(三)
父の今際の言葉はただただ狗賓家の先行きを心配していた。若い頃から酷い齲歯で、壮年以降は殆ど歯がなくなってしまった為細かいところまでは何を言っていたかは聞き取れず、つまりは詳細は誰も覚えておらぬ。
それでも自分や、その他の残される家族のことよりも兎に角狗賓家そのものの心配をしていることだけはよくわかった。父は平素から御家大事の人であったからだ。
ただ、最期の最期くらいは欠片でも家族のことを気に懸けて貰いたかったものだ。せめて、文句ひとつ言わず添い遂げた母に対し労いの言葉一つだけでも。
安っぽい感情だろうが、未だにそう思う。
母あっての、延いては一族郎党あっての家だろう。
その母も二年前に不帰の客となった。父に忍従を強いられる為だけに嫁してきたような人であった。
自分は先代正十郎とは違う。
何処が如何違うかは巧く説明できないが、違うものは違う。
こりりと沢庵漬けを噛む。あの辛いばかりの痩せた於朋泥が糠味噌に漬けただけでどうしてこうも甘味を出すものか、不思議だ。
妻が茶を差し出す。
宵である。
「桜」
「はい」
桜とは妻の名である。おいだのお前だのでなく名で呼ぶなど一体何年振りだろう。特に他意はなかったのだが、そう呼んだなら呼んだで少し気持ちが高揚するから男とは実に単純である。
「いや。なんでもない」
妻は黒い瞳で数刻我が顔を見、下の方が若干厚い唇を綻ばせた。
「何が可笑しい」
「いえ」
自分は妻のその笑みが嫌いだ。何処か見下されているような気分になる。
「言いたいことがあるならはっきり言えばいい。どうしてそのような顔で見る」
「そのような顔とはどのような?」
「今のような顔だ」
「わかりませぬ」
そう言って妻は何だかはにかんでいるような表情で俯いた。俯いて小さく溜め息をついたようだ。
「それより旦那様」
「何だ」
少し態度が横柄だろうか。否、他所の家に比ぶれば我が家など良い方である筈だ。
「西の館の話なのですけど」
「ああ」
下男に続いて侍女が殺されたらしい。それは流石に城内でも話題となっていた。
同輩数人が噂話に花を咲かせるのを、用のある振りをして耳を欹て聞いてきたのだ。
「また槍で一突きらしいな」
「それはつまり、一人目の下男を殺して以降も蝋燭の火が消え続けていたということなのですよね。すると火を消していたのは下男の某ではないと言うことで」
「道理だな。亡者が火を消さぬ限りは」
そう冗談めかして言うが、それはそれで有り得ぬ話ではないだろうと思う。
死して後極楽だ地獄だと世界のあるのを嘯く輩は多い。自分も幼い頃から慣れ親しんできた話ではあるが、世の者はどこまで真剣に次の世界の存在を信じているのだろうか。
極楽とは浄土とも言い、穢れなき光の世界だと言う。そのような世界、憧れぬわけがない。だからこそ逆にその存在が信じられぬという者も多かろう。結局理想郷など人の頭の中にしか存在できないと、そう思うからだ。
極楽とはせめて死を恐れぬようにと、自分にはその程度の存在価値しか見出せぬ。またそれでいいと思っている。何事にも深く立ち入らず、少し俯瞰できる位置に立つ。それが今までの、そしてこれからの自分の生き方である。
「まあ怖い。亡者がどうして火を消せるのです」
「そんなものは知らん。ただ、亡者や幽霊がおるのならば極楽もあるのかも知れんとそう思ってな」
「極楽、で御座いますか?」
「あぁ、まあそれは気にするな。しかしあれだぞ。そのうち、亡者が消して回っているだとかそうした話に発展していくのではないかな。噂とはそうしたものだ」
「噂と申しましても旦那様、歩けば行ける距離の話なのですよ?」
「確かにそう遠くはないが、我らなど一生関わりのない場所でもある。ならばそんなもの御伽噺と同じよ」
「そうなのですか」
