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黒鴉銀蠍抄  作者: 偽薬
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(五)

 自分がその、身に覚えのない噂を初めて耳にしたのは或る日、陽が中天を過ぎた頃。辛うじて晴れていた空に若干の翳りが滲みはじめたのを確認した時であった。

「もう一度聞かせて貰えまいか」

 声が震えているのがわかったものだ。

 その要請に自分の目の前につまらなさそうな顔をして立っているのはイイジマだった。相変わらず生気の薄い、暗い目をしている。

「構わないよ」

 何度でも話しましょうと、イイジマは右肩を預けていた壁から身を剥がし縦になった。一方の自分はと言えばイイジマの口にした噂話に急激に視野が狭まっていくのを感じている。

 主城の本丸と雑人や使用女が詰める宿所を繋ぐ長い長い渡り廊下である。場所が場所であるから平素我ら士分の者は殆ど足を向けぬ所である。

 ええととイイジマは息を吸った。

「狗賓さん。あんたは主権簒奪の二心有りと思われている」

 全く何度聞いても耳を疑う。

「…有り得ん。それを言っているのは誰であろう」

「だから噂だよ。出所まではね」

 そう言ってイイジマは下を向いた。釣られて自分も足元を見るが特に何があるわけでもなかった。

「イイジマ殿は誰から聞いたのだ?」

「ああ誰だったかな。覚えてないね、残念ながら」

 言いつつ今度は横を向く。その(当然ながら)無責任な態度に尻の毛を燃やされているような焦燥感を感じ、思わずイイジマの尖った肩を掴むと無理矢理我が方へ向かせた。

「どうしてだ。どうしてそのような噂が」

 口角泡を飛ばして訴えた。

 イイジマは頬を払う素振りを見せた。唾でも飛んだのだろう。

「だってあんたの先祖が先祖だし」

「いや。それはしかし…」

 確かに狗賓家の始祖は蔵座の中心に居た。どうやらそれは事実である。しかしそれは遠い過去のことであり、主君が三光坊に替わってから今日まで、代々狗賓は文句の一つも言わず粛々と新しき主家に従ってきたではないか。

 余計な勘繰りをされぬよう静かに静かに。

「どうして今更」

 色々考えて後、喘ぐようにそれだけを言った。

「そんなことは知らない」

「しかしイイジマ殿」

「あ、僕イヅナだから。飯の綱で、飯綱」

「これは失敬…」

 軽く低頭しながら、イイジマもとい飯綱と言う男はこんな横柄な話し方をする人間だったかと過去の会話の内容を思い出そうとするも、何とも頭の中はとっ散らかってまるで要領を得なかった。気付けば唾を飲み下すのも忘れている。

「…し、しかし飯綱殿」

「ああ戻るのね」

「は?」

「いや、どうぞ。続けて」

「その噂の、その何と言うか…」

「信憑性?」

 それだと思わず大声で言って、慌てて辺りを見回した。先程と同様辺りには誰も居なかった。それでも背ばかりが丸くなっていく。

「曖昧で怪しいから噂なんでしょうよ。だいたい狗賓さん、あんたの今の慌て振りを見れば噂が根も葉もないことだってことはマアわかる。只それは実際に面と向って話をした僕だから言えることでね」

 お前に自分の何がわかる。などとは言わずに、取り敢えず軽く頷いて見せた。

「まあ本当に根も葉もないなら何れ噂は消えるでしょう。それまではじっと我慢することだと思うね」

「しかし」

「しかししかし言ってもさ。下手に動いて噂を消そうなんてすれば余計怪しまれるでしょうし」

「そうだろうか」

 今自分は余っ程愚鈍な顔をしているのだろう。自分を見る飯綱の眼にうっすらと憐憫の情のようなものが差す。加えてどうやら、目の前のこの男はよく人を見下す。

「いい? まるで出鱈目の噂でもさ、根っこの部分である、ああ根はあるって言えばあるけど。まあその、あんたが古代主家の血をひいてるってことだけは事実じゃん」

「じゃん…」

「だから元々が何時疑われてもおかしくはない立場っつうか。それが偶々今だったって言うか。その上あんた人嫌いで有名だし。いろんな意味で大事なんだけどね、人付き合いとか人脈とか」

