(38)
助けて。
私に気づいて。
私を見て。
*
冗談みたいな話だけど、どうか聞いてほしい。笑ってくれてもいい。罵ってくれてもいいから、どうかお願い。……嘘、話を聞いた上で罵られるのはつらすぎるからやめてもらえると私が助かる。というか、そもそも罵られるような話ではない。
私は、急に世界から自分の存在を認識されなくなった。
学校でいじめられてクラスメイト全員から無視されているとか、そういう次元ではない。クラスどころかほかのクラスの友達、教師、両親、果ては通りすがりの人にまで、私の存在はいないものとして扱われているようだ。
嘘みたいでしょう。質の悪いドッキリだって何度も思った。いつカメラが現れてもお笑い芸人顔負けのリアクションを取れるように身構えていた。
けれど悲しいことに、これは現実で、事実だった。待てど暮らせどドッキリ大成功の札を持って私の元に来てくれる人はいなかった。ただただ淡々と、静かに毎日を消費していくだけだ。
静かに、というのは少し語弊があるかもしれない。多少荒れて、暴れた。何で無視するのって泣いて怒ったし、縋りつくように怒鳴り散らした。それでもその声は誰にも届かなくて、みんな、みんなみんな、世界からいなくなったみたいに私はひとりぽっちになった。
今日も私は学校に行く。おはようと教室に入っても、誰も返してくれない。もう慣れた。嘘、慣れたって思い込んでそれを事実としているだけ。私という存在が世界から抹消されたのではと思うが、意外にも自分の席はちゃんとある。そこに座っていても誰も話しかけてくれないし、担任ですら出席の確認で私の名前を飛ばすけれど。きちんとやった課題は今日も無駄になり、配られるプリントは今日も私の分は用意されていない。これが私の日常。これがもうすでに普通となっている。
ちゃんと学校には通って勉強している。ただそれが、たまにひどく馬鹿馬鹿しくなる。何でこんな状態でも学校に行っているんだろうって。単にサボり方を知らないだけなんだけど。学校をサボるのってどうするの? 堂々と遅刻早退無断欠席をしていた不良の女の子に、中学の時ほんのちょっぴり憧れていた。根っこが臆病者の私には到底できない。
とぼとぼと、今日も何事もなく終えた学校から帰る。ぼんやりとしていて、前から歩いてきた人と肩がぶつかった。
「あ、すみませ――」
振り返りざまに謝罪の言葉を落とすが、ぶつかったその人は立ち止まらず去っていく。まるで、私とぶつかったことなんてなかったかのように。
「くっそ、無視すんなっつの」
言葉は受け入れてもらえず、言葉をかけてもらうこともない。
「ああ、誰か私に気づいてよ。私を見てよ。私はずっとここにいるのに」
そんな世界で、だから、その人は目立った。
「――」
ふいと視線を向けた先、二車線の道路を挟んだ向こうの通り。同い年くらいの男の子がいた。制服は違うから別の高校だ。しかし問題はそこじゃない。
その男の子と私は、一瞬、確かに視線が交わった。
何もなかったように歩いていく男の子。目が合ったなんて気のせいかもしれない。アイドルのコンサートに行って「絶対目が合った!」と盲目的に信じ込むファンの子と同じかもしれない。
でもここ最近の日常で、それは初めてのことだった。
「っ、待って!」
大声を張り上げるが、行き交う車の騒音に掻き消される。気持ちだけが焦っていく。待って、待って、行かないで!
タイミングよく横断歩道の信号が青に変わった。走って道路を渡り、濃紺のブレザーの背を追いかける。セーラー服のスカートが派手にめくれ上がるがどうだっていい。
「ちょっ、そこの人おおぉぉ!」
こんなに声を張り上げたのはいつぶりだろう。自分の声で耳がびりびりとする。そのまま噎せて咳き込んだ。
けれど大声を上げた甲斐あって、男の子は立ち止まってくれた。よく見るとヘッドフォンをしていて、それでもなお聞こえるほどの大音量で叫んでしまったことを少し反省する。
ごほごほと吐き気がこみ上げるほどの咳を何とか落ち着かせ、男の子の元へ駆け寄る。きょろきょろと辺りを見回す彼へ、「あの!」と声をかけた。
「あなた、私のこと分かりますか!?」
「……いや知らないけど」
「ごめんなさい言葉間違えた!」
勢いのまま言葉をぶつけ、勢いのまま間違いだと告げる。彼はヘッドフォンを外しながら一瞬ちらりとこっちを見たが、そのあとは視線を落として私のことは一切見ない。人の目を見るのが苦手なようだ。
「あの、あなた私のこと見えますか!?」
「……何で?」
さっきと同じ、一拍の間。再度変なことを聞いてしまい申し訳ないとは思うが、こっちも切羽詰まっている。じりじりと炙られるよに、気が急く。
「突然ごめんなさい! あの、話半分で聞いてもらったんでいいんですけど、私最近人から認識されなくなっちゃって! ここ十日くらいかな!? いやほんと意味分かんないと思うんですけど!」
