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黒鴉銀蠍抄  作者: 偽薬
9/27

(九)

 暗闇を嫌悪する西の館の女の狂気に触れ、下男、侍女、士卒と消えた。

 そして。

 四人目の被害者はいったいどういった者であるのだろう。殺されたとの報せがあったのみで詳細はいまだ耳にしていない。

 ほつれた髪を耳にかけた。

 はたして今宵、あのあやかし(せんぽく、かんぽく)は現れるだろうか。

 なにをしても落ち着かず、何処にいても尻の据わりが悪い。酒でも飲まねばやってられぬと思い侍女に用意だけはさせたがまるで不味く、一口口に含んだだけで後は炒った豆を掌で転がしていた。一切落ち着くことはないから、煙草だけは延々喫っている。おかげで喉も肺も痛い。何度も口を漱いでいるが舌の上にはたっぷりとやにがへばり付いていて気持ち悪いことこの上ない。

 通り一遍の祓いは施した。しかし、全体信用に値するかどうか疑わしい。あのときはただひたすらに、何もしないよりはましであろうと思っただけだ。

 声があった。伊福部のものだ。

「そろそろ支度をなさいませ」

「わかっておる」

 今宵、幾春秋待ち焦がれたかわからぬ御方がこの館にやって来る。本来ならばもっと浮かれ、様々支度に腐心しているはずが。

「姫」

 するすると襖を開け、頑迷そうな表情を更に固くした伊福部が膝行してきた。

「姫」

「姫はやめよといっておる。御山様の前では特にな」

「その御山様がお越しになられるのです。とく湯浴みをし、御髪を梳き、化粧を整えなされ」

「わかっておる」

 本当にわかっているが今は別のことで気が重かった。

 間を置いて三度溜め息を落とす。その間伊福部はまんじりともせず座っているものだから、さすがに私は笑ってしまった。

「そう石のごとくおられたのでは何もできぬぞ」

「や。これは失礼をば」

「湯殿の支度をするよう伝えてくれ」

「は。すでに支度はできております」

「そうか」

 そうだ。私はこの期に及んでなにを思い悩んでいるのだ。この苦しみもこれまでの苦労もすべて、今日の夜を得んがためのものであったはず。ならば今気を入れねばどうするのだ。


 我が身に主君の胤を宿すのだ。


 そう自分にいい聞かせると、ぞくりと総毛立った。

 ここにきてやっと、私は女の顔を取り戻した。数年来どこかへ忘れていたものだ。しかし途端に膝が震えた。若干ではあるが息も苦しい。

「緊張か…情けない」

 恐怖かも知れぬ。

 どちらにしても良くない兆候ではある。気を張り払いのけようとするものの、そう念ずれば念ずるほど体の芯にまるで澱のように凝っていく。

 折角の晩、なのだ。

 動きがぎこちなくなるおのれにふつふつと怒りを覚えながら、気を鎮めようと何度も何度も試みるも無駄に終わる。これならば怪異の再訪に心奪われていた先ほどまでのほうがまだ安定していた気がする。

 意識するのではなかった。

 しかし、もう遅い。

「今を逃してはならぬ。今を逃してはいったい私はなんのために」

 存在しているという。

 身の内のざわめきを抑えられぬのはこの際しようがないと、そう割り切ったほうが良さそうだ。大事なのはそのざわめきを大事な主賓に感づかれぬということ。根が好色であるがゆえ、よほどのことがない限り興が覚めるようなことはないと思うが、用心するに越したことはない。緊張や怖れを、華美な装いと厚い化粧で覆い隠すのだ。

