(13)
あのあと、ほどなくして公園にやってきたりっちゃんがぎょっと目を剥いたのをよく覚えている。ジャングルジムの上にいるし、靴は片っぽ落ちてるし、私は顔面ぐちゃぐちゃにして泣いてるし。突っ込みどころ満載の状況に一周回っておかしくなったのか、けらけらと笑いだしたりっちゃんはどうしてかすごく楽しそうだった。
ジャングルジムに登ってきて最初に言われたのが「かわいい顔が台無しだからちゃっちゃと涙拭いて。茉莉花はやっぱり笑顔がかわいいよ」で、何というかりっちゃんはぶれなかった。何でそうなったかは聞かず、ジャングルジムの上にいる理由も聞かず(そこは私も大いに気になる部分ではあるけれど)、りっちゃんはただ呼吸をするように隣に座って高い位置から町を見下ろした。
深く突っ込まれなかったことに少し安堵した。別に変な意味ではないんだけど、あまりに心に響く言葉をもらった時ってすぐには人に言えないのかもしれない。りっちゃんが言葉をくれた時も、たぶんあの場に涼名くんがいなかったら私は個人的に彼に伝えることはしなかっただろう。
結局ジャングルジムに登ったままりっちゃんがくるくると話しだし、話を聞いているうちに私の鼻水は止まって涙も乾いた。そして泣いたことを吹き飛ばすくらい、笑った。一人で無理やりしていた作り笑いではなく、腹の底から湧き上がるように。りっちゃんも涼名くんも、楽しそうに笑っていた。
日が暮れるまで一緒にいて、そして「またね」って言葉を交わして家路に着いた。家に帰っても、いつもよりしゃんと背筋が伸びていた。
それからはまた変わらない日々の連続だ。淡々とした、ひとりぼっちな毎日の繰り返し。けれど以前ほど気分の上がり下がりが激しかったり急激に落ち込むことはなくなったかもしれない。二人がくれた言葉が、心の深いところでキラキラと息づいているから。
五日ごとの逢瀬は今までも楽しかったけれど、どこか救いのようなものを求めているところがあった。唯一といってもいい繋がりに必死にしがみつきたくて、離したくなくて、離れたくなくて。執着めいた、そんなちょっとドロッとしたようなもの。
けれど前回ジャングルジムで話してからは、ただ純粋にその日が楽しみになった。友達と遊ぶみたいに当たり前で、軽くて、居心地がよくて。心が安らいで、たぶんきっと二人といる時の私は前と変わらないいつもの私なんだろう。それがすごく気楽で、楽しかった。
「……あ!」
「え?」
「?」
古い鎖の軋む鳴き声を上げながらブランコを漕いでいたりっちゃんが突然落とした声に、私を顔を向けて涼名くんは小首をかしげた。りっちゃんはざざっと足底を地面に押しつけてスピードをゆるめていき、キイと鎖の高い音を余韻にぴたりとブランコを止めた。
「何、りっちゃん」
「今って何時?」
「五時前だけど」
「郵便局!」
勢いよくぴょんと立ち上がるとブランコががしゃりと揺れて、また音を立てて一人で揺れ始めた。キイキイと悲しそうな鳴き声が夕方の静かな公園に響く。今日も今日とて私たちしかいない公園はどこか物悲しい。
「郵便局?」
「郵便局!」
「が、どうしたの?」
「用事があって窓口に行かなきゃなんだよねー、しかも今日中……」
ちらっとりっちゃんが涼名くんを見る。携帯に目を落とした涼名くんが「四時四十七分」と淡々と時間を読み上げた。
「ここから一番近い郵便局はー……?」
「徒歩十分圏内だな」
「走れば五分! ちょっくら行ってくる!」
位置について、よーい! 一人でかけ声をし、りっちゃんは地面に指をついてクラウチングスタートの構えを取る。いってらっしゃい、と思いながら見ていると、りっちゃんがこちらを横目でちらり。
うん?
