(四)
その日の夜をどうしようと延々思い悩んでいた。
西の館でまた人が殺された。
下男、侍女と来て、今度は遂に三光坊家から遣わされた士卒が斃れたようだ。
士、がである。
幾ら西の女主が幼い頃より槍術に慣れ親しんでいたにせよ、幾ら今が永い平時であるにせよ、本職の軍人がそうも簡単に殺されるものだろうか。
相手が主君の愛妾であるが故、抗うに抗い切れなかったものか。
私は一人悩乱する。
相変わらず確たる証拠のない話である。それでも数日に亘って三件続いたとなれば事情も少々違って来はしないか。もし仮に何処かの誰かが何かの目的があって虚言を弄しているのだとしたなら、反対にこうも矢継ぎ早に事を起こすまいとそう思うのだ。否、そんな虚言何の意味もないのだけど。
私の中で虚実は縷々入り混じる。
何もかも投げ出して私は関係ないと、そう声に出して言いたい。
残雪など知らない。
蝋燭の火を消せなどと言ってない。
私は何も関わっていない。
厭だ。
知らない。
そう思い切れたらどれだけ楽であるか。それが出来得るたちではないからこそ噴出する願望である。
西の女は好きではないが、流石に此処まで追い詰められている状況を好ましくは思えない。事の起こり始めはそう思っていた。それも今思えば迂遠な自己弁護であったようだ。
そう思いつつも西のことに色々頭を巡らせてみるのは、最早此処数日の習慣に近い。
人を次から次へ殺めるほどに追い詰められて、それでも止まぬ怪異。
蝋燭の火が消える。
しかしそれは怪異でも何でもなく、こちらから言わせれば隠密裏に西の館の蝋燭を消すだけのつまらぬ工作でしかない。そんなもの提案された当初は鼻先で笑っていた。しかし実際、これほどに効果が出ようとは。そしてあまり効果の出様に、今では逆様にこちらが追い詰められている。とても息苦しい。
何なのだ、西の館の主は。
何故其処までに闇を恐れる。
闇を恐れ、闇に追われ、やがて下男を槍で突き殺す。果たしてそれがどう言った状況の下行われた惨劇かはわからないが、聞けば顔面を一突きとのこと。現場はそれは凄惨な有り様だったに違いない。
下男を突き殺した時西の女は錯乱の中、少しは安堵したろうか。これで灯かりが消えることもない、これで安眠が得られると。下男を殺したことに対する呵責の念と、これ以上闇が拡がらぬと言う安堵の念と、一体どちらが大きかったのだろう。
しかし火はまた消え、館は闇に塗れた。
一度安堵してからの恐怖の再来だろうからこの衝撃は一方ならぬものがあった筈だ。
下男ー。
侍女ー。
士卒ー。
立て続けに三人。
私が決の下したことで三人もの人死にが出てしまった。
その事の重大さを忘れる為、私は以前にも増しておのれを磨くことに腐心している。
心に隙を与えては自分自身の思いに潰されてしまう。そう思い常に気を張ってはいるものの、
西の館で人が死ぬ度現れる小さな葬列。
濡れ縁から遠く、木々の間に間に窺える奇妙な音と提灯の灯かりのみの、その実葬列とも呼べぬ代物だが、私には他の語彙が思い付かない。
その灯かりは酷く緩慢な動きで蔵座の墓所の辺りへと向かう。
出現時刻を無視するなら、人が死に、葬列が墓所へと向かう。何の不思議もない。しかしそれが今堪らなく怖い。
あれの何が、何を、其処まで恐れる。何度も自分自身に問うてみたのだがわからない。西の女が闇を恐れるのと同質の恐怖感か、それとも若しや知らず、あの葬列を人外であると思い込んでいるものか。我がことながら覚束ぬ。まるで何も判別できぬ状態であった。
否。あれが人であるなら恐れることは然程ないのだ。
矢張り恐れているのは人ならぬモノ。
そうしたモノの存在を頭から信じているわけではない。かと言って頭ごなしに否定するわけでもない。自分など所詮狭い世界しか知らぬのだし、漠然とそうしたモノも居るだろうぐらいの認識を持っている。