 一度大きく息を吸い、盛大に吐き出し、肺臓を空にしてからまたそろそろと息を吸い込んだ。

 望み通りの人生を得るのだ。

 そして何より、一刻も早くあの銀髪の男と縁を切らねば取り返しのつかぬことになるような予感が止まない。

 それでも。

 西の館の蝋燭を消せ、などと。

 耳にした当初はいったいどこでどう我が望みと繋がるのか皆目見当もつかぬ献策であったのに、今こうして。

 私は廊下へ歩み出、付き従う侍女に次々と脱いだ衣服を手渡していった。湯殿につく前に丸裸となり、一度全身で振り返った。

「どうじゃ、衰えてはおらぬか」

 私の脱いだ服を抱えた侍女は目を丸くして言葉を失っている。廊下で裸になるなどこの国だろうとどの国だろうと度を逸した破廉恥な行為である。

「どうじゃと訊いておる」

 この場に伊福部が居合わせたとしたら、一目で卒倒することだろう。

 侍女はああとかううとか呻いて、やがて、

「御美しゅう…御座います」

 といった。

 年齢にしてはとの枕言葉を忘れているだろう。とは敢えていわない。今はその言葉を後押しにするしかない。私が今おのれを磨くのは自分のためだけではない、この館の者どもの将来をも負っているのだ。

 普通ならば侍女が先に立つ所を私があまりにも早足で歩くものだから、先に湯殿に到着してしまった。肩に矢鱈に力が入っていることに思い至らず、どうしてこうも湯殿の引き戸が重いのかなかなかわからなかった。

 無理矢理に開け、湯気でなにも見えぬ中へと入った。

 たっぷりと汗を掻き垢を落として、今度は汗が引くのを待って一番の気に入りの袷物に袖を通す。これを着るのはどれほど振りであるだろうか。色合いが派手なため、不惑が目に見えてからはほとんど着ておらぬ。

 侍女に髪を梳かせながら化粧を施した。思えば今面と向かっている鏡は、私がこの館に来たとき、即ち御山様の側として迎え入れられたその日に贈られた、謂わば思い出の品である。

「御美しゅう御座いますよ」

 先と同じ侍女がいう。今度のその言葉は先よりは真実味があるように思われた。

「もう一度ゆい」

「はい。御美しゅう御座います、鈴蘭様」

「うむ」

 そうだ。私は美しい。

 自信たっぷりに主君を迎え入れねば。

 得るものを得ねば。


 私は美しい。


 頬骨の一番高い所にうっすらと浮き出た染みはこの際見なかったことにする。どうせあの男が訪れるのは夜。照明を暗くすれば問題はない。それでも屋敷内は可能な限り暖かくせよと侍女に指示を出す。寒気がもっとも悪い。

 重々承知しておりますとこうべを垂れる侍女のつむじのあたりを見るともなしに眺め、不図こうした者を手に掛けたのだと西の女のことを思った。果たして、西の女が何よりも嫌う闇の存在が彼女の居館で広がったのは誰あらん自分の言葉がきっかけであると、もし西の女が知ったらどう思うだろうか。その上我が身に主君の子が宿り、現今主君の一番の寵愛を受けている立場までもが危うくなったとしたら。

 泣き面に蜂どころではあるまいが、私が晴れて蔵座国継嗣の生母となり、それなりの権限を得て後は、正室様はさておき西の女をそのまま据え置くことなどさせない。後顧の憂いは早々に断つべきである。それは無論自分のためであり、転じて西の女のためでもあるのだ。そう信じている。

 継嗣を宿すかどうかもわからず、それどころか主君の種を得られるかもわからぬ。加えて子の生したところで男児が生まれるか女児が生まれるかはまた未知である。それでも。早計であると十分理解しつつそう思う。

 先々のことを、良いことも悪いことも含めて様々考える時間は今まで散々あった。考えてばかりいたからすっかり臆病になってしまったようだ。案ずるより生むが易しとは遍く状況に於いて大抵真実である。