首をかしげるとにっこり笑われた。
「……りっちゃん、行かないの?」
指をつき腰を上げた、いつ走りだしてもおかしくない状態のままりっちゃんは私を見てにこにことする。どうしてか目力が強い。
「……春野」
「はい」
涼名くんに呼ばれて視線を向けると、彼は言葉なくすっと手を出した。ぐっと握りこぶしを作り、親指と人差し指だけが伸ばされる。
「……ああ!」
遅まきながらやっと合点がいった。再びりっちゃんに目を向けると、満足そうにうむと頷かれた。
親指と人差し指で銃の形を作り、腕をぴんと伸ばして銃口を空に向ける。
位置についてよーい、はりっちゃんが言った。残りの文句は一つだけ。
「ドンッ!」
口で空砲の真似をする。りっちゃんが弾かれたように走りだす。薄々勘づいていたけれどりっちゃんは運動神経がいいようで、その背中はぐんぐんと離れていきすぐに公園を出て見えなくなった。
「行っちゃったね」
「だな」
さて、りっちゃんはどれくらいで帰ってくるだろう。それまで何をしようかな。前回があっての今回だから、涼名くんと二人になると何となくあの時のことを思い出してしまう。あー、大号泣とかしちゃったな……。
「……春野」
「うん?」
でも、久々に登ったジャングルジムの頂点からの景色はとてもよかった。また上でりっちゃんを待つのもいいかも。
「俺、このあいだにCDショップ行ってこようと思うんだけど」
「あ、そうなんだ。了解でーす」
いってらっしゃいの意を込めてひらりと手を振った。じゃあ一人でジャングルジムに登って景色をぼんやりと眺めながら二人を待ってよう。あ、その前に久しぶりに靴飛ばしするのも懐かしくていいかもしれない。
「春野は?」
「へ?」
「いや、暇だろうから、嫌じゃなかったら来る?」
ぱちりと目を瞬いた。何だろう、漫画ならその瞬間星が弾けたみたいな感じ。ぱちぱちと、まばたきをするごとに星がこぼれていく。
「……いいの?」
そうやって声をかけてくれるなんてちょっぴり意外で、驚いた。
「嫌じゃなかったら」
「じゃあ行く!」
積もった星屑を蹴り飛ばすように諸手を挙げて返事をする。涼名くんは一拍置いて、小さく頷くように少しだけ口角を上げた。
早速と静かな公園をあとにする。公園を出てすぐに振り返ってみると、無人になったその空間はあまりに寒々しくてふるりと震えが走った。空気が冷たくなったようにすら感じる。ついていくことにしてよかったかもしれない。あの中で一人で二人を待つなんて、あまりに寂しいことだった。
これはさっきまで知らなくて今知ったことだけど、涼名くんは歩くのが早かった。ヘッドフォンは首に落とされているけれど、まるでアップテンポな音楽でも聴いているようなスピード感でさくさくと進んでいく。その背中に早足でついていき、たまに探し犬のチラシやひき逃げ事故の情報提供を募る張り紙なんかを見ているとすっかり置いていかれていて、そのたびに走って追いついた。
涼名くんは後ろで私がそんなことになっているとは全く気づいていないようで、あくまで自分のペースを保って歩く。これがデートだったら君フルボッコだぞとこっそり思う。まあデートじゃないから何も言わないけれど。
運がいいのか私にとっては悪いのか、いくつかあった信号は進めの青色一択で公園を出てからノンストップだった。
だからだろうか。次の信号で、走り去っていったりっちゃんに追いついた。
「……あれ、茉莉花に玲斗じゃん」
赤信号を目の前に、マラソン選手よろしく足踏みをしながら止まっていたりっちゃんが不思議そうに首をひねる。
「りっちゃーん」
「何、追いかけてきたの?」
「違う。さっき携帯にメッセージは送ったけど」
「え、嘘?」
バッグから携帯を取りだし確認したりっちゃんは「あ、ほんと」と納得したように頷く。
「郵便局の三軒手前にあるところ?」
「そう」
「りょーかい、じゃあ終わったらそっち行くね」
「ん」
走っていた車が止まり始めた。そろそろ歩行者の信号は青に変わりそうだ。
「りっちゃん、郵便局間に合いそうなの?」
「はっ……!」
「……四時五十二分」
「メロスの気分で走る! あたしはメロス!」