そこから私のここ最近の出来事をマシンガントークで名前も知らない男の子に話した。馬鹿みたいにへらへらしながら、早口でまくし立て、けれど彼はそれを止めるわけでも積極的に相槌を打つわけでもなく、ただ静かに最後まで聞いてくれた。聞き上手というわけではないが、話す心地が悪くなかったのは彼が纏う冴えた空気のおかげだろうか。彼の周りには冴え冴えとした夜気が漂うようだった。静謐で冷たく、しかし尖ってはいない。
心に空いた隙間を埋めるようだな、と冷静な思考の一部が他人事のように思った。しばらく人と話していなかった寂しさや、得も言われぬ恐怖心を吹き飛ばすかのように。
「――あー、ごめんなさい、ありがとう! めっちゃスッキリした!」
「いや、別に……」
「やっぱり人と話すのって大事ね。私、春野茉莉花っていうんだけど、あなたは?」
「……涼名玲斗」
「涼名くん。何年生?」
「高二」
「あ、じゃあ一緒だ。同い年。その制服、そこの学校だよね。お家は近所なの?」
「まあ」
涼名くんは興味なさそうに言葉少なく答えるが、不快ではないようだ。ヘッドフォンは首に落としたままだし、切れ長なつり目に嫌悪感が滲むようすはない。無愛想で一見きつそうな顔立ちだが、案外優しい人なのかもしれない。逃げずに私の意味分からないだろう話を聞いてくれたし。
「――ねえ涼名くん、物は相談なんだけど」
悪いが、その優しさにつけ込ませてもらう。
「定期的に、私とおしゃべりしてくれないかな」
「……」
その沈黙ですぐに心は折れた。
「いやほんと突然でごめん! 初対面で気持ち悪いよね!」
舌がくるくるとよく回る。何をしゃべっているのか自分でもあんまり分からない。それでも私はまた軽い調子で無意味な言葉を羅列していく。
自分がおかしくなってしまったのではという恐怖心、猜疑心。誰も私を見てくれない孤独。声が届かない痛み。ぐるりぐるり、そんなものたちが心の底で蠢いていて気分が悪くなる。寂しいよ、誰か。ねえ、私を見て――。
「いいよ、話すくらい」
「!」
落とされた声は存外穏やかで、色んな意味で驚いた。返答はもちろん、顔立ちや佇まいからの勝手な思い込みで、そんなあたたかい声音が出せる人だとは思わなかった。
「……ほんとにいいの?」
「うん。ただ、俺以外もいていい? 俺は話すの苦手だから」
「う、うん、それはもちろん……!」
彼が連れてきた人に私と会話をすることがだろうかと疑問が頭をもたげたが、言葉を音にすることは何となくできなかった。それよりも私は、このチャンスを逃すまいと必死だった。
「じゃあ、えっと……五日後! 今日が十日だから十五日に、そうだな……そこの公園でどう? 大丈夫? 何か用事ある?」
「ん、分かった。大丈夫」
言葉を交わし合うたび、肯定をされるたび、ここしばらく感じられなかった安堵と充足感が去来する。自分でも分かってはいたが、ここしばらくの現象は予想以上に堪えていたらしい。
泣きたくなるくらい、嬉しかった。
「じゃあ、またこの時間に! 本当にありがとう、涼名くん!」
手を振って駆けだす。体を動かさないと、感情が身体の中で爆発してしまいそうだった。さっき涼名くんを呼び止めるために大声を出して噎せてしまったのも忘れ、今、堪らなく大声で叫びたい。喉を嗄らして気持ちをぶちまけたい。
「……あれ、別に叫んだっていいじゃん。どうせ誰にも迷惑かからないんだし!」
あー! と、言葉にならない叫び声を上げる。ぐるぐると渦巻く暗いものたちが消えていくようだ。口から全部全部、音となって外に出ていく。
「――私っ、まだ大丈夫だもーん!」
誰でもない誰かに向かって宣言するように言い切る。大丈夫。ちょっと、ううん、かなりへこんでいたけどもう大丈夫。きっと、たぶん。
目の前の信号が青から赤に変わったけど、私はそのまま走って突っ切った。いいよ、だって見てる人なんていないんでしょ? 誰か見てたのなら私を叱りにくればいい。私は喜んでその言葉を受け入れようじゃないか。
味を失くした通学路が色彩を取り戻したように、私の視界は鮮やかな空の青を捉えた。
私はどこかで、今までのことは全部気のせいだったんじゃないかと思い始めていた。
だって、あれだけ自然に涼名くん――人と話せたんだから、存在を認識されないなんて、そんな冗談みたいなことあるはずないじゃんって。最近の実体験よりも、たった数分の会話に心の比重が傾いていた。
「ただいまー!」
車はある。鍵は開いてる。靴もある。
「……」
家に誰かがいることは明白なのに、家の中から返答がくることはない。
「……聞こえてないのかな」
天秤がキィと音を立て始める。
靴を脱ぎ捨て、わざと足音を立ててリビングへ向かう。そこには誰の姿もなくて台所に顔を出すと、お母さんがざーざーと水道で野菜を洗っていた。
何だ、やっぱり聞こえてなかったんじゃん。
ほ、と息が漏れた。
「ただいま、帰ったよ」
「……」
「――ねえ、ただいまって!」
「……」
声は返ってこない。振り返りもしない。肩のあたりで手を閃かせても、お母さんは「おかえり」と私を見て笑ってくれることはない。
天秤がかたんと傾く。たった数分の会話より、実体験。それが、事実だった。
現実はあくまで現実だった。
ああ。世界はやっぱり、私を弾くんだ。