 丹田の位置にそっと触れる。

 早くも冷えている指先に、おのれの腹部が暖かい。

 ここに、我と、苦労の掛け通しの老僕と、その他この館に従事する者どもの幸せな未来を宿すのだ。

 次はない。

 失地回復の機会は、おそらくもう得られないだろう。どのような手を使っても、多分。


 夕焼けのないまま音もなく闇が滲んで、やがてあたりは暗くなった。

 蹄の音。そして数人の足音。

 城域であろうと城下であろうと、この国で馬に乗れる者など限られている。

 来たか、と私は空唾を飲んだ。

 化粧は崩れていないか、髪はほつれていないだろうか、衣裳は気に入ってもらえるだろうか。酒は用意できているか。肴は好みの甘いものが揃っているか。酒器も食器も下品ではないか。敷物の毛足は長すぎないか。暖気は足りているか。心配は尽きぬ。しかし何があったところで最早支度し直すには遅い。

 私は座敷の奥で肘掛に寄り掛かり、泰然とした態度を装って待つこととした。本当は酷く喉が乾き、矢鱈に眼球の周りの筋肉が痛かったのだが、そんなことは無論おくびにも出さず、ただただおのれの信ずる佳い女の表情を取り繕って、目的の種を持った男が入室してくるのを待った。

 心臓の鼓動が両の鼓膜を震わせ、やがて周囲の音をすべて打ち消してしまった。

 目の両端がちりちりと熱い。

 私は障子戸の合わせ目を凝視し続け、やがて吐き気を催しはじめた頃、

「お待ちしておりました」

 戸が開いた。

 私は礼式を踏まえた辞儀で、久方振りの男を迎え入れた。

 吐き気も目眩も緊張も気負いも無理から封じ込めなくては。

 ここからが本番である。



 闇の中蠢く影ふたつ。

 前に一人、

 後に一人、

 肩に渡した担ぎ棒には座棺。

 空からは篠突く雨。

 前を往く者の手には提灯。

 雨に足もとはぬかるんでいる。

 しかしふたつの影は宙に浮くがごとく。

 此の世の者か。

 彼の世の者か。

 どちらでもないかも知れず、

 どちらでも構わないかも知れず。

 存在しているだけでもう。

 混乱を無理矢理な平静で糊塗している者にとっては、ふたつが虚であれ実であれどちらも同様。特に今宵は長きにわたって待ち望んでいた状況である、気の張りようも尋常ではない。若し今このふたつの影の存在に勘付いたとしたならば、


 そんな者がため、


 せんぽく、


 影は自己を主張する。


 かんぽく。


 狂乱は否めますまい。


 せんぽく、かんぽく。


 東の館の濡れ縁に人の影。

 裸形の女である。

 女の後方から何じゃ何事じゃと男の声。

 嗚呼、嗚呼と女の嗚咽が聞こえる。

 何故じゃ祓ったではないかと。


 座棺の丸い木蓋が開く。

 隙間から白い手が出る。

 白い手は棺のへりを掴み、どうやら力を込めた。はたして林を挟んだ向こう側、東の館からどの程度見えているものか。否こうした状況下に置かれた人間というのは余計なモノまでよく見るものですよと幽鬼のごとき男はいっていた。

 いわれたとおり座棺から顔を。


 桔梗。


 提灯が消えた。


 それは盛大な悲鳴が上がった。



「御山様!

 御山様!

 西の姫は死んだのかえ?

 知らぬ? 知らぬことはなかろう!

 死なねば此処は訪れぬ!

 此処は、この館の向こう、向こうじゃ!

 いわずともわかろう蔵座の墓所じゃ!

 なんじゃ、何をしておる?

 見よというておる!

 とく見よ!

 こちらへ来て見やれや!

 見よというておるのが聞こえんのか!

 来い!

 あそこで提灯の灯かりが見えたんじゃ!

 西の館で死したる者が

 晩に! その日の晩に!

 怪しきモノに棺を担がれ

 あそこの山道を通ってホラ

 あの墓所へとソウジャ

 聞こえたろうセンポクカンポクと!

 聞こえたろう!

 答えよ!

 とく答えよ!

 なに?

 なにを狂うておるなどと!

 狂うてなどおらぬ!

 狂うてなど…

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