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 気分やテンションを折れ線グラフで表したら、この五日間の私の軌跡は乱高下の激しいグラフになるだろう。淡々とした変わり映えのないひとりぽっちの日常は平行を辿り、現実に直面しては急激に線は下り、けれど久しぶりにできた予定にそわそわと跳ね上がったり。情緒不安定なのではと思うくらい、私の機嫌は上がり下がりが顕著だった。

 とにかく五日だ。あれから五日が経った。今日は十五日。約束の五日後だ。

 学校のチャイムが鳴り、慌ただしく席を立つ。「あれ、今日用事あるの?」なんて言葉がかけられることはもちろんなく、誰にも挨拶をされることもすることもなく静かに教室を出た。以前ならそのまま下校時間ぎりぎりまで友達と話し込むこともあったけれど、今はもうそんなことはない。

 どうしようもなく逸る気持ちに、胃の底が浮いてしまったようにふわふわと落ち着かない。でも同時にどこか不安な部分もあって、私は駆けだしそうになったり立ち止まってしまいそうになるのをなだめながら待ち合わせ場所の公園へと向かった。

 ……いなかったらどうしよう。

 公園を視界に捉えた途端、急に足が竦んだ。だって、無理やり押しつけたような約束だ。突然知らない女子高生に呼び止められ、怒涛の勢いで近況を語られ、定期的に会ってほしいと迫られたのだ。私だったら怖いし、逃げだしたかもしれない。

 ……ううん、いいや。もし誰もいなかったら、公園で全力で遊んで帰ろう。ブランコで立ち漕ぎして靴飛ばしして、滑り台を逆走して、ジャングルジムの頂点で吠えてやる。……あれ、それはそれでちょっと楽しそうでいいかもしれない。

 でも、残念ながらその機会は訪れなかった。

 公園に入ってきょろりと辺りを見回すと、いた。ブランコに座った女の子の後ろ姿と、柵にもたれて携帯を触っている涼名くんの姿。今日もヘッドフォンをつけている。

 何だか動悸がしてきた。あの女の子に私のことが認識されなかったら? 前回は会話ができた涼名くんと言葉を交わせなくなっていたら? 何も確定事項はないんだ。どうなるか分からない。このまま二人の元に行ったら私はまた事実を突きつけられるのかもしれない。理不尽で意味が分からないけれど、でもそれが今の私の現実なんだ。ああ、泣きたくなっちゃうね。

 近づくことも帰ることもできないまま、私は二人の姿をただただ眺めた。五月の清かな風が木々の新緑を揺らし、公園内を駆け抜けて私のスカートと髪の毛を撫でていった。

「――」

 何の前触れもなく、女の子が振り向いた。じっとこっちを見て、涼名くんの腕をぽんぽんと叩いて私を指差す。ヘッドフォンを首に落とした涼名くんの視線が女の子に注がれて、こちらを向いて、また女の子に返って、こくんと首肯したのが見えた。

 女の子が立ち上がる。私を見る。白いシャツに、涼名くんのズボンと同じ濃紺を基調としたチェックのスカート。スカートとお揃いのチェックのリボンが、私の特徴のないセーラー服に比べてとてもかわいい制服だ。

 細い手が上がる。手招きされる。

 ああ、呼ばれている。他の誰でもない、私が。

 一歩動いた先の地面で、ローファーが砂を踏みしめて軋むように音が鳴る。ざ、ざ。一歩ずつ、足音を立てて、自らの足で私は二人の元へ行く。他に誰もいない公園は、今更ながらとても静かだった。

「こんにちは」

 きちんと目を合わせて、女の子がきゅっと口角を上げて笑う。やわらかいまなじりが優しそうで、声音はあったかい。髪の毛は肩ほどの私より少し長いみたいで、ゆるい癖のある髪をハーフアップにしている。身長は私より五センチ以上は高そうだ。

「初めましてー、朝日あさひ理雪りゆきです」

 普通だ。あまりにも普通だ。まるで遠ざかった日常が帰ってきたようで、また錯覚をしそうになる。

「――私が分かるの……?」

 問いかけた声は震えていて、欺瞞に満ちていて、我ながら初対面の第一声としてはどうなのと思う。

 女の子が不思議そうに首をかしげる。髪の毛がさらりと揺れた。

「春野茉莉花って名前くらいは聞いてるけど?」

「ちが……」

「え、違った? 玲斗、あたしに嘘を教えたの? ジャスミンじゃなくてチェリーブロッサムとか?」

「あ、それは違わなくて! ジャスミンで合ってる!」

 驚いたように涼名くんの腕を掴んで詰め寄る彼女に、慌てて否定の言葉を渡す。両手をぶんぶんと振ってみれば、きょとんとした顔で「あ、そう?」と首をひねる。危うく春爛漫な名前になるところだった。

