(結)
鉛色の空。
ひとひら。
冬の花弁。
燃え立つ焔のごとき緋色一色の衣装を身にまとった女は、この国の美徳のひとつである楚々とした装いを嫌うかのように、襟元を寛げ、生足を晒し、大股にて腕組みをして立っている。艶やかな黒髪はたくし上げられ形のいい頭頂のあたりで実にいい加減に纏められていた。そこに突き刺された紅い箸もまた、この女の常識にとらわれない奔放さを表している。もっとも普段、おのれを殺すことに神経を砕いているがゆえ、仕事から離れているときはいいだけ好きに振舞いたくなるのは仕方ないことだ。
雪が降っている。
村の外れの朽ちた祠の前に立ち、ひとを待つ。逢引だったらどれほどいいか。愛しい男と逢うのであれば、この降りはじめた雪とて鬱陶しいものではなくなるだろうに。
「待たせた」
振り向くと銀髪の男。
残雪である。
「石切をどう撒いた」
それはつい数日前までともにいた男の名。
「奴が山ン中でババひってる間に捨ててきたわ」
女はけらけらと哄笑した。確かに楚々とした女を形作るよりも、こうして野放図にしているほうが女の魅力が引き出されるのかも知れぬ。
残雪は目の色を殺したまま空を見ている。
「雪ね」
「明日の昼までは降り続くそうだ」
「へえ。あんたには未来が読めるの?」
「それができれば苦労はない」
「そうね。あんたがそんな能力者なら喰らい付いて絶対に離しゃしない」
「私が嫌いなのだろう」
「どうだっていいわ。ともかく暖かいところへ行きたいわね」
「寒いのは苦手か」
「厚着が嫌いなのね野暮ったいから」
そういって女は長い首に絡んだ遅れ毛を払った。
残雪はいまだ空を見、女は蔵座の国の全貌を見た。高所から眺めずとも山の辺にひっそりとある小国は一望できた。
「わたしが生まれたとこよりはましだけど、ここも小さな国よね」
「なればこそ私の意のままになった。まともな国ではこうはいかぬ」
珍しく殊勝なことをいう残雪の尖った顎のあたりを物怪顔で見つめながら、女はまた小さき国を見る。
「管狐、堕府へ行くぞ」
「あんたやっぱり堕府の人間?」
「最初からそういっていたはずだが」
「だってあんた嘘吐きじゃん」
マア堕府に行けるのは嬉しいけどねと紅い女、管狐は首を曲げて微笑んだ。褐色の肌に白い歯が映えて、婀娜っぽいのだか健康的なのだか判断に迷う容貌である。
「堕府に行ったら服買わなきゃさ」
やや掠れ気味の鼻にかかった声。
残雪は返事すらしない。
しばらく風の匂いでも嗅ぐかのようにしていたが、やがて口を開いた。
「これからもよろしく頼む」
管狐とは腕利きの情報屋として日輪の暗部で知らぬ者はいない名である。情報屋とは読んで字の如し、情報を商いしている者のことをいう。
「勿論。あんたは金払いのいい上客だもの。で、待ち合わせは堕府のいつもの店?」
残雪はああと小さく返した。
「もっとも私は、ここからまっすぐ堕府へ向かうかはわからん」
「それはわたしも同じよ。だから落ち合う場所を決めてんじゃない」
「供に堕府へ向かえばそんな面倒なことをしなくても済むがな」
「冗談でしょう」
残雪は笑いもせず懐から麻の巾着袋を取り出した。中には管狐への報酬が入っている。
「毎度どうも」
管狐は両手でそれを押し頂くと、ほくほくとした笑顔でしまった。
「石切に付いて七鍵にいることもできたはずだが」
「なにいってんの。あの人七鍵に行っても居場所ないんでしょ? あんたがそういう風に仕向けたんじゃない。知ってるんだから」
そして管狐はまた蔵座を眺めた。名残惜しいのだろうか。やがてぽつりと、城だけは立派よねといった。その言葉にどういう意味があるのかは知れず、残雪も真意を問うことはない。
「狗賓に任せて大丈夫だと思う?」
「まず無理だな。無能だ」
「だったらどうして国主になんかしたのよ」
「蔵座の継続のため」
「だから無能なんでしょう?」
「無能だが良血だ。加えて信念がない」
「信念ってないほうがいいの?」
「あるだけ邪魔だ」
「まあ、あんたみたいな人間にとっちゃあねえ。とにかく、あの表六玉は動かしやすそうだったってことでしょ? それで何。国の中心暗愚から無能に挿げ変えて消えるって、超無責任よね。結局あんた、自分の腕試しがしたかったってこと?」
