花、ここ最近体調悪かった?」

「何で分かるの?」

「大体、そうだから。四十九日が近づいてきて、茉莉花が公園に来なくなって、だから確信してここにいたの。茉莉花は最後に絶対ここに来るだろうなって」

 会いたかったよ、あたしたちも。

 りっちゃんが笑う。泣きそうに、満面の笑みで。

 会えてよかった。

 涼名くんも小さく微笑む。見ているところはやっぱり少しずれているけど、それでも私を見ようと視線を留めてくれている。

 突然、私自身には分からないように変化した私の世界は、誰も見てくれなくって、気づいてくれなくって、怒って、泣いて、叫んで、諦めて、悲しい色に染まった。そんな世界に夜気の色が一滴落ち、追いかけるように朝もやの色がまた一滴。それだけで覆いつくされていた私の世界は色鮮やかに蘇り、忘れていたことをたくさん思い出させてくれた。

「っ、私も!」

 私も。

「二人に会えてよかった!」

 さあ笑え笑え、全てを吹き飛ばすように。楽しいと嬉しいを最後にするように、全力で笑え。いつかの無理やり浮かべた作り笑いではない、心の底から全部のあったかい気持ちを込めるように、笑え。

 空が白み始めた。さっきまで輝いていた星たちは朝日に身をうずめるように見えなくなっていた。このままだと私、星になるみたいじゃない? 星になったら、どうせなら花の星座の一部になりたいな。ジャスミンの名前、そのままに。

「茉莉花」

「うん、りっちゃん」

 朝の匂いが濃くなると同時に、私の体も透け始めていた。

 何これ。私、全米が泣くような感動映画の主人公みたいじゃん。ちょっとおかしくなって、けらけらと笑った。

「はー、駄目だ笑いが止まんないや。りっちゃん、いっぱいありがとう。また遊んでね」

「うん、またね」

 軽い調子で最後の挨拶となるだろう言葉を交わす。こんなとこで泣いてなんかやるもんか。私は人の感動を誘うためにここにいるんじゃない。ただ、自分の人生を生きているだけだ。

「涼名くん」

「うん」

 彼はそっと耳だけを傾ける。音を遮断するためのヘッドフォンを、私と会う時にいつも外していたのは私の声を聴こうとしてくれていたからだと思ってもいいんだろうか。強い感情って、今のこんな胸中の呟きは聴こえていないのかな。もし聴こえていたら、どこかでそう想っていたのがバレていても忘れてほしい。

「あの時足を止めてくれてありがとう。またね」

「ああ」

 彼に抱いた気持ちは確かに好意だったが、それはりっちゃんに対してもだし、わざわざ伝えるまでもない小さな「何かいいな」だ。

 遠いどこかの地平線で太陽が生まれているのだろう。世界が輝きに満ちていく。美しい朝が目覚めようとしている。私はもう、そこにはいられないんだね。

 バイバイって手を振るりっちゃんに大きく振り返す。りっちゃんが手を振る先を見ようとする涼名くんと、あの最初の時のように、視線が合ったような気がした。

 それはやっぱり私の気のせいかもしれないけど、でも、それだけで全てが報われた気がした。


     *


 助けて。

 私に気づいて。

 私を見て。


 ああ、やっと、見てくれた――。


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