「そのくらいの気持ちで関わっていた方が良いと言う意味だ。好奇心猫を殺すと言うではないか。所詮噂話と愉しみ半分で聞いているのが一番いい」
妻は柔らかいが芯の強い目線で自分を見ている。
「旦那様、何かあったので?」
「何もないがな。何れ上の話。関わるにしても無視を決め込むにしても、考えて間合いを計らねば面倒だと、そう思うただけだ」
西館のこの騒ぎ、無論御山様もそれなりに気に病んでいるらしい。さてそれに仕える身としては、栄達に利用する為関わるか、はたまた無難に看過するか。
悩むまでもない、自分は後者の者だ。
「でしたら私ももう申しません」
「まあ、うむ。それが一番良いのだろうな」
ずるりと洟を啜った。深更近くなって更に冷え込んでいるようだ。
「昨日は雨だったがそろそろ雪になるのかも知れん」
そっと話題を変えた。
妻はこんな自分を頼りなく思っているに違いない。
「そうですねえ。すっかり冷え込んできて」
薪が爆ぜた。
妻は火箸で少しでも火を強くしようとあれこれ薪を動かす。
「もう少しくべようか」
「いえいえ、勿体のう御座います」
「しかし寒くはないか」
「平気です」
「そうか」
郎党はもう寝たものか、離れは静まり返っていた。
轟、と風が鳴った。
「旦那様はそうしたものを信じなさるのですか?」
「そうしたもの? 亡者か? 幽霊か」
「はい」
「信じておるな、一応は。ただ結局信じるも信じぬも話に聞くばかりで見たことがないのでな。お前はどうなのだ」
「私は、そうですねえ。そうしたお話は好きですけれど、実際に目にしたら矢張り怖おう御座います」
「好きなくせに怖いのか」
「好きなことと恐れることは別で御座いましょう?」
「そうかな」
「怪談は聞くだけだから愉しいのです。話の当事者ではまるで愉しくありませんわ」
「そうだな」
と答えて、西の館のことを考えた。
まず有り得ないだろうが、蝋燭の火を本当に亡者が消して回っており、且つ館の主がそうした幽けき者たちの存在を信じぬ者だとしたら、館に仕えている者らは西様に怪しいと疑われた順から延々に殺され続けることとなる。
さりとて無闇に殺されては館の者とて堪るまい。
「殺された侍女が真犯人だったことを願うのみなのだろうな、館の者は」
どうやら西の館のある方へ顔を向けている妻にそう言った。
妻は侍女がねえと極小さな声で言い、続けて、
「逃げ出しませんか、館の者は」
と尋ねてきた。
「ん? ああ、幾人かは闇夜に紛れ遁走したそうだが何分季節が悪い。矢張り逃げても逃げる先のない者が殆どだ。何時殺されるかわからぬ恐怖か、野垂れ死にの覚悟か、どちらかを選ばねばならん」
妻は、桜はどうするだろうか。
若し自分が錯乱したとしたら。
それでも野垂れ死によりはましか。今の世に在りこの貧国に在って、家が有り食うに困らぬだけでも有り難い話なのだ。
「西様はどうして侍女をお疑いになられたのでしょうね」
「そこまでは知らんよ。しかし、疑われるには疑われるなりの行動を取っていたのだろうな」
そんなこと今更口に出して言うまでもないことだ。それでも妻より上に立っていたいと常に願う自分は、妻の一言一言に何か言葉を被せずにはいられない。
妻は早々に自分に良考のないのを看破し、やがてふむふむとおのれの考えに没入してしまった。
茶の替わりが欲しかったが中々言い出せなかった。
隙間風がいいだけ膝頭やら足先やらを冷やす。
「寝るかな」
ぼつりと言う。
その声に妻ははっとし、ああお茶はもう宜しいですかなどと今更なことを言うものだから少し不機嫌になって、
「いや、もういい」
と言って立ち上がった。
もう一度風が鳴った。
翌朝、払暁の薄闇の中起き出して妻に手伝わせつつ出仕の支度を整え、いつもそうであるように一度大きな溜め息を落としてから外に出た。
外はうっすらと白かった。
雪ではない、霜が降りたのだ。
