(廿六)
騒乱掃いて後。
前国主三光坊頼益が遁走して数日を経、愈々蔵座主城の天守には狗賓正十郎が登ることと相成った。今まで正十郎に付き従ってきた郎党らは以前の児喰高明の担っていた位置につき、正妻桜も新国主の正室の位置へとすんなり納まった。因みに前国主、三光坊頼益の正妻は既に不帰の客となっていた。天守とは別棟で半身腐乱した痛ましい姿で発見されたという。その状況を頼益は知っていたか、それは今や藪の中である。それでも桜はその棟に起居するを厭わぬと涼しい顔でいったものだ。
蔵座国兵法指南役道了尊こと三光坊宵待は新国主の相談役として天守に常駐することとなった。これは新国主となっても変わらず煮え切らぬ態度の正十郎たっての願いであったそうだ。
三光坊宵待は、全身全霊をかけて蔵座を住み良い国にしていく所存であると、正十郎の面前で額ずいて見せたものだ。
折った両膝を張り、立てた踵に尻を乗せ、開ききった五指は蔵座の乾いた土を掴み、ざんばらであった黒髪を後ろに薙ぎ、さらけ出した額をも大地に突き落とし、涙混じりの雅声での、それは見事な平伏であったという。
或いは、おのれが好き勝手生きてきたことについて世間に対する謝罪であったのかもしれない。
主城の東の館にて重なるようにして見つかったふたつの遺体。このふたりがどうして死を選ばねばならなかったのか。それについて様々言葉は飛び交ったが、無意味で卑俗な憶測は如何せん持続力に乏しく、時なくして溶け失せるようにやんだ。
そもそもが東の住人は忘れられた存在。東様こと鈴蘭、そして伊福部福四郎の亡骸はひっそりと、それでも丁重に蔵座重代の墓所に葬られたという。
ともかく表面上は丸く収まった。
しかし蔵座自体はなにも変わっておらぬ。
大国間にある緊張も、干せ乾いた土地も。
それでもあの日、民衆の誰かがいったように狗賓正十郎を新たに中央に収めたこの国はなんとかなるような気がする。
歴とした後ろ盾があるわけではない。
依然蔵座は、背後も前方も何処を見晴らしても漠としていた。
その漠然とした国家にあって、蒼褪め、総身震わせながらも必死に立ち上がろうともがく頼りない新国主を、国民みんなで守り立てていこうと、蔵座はそうした国へと変貌するのだろう。
新国主はおのれの力不足を必要以上に自認しており、国民は自分たちに力のあるを知ったのだから。
ことのすべての起点となった男はあの日以来姿が見えない。
残雪は
「残雪様は旅立たれてしまわれたのでしょうか」
着物の緋が顔に映えて今日はいくらか調子が良いのかと思えてしまう。しかし、全身から発散される倦怠感と病人特有の臭気があたりに充満していた。
「飴買、残雪様は」
「すみません、わからない」
もう本当に時間はないのだろう。
飴買鴻は桔梗を直視することができない。
この顔も、
この声も、
永遠に失われるのだ。
今の蔵座は、はたして桔梗の望んだ蔵座であるのか。
そうした飴買の意を汲み取ってか、
「わたくしは満足しております」
桔梗はいった。
切れ切れの掠れた声。
それでも甘ったるい。
「これで良かったのか」
「はい」
飴買は今、丁寧な語を話す時間すら惜しいと思っている。
桔梗の長い睫は濡れたように艶めき、熱もあるのだろう目の縁は紅い。
「皆でよくしていくのでしょう」
これからです、これからと桔梗は自分にいい聞かせるように呟いた。仮にもその、よくなった蔵座とやらを桔梗は見ることはないのだ。
飴買は気の遠くなるような思いを寸でのところで抑え込み、やや距離を置いて立つ女を見た。
愛しいというならこれ以上あるだろうか。