居るも居らぬも根拠なく、つまりは今の今まで特別深く考えることなどなかった事柄であり、精々幼い頃寝物語に聞いたくらいの関わりだ。
何れにせよあの葬列を人外のものであると決め付けねば、そのように自分に言い聞かせねば、こうまで提灯の灯かり如きに戦慄する自分自身を理解できなくなる。只でさえ危うい精神状態だと認識しているのに、ここへきての乖離は不味い。底辺であろうと自分を一定化させねばならぬ。
特別危害を加えられたわけでもない。しかし夜は恐怖で眠れず、眠れぬ苛立ちから煙草ばかりを吸い、結果食欲が落ちてしまっている。これでは西の主と同じではないか。このような姿、久し振りに訪ねてくるあの男に見せらりょうか。
今も初冬の黄昏刻に障子を開け放ち、その開けた障子の縁に背を預けて煙草を吸っていた。
今朝から満足に口も漱いでいない為、口の中もねっとりしていた。長いだけの棘髪も結うてもおらねば梳いてもおらぬ。
傍から見たなら私の方が余程ヒトならぬモノに見えることだろう。
人を呪わば穴二つ掘れとは、こういうことを言うのだろうか。私が西の女に対して放った呪いは見事に返ってきている。
堪らない。
不図思う。残雪を呼び付け、何かしらの責任を取らせようか。
生憎伊福部は今朝から不在。戻りは明日らしい。
さて一体誰に残雪を呼びに行かせようか。聞いた話では下の村にある半農の木賃宿に連泊しているとのこと。
手を叩いて人を呼ぼうと障子から背を離した時、視界の隅に白い塊が見えた。
「嗚呼…」
いつの間に。
残雪が柔らかく端座していた。
外は曇り。而して宵にはまだ間のある刻限である。私の居室にも、館の何処にも照明は灯っていない。確かに今がこの館に於いて、人の起きている時間帯で一番暗い刻ではあった。それにしても。
暗色の中の無彩色。
加えて残雪は蛇の如く気配がない。
厭な存在感は有る癖に。
「だ、誰に断って此処に居るのだ」
「今更誰に断る必要もない」
発する言葉は変わらず無礼である。
「ふざけるな。身分を弁えたらどうなのだ」
「弁えて事が上手く行くのなら幾らでもそうしましょう」
薄墨色の室内に白面だけがぼんやりとこちらを見ている。
私は残雪の顔を眺めつつ鼻から溜め息を抜いた。
こいつもヒトならぬモノか。
関わったが最後、私のような愚かな女は骨までしゃぶり尽くされるがオチなのだ。
「顔色が優れませんな」
「貴様のせいじゃ」
煙管の火種でも飲ませてやりたい気分である。
「それにしても貴様、よくこの暗い中私の顔色が見えたものだな」
「いえ、まるで見えません」
「ふん」
相変わらず腹立たしい男だ。
それでも私は残雪に話を振る。元よりくどくどと残雪に絡んでやろうと思っていたところだ、手間が省けたと思えば良い。
「おい貴様、酒を付き合え」
否応言わさず私は手を叩き侍女を呼んだ。
残雪は下戸だと言っていた。知るものか。 残雪は押し黙って座っている。不気味だ。人間なのだろうか本当に。
私の知る男とはやけに暑苦しく、大抵即物的で、常に感情的で、多く高圧的であった。
残雪にはその自分の薄ぺらな経験則がまるで当て嵌まらないようだ。そう思うと二の腕の辺りから首筋に軽い悪寒が走った。
やがて白磁の瓶子とうるかの盛られた平鉢の載った膳部が運ばれてきた。添えられているのは金箔押しの塗箸。
残雪の前に一つ。
私の前に一つ。
侍女は先に私に酌をし、続いて残雪に酌をした。軽く会釈をして去る。
後で捕まえて問わねばなるまい、果たして残雪は普通の女にはどのように見えているものか。
私は酒を飲む。まだ熟成途上にある若い酒だ。調子が悪い故まるで旨くはないが、二、三杯立て続けに飲めば酔うには酔う。但し気分は一向に良くならなかった。
「残雪、貴様も飲め」
残雪は猪口にも平鉢にも手をつけず、ただ黙して私を見ていた。この際、ずるずると居させて此の男にもあの奇妙な葬列を見せてやろう。それがいい。そう思い付くと幾分気が楽になった。