それでもぼんやりと眠気に包まれていたのだが、流石に目が覚めた。
あっという間に鼻の先やら耳の先が痛くなる。
見れば幼い頃からこの家に仕えている年配の郎党がせっせと薪割りをしていた。
「なんだ、薪の備蓄が足りんのか」
頭の毛がほとんど白い。一体幾つになったのだろうと思いつつそう声を掛けた。
「あ、旦那さん、お早うさんでやす。寒いですな。いえね、逆なんでさ」
「逆とは?」
「薪用にと取っておいた木が余り気味でやして。だもんで売っ払って少しでも米でも銭でもこさえようかと」
「薪を売るのか? 山に入ればいくらでも獲って来られるものを一体誰が買う」
言うまでもなく周りはいいだけ山である。
「何、こんな村でも、薪拾いも薪割りもやりたくねえ。だけれど金はあるってモンは存外多いです」
郎党は汗だくで湯気まで出して笑う。
「しかし幾らにもなるまい」
自分がそう言うと、老いた郎党は汗を拭う手を止め暫時我が顔を眺めた。
「はあ。確かに幾らにもならんです」
「ふん。それほど我が家の家計が逼迫してるわけでもなかろう。行ってくる」
立ち話をしていても体が冷えるだけだ。早く出仕して帰宅するのがいい。
だからそんな自分の背に、馴染みの郎党が溜め息を投げ掛けているのにはまるで気がつかなかった。
知らぬと言うのは多分幸せなことなのだ。
そして我が狗賓家に残雪が現れたのは、自分が登城している頃だった。
その時妻は洗濯物を干していたそうだ。
今朝方はあれほど冷え込んだと言うのに午近くには陽は燦々と照り輝き、まるで春の如き陽気となった。
いつものように、今朝に薪割りをしていた郎党の妻と二人で庭いっぱいに下穿きやら寝巻きやらを干していると、
「桜様」
声を掛けられた。
見れば生垣の向こうに酷く顔色の悪い男の顔が覗いている。
妻は兎に角男の銀髪に目が行ったのだと言う。
なんと珍しく、なんと美しい髪をしているものか。
平素実の母のように慕っている郎党の妻に袖を引かれるまでぼんやりとそんなことを考えていた。そんなであるから、目の前の男が何故自分の名を知っていたのかと言った疑問は終ぞ浮かばなかったようだ。
「何か御用でしょうか?」
「外堀を埋めに罷り越した迄」
「はい?」
何かが怪しいと気取った郎党の妻は、さっと踵を返すと足音を立てて屋内に上がり込み何処に居るとも知れぬおのれの夫の名を何度も呼ばわった。
「私残雪と申します」
残雪は生垣の向こう側に立ったまま空を見上げている。
「雪でも降るかと思ったが、今日は暖かい」
「ええ。とても良いお天気で。お陰で洗濯物が干せます」
妻は抜けているわけではない。それどころか人の何倍も聡いところが多くある。しかしどうにも、対人に就いては見ていて冷や冷やする対応をとることが往々にしてあった。無論見ていたわけではないが、この時も恐らくそうだったのだろう。
残雪は正十郎殿は家においでかと訊いたそうだ。ぬけぬけと。居ぬ間を見計らって来ているのだろうに。
「生憎主人は蔵座城に行っております」
綺麗なお顔でしたけどねと、妻は脳裏に残雪を思い浮かべているものか上の方を見つつ言った。何の、細いばかりで青っ白い、男振りも微塵もない奴だ。
「どういった御用でしょうか。もしあれでしたら家にお上がりになってお待ちになられますか?」
「お言葉に甘えさせて頂こう」
妻はほぼ躊躇なしで残雪を家に上げてしまったらしい。その後やや置いて手に手に得物を携えた郎党らが残雪の居る部屋を息を殺して囲んだことを、その時の妻は知らない。
残雪は妻の淹れた熱い茶を矢鱈に早く飲み干すと、魚里の生まれだとかと口を開いた。
魚里は日輪中西部の古い国。確かに妻はその土地の生まれである。
「…まあ、よくご存知で」
そこでやっと妻は目の前の男の底知れなさを気取り緩々と戦慄し始めた。
「満ち足りておいでか」
「は?」
