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「またね」って言う前に五日ごとに会おうって約束して、その逢瀬は順調に回数を重ねた。いつ会ってもりっちゃんは笑ってて、いつ会っても涼名くんはヘッドフォンを首に落としていて、公園にはいつもりっちゃんの笑い声が響き渡って、そっと息を落とすようにたまに涼名くんが相槌を打つ。そこに私が加わるから静と動のバランスは傾いているかもしれないけれど、私たち三人には、たぶん、それがちょうどよかった。

 りっちゃんは話し上手だった。くるくるとステップを踏むように軽やかに話題が踊り、手を取って一緒に舞い踊るように話に巻き込まれる。今朝見た野良猫が日向で寝ていた話、カレーを作って爆発させた話、小学生の時に担任の先生があまりに美人で惚れた話、幼馴染だという涼名くんのちっちゃいころからのあだ名の話。ちなみにあだ名は『れいと』でちょこれいと、チョコくんらしくて、予想外の可愛さに思わず笑ってしまった。あたしのお母さんは未だにチョコちゃんって呼んでるよと追加された情報に更に笑った。

 チョ……涼名くんも全くしゃべらないというわけではない。りっちゃんと私が姦しく話して目立たないだけで、りっちゃんの話に静かに突っ込んでいたり冷静に注釈をつけていたり、ほんのごくたまに音楽や小説のことを自主的に話したり。誰だってきっとそうだけど、好きなことについてはほんのちょっぴり饒舌になるみたいだ。

 実は正直に言うと、涼名くんは途中からこの公園には来なくなるんじゃないかって思っていた。出会い頭のマシンガントークの時の、「話すの苦手だから、俺以外もいていい?」は半分くらい口実で、私とりっちゃんが慣れたらふわっと消えるのかなって。女子二人のほうが話しやすいだろとか言ってフェードアウトしていくのかと、結構本気で思っていた。蓋を開けてみれば口数は少ないながら毎回いて、涼名くんの律義な性格を知った。心の底でそう考えていたことが申し訳ないくらい、彼は静かな夜気のようにひっそりと寄り添ってくれていた。

 日常の中では相変わらず人との接点はない。半分冗談で友達に話しかけてみても返答はなく、目が合うこともない。知ってた。でも残りの半分は本気だ。期待と言ってもいいかもしれない。りっちゃんと涼名くんの存在があたしに未練たらしく『普通』を期待させる。そう思うと残酷だ。世界はもちろん、りっちゃんと涼名くんも。

 家族は……うん。

 今日もひとりぽっちで静かに学校を終えた。このままだと、テストの時期には行かなくてもいいかもしれない。登校しても記入する用紙がもらえないし、もしテスト用紙があっても丸つけしてくれる先生はいないのだろう。成績をつけてもらえないのならテストを受ける意味はない。

「……それでも私は学校に行くんだろうな」

 ははと乾いた笑いが漏れる。私は『日常だった』ルーティンをやめられない。可能な限り以前と同じように過ごしている。朝起きて学校に行くし、ちゃんと授業受けるし、門限までには家に帰るし、夜更かしもしないで寝る。羅列したら、表面上は本当に以前と何も変わらない。皮肉かなって思うくらい。中身の変化は言うまでもないよね。あー泣いちゃいそう。

 異常な日常でも時間は進んでいく。ほんの少し、前より気温と湿度が上がった。スカートの裾が気持ち悪く太ももにまとわりついて、近づいてくる夏を予感せずにはいられない。代謝が悪いのか汗はかかないけど、じんわりと肌を灼く日差しは不快だ。跳ねるように大股で歩いてスカートの裾を振り払おうとしてみるけれど、ただ変な歩き方になるだけで意味はなかった。

 ぴょん、ぴょん。大股の延長で、青信号を白線の上だけ踏んで渡る。向こうから犬の散歩をしているおじさんが歩いてきて、あっと思ってやめようとしたけど、どうせ分かんないんだからいいやと開き直ってそのまま跳ねるように歩行者信号を渡り切った。

 ハッハと短く息をする犬と、飼い主のおじさんとすれ違う。ほらね、変な目で見られるどころか一瞥も寄越されない。そのまま駆け抜けていこうとしたんだけど、猛烈な激しい声で呼び止められた。