メロスは激怒した! と有名な一節を高らかに叫びながら、りっちゃんは青信号に変わった横断歩道を走り抜けていった。
気の抜けたカッコウの音が単調に鳴き続ける。
「……行こっか」
「そうだな」
一拍置いてこっそり笑い合い、私と涼名くんは歩を再開させた。
CDショップに着くと、涼名くんは商品棚に吸い寄せられるようにふらふらと店内を彷徨い始めた。一枚のディスクを手に取って固まっていたと思うと何かを思い出したように別の棚に小走りで向かったり、何気なく通りすぎようとした瞬間に気になるものが視界を掠めたのか急に立ち止まって食い入るようにそれを見つめたり。その姿は見ていて少し面白く、変な言い方だけれど涼名くんも男子高校生なんだなと思った。年相応と言うのか。同い年の私がそう思うのもまた変な話ではあるけれど。
夢中になる涼名くんを横目に、私は私で音楽を見て歩いた。好きだったバンドの新しい曲がいつの間にか出ていたみたいで、もうしばらく音楽を聴く余裕なんてなかったなとそれに触れるのがえらく久しぶりな気がした。可愛らしい新人アイドルのデビュー曲、ベテランアーティストの数年越しのニューアルバム、ロックバンドがデビューして十年の記念イヤーに今までの軌跡を収録したベスト盤。店内にかかる曲も耳新しいものばかりで、視覚も聴覚も新鮮さにそわそわと楽しさが湧き上がる。
うん、私も音楽好きだったな。涼名くんのようにヘッドフォンをいつもしていることはなかったけど、好きなアーティストの新曲はいつも予約していたし、友達とライブに行ったりもした。そんなに前じゃないはずなのに、どうしてか随分懐かしく思う。そんな普通の楽しいさえ、私は忘れていたようだ。
「春野」
「はーい」
呼ばれて振り返る。何枚かCDを抱えた涼名くんが、ちょっぴり申し訳なさそうな顔を浮かべてそばにやって来た。
「ごめん、マイワールド入ってた」
「あはは! 気にしなくていいよ、涼名くんがめっちゃ楽しそうで何より」
「つい我を忘れてしまう……」
本気で反省しているようで、その殊勝さというか真面目さにけらけらと笑った。ついてきただけなんだから、放っておいてくれても構わないのに。
「私は私で見てたから」
「春野は好きなバンドとかグループとかいるの?」
「私はねー……あ、ここじゃないのかな」
ざっと目の前の棚を見てみるが好きだったバンドを隣のようで、「こっちかなー」と手がかりのように記された五十音を辿って移動する。
「え……お……か、か……あ、あった」
「どれ?」
「これ。もう解散しちゃったんだけどね」
「ああ、このバンドか。ネオアコだっけ」
「そう、ルーツはね。歌詞もメロディーも好きだったんだよねー」
どこか悲しく、けれど寄り添うようにあたたかみが灯る音楽性が聴いていて心地よかった。歌詞の独特な世界観も、女性ボーカルの深みのある声も、大好きだった。
「そっか、春野はこういうのが好きだったんだ」
「うん。あ、でも男性ボーカルだけど少年みたいなハイトーンボイスのバンドも好きだし、爽やか系の男性デュオも好きだし、女の子のシンガーソングライターも好きだったよ」
色んなものが好きだった。それは音楽に限らず、小説、服、お化粧、動物、ゲーム、その他色んなもの。たくさんの一番があって、毎日何かをしてそれなりに忙しくて、楽しくて、私の普通の日々はきっと充実したものだった。その渦中にいる時はちっとも気づかなかったけれど、今になってそう思う。強く、思う。
そっか。私、毎日楽しかったんだ。
「俺、今このバンドが気になってるんだよね」
「あ、それデビュー曲は聴いたことある。透き通った綺麗な声のボーカルだよね。一瞬女の人かなって思うくらいの」
「そうそう。歌詞も結構独特なんだけど、その不思議さが妙に忘れられなくて」
「そっかー、じゃあ今度ちゃんと聴いて」
「あれ、涼名?」
みるね。語尾は知らない声にかき消された。涼名くんと同じタイミングでくるりと振り向く。
「水木」
「よっ」
涼名くんがぽつりと漏らした声に、水木くんとやらは気さくそうに片手を上げた。涼名くんと同じブレザーを着ているから同級生なんだろう。にこにこと人好きしそうな笑顔を浮かべて、どこかやわらかでゆるやかな印象を受ける。