「なんか綺麗なお花の名前だったなーって、記憶違いしちゃったのかと思った。ごめんね」

「と、とんでもない!」

 ごめんね、と眉と目尻を下げて苦笑する彼女の雰囲気がやわらかくて、涼名くんとはまた違う空気感だけどこの子も話していると不思議と心地よさを覚える。涼名くんが夜気なら、彼女は朝もやだろうか。霧のように水滴を残すわけではなく、もっと向こう側が見えるべたつきのない透明感というか……うん、朝の清明な空気を胸いっぱい吸い込んだ時の爽やかな気持ちを思い出す。

「桜じゃなくてジャスミン、マツリカね。やっぱり綺麗な名前。名前で呼んでもいい?」

「う、うん、もちろん! えっと、私は……」

「好きに呼んでくれていいよー。そのまま理雪でもいいし、あだ名ならりっちゃんって呼ばれることが多いかな?」

「じゃあ、りっちゃんで」

「ん、どーぞどーぞー」

 ゆるりと笑うりっちゃんがあったかくて、自然と私も表情から力が抜ける。ここに来るまでの色んな葛藤が嘘のように溶けて穏やかささえ覚える。経緯なんて全部忘れて、この空気感に出会えたことが純粋に嬉しい。ぐんと、この世界で呼吸がしやすくなった気がした。

「……ねえ、りっちゃん」

 けれども、確認はしておかないといけない。

「ん?」

 くるりとした瞳が続きの言葉を促してくる。きゅっと少し口角の上がった口元はどうやら生まれ持ったもののようで、ふわふわやわらかな綿雪が落ちてきたのを見つけたみたいに何だか心にほっとぬくもりが灯った。

 今度は、声は震えなかった。

「りっちゃんは、涼名くんからどこまで聞いてるの?」

 簡単な事実確認。現実の見つめ直し。さてここにくるまでに私は何回事実と現実という言葉を使ったでしょう、なんて馬鹿みたいな自問自答をする。でも、だって、それが今の私の全部なんだもん。錯覚しては駄目、油断しては駄目、自分の状況はちゃんと把握して、じゃないと落差にしんどくなっちゃうから。でも、直面するのもやだ。どっちつかずの空間に、何も知らないでーすって顔して甘やかされて漂っていたいっていうのが本音だ。でも私はこうやってぐるぐる考える性格だから、そううまくはいかない。

 何も考えず、出会えた理由なんて忘れてりっちゃんや涼名くんとおしゃべりしていたい。けれど私は、自傷行為のように、形を保たず溶けていきそうな私の存在を縁取って明確にする。普通じゃないんだよ、違ってるんだよって、世界との境界線を。

 りっちゃんは笑う。目を細めて、憐れむような、慈しむような、見たことないけどこれが聖母の笑みなのかもしれないって思った。そんな感じの、優しい優しい、笑顔だ。

 太陽に雲がかかり、地上は影に支配される。日が隠れた瞬間、温度と明度が落ちる。

「全部聞いてるよ。そうでしょう、玲斗」

 言葉なく涼名くんが頷く。あの出会い頭にかましたマシンガントークを流さず聞いてくれていたという事実が嬉しくて同時に支離滅裂の取っ散らかった私の話を涼名くんがりっちゃんに伝えたと思うと少し面白い。どんな風に、どんなトーンで話をしたんだろう。

「とりあえず、あたしから茉莉花に一言だけ」

 鼻先にりっちゃんの顔がずいっと近づいてきて反射的に身を引く。目の前で、先ほどとは色の違う勝気そうな笑みが光る。

「あたしは貴女が見えてるよ」

 りっちゃんの背後から光が差した、ように見えた。

 事実、雲に隠れた太陽が顔を出して辺りに光が戻った。肌の表面を這う温度は熱を含み、視界に満ちる明かりは清明さが宿る。ぶわっと風が吹いた気もしたけれど、どこまでが現実でどこからが私の思い込みなのだろう。

 でも、何かを感じ入ってしまうくらい、りっちゃんの言葉は私にとって衝撃だった。救われて、掬い上げられる。

「――」

 見えてる。そのシンプルな言葉を、私がどれだけ求めていたか。

「っ、ありがとうりっちゃん……!」

 涙は出ない。違うんだ、泣いて片付くようなそんな単純な気持ちじゃないんだ。ぐるぐると身体の底で渦巻く感情たちが身をよじってうねって、そうして深いところに吸い込まれていく。じんわりと染みてって、細胞の中に広がってって、私の中に溶けてって。