「――っ!」

「え?」

 振り返る。二つの瞳とぱちりと目が合う。こんなに真っ直ぐに目を見てくれるのは、最近ではりっちゃんに続いて二人目だなあ。なんてそんなことを暢気に考えていたけれど、彼の甲高い声に意識を連れ戻される。

 笑いがこぼれた。

「わんわんわん!」

「っおい、急にどうしたんだ? 何もないんだから行くぞ」

「あなたには見えてるんだね」

 飼い主にリードをぐいぐいと引っ張られて、わんこが私を振り返りながら遠ざかっていく。円らなおめめに両手を振った。ばいばいわんこ。怒られちゃったね、ごめんね。気づいてくれてありがとう。

 わんこは角を曲がって見えなくなるまで、私のことを見ようとしてくれていた。そのままその場で視界からいなくなるまでわんことおじさんを見送って、くるっと前を向き直って歩を再開させた。大股はやめといた。何となく。

「……ふっ、」

 腹筋に力を入れる。

 でも。

「くっ、ふ、あはは!」

 でも耐え切れずどんどんおかしくなってきて、終いには立ち止まって腹を抱えて笑った。きゃらきゃらと声が響いて、自分の笑い声にまた楽しくなって笑えた。だって面白かった。飼い主のおじさんの不思議そうに困惑した顔。おじさんからしたら、何もない信号で静かに歩いていた犬が急に吠えだしたんだからそりゃあびっくりするだろう。それがひどくおかしくって仕方がない。

「あーやだ、おっかしい」

 はーと大きく息を吐きだして、まだ笑いの余韻を口元に残しながら再び歩く。いつもの公園を目の前にして足を止めてしまった。

 この公園はいつも私たち以外誰もいなくて静かだ。寂しいと言い換えてもいい。規模はシンプルに小さく、数少ない遊具は色褪せて薄汚れていて、街灯は半分が点灯しない。近くに大きな公園があるのも要因なのだろう。この公園が衰退したのが先か新しい公園ができたのが先かは知らないけど、卵と鶏みたいなものかもしれない。正直どっちでもいいんだけどね。大事なのは、話し込むにはぴったりってこと。大声で騒いでも誰もいないから怒られないし、誰に迷惑をかけるわけでもないから気が楽だ。

「……あれ?」

 私のほうが公園に来るのが早かったり、りっちゃんたちのほうが早かったり、それは日によってまちまちだ。りっちゃんと涼名くんが先にいる時はりっちゃんがきゃっきゃと楽しそうに話していて、ヘッドフォンをした涼名くんがふんふんと話半分で聞いているような光景を見かけることが多かった。

 だから、一人でぽつりと座っている涼名くんの姿はなかなか珍しくて少しびっくりした。しかもそれは、どうしてか古ぼけたジャングルジムの頂点だった。

「す、涼名くん? そこで何してるの?」

「……おーす」

「おーす。えーっと、今日りっちゃんはいないの?」

「うん。理雪は日直で居残りだから」

「そ、そっか」

 ヘッドフォンを首に落とし携帯に視線を落としたまま、涼名くんは微動だにせず下りてくる気配はない。立方体の上にさらに小さな立方体を重ねたようなジャングルジムを見上げたまま少し待ってみたけれど、状況は変わらなくて私の首が疲れただけだった。

「……涼名くん」

「ん?」

「私、そっち行っていい?」

「ん」

 こくんと首肯したのを確認して、私はジャングルジムに手と足をかけするすると登った。青い鉄パイプの錆が手につく。ジャングルジムを登るなんて小さい時以来で、その感覚はどこか懐かしさを覚えた。一段上がるごとに地面が遠ざかり、空へと近づく。風が吹き上げて下から煽られるようだ。ばさばさとスカートが広がって下からだと下着が丸見えだなと気づいたけれど、どうせ誰もいないからいいやと開き直った。

 よいしょとジャングルジムの平坦な部分で立ち上がる。目線が身長の分ぐんと高さを増して、世界が広がるように視界が開ける。いつもより高い場所から見下ろす私たちの住む町はちっぽけで、四方どこに視線をやっても町の先に山が佇む。この眼下に臨む景色の中で知っている人や関わることのないだろう人々が息づいて生きているのだと思うと、途端に住み慣れた町は知らない他人のように見えた。私は私の視点でしか生きているものを知れないから、この町が内包するもの全部を知ることはできない。