「それはまあ」

 重々承知している。しかしその重みよりも煩わしさへの嫌悪が先に立つ。

「…わざわざ有難う、精々気を付けることにしよう」

 それしか言葉がない。頭の中は相変わらず様々に渦巻いている。

「いやいや、見るに見かねてね。老婆心ながら忠告させてもらいましたよ」

 それではと言って踵を返す飯綱の背に向かい、

「最後にもうひとつ」

 飯綱の表情にほんの僅か険が表出した。

「…否。その噂、いったいどれほど広まっているのだろう」

 中空を撫で付けるように吹く風に、葉も実も落とし丸裸となった銀杏の木の枝が撓んでいる。

 飯綱は一度眉間を寄せ、風の匂いでも嗅ぐかのような仕草を見せた。無造作に伸ばされた髪さえどうにかすればさぞかし婦女子受けする美丈夫であるだろうなどと余計なことを考えながら、どうやら自分の肩ごしの向こうを見ている飯綱の目線を追ってみた。

 板敷の長い渡り廊下のへりに元服して間もないと言った風情の若者が二人、こちらを見ていた。何度か顔は見たことはあるが名までは知らぬ。

 その二人は自分の顔を見、何やらを耳打ちしている。

 流石に人嫌いの自分も焦げ付く感覚から普段の我を忘れて若干声を荒げて言った。

「おい、何をこそこそと」

 失礼であろうと半歩進みかけた我が肩を飯綱がやんわりと掴んだ。色温度は低そうに窺える男なのだが矢鱈に手が暖かかった。

「何故止める」

 若い士卒二人は肩を竦めながら元来た道を引き返して行った。

「そう言うこと」

「何がだろうか」

「あの程度の若者の耳にも届いていると」

「な。あ。否、しかし…つまりは。うん」

「そう。今の今まで知らなかったのは狗賓さん、あなただけ」

「あ。ああ。否…」

 忙しなく口の周りを触る。右の口角の上の辺りに固まった髭の剃り残しがあって余計に不快感が増す。

「あ。もう一人いるか」

「もう一人」

 飯綱はもう一人と言った時に出した人差し指を酷く緩慢な動きで天井に向けた。

「蔵座国主三光坊頼益様」

「それは…虚実定かならぬ事である故耳に入れて居らぬとそう言うことだろうか」

「どうかな。それは随分と好意的な見解だと思う」

「どういうことだろう」

「虚であるならそれを受け流す度量は求められず、実であるなら的確な判断の出来る裁量は無し。そう側近連中に判じられているってとこじゃない?」

「な、何を不遜な」

「不遜も糞もない。国を拓いた者の子孫と、それを奪った者の子孫。格云々を言うならあんたのが上だと僕は思うがね」

「下らぬことを言うものではない!」

「そう怒らずに。要はあんたの存在を現国主を含め蔵座の人間がどう思っているかってことで」

 目眩がする。そのようなこと終ぞ考えたこともなかった。只諾々と自分も祖父や父のように穏やかに生きていけるものと思い込んでいた。それがどうだ、酷く危険な状況に置かれている。

「だから、おとなしく難が去るのを只管待つのみでしょう」

 それを切り文句に飯綱は足早に立ち去って行った。これ以上の会話はキリがないと判じられたものか。

 わかっている、所詮は他人事なのだ。それでも忠告してくれたことには感謝せねばなるまい。

 指の先が微細に震えている。

 気付けば脇の下に大いに汗を掻いていた。

 渡り廊下を横切る一陣の風に雪の匂いを嗅いだ。

 果たして妻に言ったものか。否、無用の心配を掛けるだけであろうし、曖昧なものを曖昧なまま放っておけぬ性質である妻に色々尋ねられても面倒だ。大体尋ねられても何も答えられぬ。

 何だか全てが厭になる。

 不図直属の上役の顔を思い浮かべる。

 頬に大きなほくろのある、矢鱈と眉の濃い顔。一見好人物そうな風貌なのだがその実、口を開けば他人の悪口か嫌味しか吐かぬ。

 飯綱の話を鵜呑みにしたとするならば、上役の耳にも噂話は届いている筈だ。さて弁明するべきか。否、矢張り飯綱の言っていた通り何やかやと取り繕うのは却って怪しまれるだけだ。尤も逆を言うなら巧く立ち回れば良いと言うことになるのだが、そのような器用な真似到底出来よう筈もなく、結局余計に疑惑を深めてしまうのが関の山であろう。