「ところで今日は何の用だ」
やっと来意を問う。
「東様御悩の噂を耳にし罷り越した迄」
「ふん。誰のせいで気を揉んでいると思っておる。それで私が思い悩んでいるのを知り、貴様どうするつもりだ」
空の上は風が強いのか、いつの間にか雲が流されていた。冴え冴えとした三日月が顔を覗かせている。
残雪の顔が月明かりに映える。
全く髪の毛だけは頗る美しい。
私は再び残雪に酒を勧めた。
「夜な夜なやってくる物の怪が恐ろしいのですね」
「ふん、物の怪だと? そんなもの此の世に居らぬ」
「恐ろしいのならば祓えば宜しい」
「居らぬと言ったであろう」
「何が」
私は思わず鼻の穴を広げて白面の男を睨みつけた。何がとは何だろうか。このような下郎に吐かれる覚えのある言葉ではない。
「な、何がだと? 物の怪など居らんと言ったのじゃ」
「居りませんか」
「お、居らぬ」
意地を張っている。そんなものは簡単に看破されるであろう。
「しかし祓いましょう」
「くどいぞ。祓うとは何だ。だいたいあれが物の怪であるとどうして言える。あれはただの墓掘りの灯かりであるやも知れぬ」
「西の館から死者が出て行った形跡はない」
横着して足で煙草盆を引き寄せようとしていた私は一瞬固まった。
死者が出て行った形跡はない?
「しかし」
加えてと残雪は抑揚なく続ける。
「此の数日蔵座で死人は出ておりません」
「何だと…」
「祓うのです、悪しきモノは」
「悪しきもの…」
祓って落とせるのなら是非そうしたいものだ。
「貴様が加持祈祷でもするのか」
その前に目の前の男の素性は何だ?
「いえ、私は一切致しません。祓いの出来る者を知っているだけです」
この男は何故此処に居る?
「知り合いでも何でもいい、貴様の言う通り私は今妙なモノに取り憑かれておるわ」
若しかするとあの葬列自体幻覚なのかも知れぬ、そんな気さえする。
「祓いましょう」
紹介しましょうと残雪は言って、そこでやっと笑み、のような表情を作って見せた。途端に月明かりが翳った。
「明日また参上致します」
そう言って辞去しようと残雪が片膝を立てたのを見て、
「待て。酒を飲め」
私は顎をしゃくって言った。
「飲まぬうちは帰さぬ」
「お戯れを」
「戯れるか貴様などに」
自分でもわかる。目が据わってきている。
御山様に決定的に敬遠されるきっかけとなった目付きを、今私はしている。
残雪は色素のない瞳で私の陰険な眼差しを真っ向から受け止め身じろぎもしない。
否、色素がないのではなく、瞳もまた銀色だった。
「何だ、何を見ている。女が酔うのがそんなに珍しいか」
残雪は無表情に見つめる。その薄い唇はもう綻ばない。
「飲め」
残雪は月を見る。
何かを考えているように見える。
「せんぽく、かんぽく」
「何?」
「せんぽくかんぽく。東様の心を煩わせているモノ。違いますか」
「違うも何も私はわからぬ。ただ確かにそのような音は聞こえるが、それは墓場の古い食器が雨に打たれて立てる音ではないか」
「しかし雨の降らぬ夜にも聞こえるのでしょう。西の館で人死にのあった日は」
「よく知っておるな。貴様か、犯人は」
「だとしたら」
「斬って棄てるわ」
伊福部に言い付けて。
残雪は膳の上の猪口を手に持った。
つ、と口に付ける。
「精々斬り棄てられぬよう、気をつけましょうか」
「貴様が言うと冗談に聞こえぬ。それよりも酒は飲めないのではなかったかえ」
「ええ、下戸です」
「味が嫌いか? それとも悪酔いするか」
酒を飲むと上手く思考が結べませんと言って、残雪は猪口を戻した。中身は殆ど減っていない。
「貴様、何の目的があって当館に出入りしている」
「目的は貴女の願いを叶えることです」
「気持ちの悪い。私と誼を通じ、その先に何を見ているのかを訊いておるのだ」
「正直に言うと思いますか」
「思わぬ。それでも聞かねばならんだろう」
全く今更な問いではあるが。酒の力を借りて尋ねたに過ぎぬ。