 遠くのほうに、百貨店の屋上にある観覧車が見えた。夜になったらライトアップされるそれは、明るい日の下ではただのゆるやかに回転する鉄塊で微塵も美しさは感じなかったが、郷愁の念は抱いた。ちっちゃい時、出かけた帰りにあの観覧車に乗るのが大好きだった。

 風に弄ばれる髪の毛を耳にかけて抑え、涼名くんを振り返る。私の立つ場所からさらに二段上がった頂点に座る彼は景色を見るでもなく、近くに来た私を見るでもなく、ただ携帯を触っている。涼名くんについて私が知っているのは律義な性格と口下手なこと、音楽と小説が好きなこと、りっちゃんとは幼馴染で、小さい時のあだ名がチョコくんだったことくらいだ。数少ないそんなものでは、どうして今ジャングルジムのてっぺんにいるのかっていう理由は全然全く分からない。想像もできない。ほんとは何も考えてなくて何となく、だったりして。もしそうだったら、私の涼名くんの印象にちょっと愉快な人という情報を追加しよう。

 両手を広げ、バランスを取りながら一、二、三と歩く。そこから更に鉄パイプを二段登れば頂点だ。

「……わっ、ちょっと上がっただけでそことはまた景色が変わるねー!」

 涼名くんの隣に腰かけて足をぶらぶらとする。手についた鉄錆を払い落とすと、パラパラと地上に降り注いでいった。小さな屑は風に撒かれ、散り散りにばらばらになってすぐに分からなくなった。

「今日風強いよねー」

「あー、確かに」

「風強いと、猫バスが走ってるのかなって思っちゃう」

「薪が吹っ飛ぶ?」

「家も壊れるかもね」

 うししと一人で笑う。涼名くんは、ちょっと口角が上がった? 表情の起伏は決して激しくないけど、能面というわけではない。微かな笑いの余韻が滲む横顔を眺めるが、彼は私に気づくことなくずっと携帯で遊んでいる。いつも何してるのってこのあいだ聞いたら、ゲームって簡潔な答えだった。リズムゲームだったり落ちゲーだったりソシャゲだったり、何か色々やってるんだって。いくつか私がやったことあるやつもあって、そんなときは少し話が盛り上がった。

「……」

「……」

 沈黙が満ちる。けれど無音というわけではなくて、風で木々は騒ぐし公園の外の道路は車が走っているしどこかでカラスが喧しく鳴いている。

 ……何でここにいるんだろう。

 疑問は戻る。何で涼名くんはここにいるんだろう。何でジャングルジムのてっぺんなんかに。

「ねえ涼名くん」

「何?」

「何で今日こんなとこいるの?」

 疑問はぶつけるに限る。ストレートな言葉に涼名くんは携帯から顔を上げ、考え込むように遠くに目をやりながら小首をかしげた。

「……何となく?」

 数分前に思ったことがよぎって、ふはっと吹きだした。

「私の中の涼名くんの印象に、ちょっと愉快な人という情報が追加されました!」

「いや何だそれ」

 ふっと涼名くんも吹きだした。喉をくくっと震わせて、ああ何かすごい楽しそう。声の波動に合わせて私も笑った。空に笑い声が響いていって、その輪は広がってまあるく閉じていくようで、でもどうしてかな、とっても泣きたくなった。

「はは……はー、あー」

 幸せが深淵に積もっていって、同時に他のものがせり上がってくる。じりじりと体の芯を炙られていくようで、焦げ臭い匂いが鼻の奥を犯す。

 不快……ちょっと違う。これは、そうだな。

「……あ、」

 足をぶらぶらと揺らすと、片っぽの靴が下に落ちていった。軽い音を立てて地面に転がるローファー。靴下だけになった左足が右足より涼しい。ああもう、あとで下りた時に拾えばいいや。

「何?」

「ううん、靴が脱げただけ。ねえ、ちっちゃい時靴飛ばしってやんなかった? 私あれすごい好きだったんだよねー超絶得意だったの。茉莉花プロって友達に呼ばれて、いやもう本当にプロの域だったね。誰とやっても私の圧勝で勝負になんなくって、最後にはプロはアマチュアの試合に出ちゃ駄目なんだよって靴飛ばししなくなっちゃった。あ、でもね、私ババ抜きはすっごい弱いのもう激弱。ババが手元にきちゃうと無理、絶対顔に出る。そんでまたババ引く確率もめっちゃ高いんだよねーある意味強運の持ち主じゃない? 涼名くんはババ抜き強そうだね」