一度大きく強く風が吹いた。
思えばはじめて狗賓正十郎と残雪が顔を合せたときも強い風が吹いたものだ。
「それでも最後には、狗賓はあんたに心酔してた。いいように扱われているとも知らないで。考えてみれば可哀想なもんよね」
自分とて石切彦十郎を騙していた、とは管狐は思わない。あの手の男に対して抱く罪悪感は女にはなかった。
つ、と管狐は片方の眉尻をあげた。
「あんたまさか、妙に懐きはじめた狗賓に蔵座を去るのを引き留められないよう、あんな大袈裟に処刑の状況作り上げたんじゃ」
残雪はたっぷり間を置く。
そして、
「考え過ぎだ」
とだけいった。
やがて残雪は大都のあるほうへ歩き出す。
管狐はそれでもわずか緊張していた肩の力を抜き、追う。
「それで、どうして無能で信念もない男を国主になんてしたのよ。蔵座を潰すつもりはないんでしょう?」
残雪は歩くのが早い。
管狐はやや小走りにその背を追い、声を投げる。
「潰さぬために狗賓が必要だったのだ」
「だから」
一瞬、鈍重なる雲間から夕陽が差し込み管狐の虹彩を焼いた。視界の暗が鮮烈な朱に染まった。
「子がないのもいい。権勢の嗣子相承など本来下品極まりない所業である。尤もまだ若い故今後はわからんがな」
「持論はいいからちゃんと話してよッ」
「それは生業ゆえか。それとも興味か」
「どっちかといわれたら、ん~。興味」
ふん、と残雪は鼻から息を抜く。歩速は緩めない。
「民衆主体の政治を行って後、国家はどういう変化を遂げるか」
「え? よく聞き取れなかった」
「狗賓は信念も思想も哲学もなく、それでも血脈だけは大層な男。そうした実験を試行するにあたりこれほどの好材料はいない。これはな管狐、新しい支配体系の実験なのだよ」
「新しい支配体系って、民衆が選んだ国主による政治?」
あの処刑劇のあった日、日輪にて初の試みを行う宣言がなされた。それを初めてのことと識知している者は極僅かである。
「実際選ぶ選ばぬはそれほど重要ではない」
「そうなの?」
「大切なのは国民に、自分たちの意思が国を動かすのだということを理解させた上での国家運営である」
「よくわかんない。それで結局狗賓が国主になって何がどうなるわけ?」
「私は先ず堕府の中枢に赴き新しい政治思想を試したい旨持ち掛けた。あの国も代替わりの多い国、私の提案は割合すんなりと受け容れられた。尤も私が最初に取り入ったのは堕府でも穏健派といわれる人物だったのだが、その人物から、新しい政治思想、民意反映型とでもいおうか。それを試すに協力するを吝かではないとの言質を得た」
「それで蔵座?」
「蔵座だから選んだのではない。求めていたものが大抵揃っていたのが偶さか蔵座であっただけだ」
「ふうん。求めていたものって狗賓?」
「狗賓であり頼益であり、士官の能力、兵卒の練度、兵数に兵器数、城の防御能力、国の富裕具合、民衆の意識、」
「ああいい、いい。全部聞いたってわかりゃしないんだし。ともかく、あの大国堕府ですら新しい国の在り方を模索してたってことなのよね」
「一部の者がだ。国政をある程度左右できる有力者ではあるが」
誰なのだろう。管狐はおのれの頭の中の堕府に関する情報を出し入れする。
「その有力者、あとで紹介してよね」
管狐は冗談混じりにそういうとやや早足になり残雪と肩を並べた。
「結局あんたは、蔵座の為に動いたんじゃないってことなのね」
「蔵座の継続を願うことに違いあるまい」
「だから、はじめに蔵座ありきじゃないっていうか。…ああでも」
管狐は歩みを止め、考える。そうしている間に残雪は遥か遠くへ。
「待ってよ。堕府が蔵座を狙っていたっていうのは? あれもあんたの捏造?」
管狐は小走りに残雪の白面を覗き見た。しかしまったくその内奥は読み取れなかった。
「ねえ。どうなの」
もし堕府が蔵座を狙っているのを知って、試験地として蔵座を推したのであるならば、人間としての残雪を見直す機会になるやも知れぬ。見直す必要もない癖に管狐はそんなことを考えている。
「堕府が蔵座を狙ってるっていうのは本当なのよね」