私は自分の猪口に残っていた酒を一息に呷ると、瓶子に手を伸ばした。生憎中身は既に空だった。いつの間にそれ程飲んだものか。
残雪が自分の瓶子を手に持ち膝行にて近寄り、酌をする。
「今更だ、本当に。しかし情けない話、私も伊福部もわからんのだ、どうして貴様を雇うことにしたのか」
「堕府の遣いで此の地に来ておるのです」
「堕府だと? 嘘を吐くでない、本当のことを申せ」
「あまり詳しく聞かれない方が宜しいかと。累が及びます」
「どう言うことだ」
「今ならば私一人のやったことと言い逃れもできましょう。この館に出入りしていることを知っている者はまだそれ程多くない。加えてこの国の頂点は余り捨て目の利く御仁では御座らぬ」
「お、御山様を愚弄するでないッ」
「真実を申したまで。そして私の策は、御山様のそうした性質に合わせて立案されております」
「御山様の性質だと」
「何れ一枚噛んだ以上、余り私の邪魔はなされない方が良い」
「そ、それは脅しか」
「東様が揺るがないのであれば悪いようには致しません」
「揺るぐ?」
ぐいと酒を飲む。
米噛はずくずく痛みはじめているのに、頭の芯は冷めていく。不快だ。止め処なく不快だ。
「一見するに折角の御山様再訪に際して、然して飾っておらぬ様子」
「何を言う、私は日々我が身を磨いて…」
口も漱いでいない、髪も結うても梳いてもおらぬ。否、私は得体の知れぬ恐怖から逃れたいが為、意識を他所へ遣る為に日々…。
「磨いてないわ。そう、全く」
本当に混乱している。じわじわと真綿で首を絞められるが如く。
「大変宜しくない」
「貴様にだけは言われたくはないぞ。一体誰のせいで」
そもそもが御山様再訪の段も残雪の献策に依るものではあるが。
「しかしその見目では折角の機会も逸しようと言うもの。それとも御山様は偏向した性癖が有るとか」
「だ、黙れ、ぺらぺらと」
「ならば身嗜みに気を配って下さいませ」
「ええ煩い、そんなことまで貴様に指図される覚えはない!」
ついつい激昂する。残雪の言い様に乗せられているような気もするが、単純な感情の昂ぶりは簡単には止められなかった。
怒鳴った勢いで再び酒を呷る。
最早近隣に鳴り響いた美姫だった頃の面影は何処にもあるまい。
「言え。残雪貴様一体誰を誑かして此処に居るのだ?」
「この館に出入りするようになったのはさる方と私の利害が一致したに過ぎません」
「だからその名を言え。そいつも何だ、堕府に連なる者などと妄言を重ねるかえ?」
「さて。名前は存じません。ただこの館の方ではあるのでしょう」
「名を知らん?」
残雪は笑いもせず私の顔を見ている。その表情のない双眸を幾ら凝視しても、真実惚けているのか正直に物を言っているのか判別は付かなかった。
見れば見るほど生物感の希薄な男だ。
「男か女か。それもわからんか」
「男であるなら声は高く華奢、女であるなら声は低く大柄」
「は?」
「つまりそれもわからないのですよ」
そう臆面もなく言い放って、残雪は尖った顎先を触った。
「そのようないい加減な」
「ええ、お互いに」
思わず喉がぐうと鳴った。おくびを我慢しているようにも聞こえただろう。
伊福部は何も知らぬと言う。あの献身的な老僕が私に嘘を付くとは到底思えない。であるならば(飽くまで残雪の言うのを真実と仮定して)その、この館の者とやらに何かしらの欺瞞か策謀があるのではないか。
それでも矢張り、最も疑わしきは眼前の男である。
「貴様、民間であろう」
「如何にも」
不快感と怖気の向こうでじわりじわりと募る残雪への興味。
此の男は何者だ。
見回してみても答えがその辺に落ちていることもない。
残雪はうるかを見ている。物珍しいものでもあるまいに。
何故私は民間の、このような男に振り回されているのだろう。小賢しいばかりの、男振りも然程良くない男に。だからその腹いせにぽかりと空いた間に要らぬ言葉を混ぜる。