「あー、まあ、それなりには……」

「だと思ったー! ポーカーフェイスとか得意そうだもん! りっちゃんも私と同じタイプ……いや、あの子は違うかな。無表情を貫くんじゃなくって、ずっとにこにこしてるほうのポーカーフェイスと見た。りっちゃんは運も良さそうだなー、おみくじとか大吉引きまくってそう。私これ忘れもしないんだけどね、中三の修学旅行って京都に行ったんだけどその時清水寺に行ったの。あ、涼名くんも? 清水の舞台すごかったよね。それでそこでおみくじ引いたんだけど、私、凶だったの! すごくない!? 修学旅行の清水寺で凶引く確率って何パー!? 一周回って面白くなっちゃって、もうお腹抱えて笑ってさ。もちろんしっかり結んで帰ったけど、おみくじって神社とかに結んで帰らなくてもいいだって! 何かねー、正直おみくじって持って帰ってもどうしたらいいか分かんないじゃん? だから、持って帰って粗末になるくらいなら結んで帰ったらいいよーみたいな感じなんだってさ」

「へー、そうなんだ」

「うん。友達のお家が神社でさ、教えてもらったことがあるんだー。その子とは幼稚園の時から一緒なんだけど、今も同じクラスなの。まあ無視されてるみたいな状況だけどねあははっ! でも本当に、仲が良かったんだよ。幼稚園のお迎えのバスも一緒だったんだけどね、私がいつも先に乗って、隣の席に鞄を置いて『ここはあの子の場所!』ってね、今思うとはた迷惑な話だけど場所取りとかしてたくらいで。まあみんな、私の隣にその子が座ること分かってて空けてくれてたんだけど。幼稚園の時、私すっごい我が強かったんだよねー。これもめっちゃ覚えてるんだけど、運動会の時パン食い競争があって、私走るの遅いからビリでパンのとこに着いたの。もうみんなはパン咥えて走っていってるわけだから一個しかぶら下がってなくて、何パンだったんだろ、カレーパンとかだったのかな。とにかくその一個しかなかったわけなんだけど、幼稚園児の私はどうしてもメロンパンがよくて『メロンパンじゃなきゃやだ!』って駄々をこねちゃって。あの時の先生の困った顔すごく覚えてるなー。結局メロンパン出してもらって最下位でゴールしたんだけど、私的にはメロンパンが食べられて超満足だったんだよね」

 からからからから。脳が空回りする音が、舌が無意識に回る音が頭蓋骨の中から聞こえる。今私は何をしゃべっているんだ。ちゃんと日本語なのかでさえも分かんない。ちゃんとしゃべれてるの? わかんない、なんにも。

 それでも口は止まらなかった。

「……あっ!」

 空を曖昧に眺めていた視覚が、公園の外の道路に見覚えのある影を捉える。指を差して足をぶんぶんと振った。靴下に包まれただけの左足が空気を裂く。

「わんこ!」

「?」

「ほら、あそこ! 公園の外の信号のとこの柴犬!」

「……あー、うん、いた」

 私の指先を辿って涼名くんがわんこを見つけた。あんまり目が良くないのだろうか、きゅっと眉間に皺が寄っていた。

 てけてけと歩いているわんこを遠く眺めて、またさっきの笑いがこみ上げてきて一人で笑った。声を出してけらけらけらけらケセラセラ。隣の涼名くんがどうしたんだって空気を出したのを肌で感じた。

「犬好きだったっけ?」

「うん、好きだよー! でも違うの、さっきあのわんことすれ違ってめっちゃ吠えられてさー。ふふ、いやそれがちょっとおかしくって! 飼い主のおじさんいるじゃん、そうそうあの帽子かぶってる人。あの人にはやっぱりガン無視されたというかすれ違っても見向きもされなかったんだけど、あのわんこは私に気づいてさ。もうね、すごいよ、めっちゃ吠えられたの! ガンガンに! すごいびっくりした! あ、わんこちゃん私のことが分かるの!? って。わんこが振り返ってガンガン吠えるから、おじさんが戸惑ったみたいにほら何もないぞ早く行くぞって言いながらリード引っ張っていくのが、もう一周回って面白くなってきちゃって私お腹抱えて笑っちゃったんだー。いや今もめっちゃ面白くて半笑いだけどね! ふふ、や、本当にねー、ツボに入っちゃって駄目だ、おかしい」

 堪えた喉の奥から抑え切れなかったぐふぐふと気持ち悪い笑い声が漏れる。だって本当に笑いが止まらないんだもん。あーおかしい、本当に!