 つまりはだから、静かにじっとしているしかない。

 所詮は優柔不断で小心な男なのだから。

 ただただ膝を抱え、目を閉じ、耳を塞ぎして耐えるしかないのだ。そうしたところで、寒風が激しさを増し凍え死ぬが先か、何もなかったかのように元の穏やかな生活に戻るが先か、それはわからない。

 まさに青天の霹靂。突如降って湧いた不幸である。

 全てを捨てて逃げ出そうか。

 幸いまだ我が家には子はない。郎党共と縁を切り、桜の手を取って当て所なく。

 妻は自分についてくるだろうか。

 実際気の強い女であるから、私に逃げる理由は御座いませんと自分の要請を突っ撥ねるかも知れぬ。独りで生きていく術はなく、結局自分が守るしかないのにだ。

 しかし。

 逃げ出したら逃げ出したで噂は事実であったと言われるだろう。

 足の裏を失ったかのような不確かさで帰路に就いた。

「ふん…」

 そう言われたら言われたで別に構いはしないか。その時はもう自分は蔵座に居らず、以降一生蔵座に関わらなければ良いだけのことなのだ。結果溢れるであろう自分に対する悪評も耳に入らぬのならば無いと同じである。多少悔しくは思うが、この先蔵座に居て果たして何の展望があろう。展望どころか叛意有りと疑われ拘束され拷問されやがて死に至るのを座して待つくらいならば、自ら流浪の身となり、たとえ食うや食わずでも生きている方がましだ。きっと妻もそう言ってくれる。

 そうだ。逃げ出そう。そう思い切ることで少し気持ちが軽くなった。

 気付けば帰路に就いてから延々下唇を噛んでいた。幼童でもあるまいに。目頭と鼻の奥も痺れている。どうやら半泣きのていであるようだ。

 白い人影。

「貴様…」

 残雪。

「な…何なのだ貴様は」

 残雪は風に散る銀の長髪を気にも留めず、丹を凝らせたような瞳をこちらに向け静かに立っていた。

 曲がり道の少ない山の一本道である。決して見通しが悪いわけではない。なのに目の前に来るまでまるで気が付かなかった。

「妻や自分の前にそうして現れ、一体何の目的がある?」

 反吐を吐くように言った。

 残雪は面のような顔を微々とも動かさず、

「大変なことになりましたね」

 とだけ言った。

「何? 貴様は何を知ってると…ま、まさか貴様が? 貴様がありもしない話を広めたとでも言うのかッ?」

 勢い余って残雪の胸倉を掴む。米噛のあたちに凝っていた血液が双眸から噴き出すかのような感覚に見舞われつつ。

「貴様か! え? 貴様がそのような噂を流したのか? 言え!」

 残雪は否とも応とも返さず、ただ一度おのれの外套の袷を掴み、一度下に引いた。襟を正すかのような動きだ。ただそれだけの動作で残雪の襟を掴んでいた自分の手が離れてしまった。

「城に出入りしている者から聞いたのです。尤も私を疑うのも大いに理解できます」

 だがそれは建設的ではないと残雪は頬に掛かった一筋の髪を払った。

「しかし貴様ッ」

「声を荒げずとも聞こえて居ります」

 まるで落ち着き払っている。一方の自分はと言えば最前まで震え恐れ戦き逃げることを考えて只管家路を急いでいた。残雪と自分のこの差はなんだろうか。生来持って生まれたものとばかりも言い切れぬ。