「やべ、涼名とばったり会うとか珍しすぎてテンション上がる!」
「何だよそれ」
「いやお前希少動物っぽいから、何つーかレアポケモンにうっかり出会っちゃった感じ? エンテイ……いやライコウだな。うん、涼名はライコウっぽい」
軽いテンポでぽんぽんと交わされるやり取りはいかにも男子高校生同士だ。話しているのはほとんど水木くんだけれど。
「あ、オレはスイクンな!」
「水だから?」
「そそ! 似合うだろー」
へへっと楽しそうに笑う水木くんがふと気づいたように表情を変える。
「涼名さ」
「うん?」
もし彼女と間違えられたらどうしよう、なんてふざけたことを一瞬でも思ってしまったからだろうか。
「こんなとこで一人で何してんの?」
無邪気な問いかけは音もなく深淵に落ちていった。
「……CD見にきた」
「そーなん? あ、でもいっつもヘッドフォンしてるもんなー。な、また今度一緒に帰ろうぜ。おすすめのバンドとか教えてほしいわ」
「ん、了解」
じゃあな、と爽やかに笑って水木くんは帰っていった。涼名くんも応えるように軽く手を上げた。その隣で、私も彼に手を振った。バイバイって、手を振った。
「……」
「……」
ああ、涼名くんが気を遣おうとしているのが空気で分かる。肌に触れる空気がさわさわと落ち着かない。気にしなくていいのに。だってもう分かってるもん。知ってるもん。
「……はる」
「大丈夫だよ、涼名くん」
大丈夫、大丈夫。これは強がりではなく、本当に。
「大丈夫だから」
だって知ってるもん。涼名くんとりっちゃん、二人がちゃんと私を見てくれてるって。その事実はすごく大きな割合で私の心の中に佇んでいる。たぶん、涼名くんが思っているよりもずっと強く。
誰かが確実に私を見てくれているって、こんなにすごいことだなんて以前の私は知らなかった。ああ、前の私は知らないことばかりだったね。その点だけ、この状態になってよかったかもしれないと思える。
「玲斗、茉莉花ー」
今度は私の名前も呼ばれた。くるりと、また涼名くんと同じタイミングで振り返る。両手を上げてにぱっと笑うりっちゃんの顔を見ると、ひどく安心した。
「りっちゃんおかえり!」
同じように両手を上げてふりふりと振る。応えるようにりっちゃんも手を振ってくれた。
「ただいまー! 無事終わったよー!」
「あ、郵便局間に合ったの?」
「ギリッギリね! セリヌンティウスの髪の毛一本撥ねられたかなってくらいギリで!」
「……それ、ほとんどアウト」
「生きてるからギリセーフ!」
涼名くんに言いかぶせるりっちゃんがおかしくて笑いがこぼれる。私の笑い声を聞いたからか、涼名くんが纏っていた強張った空気がほろりとゆるんだ気がした。大丈夫だよ、気にかけてくれてありがとう。まああれだけ泣いてしまったから、気にしてくれるなというのも無理な話なのかもしれない。だって涼名くんは優しいから。
「で、何か面白いものとかあった? 茉莉花は誰が好き?」
「あ、私はこのバンドが好きだった」
「それね! え、あたしもめっちゃ好きだった! 二枚目のアルバムがすごく好きでさー」
「ほんと!? 私もそのアルバム大好き!」
「そうなんだ!? いえーい、以心伝心―」
きゃっきゃと二人でさざめく。私たちのテンションを見て涼名くんが苦笑を浮かべる。
……うん。やっぱりこの空気感は居心地がいい。息がしやすい。私もここにいていいんだなと、明確な言葉にされずとも受け入れられる。それは自然に、体に染み込むように。
ああ、私はとても、恵まれている。
あれからCDショップでりっちゃんと騒ぎまくり、涼名くんはまたマイワールドに入り、長い時間店内にいた。りっちゃんと二人、涼名くんがぽつりぽつりとこぼす買ったCDについての話をふんふんと聞きながらいつもの公園へと戻る。
公園に戻って、いつも通りの「またね」と交わし合ってりっちゃんと涼名くんと別れた。この公園は私たちの基点。全部ここで始まって、ここで終わる。誰も何も言わず、解散はわざわざ公園に着いてからなされた。
またね。また会う約束のこもった言葉。私たちで言えば、また五日後に向かうためのおまじない。
けれどそのまたねが訪れるのは、少し先になってしまった。