 さあ笑え笑え。全部忘れるくらい、笑ってしまえ。言い聞かせる自分の声に返ってくるのは、どんどんおかしくなってきて馬鹿みたいにボリュームを増す笑い声だ。

「ははは、やだ、もう涙出てくる!」

「……――った?」

「え? ごめん涼名くん、今何か言った?」

 柴犬と飼い主のおじさんから隣の涼名くんへと視線を向ける。彼らを追っていた涼名くんの目線は、ぽつりと下に落ちた。自分の爪先でも見ているのか、それとも地面に落ちた私の靴を見ているのか、私には分からない。

「……」

「? 聞き間違えだった?」

 口が動く。大したことじゃないみたいに、明日の天気でも聞くみたいに、さらりと水に流れていくように自然体に。……ううん、事実、もしかしたら涼名くんにとっては何てことない問いかけだったのかもしれない。何となく、ぱっと思いついて言葉にしたような。

 でも。

「――何かあった?」

 私にとっては、引き金となる言葉だった。

「……何、で?」

 ひゅっと息を吸う音が耳障りみたいに聞こえた。不意打ちすぎて取り繕う暇もない。ああ駄目、せっかくたくさん笑って誤魔化していたのに。

 声からも表情からも、自分の感情が死んだのが分かる。

「何で? ……声に、元気がない気がしたから?」

「はは……涼名くん、何それ」

 さっきまでの馬鹿みたいな笑い声とは違う、乾き切った空っぽの声。すぐに揺らいでしまう自分が嫌だ。

「何か、何となく思ったというか……大丈夫かな、って」

「大丈夫だよ」

 大丈夫だよ。私は大丈夫。何にもないよ。

 わなわなと震える口で、不安定な音程で、ぱたぱたと何かがこぼれ落ちながら、それでも私は言う。大丈夫だよ。

 ねえ何で!

 母の金切り声が頭蓋骨に反射する。

「大丈夫だよ」

 父の蚊の鳴くような声が心臓に刺さる。

「何もないよ」

 どうしてあの子は!

「何、も……」

 茉莉花……。

「……」

 ああ、心が割れそうだ。


     *


 三日前のことだ。

 二階の自分の部屋で眠っていた私は、階下から聞こえてきた激しい騒音で目を覚ました。何かが落ちる音、慟哭のような絶叫、ガラスの割れる音、この世の全てを憎むような怒声。

 胸中を支配するのは嫌な予感なんてものではない。これは明確に、はっきりと、嫌なことが起こってしまっている。

 心のどこかで諦めと希望的観測を抱き、頭のどこかで他人事のように思いどうしようもなく不安がさざめく。一階で何かが起こっているんだろう。ほとんど答えは知っているようなものなのに、ずるい私は知らんフリをした。

 そろりとベッドから起きだし、音を立てないようにこっそりと部屋を出る。季節柄、全然寒くないのに背筋を駆け上っていく寒気があった。「……いや武者震いかもしれないじゃん!」と誰へともなく言い繕ってみるが、ただ静寂が広がるだけで私の変な言い訳を聞く人なんて誰もいなかった。

 電気のついていない廊下と階段は真っ暗闇だ。長年の住み慣れた感覚ですり足で進み、階段を一段ずつそろりそろりと下りる。途中の窓から見た外は同じく闇が広がっていて、外を見ているのか窓に映った家の中を見ているのかよく分からない。蔓延るのはどうしようもなく暗闇だから、まあどちらでも構わないけれど。今日は星も月もないようだ。昼間って曇っていたっけ。あんまり覚えていないからこれも何でもいいや。

 階段を下りて一階に着いて、こういう時って何でリビングの扉が開いているものなんだろう。物語でも何でも、こういうシーンの時は決まり切ってドアは完全に閉まっていないものだ。

 うちの場合は、ばーんとダイナミックに開放されていた。そりゃあもう堂々と。ぴたりと閉じられていたなら、このまままあいっかで二階に上がって眠りについたのにな。現実って、どこまでも思い通りにいかない。