 残雪にあって自分にないもの。しかしその答えを導き出せるほどに、自分は残雪を知らない。知ろうとも思わない。

 それでも先程よりかは多少頭が回るようになった。

「…貴様若しやあれか、あれだな。城の何者かに頼まれて自分を」

「蔵座の正当な後継者である貴方を排除する為に立ち働いている、ですか」

「それだ」

 それしかない。咄嗟の思い付き、と言うよりは何か反駁したくて口走った考えであるが強ち間違ってもいまい。

「だとしたら私を斬りますか」

 そうだ。蔵座から逐電する前に残雪を斬っておくのも悪くない。

「斬る」

 震える手で脇差の柄を握った。

「すると私はむざむざ斬られに出てきたようなものですね」

「…そうなるな」

「仮に、人ひとり追い落とすような策を練りつつ、それでは余りにもお粗末な」

「そんなこと自分は知らぬ」

 言いながら、あまりにもかたかたと情けないほどに鯉口が鳴るものだから思わず刀から手を離した。

「知らぬ」

 無意味に繰り返した。

 噂を広めたのは残雪ではないのか。早くも揺るぐ。

「私ではありません」

 相変わらず人の頭の中を覗いたようなことを言う。

「しかしだな」

「考えてもご覧なさい。例え真実貴方が反旗を翻したとして、その叛意に乗っかる者が幾人居るとお思いで」

「それは…」

「前にも言いましたが現国主は暗君ではないが決して聡明な方でもない」

「…いつものことながら何が言いたいのかわからんが」

 残雪は両掌をこちらに見せつつ下方に広げる。声は張らず、それでも朗々とした調子を見せ掛けて語る。

「権勢はあるが政治に興味がなく、愚昧。担ぐ神輿としてこれほど格好の者もそう居らぬでしょう。いいですか、担ぐ神輿は軽い方が良いのです」

「神輿? 軽い方が?」

「はい。そんな具合の良い神輿を捨ててまで貴方に付き従う者が果たして居るのか。どう思われますか」

「そんな者居らぬ。自分のような誰とも付き合いのない、下級士官に従う者など」

 郎党はおろか妻ですら怪しいのだから。

「であるならば。噂がどうあれこの国の中枢は貴方にそれ程警戒することはないのでしょうね」

「それは…」

 そうなのか。

「先祖が誰であれ、自分など今の権勢を脅かす存在ではないとそう言うことか?」

「そうでしょう。一族郎党合わせて十にも満たぬ寡兵で、どうして一国一城を脅かすことができましょう」

「ならば何故噂が」

 その質問に残雪は珍しく表情を付けた。

「近頃何者かから恨みを買った覚えは」

「そのようなことある筈もない」

 何せ自分は地を這う虫のように音を立てずに生きているのだから。

 残雪はそうですかと顎先を触った。

「以前にこうした噂が広まったことは」

「ない」

「御父上の頃も」

「それは…自分が物心付く前のことはわからぬ」

「そうですか。ならば偶々なのでしょう。何かの拍子にそんな話が出、拡がった」

「どうしてだ。どうして」

 自分の代になってそんな過去の話が。

 気付けば残雪に相談に乗ってもらっているかの如きていになっている。つい先刻まで斬るの斬らないのと言っていた筈なのだが。

 残雪は一切感情の籠らぬ目線で自分を見ている。

 こいつも自分を見下しているのか。

「貴様は一体なんなのだ」

 自分の許に現れ、妻の前に現れ、曖昧模糊とした話をして去って行く。

「言え!」

 残雪は自分の怒声にまるで揺るがず、宙に向け広げた片掌を我が方へと向け、

「貴方はどうしてこの地に居なさる」

 と問うてきた。

「どうして?」

 どうして。

「そんなもの貴様。居るも居らぬも」

 今生へ出でてよりこっち蔵座に在った。狗賓家はこの先も蔵座に在り続けると思っていた。しかし今自分は逃げ出そうとしている。無意味でも無価値でも連綿と続いた蔵座での暮らしを高が噂話に怖気づいて捨てようとしている。

