(八)
その日は昨日に比べいくらか気分も良かった。
厚く垂れこめた曇空を見るともなしに眺めていると、空からひとひら舞い落ちてくるものがあった。
最初は桜かと思った。
やや考えて今は春ではないと気づく。
庭を見れば木々の葉はすべて落ち、冴える山々もとても寒々しい。
長い睫毛を戦がせる風は冷たい。
冬。
どうやら今年も生きられた。
桔梗は空の匂いをかぐような仕草で顎を少し上へあげ、笑みとも憂いともとれる表情を形作った。
美しい、人だ。
「寒風はお体に毒ですよ、桔梗様」
とは桔梗がもっとも信を置く男。
桔梗はこの男と話をする時だけは他に誰も寄せ付けることはなかった。特別な会話をするわけではないときもである。常にそうしていた。
やや潤んだ瞳を男へ向ける。
男は桔梗の濡れた瞳から逃れるように背を向けて庭に立つ足を一歩前へ出した。
「この程度の毒ならば、なにも怖くありませんわ。怖いのは、そう…いえ。もうすべてが厭です」
桔梗はすでに限界であった。
常にある目眩と悪寒、臓腑のひっくり返るような吐き気。自分を取り巻く環境も、自分を利用して何事かを企む有象無象の存在も、なにもかも。
「ならば逃げますか」
男の言葉は常に簡素で、突き刺さるような心地よさと甘ったるい苦痛が同居する。桔梗は放と息を落とし、そうできるものでしたらと手を伸ばした。
男はまたも一歩前へ、いや、また一歩桔梗から遠ざかる。
「本気でここを出たいのならば」
桔梗は小さく息をのむ。しかし男は、今自分がいったことをやわらかに否定する。
「否。自分にはなにもできませぬ」
桔梗は男の背へ伸ばした手の、以前は形よく整えられていた我が爪を見、
「あなたは外ではよく笑うそうですね」
といった。少し息が苦しそうだ。
男は外に目を向けたまま静かに答える。
「それはかりそめの姿。もし桔梗様がそうした自分をお望みならば」
いえ。いいのです。
桔梗の言葉は緩やかな風のようだ。頬に触れるまで在るかどうかもわからない。
「いいのです。外のあなたがどうであれ、私のあなたは今そこにいるあなたですから」
男は一度後背に力を込め、殊更緩慢さを意識して振り返った。
少し瞼が厚く、切れ長の目をしている。眠そうにも見えるがそういうわけではない。外では暗い男だとも、にやけた男だとも、底の知れぬ者だとも様々に評されるが、実際そのどれもが男の本性ではない。そのいっときに一番都合のいい顔をしているだけに過ぎぬ。その仮面一枚一枚を剥ぎ取って果て、残るのはおそらく没個性も甚だしい靄の如き男である筈だ。使役する者によって表情を変える、その技術を磨くことだけに執心するあまり、男本人も本来の自分を間々忘れる。
この蔵座という土地に来て以来、西の館の女主人に仕えてきた。
男の目線は虚空から地を這い、やがて桔梗へと移動していく。
白い、顔。
皮膚は酷く薄く、その下の静脈一本一本がよく見える。
小振りな鼻、小振りな唇、すべての造作が小さく上品に出来上がっているのだが、綺麗に切り開かれた眼球の中心にある瞳だけはとても大きい。睫毛も長いため遠目に見るに白眼はほとんど見えぬ。
瓜実顔、長い首、細い肩、薄い胸。
華奢な体つきであるのに、それでも尚胴周りが括れているのが痛々しい。横座りに投げ出した足も細く、足首などは最早骨と腱だけだ。
いわれなくとも、望まれなくとも守りたくなる女というのはいるものだと男は思う。男の立場上、それはとても危険な感情である。男の気持ちがどのようなものであるにせよ、桔梗はこの国の頂点の愛妾であるからだ。
身分違いの感情も甚だしく、
桔梗は今度はしっかと男の手をとった。
なにもいわない。
男は表情を変えず、
「どうなさりたいのです」
問うた。
「わたくしは」
私はと繰り返して、桔梗は視線を宙空に漂わせた。まるでそこに答えでも漂っているかのような所作である。
幽けき世界を見ている。
桔梗がそんな目をしているときは男はまだ安心していられた。
怖いのは彼女が現実のことを縷々考えているときである。辛い現状に嫌気が差し(ほぼ発作的に)命を絶とうとしたことは一度や二度ではない。そもそも意識が幽界に遊ぶようになったのも現実から逃避したいと強く希求するがゆえである。いっそのこと幽界から帰ってこなければ良いのだと男は本気で思う。
男の目が馬鹿正直にそんな思考を表出させていたのだろう、桔梗はつと目線を下げた。こうなっては暫く、男と桔梗の視線が絡むことはない。
それでも、そのほうが桔梗は幸せなのだ。