 気は重かった。じゃあ戻ればいいじゃんって思うんだけど、でもそういう簡単な問題でもなかった。

「――何でなのよ!」

 だってこの騒動の中心、原因は私だから。

 キーンと耳鳴りが起きる周波数でお母さんが叫ぶ。夜中だ近所迷惑だなんて、そんなことは微塵も考えられていない。そんな余裕、お母さんにはすでになかった。

 私は母の二十二歳の時の子だ。だから今は四十手前くらいだけど、でもクラスメイトのお母さんたちの中でも綺麗な分類に入るんじゃないかなって。身内の贔屓目が多分に含まれているのはもちろん分かっているけど、でも綺麗なほうだと思う。いつも髪の毛もお化粧もちゃんとしているし、服もお上品で綺麗めなものやカジュアルでかわいらしいものなんかをバランスよく着ている。しゃんと背筋を伸ばして、やわらかく笑って……うん、お母さんは綺麗だ。私はお母さんのこと、ちゃんとって言い方は変かもしれないけど、ちゃんと好きだったよ。

 さてそう思いますると、今この目の前にいる女の人は誰でありましょうか。

 ゆるくパーマのかかった長い髪の毛は振り乱され、スッと引かれたアイラインやくるりとまつ毛を持ち上げるマスカラが黒い涙となって顔面を流れていく。ブラウスのボタンはかけ間違えてあぶれてる子がいるし、ストッキングはどこかで引っかけてきたのか電線が大胆に走る。

 こんな女性、私は知らない。お母さんだなんて、そんなこと今のこの人を見ても思えない。

 ひどいと思った? でも先にそうしたのは彼女のほうなんだよ。

 ギラギラと嫌に勝気な光が宿る瞳で彼女は辺りを睨みつけて、緻密に施されたネイルが可哀そうなくらいボロボロになった指先で頭を掻きむしって声を上げる。鼓膜を乱暴に引っ掻くような、耳障りで悲痛な声音。

「何で……!」

 ひゅーひゅーと喉を鳴らす呼吸音が苦しくなるくらい喘ぐ。自分の髪を掴んで力任せに引っ張るから、ぶちぶちと頭皮から千切れていく音が私の耳にまで届いた。

 母は最近、こうして癇癪を起こす。

「何で茉莉花はいないのよ!」

 私がいないと言って、癇癪を起こす。

 食卓テーブルの上にあったグラスを床に叩きつける。派手な音を立てて破片が飛び散る。キラキラしていてそれは少し綺麗だった、なんて現実逃避のように私はそれを無感動に見つめた。

 いつからだろう。

「どうしてなの!? どうして!?」

 どうしてだろう。

 お母さんが床に飛び散ったガラスの破片を殴りつける。何度も何度も、それはさらに砕かれて砂塵のような屑になる。キラキラして綺麗ね、なんて以下略。

「どうしてあの子はいないの!」

 いつからか、どうしてか、母は病んでしまった。見る影もなく、病んでしまった。

 割れたガラスで切ったのか、母のこぶしに血が滲む。それを手で押さえ、けれども母はまだ足りないと言わんばかりに咆哮を上げた。嗚咽が混じって、それは悲鳴で、怒声で、びりびりと部屋の空気が震える。

「何、で――っ」

「……おい、もうやめとけ」

 なおも振り上げられたこぶしを、部屋の隅で沈黙していた父はやっと止めた。仕事が忙しいのか、それとも繰り返されるこの状況にか、憔悴し切った顔が痛々しく苦々しい。

「っ、いや、離して!」

「少し落ち着け」

 お父さんの声は、お母さんにはきっと聞こえていない。腕を掴まれ動きを封じられた母は嫌々と身をよじって父から逃れようとする。父は淡々と繰り返す、落ち着け。芸もなく、ただ静かに同じ文言をリピートするだけだ。他に、何も言ってくれやしない。

「ねえ、何であの子なの? どうしてあの子は消えちゃったの?」

「……落ち着け」

「どうして!? 何で!?」

「落ち着け」

 幼児退行したように母は父に縋る。何で、どうして。口からこぼれ出る言葉でさえひどく幼稚だ。

「何でなのよ……まりか……」

 ねえ。

「何でいなくなっちゃったのよ……」

 ねえ。

「どこに行っちゃったのよ……早く帰って来なさいよ!」

 ねえ。

「分かったから、落ち着け」

 私、ここにいるよ。

 しくしくと泣きだした母を慮るように父がそっと肩を抱く。お父さんはやっぱり何も言わない。私がそばで立ち尽くしていることなんて気づかずに、家族の写真が置かれた棚をぼんやりと見つめてぽつりとこぼした。