 それでも。確かにどうして自分は蔵座に居るのだろう。否、それはだから蔵座に家があり仕事があるからで。本末転倒しているだろうか。否、そんなことはない筈だ。

「待て。自分以外の者は果たして意思を持って蔵座に…む。何の話だ。今はこちらが問うていた筈だ」

 残雪は右手人差し指の先で鼻の頭を、親指の腹で顎先を触り、無声音でそうですねと答えた。

「仰る通り明確な意思を持って日々を送っている者など此の世に一握りかも知れません」

 残雪は僅か肩を張った。その動きは暗に、おのれはその一握りの中の者であると言っているように自分には受け取れた。

 世の流れに在り、おのれを強く保つと言うことは、種々様々な抵抗や障害があるものだろう。言わずもがな、世の流れが常に自分の在り方に沿っているばかりではないからだ。

 考える迄もなく大変な生き方であろう。そうして生きる者どもに強い憧憬を抱きつつ、しかしどこかで鬱陶しさも覚える。それは多分にやっかみを含んでいると認識をしつつ、それでも美学の強過ぎる者とは共に生きられぬと正直に思う。尤も、日々おのれを練磨し生きていくことを是としている人間であれば今の自分のような状況に置かれた場合何らかの対策はひり出せたかも知れぬ。

 自分は世間と言う川の流れの底、余程の天変地異がなければ動かぬような大岩の下でひっそりと生きてきた人間だ。流れに逆らう生き方はまるでわからず、ひとたび岩の下から這い出たなら、泳ぎ方はおろか息のし方すらもわからぬまま流れに呑み込まれ沈死すること必定の身。しかし、今まで安定を誇った家と言う大岩を動かそうと(たとえ噂にせよ)している何者かがいる以上この川で生きていくことは儘ならず、

「逃げる意思と言うのもあろう」

 と喪曾利と言った。

 残雪など何処の馬の骨とも知れぬのに。こうした所は判断が甘い。流石に生まれてからこっち安穏とした日々を貪ってきただけに危機管理能力は皆無と言っていいかも知れぬ。

 残雪は賢明ですと返す。

「賢明? みっともないの間違いだろう。噂は噂でまだ何もはっきりしていない」

「はっきりと三光坊頼益が貴方に叛意有りと断じてしまってからでは遅い」

「そうだ。否」

 何を正直に言っている。そこでやっと若干の冷静さを取り戻す。

 不器用に取り繕う。

「そうした選択肢もあると言うことだ。じ、自分は逃げたりは」

 しないがなと尻すぼみに言った。

「士分と言うのも大変だ」

「ど、同情かそれは」

「くだらない」

「何」

「不必要なものを多く抱え込みつつ、本当に必要なものでも外聞の悪いものは取り入れることをしない。ただそうした見栄を張る部分を含めて士分の士分としての価値があるのかとも思ったりもしますが。何れ私には真似できない」

「貴様にやっとうは似合わぬ」

 そうだ。自分は士であり、残雪は民だ。その生まれついての差を思い出したかのように気付いて何だか少し安堵する。

「真似ので、できよう筈もない。見栄であろうと何だろうと、それが民間の者には持ち得ぬ士卒の美学…だからだ」

 先に自分の頭の中で否定したことをのうのうと言ってのける。我ながら確固たる自分と言うものがないのだと思い知りつつ。

「美学は良い」

「いいのか」

「良いでしょう。尤も方向が間違っていないのであれば、ですが」

 方向も何も、常に日陰の暗い所を好んで生きてきたのだ、今自分がどちらを向いているかなど終ぞ考えたこともなかった。

 他の皆はどうなのだ。上役は。同輩は。しっかりと自分の向いている、向いていく方向を見定めているのか。

「おのれはおのれでしかない。今までもこの先も。いつかは果てる身であれば何を拘る必要があるなどと何処ぞの修行者の如き考え方などなさらない方がいい。至高の目標があるならば兎も角、凡人にその思想は只の無気力と意味を同じにする」