「貴様、女も知らんな?」
唐突な問いだ。意味もない。どうせまたはぐらかされるに決まっている。
「仰る通り女は知りません」
「女は?」
返答はあったものの、何とも含みのある言葉である。
そして残雪は何かを見切ったような顔をして、先の話に出てきた祓いを行う者の説明を始めた。
其の者、僧であると言う。
東様がその気であれば明日にでも来させましょうと言う。宿は同じなのだそうだ。
「その者とは、衆道とか言うあれか?」
「なんでしょうか」
「否…何でもない」
それこそどうでもいい。残雪に男色の気があろうとなかろうと私は私のことのみを考えておればいいのだ。
顔を上げると残雪の蛇の如き眼が私を捉えた。否、蛇ならばまだ馴染みのある。それに白蛇と言うならそれは瑞兆でもある筈だ。
残雪は違う、私に凶なることばかり寄越してくる。ならば何だ。
「私のことは良いでしょう」
「…貴様心が読めるのか」
「真逆」
体温のない、気配のない、闇に塗れ、地を這い、
狡猾にして、
身の内に毒を飼う。
「心が読めるのであれば事はもっと簡単だ」
こいつは蠍だ。
せんぽく、かんぽく。
「あ」
私は立ち上がり濡れ縁まで小走りで近寄った。
「残雪来たぞ! 聞いたであろう今の音を」
残雪は身じろぎもせず只黒目だけを僅か横移動させた。私は俄かに興奮してひらひらと片手を舞わせ、まるで腰の軽くない男を手招きする。銀髪の男はそんな私に一瞥呉れただけで相変わらず動きはしなかった。
「音は聞こえます。提灯の灯かりは見えますか」
「あ、いや。まだ見えぬが…それより貴様、提灯云々まで知っているのか。誰に聞いたのだ? 私がしたのだったか?」
「はい、為さいました」
まるで覚えておらぬ。
「…まあよい。兎に角此方へ来よ」
私の再三の要請に残雪はやっと立ち上がり濡れ縁に立った。
横に並んで立つと案外、背が高いことが知れた。
暫く待つが音は止んでしまった。
空で風が鳴っている。
「貴様、生まれは何処だ」
特別何かを意図しての質問ではない。単純に間が空くのを嫌っただけだ。
残雪は瞑目している。そうすることで余計に生物感の希薄さが助長されているように思える。
男としては駄目だが、悪い顔ではないな等と思う。
「雪囲囲です」
「ゆきがこい、そうか」
何となく耳に覚えのあるような地名だったが具体的な心象は何一つ浮かばなかった。それでも知っている振りをするのは無論虚勢である。
残雪は目を開け私の口元やら小鼻の辺りを見ている。
目の隅に提灯の灯かりが見えた。
「残雪見ろ、提灯ぞ」
正直助かったと思った。認めたくはないが知り合った当初から私は、残雪の毒気にすっかり中てられ続けているのだ。
「成程。確かに提灯。ですが東様」
「ああ、わかっておる。確かにあれはあれだけのもの。あれ以上特別なことがあるわけではない。しかしな、西の館で死人が出るたびにやって来るのだぞ? ただでさえ私は…」
と、そこで私は口を噤んだ。
まだまだ言いたいことは山とあるが、言葉が巧く繋がらず具合のいい表現も出てきそうになかった。
「罪の意識でも感じておられると?」
「…そうかも知れぬ」
残雪は鼻で笑った。腹を抱えて笑う姿はまるで想起できぬ男であるが、その乾いた笑いは実に似合っている。
「相変わらず不敬な男よ」
もう怒りも薄れてきた。と言うより残雪相手にその反応は無駄なのだといい加減学習したと言ったところか。
「兎に角私はあの灯かりが怖いのだ」
怖いのだ、心底。
残雪は暫く目を細めて遠くの灯かりを眺めていたが、やがて音もなく障子を閉めると酷く穏やかな声で言った。
「災いは祓えば良い」
「災いかえ、これは」
「気に病んでおられる。あの音と提灯が何であるにせよ、東様は参っておられる」
「そうだ。私はもう厭なのだ」
つい泣き言が口から出てしまった。
すとん、と腰から床に落ちた。
「厭じゃ…もう厭じゃ」