「茉莉花……」

「なあに」

 切り取られた過去の私から今を生きている私へ、父の視線が向くことはない。

「呼ばれたから返事したのに、無視するなんてひどいじゃん。呼ばれたら大きな声でお返事しなさいってちっちゃい時言ってたよね。ねえ、私、ちゃんとここにいるよ。どこにも行ってないよ」

 ねえ。ねえ。ねえってば。

 私も小さい子のように二人の腕に縋りたかった。服を引っ張ってこっちを見てって、関心を引きたい幼子のように。

 母が泣く。父は言葉なく寄り添う。

 私も泣きたい。私も寄り添ってほしい。

 ねえ、

 私はちゃんとここにいるんだよ。


     *


「春野?」

「……!」

 鼓膜を揺らした声に、過去へ旅していた思考が現実へと引き寄せられた。はっと居眠りから覚めたみたいにそれは唐突に思えて、びくりと肩が揺れた。

 ぱたた。音を立てるように、大粒の涙がジャングルジムの上から落ちていく。気づいたら、情けないくらいにボロボロと泣いていた。

「だ、大丈夫!」

 こんないきなり泣きだしたらびっくりされてしまう。ぐしぐしと強引に涙を拭った。けれども涙は止まらないし、鼻水はずるずると派手な音を立てて感情が高ぶった余韻を残滓として残す。

「春野」

「あの、ほんとに大丈夫だからお気になさらず……」

 そのままいつも通りゲームでもしててくれ。お願いだから。今は何も触れないでほしい、聞いてくれるな。こんな、感情が剥きだしになっているような時に構われたくない。

 何だろう。友達と家族って違うじゃん。質量というか、刷り込まれた概念というか。生まれた瞬間から無意識に培われてきたものというのは想像しているよりもずっと大きくて、ずっと重い。

 その大きくて重たいものに、ちゃんとここにいるのにどこかへ行ったと思われている私はどうすればいいんだろう。何をどう行動するのが正解なのか教えてほしい。声を張り上げ続けたらいい? 地団駄を踏んで暴れたらいい? そんなのとっくにやったよ。喉が死ぬまで、足が壊れそうになるまで、叫んだし暴れ続けたよ。それでも、母も父も私を見つけてくれなかった。

 絶対的に自分の味方だと信じてやまない家族に存在を無視されるというのは、思った以上にきつい。母が癇癪を起こすたび、苦しむ母と一緒に私も苦しんでいる。悲しんでいる。傷ついている。現状を目の当たりにするたびに、それは暗く、深く。

 大丈夫かって? 大丈夫じゃないよ。だって、突然世界から無視されるようになったみたいなもんだ。身近な親から知らない通行人まで、みんなみんな、無視をする。今までと変わらないルーティンを踏んで日常を辿っているのは、今までと変わらない日常だと思い込みたいからだ。

 強がって気丈に振る舞うことで気を逸らしてきた。けれど強がりは、言葉そのままに強いフリをしているだけだ。脆弱な糸は、こうして幾度もぷつんと切れる。

 鼻水が止まらなくて何度も啜り上げる。ずるずると汚い音が耳障りなくらい響く。

「春野は」

 涼名くんの声がぽつりと落ちる。静かな声は、私の盛大な鼻水の音に飲まれてしまいそうだった。

 けれど聴覚は、涼名くんの声を拾う以外の役目を放棄した。

「春野はちゃんとここにいるよ。少なくとも、俺と理雪は分かってる」

 強い風が吹いた、気がした。分からない、気のせいかもしれない。目の前の暗いものが吹き飛んでいって視界が輝きに満ち、このまま空に飛んでいけそうなそんな心が沸き立つ浮遊感が全身を巡る。

 ああ。

「涼名くん……」

 初めて会った時のりっちゃんといい、どうしてこの二人は私が欲しいと思っている言葉を的確にくれるのだろう。

 昂った感情がそのまま涙となって表層に出る。またしばらく鼻水が止まらないのだろうが、もうそんなことはどうでもよかった。

「ごめん、ありがとう……ありがとう……!」

 ただただ、へろへろな声でもちゃんと伝えたかった。

「っ、ありがとう……!」

 ありがとうって、心を込めて。

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