「そ、それはまあ、してないが」

「諦観もないですか」

「ない、のかな。否わからんが。それでも立ち向かおうとは思わないのは確かか」

 そこが賢明だと言うのです。残雪は褒め言葉にしては唾棄するように言った。

「今は立ち向かう時機ではない」

「今は? 今も明日も、そんなもの」

「しかし不本意でしょう。たとえ根はあるにしてもあらぬ嫌疑を掛けられ、結果追われるように生国から出奔するのですよ」

「く…悔しくは」

 不味い不味い。此処で悔しいなどと答えてしまっては自分はこれから逃げるのだと認めているようなものだ。

「逃げるのを少し待ってみませんか」

「な。だ。逃げぬ」

「はい。待ってみませんかと提案しております」

 何なのだこの男は。何を知っている。本当に自分をどうするつもりだ。

「今逃げねば取り返しのつかぬことになるやも知れぬと、貴様」

 おのれを謀ることに慣れておらぬばかりか残雪は人の心を読む。

「今のままならば」

「どう言うことだろう」

「それなりの施策をすれば凌げると言うことです」

「どう凌ぐのだ」

 風。

 散る髪。

 翻る外套。

 残雪は華奢な足をおのれの肩幅ほども広げると静かに此方を指差した。

 暴力的な圧力でなくとも威圧感は出るのだなと他人事のように思う。

「私に任せてみませんか」

「何を任せる」

「今流布している不穏当な噂を払拭し、且つ貴方の暮らし向きを良くして差し上げます」

「下らぬ甘言」

「甘言であるかどうか確かめる術は貴方にはない」

 びゅう。

 風ばかり強い。天から山肌を舐めるようにして吹き下ろす風は鼻の穴が矢鱈に乾くだけでこの地には何の恵みも齎さない。無論自分にも。

「確かに確かめる術などないとも。それでも人を疑うことくらいはできるぞ。だいたい貴様、自分を助けていったい何を得る」

「それを言えば私を信用するのですか」

「そう言うわけではないが」

 残雪は小さく鼻を鳴らした。

 家と共に当然のように受け継いだ名跡。その名に寄り掛かるばかりでおのれの芯を鍛えることを怠っていた自分は、どうにも地に足が付いているように窺える残雪に時折何かを仮託したい誘惑に駆られる。

「しかしこの国の境界警護も手ぬるい。貴様の如きあからさまに妖しい者を易々と通してしまうのだからな」

 だから意識を他所へと、少し話を逸らそうと試みる。しかし残雪の眼はその程度の浅はかな考えは見抜いているようだ。

 それも勝手な思い込みだろうか。

「利」

「り?」

 こくりと頷く。この寒風に頬を染めることもなく、それどころか残雪の肌は益々生体から乖離していくようだ。

 一向に生き物らしからぬ男は、まるで人間を演じるかのように若干声を張って言った。

「我は利で動く。人須らく。違いますか」

「利。金か?」

「金銭ばかりではありません」

「うむ、まあ」

 出世したい、旨い物を喰いたい、いい女を抱きたい、大きな家に住みたい、全て利が絡んでいる。否、ただただ一族が安穏と暮らせることができれば幸せですと言ったとて利を活かし利を産まねばその安穏な暮らしは継続適わぬ。そう言うことだろうか。

「概ねそう言うことです」

「…また心を読むか」

「他人の心など読める筈もない」

「しかし」

 否。残雪の言う通りだ。人に人の心など読める道理はない。単純に自分の思考が浅はか故簡単に想像がつくと言ったところなのだ。

 対峙して初めてまじと白面を見た。若干顔が下向きであった為或いは睨みつけているような表情になっていたかも知れぬ。

 もうどうでもいい。

「自分に恩を売って、貴様は何かの利益を得ると」

「はい」

「しかし矢張り」

「どうにも貴方はしかしが多い」

 それは飯綱にも言われた。

 残雪の発する言葉は大言壮語のようであり的確な鞭のようでもあり。何れにしても自分のような人間には苦痛しか与えぬ類いの言葉である。

 こいつとは馴染めぬ。

 どうせ自分は逃げ出すのだから。

「逃げ出すのでしたら早い方がいい」

「もう慣れた」

「そうですか」

「わかっておる。精々そうさせてもらうつもりだ」

 それでも妻を説得し、郎党を説得し、家財を纏めしているうちに数日は過ぎよう。そんな中でも誰にも怪しまれぬよう城には出仕しなくてはならない。


 残雪が城に注進に及ぶと言うことは…。


 残雪の姿はもうない。早くも自分絡みの利とやらを諦めて方向転換したものか。下手をすれば数刻後自分を捕捉しに兵卒の一団がやってくるやも知れぬ。

 そうなる前に桜だけでも逃がしてやらねばなるまい。

 盛大に溜め息を落とした。

 まだ具体的な問題は何も起こってはいないのだが酷く疲れた。

 不思議と恐怖感はない。心労で磨滅してしまったものか、この期に及んでまだ現実感を獲得していないのか、自分でも判断が付かない。それでも逃げる気でいるのだから益々わからない。今まで心奥ではずっと今の生活を捨てたいと願っていたのかも知れぬ。