「ああ。それは今も変わらぬ」
「だからあんたは蔵座を推した?」
「私の真意がどうであろうと大勢に影響はあるまい」
まあそうだけどと管狐は口吻を尖らせた。
「…それでつまり、堕府は蔵座に手は出さない、堕府が手を出さないんなら七鍵も手を出すことはないだろうってことよねえ」
「歴とした証のある協定ではない。それでも堕府に侵攻される脅威は減ったはずだ」
「完全になくなったわけじゃないのね」
「当然だ。堕府の中枢とて盤石ではない。そのうえ所詮ひとの思い、いつ変わるかわからぬ」
「ひとの思い。ううん、あまり得意な分野じゃないわね。ともかくあんたは、蔵座で楽しいことするから潰すの待ってねって堕府の偉いさんを騙したわけよね」
「ああ。長期間を要する実験であるとな」
「少なくともあんたが約束した人間が死ぬか心変わりしない限りは蔵座は戦に巻き込まれる可能性が低くなったと。まあ知らず堕府に観察され続けるわけだけど。なくなるよりはましよね。観察者は飯綱か、それとも山寺の御坊様あたりかしら?」
「過ぎた好奇心は身を滅ぼすぞ」
「まあ仕事じゃないんだしねえ。で結局、あんたの目的って? なんか色々周りの話で誤魔化してるけどあんた自身の目的が知れないわ」
「気にするようなことか」
「気になるのよ、なんとなく」
残雪ははたと足を止めた。ほぼ真横を歩いていた管狐も前につんのめるようにして止まった。
「なに?」
「名を売りたかった、では駄目だろうか」
管狐は数瞬呆け、そして早口で駄目ねつまんないといった。
「そりゃ本当に売名目的のみで一国動かしたってんなら大したもんだけど」
「そういうことにしておいてくれ」
「だからつまんないのよ、そんないいわけじゃ」
ふたりは再び歩きだす。
騒乱でこそ人死には出なかったが、それでも今回の出来事の裏で幾人もの死者の出たことを管狐は知っている。本意不本意は当人でない故わかりはしない。しかし死に逝くことで咲く花などないと管狐などは思う。それは強く。
「あーほんと寒い。ねえ、西には永世中立を標榜してる国があるそうね」
「ああ」
「わたし堕府以南て行ったことなくて。南には燃やされた町があるってほんと?」
「ああ」
「永樂道って教団がこの頃流行りだとか」
「ああ」
「あーあーばっかで」
「厭ならば話しかけなければよい」
「あんたに依頼されて蔵座に前乗りしに行く途中でさ、冴えないオッサンに会ったのね。なんでもその人元々馬喰だったらしいんだけど馬連れてなくて。話聞いたらさ、まあ習性よ。職業病。で。オッサン蔵座の近くで命より大事な馬を盗られちゃったんだって」
間抜けよね。
息が白い。
残雪は黙然と歩を重ねている。
「だから山ン中でさ首くくろうとしたらしいんだけど。腰に巻いてた縄外してさ、手頃な枝見つけてさ。おらあが死んだら嬶も倅も生きて行かれないべななんてベソ掻きながら…ねえ聞いてる?」
相槌くらい打ちなさいよ、まったく極端なんだからと管狐は腕を組み頬を膨らませた。
気を抜くと残雪と離れてしまう。
「歩くの速いって。わたしの話は聞けないっていうの?」
「私がそれを聞いてどうなる」
「まあそういわないで。ともかく、オッサン愈々首吊るよってときにいきなり声かけられたんだって」
そこで管狐はひとつ咳払いをして声音を作った。
「蔵座を変えてやろう」
残雪は鼻で笑った。
「その声の主はその後もいろんな国を見て回り、結局オッサンとの約束通り蔵座を変えるために戻ってきたトサ」
「憶測でものをいわぬことだ。程度が浅いと判じられるぞ」
「どうでもいいわよ、商売じゃないんだし。でも残雪、結局あんたが蔵座を選んだ理由って、その首つりおじさん見かけたのが大きかったとか」
見かけによらず情に絆されるほうだったりしてねと、管狐は軽口で結んだ。
残雪は顔色変えず歩幅も変えず、やはり黙々と、そして颯々と歩いている。
「案外あんたの目的って、日輪統一とか? 麻のように乱れたこの国を平定し、永遠の平和を築かん…なんてね」
残雪は顔色変えず歩幅も変えず、やはり黙々と、そして颯々と歩いている。
鉛色の空。
ひとひら。
冬の花弁。
蔵座は冬。