「今の生活に満足しておられるのかと訊いているのです」
「え、ええ」
「御冗談を」
「え?」
「日々の食に困らず、雨風夜露を凌げる家がある。ただそれだけだ」
「それが何より大切ではありませんか。それ以上を望むなどバチが当たります」
そうだ。世の中には常に食うや食わずで、飢えや寒さで野垂れ死ぬ者も多いのだ。
「罰などつまらぬことを」
「え?」
時々声が酷く聞き取り難かったそうだ。
自分が残雪と会話した時は、矢鱈に耳に残る声に聞こえたものだが。
「綺麗な服、美しい飾り、美味い酒、そうした物は欲しくはないと仰るか」
「それは欲しくないではないですけれど…人には分相応と言うものが御座いましょう」
「殊勝な心掛けで」
「はい?」
「しかし無欲は美徳ではない」
「あの」
「いや、いいのです。桜様が満足していると言うなら私などがとやかく言うこともない」
「ええ」
しかしと残雪はわざとらしい間を置いた。
間とは魔であると言う。
妻はその時目こそ庭に揺れる洗濯物を見ていたが、どうにも落ち着かない気分だったそうだ。
遂には、
「しかし何でしょう?」
尋ねてしまう。
「蔵座国主をどう思われる」
しかし妻などの問いは簡単に聞き流されてしまう。
「三光坊様…」
「三光坊頼益」
「そのような、呼び捨てなど…」
「不遜とでも」
「いえ、否あの、不遜と申しますか危のう御座います。何処で誰に聞かれているかも知れず」
そう。妻は残雪の不用意な一言が我が家に累を及ぼすことのみを懸念している。
当然だ。
「今更私などが言うことではないが、この国の一から十その全てを取り仕切っているのが三光坊家」
蔵座とは三光坊の別称だとも言える。
この山間の小さな国と主家は切っても切り離せぬものである。
建国したのは某と言う者らしいのだが、何時の頃だろうかこの国は三光坊家のものとなり、この国で木を一本切り倒すにも主家の許可が要る。あまりにも昔からのことであるので、今更そのことを疑問に思う者もおらぬ。
「皆鬱陶しくは思っても、この国に在る以上寄り掛からねば生きて行けぬ」
「鬱陶しいだなんて、そんなこと…」
「皆が皆その事実を理解しているのならいいのだが」
言いつつ少し座相をずらす。その時に残雪が丸腰であることが知れ、流石の妻も微かに安堵したようだ。
「あの、主人ですけど」
「どうやら正十郎殿からは、私のことは聞いておられないようだ」
「え?」
それは後悔している。しかしこのような展開、どうして想像できよう。但し、前以て残雪の話を妻に聞かせたところで果たして対処の仕様があったろうか。
否。その目に付く銀髪を見掛けるなり水でも掛けて追っ払うが得策だったかも知れぬ。
「このままでは共倒れだ」
「え? 共?」
「近くこの国に堕府が侵攻する」
「堕府とはあの堕府でしょうか。侵攻?」
「繰り返すが盟を結ぶのではない、侵攻だ」
「あの…」
どうしてそのような話を自分にするのか、妻はただただ不思議だったそうだ。無理もない。
「大都である堕府は、日輪でもっとも強大な軍を持つ。此処のような小国など簡単に捻り潰すことが可能だ。蔵座がその国難から逃れる術は、隣国にして軍事強国である七鍵に支援を求めること。だが」
「え、ええ」
「頼益は七鍵が嫌いだ」
「…あの。嫌いと申しましても、仮に本当にのっぴきならない状況であるなら、そのような」
「頼益は暗君でこそないが、一国の主と言う意識に薄い。そして残念ながら国を守る知恵も力もない。悪と言うならそれは悪だ」
「何故御山様は七鍵がお嫌いなのです?」
「その昔七鍵に天下に名立たる美姫がいた。頼益はその姫を我が嫁にとそれはあらゆる手を尽くした。だが結局美姫は日輪中部の国に嫁した」
「その話ならば聞いたことがあります。確か七鍵国主の姪に当たられる姫御前であられたとか」
「それが未だに許せないのだそうだ」