せんぽく、かんぽく。
「確かにあれはヒトではないが、そう恐れるモノでもない。されども東様が怖いと仰るのならばそれは矢張り祓うべきでしょう」
私は耳を塞ぎ頭を振り厭じゃ厭じゃと繰り返す。
矢張りあれは人外であったか。
「ですから東様、身綺麗に為さいませ」
わかった、わかったからと私は涙声で答えた。
もう後戻りはできないのだ。もう誤魔化すことはできないのだと、その時やっと覚悟ができた。
それでも涙は止まらなかった。
せんぽくかんぽく、
せんぽくかんぽく、
せんぽく、
残雪は二度手を打った。
私は衣服の袖で目尻を押さえつつ、その様子を窺った。
やや置いて障子越しに座す人影が見えた。
影の頭は丸く、剃髪している様子。
僧なのだ。
「招じ入れても構いませんか」
独断で此処まで来させておいて今更な発言である。それでも私には断る理由もない。
「構わぬ…しかし残雪、明日とか言っていなかったか」
「はい」
残雪は未だ立った儘であった。立位で私を見下ろしつつ。
こうした展開は織り込み済みだったのだろう。残雪には私が泣き言を洩らすことなど承知の上だったのだ。
す、と障子が開いた。
月光を背に、姿の小さな僧が一人深々とこうべを垂れている。
「おもてを上げよ」
何なのだろうこの不快感は。まるでずるずると、おのれの意思などまるでなく濁った沼の底へと嵌り込んでいくような。
この先こんな私に明るい展望は拓けていると言うのか。
否、いい。
今はあの忌々しい人外を祓うが先決だ。
僧はゆっくりとした動きで顔を上げた。
まるで女のように、色の白い頬の紅い、矢鱈に整った眉の僧であった。そこいらの女房より余程綺麗な顔をしている。
「御坊が祓うのか」
はい。
そう口の動きのみで返答して、僧は傍らに立つ残雪の顔を見上げた。心なしか双眸が潤んでいるようにも見受けられる。
矢張りそう言うことかと私は心密かに思った。只それだけのことで、恐らくは秘密でも弱味でもないのだろうが、私は何故だか残雪を出し抜いたような気がして、僅かばかり気が大きくなった。相変わらず確かなことなど一つもなければ、如何ともならぬであろう類いの話である。しかしどうやら私と言う人間は、そうした胡乱で瑣末な、幹の部分ではなく枝葉の部分にばかり気を奪われてしまうきらいがあるようだ。
枝葉の騒がしさに、延々根幹が揺らいでいる。
私は棘髪を撫でた。
「御坊、名は」
「叢原と申します」
「そうげん。姓は」
日輪と言う国は姓を聞けばある程度その者の来歴が知れる。
「姓は有りませぬ」
「ない?」
「左様で」
それはおかしい。法門にある者ならば姓を名乗る権利がある。これも日輪共通の事実である筈だ。
私の疑問符の意味を解したのか、僧叢原は再度残雪の顔に目を遣り、やがて答えた。
「まだまだ修業中の身。学んだ寺院は日輪各国に御座いますれば。そうで御座いますね、拙僧はこの辺りで言う行人でしょうか」
「行人? まだ一人前の僧ではないとそう言うことかえ?」
またも叢原は口の動きだけで肯定した。見た目も華奢だが声質もとても華奢で聞き取り難い。声だけは矢鱈と入り込んでくる残雪とは豪い違いだ。
「おい、残雪。大丈夫なのだろうな」
「叢原、どうだろうか」
「はい。この、」
せんぽくかんぽく。
「音の正体を見極めれば宜しいのですね」
私は俄かに慌てる。
「否、正体などどうでもいいのだ。この音とあの、」
私は閉められていた障子を開けた。
未だ蔵座の墓所の辺りにぽつんと、極めて小さな灯かりが灯っていた。
「提灯を消してくれさえすれば。あれは人外であるのだろう?」
「はい。拙僧らは妖怪と呼び習わしておりますが」
「ああ」
妖怪。妖しい怪しいモノ。しかし其処に至って、そうした曖昧なモノらの存在を本来法門は認めていないと言った話を何処かで聞いたのを思い出す。
中途半端な知識を抱え、私はまたも無駄に揺らぐ。