 自分の静かな表層は、どうやら自分の本質すらも謀っていたらしい。

「否。世の中案外そうしたものよ」

 恐らく人に表も裏もないのだ。その都度その都度、場面や状況、対する人物に合わせて過去のおのれの経験則から導き出した一番適当と思われる対応を表層化させるのみで、その対応の個人差が世に言う性格を形成しているに過ぎぬ。その対応が下手な者や、経験値の足りぬ者はだから余計な苦労を背負込んだり、周囲から疎外されたりするのだ。

 加えて人格性格などと言う耳馴染みがありながらも曖昧な語は、自分で決めるものではなく周囲が勝手に形成していくもの。自分の格が他に決められているように、自分も見た目や雰囲気や声質や話す内容や行動、そして好悪で他を測っている。

 まるで一人きりになって胸を張った。自画自賛だがそれに気付いたことで何か柄が一枚上がったような軽い高揚感を覚えている。

 それでも逃げ出す状況にかわりはない。

 逃げたいのはこの土地ではなく、この土地に自分で染み込ませてしまった、狗賓正十郎は沈鬱な男と言う評判なのかも知れぬ。それも今更だが。

「残雪ならば本当に」

 どうにかできると言うのか。一時は甘言であると判じたが、確かに自分を謀って(残雪の言う)利が得られるとも思えぬ。しかし逆に、自分を利用して利が得られるとも矢張り思えぬ。だからいつもの自分の経験則に則って判断を曖昧に、迂遠に迂遠に残雪の申し出を断ったのだ。

 何れにしても城内には自分が謀反を起こす可能性があると言った不穏当な噂が蔓延している。現今はっきりしている事実はそれのみで、故逃げねばならぬのだが。

「よくよく考えてみるなら何と口惜しい」

 末席を汚しているだけとは言え、勇猛にして精強であらねばならぬ兵卒らしからぬ酷く遅々とした反応なのだろう。

 立ち向かうか。

 まさか。

 だいたい何に。

 この閉塞感から脱し得るには逃げ出すしかないと先程思い切ったではないか。

「ただ」

 否。

 何もできぬし、残雪など信用に値せぬ。だいたい何処に止宿しているかも知らぬし、どうして繋ぎを付ければ良いかもわからぬ。

 否頼らぬ。

 取り敢えず妻に言うのは少し待ってみようか。しかし時間はなく。

 頭頂と米噛の間がずくずくと痛む。頭を抱え、嗚咽のように言葉を洩らした。

「どうすればよいのだ!」

 どれだけ煩悶したところで妙案の湧いて出るはずもなく、矢張り誰かにきちんと相談しようかと、捕縛されるかも知れぬといった懸念は杞憂に終わったその日の夜はまんじりともせず過ごし、翌朝早めに城へと向かった。

 着城するなり飯綱を探した。

 強がっていたわけでは決してないが仲間は欲しかった。

 飯綱はすぐに見つかった。名も知らぬ数人の同輩と話をしている。自分があまり大きくはないもののそれなりの勇気をもって声を飛ばすと、飯綱の周囲にいた数人がこちらを向き自分の存在を視認した途端顔を見られるのを憚るようにそそくさと立ち去って行った。

「わかり易いね」

 とは飯綱の弁。

「な、何も逃げずともよかろうものを。獲って喰うわけでなし」

 などと言いつつ空笑いをして見せる。

「獲って喰われるでしょうよ」

「え」

「皆巻き添えを食いたくない。あんたの傍にいるだけで危険なんだ、最早ね」

「な」

 そうなのか。

 そうなのだ。

「どうして逃げなかったの」

「あ、いや。もう少し様子を見た方がいいかと」

「そんな余裕はないでしょう。逃げるなら逃げる、じゃなかったら」

「なかったら?」

 昨日とは打って変わって今朝は無風。空には雲もない。それでも薄暗い日と言うのはあるものだ。

「戦うのみ」

「ああ」


 もう陽は見れぬかも知れぬ。

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