「ですが上に立つ方々にとって婚姻は同盟と同義でしょう? こう言うのも何ですが…」
「そうだ、当然だ。何も好き好んで此処のような辺鄙な国と盟を結ぶ必要はない。しかし頼益にはそれがわからなかった」
結局は愚かなのだなと残雪は独りごちた。
「愚かであるからこの国が滅ぶと? 堕府に潰されるとそう言うことですか」
妻は幾分冷静さを取り戻し茶の替わりを淹れた。話が大き過ぎて冗談にしか聞こえなくなってきているせいかも知れぬ。
「何れにしても私になさるお話ではないようですね。いえ、主人とてそのようなお話に関わるような官職に付いているわけでもないですけども…ええ、まあ」
残雪は傲然と言い放つ。
「いやいや。堕府の侵攻からこの国を救うには正十郎殿が必要なのだよ」
また近いうち訪れる、正十郎殿に宜しくと言って残雪は片膝を立て、立ち上がりしな淹れ立ての熱い茶を一息に嚥下した。
一人残された妻は考える。
堕府から蔵座を守るのに自分の旦那が必要な理由。
まさかあの話は本当であったのか、と。
帰宅して暫くは混乱の極みだった。
妻を筆頭に家の者が代わる代わる我が許に来てはああだこうだと昼間の闖入者に付いての見解を述べる。その都度どうするのだ、言うことを信ずるのかと問うてくるものだから最後の方は辟易してしまって、取り敢えず飯を喰わせてくれと半ば懇願するような恰好で話を断ち切ったものだ。
しかし堕府が攻めてくるとは。
初見時残雪が自分に愉しくはない話をしようとしていたのは果たしてそれだったのか。
話が大き過ぎてとても信じられたものではない。その上こちらには残雪を信用する材料は一つもない。
尤も残雪にしても、自分などを陥れて得するとは到底思えない。
「外堀を埋めると、そう言ったのだな」
妻はいつものほのかに明るい表情に戻っている。自分の問い掛けに目顔で小さく頷く。
「どういう意味だろうな。まるでわからん」
今日の夕餉は干した川魚を一度素揚げにし辛味の強い蕪と一緒に炊いたもの。それに粟飯と香の物、味噌汁。
味噌汁を一口啜り人心地ついた気がして天井を見上げた。縦横に架けられた太い梁が闇の中にぼんやりと見える。
食と家。
それ以上に何を望む。
栄進か?
それとも単純に金品か?
どちらも要らぬと言えば嘘になる。しかし身を危険に晒してまで得ようとは思わない。残雪の言うのが虚であれ実であれ、恐らく彼の男の口車に乗って何かを得ようと目論むのは危険なことなのだ。それぐらいは幾ら自分でもわかる。
味噌汁の実は零余子だった。秋にいいだけ獲ったものがまだ残っていたらしい。
「私は何だか怖おう御座います」
そう口を開いたのは妻である。表情こそ穏やかだが声の調子が若干暗い。
「怖い? それは当然だろう、何処の馬の骨とも知れぬ男を家に上げてしまったのだからな。自業自得と」
「違います。堕府が攻めてくるのがで御座います」
「そのような大法螺信じるのか?」
そう言う自分もそれに就いては未だ判断し兼ねていた。妻の手前そうも言えなかっただけだ。
「大法螺ならばそれでいいのです。妙な男に誑かされたと笑い話になるのでしたらそれで…でもそうじゃない可能性、とでも申しましょうか。旦那様、お城で何かお聞きではありません? 何か噂のような」
「何も。まあ聞け。若し仮に本当に大都がこの貧しい国に攻め入ると言うのならな、御山様とて下らぬ強情は張るまいよ。何事も国の大事には代えられまい」
「ですが、七鍵に支援を申し込んだにしても彼の軍国は兵を出す代わりにそれなりの物を要求してくると思われます」
「まあそれも当然な話だな。それなりの物なあ、うむ」
行儀悪くねぶっていた箸を茶碗に置き、考える。
堕府には数では劣るものの、精強な軍兵と肥沃な土地、そして何より軍神と称される男を国主に擁する日輪北方圏随一の軍国は、果たして食うや食わずの者どもの集うこの貧国に一体どのような要求すると言うのだろう。