「…一つ尋ねるが、妖怪などと御坊の進もうとしている道はそうしたモノを否定する道ではないのかえ?」
「まだ思い切れませんか」
そう低く挟んだのは残雪である。
「現に東様はあの音と灯かりに追い詰められているのでしょう」
「…うむ」
「あれが真実妖怪であるか否かは然程問題ではない」
「ど、どうしてじゃ。あれが人であれば」
「怖ろしくはないと?」
そんなことはない。
私が怖がっているのは、結局自分の撒いた種が歪んだ実を実らせたことに対する恐怖なのだ。その歪みを毎夜起こる不可解な事象に投影しているに過ぎぬ。
「わかった。もうよい。兎に角祓ってくれ」
本当にもう疲れていた。
今はただただぐっすりと眠りたい。
「揺らがば高みに届きはせぬ」
残雪のその言葉を切り文句にして、矢庭に叢原の読経がはじまった。
私はもう精も魂も尽き、平座りに両手を投げ出した格好で行人僧の様子を見ていた。
濡れ縁から外へ朗々と読経は続く。
先までの小声とは打って変っての大音声である。
館の者も何事かと思っている筈だが、それこそどうでもいい。
次第にその大きな声に煽られるように私の鼓動も高まった。鼓動の高まりは体温の上昇を生み、冷え固まっていた心が融けると共に若しやこれで悩まされることもなくなるのかと思えてきた。
確かに根幹が何時までも揺らいでいては、高くに登ろうとも登れはしまい。
我ながら単純なものである。
乾。
と叢原が床を踏み鳴らした瞬間、提灯の火が消えた。
私は奇怪な声を上げ思わず立ち上がった。 叢原が言った。
「妖怪は退散致しました」
真闇。
月はまた隠れていた。
いつの間にか雨。
丁、丁と地を打つ。
「本当か。本当にもう出んのか」
実際提灯の灯かりは消えた。今はそれだけで十分だ。
不可解な音も聞こえない。
「若し再度音と灯かりが現れ出でたならば、相手は余程手強いモノであると思われた方が宜しいでしょう」
「も、もう現れないのではないのかぇ?」
「拙僧の出来る限りのことは行いましたが」
「出来る限り…と言うと、若し仮に又あれが現れたとしたなら」
「残念ながら拙僧の力量不足、拙僧には手に負えぬ存在と言うことになりましょう」
「手に負えぬ…。否、御苦労だったな。褒美を取らせる、何が良い」
「褒美など、まだまだ半俗の身なれど金品欲しさに致したのではありませぬ故」
叢原はそう言って穏やかに目礼した。幾度か見た三光坊家の菩提寺の住職よりも余程気品がある。金糸銀糸の法衣を纏わずとも、何とも高貴な佇まいである。品と言うのは本来飾って出すものではなく、こうして自然と醸し出すものなのだろう。
「そ、そうか」
しかし安心していいのだろうか。
少なくとも今夜は静かに眠れそうだ。
気付けば叢原は姿を消し、残雪も外套の襟を直していた。
「明日また参上致します」
「ああ、そうか」
とっとと残雪に自分の一部を委ねてしまった方が気持ちは楽なのだろう。
立ち去る背を見るともなしに眺め、今からでも遅くはない、蝋燭の件を止めさせなければと不意に思った。
「ざ、残雪少し待て」
「全て無駄になさりたいのですか」
残雪は振り向きもせず言った。
「な、何がだ」
きっと私の浅薄な思考など読み尽くされている。案の定残雪は、蝋燭は明日も消えますと続けて言い、
「御山様がこの館を訪れる迄」
ほんの僅か首をこちらに傾げて言った。
「何時までも訪れないのであれば…」
「何時迄も蝋燭を消し続ける迄」
お気を強くお持ちあれと結んで、銀色の蠍は闇に溶けていった。
蠍の毒はじわじわと私を蝕んでいく。
それでも今は思う。
この毒が総身に隈なく行き渡った暁には若しや、今とは違う何かを得ているのかも知れぬと。但しその何かは、私にとって善きものか悪しきものかはわからぬ。
翌午。
所用から戻ってきた伊福部が嗚咽にも似た声を洩らし言った。
「西の館で四人目が殺されました」
私は最早予定調和のような感覚を覚えていた。