たとえ人として
「いや」
それは男の我儘であろう。どんな形であれ桔梗に生きていてほしいと願う、ある意味残酷な。
「申し訳ありません」
「なにを謝るのです」
「お辛いでしょう」
「はい」
桔梗は泣いていた。
男は再び桔梗に背を向けた。
死は、遠からず彼女の許を訪れる。
桔梗は蔵座国主三光坊頼益との子を過去三度身籠ったことがある。正妻との間にいまだ継嗣を得ておらぬ国主なだけに、これは(頼益や、桔梗を取り囲む有象無象にとっては)喜ばしい事実である。しかし実際、桔梗が懐妊した事実を知る者はごく僅かであった。頼益当人すらも知らぬ。何故なら桔梗は、頼益との子が芽吹くのをおのれの身の内に感じるとすぐ、極秘裏に日輪中部から取り寄せた丹を飲んでいたからだ。
丹とは、固まらぬ銀。
転じてそこから作られた堕胎薬である。
何故そうまでして子を作らないのか。
世間的には側室、であるのに。
答えはいつだって単純である。
頼益は桔梗の実の父なのだ。
その事実を頼益は知らぬ。知らぬから勿論平気な顔で情を重ねる。
不義の子など身に宿してはならない。
自分が桔梗の立場であったなら気が狂わんばかりであろう。いくら実父がおのれと血の繋がりのあるのを知らぬとはいえ。いや、つくづくこの国の頂点は駄目な男なのだ。無知とは罪なのだ。男は瞼を強く閉じ、行き場のない憤懣を必死に噛み殺した。
到底一国の長たる器ではない。
早々に消えたるがこの国の安寧の為だ。
口には一切出さず、表情にも滲ませず。それでも男は他人に使われながらもこの国のことを憂い、つたないなりに我が力でどうにかしようと強く思っている。
今どうにかしなければ遠からず大国が攻めてくるのだ。その前に桔梗の命が尽きるのならばそれはそれで構わぬが、もし。
桔梗はこの国を愛している。
夏も冬も寒く、痩せた土に生る実もあまりなく。愉しきことなどひとつもない国であるのに。
男は桔梗が愛しているのなら、自分の出来得る限りこの国を良くしてやろうとそう思うだけだ。しかしそれも桔梗が死ぬまでのことである。
桔梗死さば我が身を供物に彼女を天へと送ろうとそう思っている。
たとえ道ならぬ懸想であるにせよ、男の想いは純粋である。加えて主君は、事実を知らぬというだけで男より道ならぬことをしている。否、罪業の浅き深きは重要ではない、要は桔梗が今より少しでも、
「逃げぬのですか」
「逃げませんわ。私は蔵座を愛しておりますの」
男の思いが確固たるものであるのと同様、桔梗のその思いも揺るぎはしない。
それでも男はいまだ、桔梗の命の尽きるその日まで、誰も訪れることのない深山でふたり境目のないほど抱き合って抑揚のない日々を送りたいと願っていた。それも口には出さぬ。願うだけでも罪である。
桔梗の命の蝋燭は、
あと一年もつだろうか。
それを思うと男は、背骨をすべて握りしめられているような耐えがたい焦燥感に襲われる。
桔梗はふらりと一度大きく傾いで、それからゆっくりと立ち上がった。
「屋敷へ戻ります、今夜は出掛けなくてはならないので」
「何処へ」
「ええ」
曖昧に言葉を溶かす。いいたくないのか、よくわかっていないのか。ともかくその声は震えている。
恐怖か、それとも。
「とにかく今は休んでください」
男の声は微々とも震えていない。それは過去より今まで常に自分を装うことに腐心してきたが故の平静である。
仮面の下は黒々と煮え滾っている。
「アメカイ、あなたはこれからどうなさるのです?」
男の内奥を知ってか知らずか桔梗はうっすらと笑みを湛えてそう尋ねた。
飴買鴻は桔梗の黒く潤んだ目を見、ああ自分は何をと少し愚鈍な印象を与える仮面をかぶった。
「どうしたのです? 飴買?」
「…はあ。なにか仰いましたか」
桔梗はコウの目を見、わずか哀しそうな色をその大きな瞳に差した。まるで読まれているのだろう。
コウは若干のやり難さと、かすかな心地よさを感じながら、ほぼ無声音の無意味な感嘆符を宙に放った。
桔梗は繰り返す。
「それで、どうするのです、これから」
「別にどうもしませんよ」
どうにかしたいこの場所にはどうせ長く居られぬのだしとコウは前髪を掻き揚げた。すると桔梗は、
「そうですわ飴買、髪を結ってはどうです、今のままでは男振りも下がりますよ?」
と、今日一番の明るい声を出した。その話のかわりように、コウは若干戸惑う。
「今のままでは見苦しいでしょうか」
「そう思います。それから貴方は寒色の装いばかり好みますが、もう少し明るい色も着れば良いと私は思います」