「そんなものお前、この国一国差し出しても足るまいよ」
「ですから。堕府に侵略されようと七鍵に支援を求めようと、何れ蔵座は今の蔵座のままではいられないのではないですか」
「ああ成程。しかしだな、本当に旨味がないぞ、このような国を奪っても。まあ、堕府がこの国を手に入れたいと望むのだとしたら、愈々七鍵と事を構えるつもりなのかも知れんがな」
「さあ、それはわかりません。所詮他所の国の他所の方の考えていること、一体どのような思惑があるのやら」
「おいおい、すっかり残雪の言葉を信じているような口振りだな」
そう気に病むな、狐にでも騙されたと思って忘れろと言って酒を要求した。
妻は小首を傾げながらゆっくりと立ち上がり、
「確かに顔は狐の面のようでしたけど」
と言って酒を取りに行った。
その背を目で追い、自分で言っておきながら無駄に思考を連ねる。
何の為に現れた。
何故自分なのだ。
外堀とはなんだ。
幾ら考えても無駄なことはわかっている。
この場合、妻にそう言ったように騙されたと思って笑い話とするか、残雪をとっ捕まえて真意を問い質すかしか、今の胸のもやもやを解消する術はない。
「待てよ。…否、それは」
普段考え慣れぬ者が思考の深みに嵌まると往々にして突拍子もないことを思い付く。
腕組みをし、暫時黙考する。
家の裏手側の森で山鳥が乞々と鳴く。
まさか残雪は、こうして自分に様々に考えさせ、一番恐ろしい答えを導き出させるが為に敢えて中途半端な物言いで立ち去ったのではないだろうか。
しかし何の為に。
愚考は止まぬ。
酒はまだだろうか。冷やしか飲まぬ故支度に手間取ることもない筈だが、何やら奥の間で物音がしている。
まさか残雪が闇に紛れ侵入してきたかとおのれの考えに一瞬冷汗の出る思いがしたが、特別理由もなくそんなことはないと思い直した。何のことはない確認に行くのが億劫だっただけだ。
それでも横着ながらも首を伸ばし奥の様子を窺おうとするが、如何せん光量に乏しくまるで見通せない。
物音は止んでいる。
横目に闇を見、不図堕府のことに思いを馳せた。
伝え聞いた話では、大都では歌を聴きながら酒を飲むのが流行りなのだそうだ。飲み屋すら存在せぬ蔵座に居ては、其処がどう言った場所なのか想像すら出来ぬ。歌とて此処で言う木遣りだの童歌だのとは違うだろう。
何となく煌びやかな世界なのだろうと乏しい想像力で思った。まるで稚児の描く戯れ絵のような世界しか想起できず鼻から息が漏れた。
妻が戻った。
盆に愛用の素焼の徳利と、真桑瓜の皮を味噌漬けにした物に軽く七味唐辛子を振ったのを載せている。どうやら酒の肴を支度するのに時間が掛かったようだ。確かに自分はあまり空口で酒を飲むことがない。
妻が再び落ち着くのを見て口を開く。
「桜、もし自分がだな、やんごとない血を引いているのだとしたらどうだ」
「ええ。それでしたら残雪と名乗った仁の狙いも何となくですがわかりますわね」
「そうよな。例えば、今は零落してしまった我が身を押し立て、現主君に代わって蔵座を支配しようなどとな」
鼻歌でも歌うようにそう言って、手酌でぐい呑みに酒を注ぎ入れた。妻は他のことには割合気端が利くのだが、どうも旦那に酌をすると言う頭は完全に抜け落ちてしまっているのだ。
「旦那様を押し立てて。何だか大変な話で御座いますわね」
「ああ、うむ…」
「どうかなさいました?」
「いや」
まだ幼かった或る日、平素岩の如く動かぬ父が珍しく酒に酔い一度だけ愚痴る様に言った言葉を思い出していた。
世が世ならこの国は我が狗賓の物であったろうに。
父は三光坊家を憎んでいた。その理由は、先の言葉から推して知るべしと言ったところか。
ただそれはそれだけのもので、自分も長じて後にあの言葉の真意を問い質すことはなかったし、父もまた家族を前に改まって語ることはなかった。