 ああ、何だろう。ひどく高揚する。感情の行き先を探し、適切に言語化できる言葉を探して、その場で右往左往する。

「あの、本当に! いや、何か……!」

「ちょっと落ち着きなよー! ねえ?」

「うん」

 努力は虚しく口からこぼれる音は意味を成さない。りっちゃんが涼名くんに同意を誘うと、涼名くんはまた言葉少なくこくりと首肯した。無愛想な顔立ちがほんのちょっとゆるんだ気がした。

「ねえ茉莉花、それよりちゃんと顔見ていい? じっくり見たい」

「え? うん、いいけど……」

 戸惑いながら頷くと、りっちゃんの両手が私の頬を包むように伸びてきて、眼前に彼女の顔が迫る。りっちゃんの瞳に太陽の光が反射して、焦げ茶色の目がキャラメルティーのような優しくて甘やかな色に変わった。不思議な色彩に思わず見とれる。二重のくっきりとした目に意志の強そうな印象を受けるが、垂れた目尻がりっちゃんの顔立ちをやわらかく見せる。きゅっと上がった口角は豊かな感情と安堵を覚え、白くまろい頬はふくふくとあたたかそうだ。

「……うん」

 りっちゃんが目をつぶって、何かに納得するように一人で頷く。まつ毛が長いなと見つめていると、ぱっと姿を見せたこげ茶に戻った瞳が嬉しそうにキラキラと輝いていた。

「やっぱ茉莉花って美人!」

「……は?」

 ぴょんと跳ねるように一歩下がり、りっちゃんはきゃっきゃと楽しげに笑う。涼名くんは我関せずといったようすで携帯に視線を落としていた。

「ほら、美人って至近距離で見ても見るに堪えないことないじゃん? テレビで超アップになった女優さんとか、うわこの距離でも綺麗ってすごいなーって思わない?」

「あ、うん、思うけど」

「でしょー? だからね、この人美人だって思うと、至近距離で顔を見させてもらってるんだよねー。美人観察が趣味でさ!」

「そう、なんだ?」

「そう! で、茉莉花も漏れなく美人さんだったね! あたしの第一印象に狂いはない!」

 力強く言い放ってりっちゃんが満足げに伸びをする。熱弁が怒涛すぎて現状から置いていかれた感があるが、確実に言えるのは一般的に見て美人に分類されるのは私ではなく絶対りっちゃんだと思う。そんな分かりやすい褒め言葉なんてかけてもらったことない。

「どう考えてもりっちゃんのほうが美人だと思うんだけど……」

「茉莉花の感じ方とか、そんなのどうでもいいの。ただのあたしの主観。好み。あたし、茉莉花の顔好きだよ」

 いっそ暴論とも取れる持論を清々しいくらいに言い切ってりっちゃんは満面の笑みを浮かべる。

 この子は一体何だろう。大人びた微笑みを滲ませながら私の望んでいた言葉をくれたり、ちっちゃい子みたいにはしゃいだり。掴みどころがない彼女の言動に引っ張られて、心の底から思いっ切り吹きだすように楽しいが湧き上がる。

「ふっ、ははは! やっだー照れちゃう! じゃあ私も私の主観でりっちゃんの顔が好みだよ!」

「あらあらまあまあ、いやん、あたしも照れちゃうじゃん惚れちゃう! じゃああたしら両想いってことで――あ、玲斗ほったらかしにしてごめんねー、でも女子の絆のあいだに入る隙なんてないよねー」

「俺は、」

「ほらほら拗ねんなって! よっし、じゃあ玲斗の好きなバンドの話していいよ五分だけなら聞いたげるから。はい茉莉花、五分間しー、ね?」

「うん、ひっとこともしゃべんないから涼名くんどーぞ」

「いや五分って……」

 りっちゃんのペースに巻き込まれて涼名くんが困ったようにたじろぐ。それを見てまた二人で甲高く笑い声を上げた。それでも涼名くんも表情がやわらいでいて、この空間が嫌ではないんだなということは分かった。

 言葉を投げて、返ってきて、また渡して。当たり前に交わされるやり取り。そんな簡単なことがこんなに楽しくて嬉しいなんて、以前の普通の私は知らなかった。いや、気づいていなかった。油断すると泣いてしまいそうなくらい、普通じゃない今の私にとってこれは普通じゃない。

 そんな空間がすごく、無性に、愛おしいと思った。

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