桔梗は今度は声に出して笑った。
コウはどうして良いかわからず、暫し逡巡し結果極小さな声でこれにてお暇しますとだけ発した。
「ええ、それではまた」
桔梗は努めて明るく返す。しかし続けて発した、必ずいらして下さいねといったその声は明らかに震えていた。
コウはこの期に及んで、愛しきその手を取っていいだけの愛情表現のできぬ我が身の不甲斐なさに膝を折りそうになりながら、必ず参りますと酷く掠れた声を絞り出して、西の館を後にした。
報告に行かねばならぬ。
この国を、蔵座を、桔梗のために変えねばならぬ。
寒風に眼球が渇く。それでもコウは瞬きを忘れ山を下った。西の館のある山から麓の村までは早足で歩いても半日ほどの距離があるからだ。村に着くのは真夜中過ぎる頃だが、それでも休んでなどいられぬ。村で報告が済めば今度は城へ出仕せねばならないからだ。
気の休まる暇はなく、体を常に酷使している。それでも自分の望んだ生活である。幾多の仮面を懐に、おのれの望みを叶え得る者に寄り。
コウの望みとは、三光坊頼益の存在を消し蔵座の安寧を得、桔梗と共に生きること。時間はもうない。その焦りからか今は何でもできるような気がしている。どのような汚い真似であろうと、人道に悖る行いであろうと。
結局は愛しき彼の女を苦しめるあの男と同じか。
一歩また一歩、普段と変わらぬ早足で山道を下りる。
上を見れば枯れ枝が遮った鉛色の空、鈍重な雲、そして。
「雪か」
道理で冷えるわけだとコウは襟元を合わせた。特別寒気に弱いわけではないが感冒に罹患しての計画の遅延など考えただけでも吐き気がする。
計画。蔵座国の転覆。
立案はコウではない、堕府から流れてきたという枯れ木のような男より齎されたものである。最初耳にしたときは到底実現不可能な話にしか聞こえなかったが(それは今でもそう変わらない)、とにかくコウは酷く焦っていた。時間がない。このまま諾々と変わらぬ現実に身を焦がすのならば、分の悪い賭けであろうと微かな確立に縋ったほうがまだいいと、そのときはそう思ったのだ。
桔梗のために。
否、桔梗を恋いうる我が魂のために。
しかし。コウが男の案を身に入れて後、改めて聞く男の、案を実現させる為の策は実に奇妙なものばかりであった。
曰く、桔梗が持つ闇を嫌う性質を誇張して流布せよ、だの。平素沈である桔梗を天真爛漫に振る舞わせよ、だの。
本性を偽って明快な性格を演じさせることにいったいどういう意味があるのかとコウが問えば、そうほうが付け入る隙が生まれるものよと男は返した。付け入る隙を穿っていったいどうするつもりなのだろうと思いはしたが、陰鬱極まりないその男の頭の中を理解することなどできないだろうと敢えて尋ねなかったものだ。
加えて、桔梗が狂気極まって使用人を殺したとの虚報を流せという策に至ってはもう。
下男、女官、士卒、そして昨日。
とにかくコウは何度もうまくいくのかどうかのみを男に尋ねた。
男は泰然として応とのみ。
根本的に飴買鴻という男には、人に対しての諦観がある。所詮人と人は心底理解し合えぬものなのだ、と。
驚いたのは、コウの様々な思惑など知る由もない桔梗が、奇妙な男の奇妙な策をなにも問わずすんなりと受け容れたことだ。
当然桔梗には桔梗の考えや思いがあるのだろうが。
ひとつだけいい結果は得られた。桔梗の佯狂により、不明なる男頼益は西の館に近寄らなくなった。わかり易い。まったく早くからそうしていれば良かったのだと後悔する。ともかくこれで、当面桔梗への余計な負荷は避けられそうだ。
だからいまのうちに。
コウはとにかく先を急いだ。
遠くに見ゆるは蔵座主城。
遠からず陥落させる対象である。
飴買鴻は本来の名に近い。
懐にいくつも忍ばせた、磨きのかかった秀逸な仮面のうち、もっとも本性に近しい性格設定のときに名乗る名である。飴買鴻であるコウを知っているのは桔梗と奇妙な男のふたりのみ。もっともコウが西の館に出入りしている事実を知る者もそのふたりしかおらぬ。
そもそも自分が西の館に出入りするようになったのはいつからであるか。それを最近コウは思い出そうとしている。その時期も原因もどうにも記憶の彼方に塗れて見えぬ。それでも一向に構わないのはやはり、桔梗の存在故か。どうしてこうまで胸を絞めつけられるほどに好きなのだろう。
城、そして城下では別の名を名乗り別の仮面をかぶる。
その仮面の名は、飯綱。
奇妙な男の名は、残雪。