過酔に乗じて発した言葉です、外で他言なさらぬようにと母に何度も口止めされたのをよく覚えている。幼い頃は兎に角父の言葉の意味よりも、その時の母の真剣な眼差しやら眉間に寄った皺がとても恐ろしく思えて何度も頷き約束したものだ。
さて今になって思う。
矢張り我が狗賓家は、その昔(恐らく途方もない昔)蔵座建国に深い関わりのある家であったのだろう。尤も確かめたくとも確かめる術はもうない。否、土蔵でも漁れば文書の一つでも出てくるかも知れぬ。
と其処まで考えて、何を考えていると自嘲した。
あんなもの父の戯言である。本当であったとしてもそんな事実、今のこの国、今の我が家にとっては禍しか呼び込まぬ。だから残雪がどのような思惑で自分に接近しているかは知らないが、何れ無駄足なのだ。こればかりは揺るがない。
ずるりと酒を口に含む。
少し若い感じがするが、鼻に抜ける香りが何ともふくよかで後味は女性的である。
「いい酒だな。貰い物かな」
普段飲んでいるのは郎党手製のどぶろくである。
「それは残雪さんの土産ですわ」
「なんと」
驚きのあまり飲み下してしまった。思わず口に手を当てる。
「そ、そう言うことは早く言え!」
「まあ。まさか毒でも」
「正体の知れぬ男の土産など、安心できんではないか」
「ですが、大丈夫で御座いましょう?」
「む…」
不味い酒ではない。それどころか好きな味である。捨てるには惜しい。
「ま、まあ、大丈夫なようだがな」
などと言って残りを飲んだ。妻はくすりと笑った。
先から頭を巡る愚考のせいか、頬が火照っている。
何を昂ぶっているのだろう。
残雪の出現に因って忘却の彼方にあった過日の亡父の戯言が俄かに現実味を帯びたに過ぎぬ。
それでも佳醸を口に含んだ今だけは、暫し夢のようなその話に心を遊ばせるのも悪くないのだろうか。
どうせ日々は変わらぬのだし、どうせ日々を変えぬのだし。
不変に拘泥する性格であるのに、頭の隅では明日土蔵を調べてみようかなどと考えている。我ながら危うい兆候だと思うが、何の、暇潰しだ。
「残雪はまた来ると言ったのだな」
段階を踏んで自分を口説き落とす肚だろうか。残雪は信じているのだろうか。それとも自分の知らない何かを得ているのか。
「はい、また来ますと」
「そうか」
手酌で二杯目を注いだ。鼻に届く芳香が実に心地よい。
「桜よ」
良い酒に気も多少大きくなり、言わずともよいことを口走る。
「もし自分が、この国の王だったとしたらどうする?」
「私もそれを考えておりました」
「何?」
「覚えておりませんか。この家に嫁いだ夜、旦那様は私に狗賓の血筋の話をして下さいました」
「何と。何と言ったのだ」
まるで覚えていない。
「ええ。手も握らず、同衾こそしておりましたけれど」
「それはいい。何と言った?」
「あ、はい。ただ、昔父が言っていたと。世が世ならこの国は狗賓の物であったと。私はどう答えたものかそこは覚えておりません。何せ殿方と閨を共にするなど初めてのことでありましたし…まあ、当然の話ではありますけど」
「よ、酔っていたのだったかな」
「いえいえ、祝い酒こそお飲みになられてましたけども、お酔いにはなられてませんでした。ただ、自分は今の生活に満足しているとは仰っておりました」
「そうか」
「はい」
矢張り覚えていない。
一度妻の顔をまじと見、妻に見返されたので目線を徒に床に這わせた。
「戯言よ。忘れよ」
「はい。あの時も最後にそう仰っておりました」
「ふん」
何ともいい気分だったのが途端に冷めた。
妻を娶った十年前から自分は何一つ変わっていないようだ。
それから取り留めのない話をし、やがて夜は更けた。
翌日いつものように城へ行くと、何やら空気がざわついていた。
西の館で三人目が殺されたと言う。