狂い死にしそうだ。
「桔梗様」
休んだほうがいいと繋ごうと思ったが不意に酷く無為な心持ちとなる。本当に目の前の女の命は残りわずかだろうからだ。今体を休めたところで、それはもう些細な気休めに過ぎない。
ならば。
抱きとめて死出の旅へと送りだすか。
千代千代と山鳥が啼いている。
飴買は半歩だけ桔梗に近寄った。
桔梗は痩せ細った指を出す。
「残雪殿はおそらく、その先に興味がない」
「その先?」
指先は指先と絡む。
「おのれの頭の中の理論や理屈を実地で試したかっただけだ。そして蔵座もまた、あの男の言葉に乗り、僅かなりともより良いと思える地平を手に入れたかった」
たとえ待っているものが真闇であろうと、自らの意思で切り拓く往く先のほうがいいとこの国の民衆は選択したのだと、飴買も、そして桔梗も認識している。もしかすると民衆個々の思いは違うのかも知れず、そのようなこと考えても詮方ないことなのかも知れず。
ぎう、と桔梗は飴買の手を握った。
飴買は過敏になっている。
吐息がもれた。
涙が。
「桔梗、様」
「鴻、今まで本当に」
「やめてくれ。礼など…」
「鴻」
飴買の冷たい仮面に滴が落ちる。
握った手のひらから桔梗の命の鼓動が伝わってくる。
それは気が遠くなるほど緩やかで、気を失いそうになるほど弱々しい。
「こっちを向いて」
はたして飴買の想いは桔梗に伝わっているものか。
いや。
想いなど、思いなど。
おのれの思いですらおのれ自身で識知しきれていないものを、どうして正確に他人に伝えることができよう。
コウ、みたび桔梗は名を呼んだ。
飴買は殊更緩慢に振り返った。
伝わらぬから人は幾万もの言葉を費やす。
それでも、
伝えるべき言葉が見つからぬのなら。
この狂おしい思いが伝わらぬのなら。
せめて触れ合って居よう。
せめてその唇を、腕を、
その身のすべてを抱きとどめて居よう。
飴買は桔梗の体を掻き抱き噎び泣く。
桔梗は飴買の頭を撫で穏やかに笑む。
「いやだ…貴女と離れたくない…貴女を失いたくないのだ…」
涙は次から次へと止め処なく飴買の幾重にも重ねられた仮面を剥いでは落ちていく。
「いずれ死ぬ定めなれど、わたくしは人を呪いました。報いは受けるべきでしょう」
「呪いなど貴方は…」
「ごめんなさいね、わたくしはもう、あなたと共に居てあげることができません」
「いやだ…いやなのだ」
飴買は桔梗の頬にむしゃぶりつく。まるで幼子が母の乳房をねぶるかのように。
「僕も、自分も死ぬ」
共に。
「永遠の愛を誓うのですね。なんて素敵なことでしょう。わたくしはあなたのその思いを持って旅立てる、それだけで十分です」
「桔梗…」
「鴻、あなたは死んではなりません」
「いやだ…」
「あなたにはまだやらねばならないことがあるのでしょう? それに、わたくしが蔵座の行く末を委ねられるのはあなただけなのですから」
「そんな話、」
もう時間もないのに。
「わたくしもとても寂しいのです」
「ああ桔梗…」
「それでも」
「嗚呼…天よ、どうして」
「それでもわたくしは」
「どうして」
「貴方に逢えてよかったと、そう思います」
「もっと早くこのひとと逢わせてくれなかったのだぁぁッ!」
飴買鴻は天に向かい、痛みに耐え切れぬ手負いの獣のごとき咆哮をあげた。
そして桔梗は、飴買に抱かれ、その胸の中で静かにこと切れた。
未練など人と繋がらねば生じぬもの。
死ぬことは禁じられた。
最愛のひとを今失い、目的も定まらぬ闇夜に放り出され、それでも生きるのだと命じられた男は、女の亡骸をそれは愛おしそうに、愛撫するように抱擁し、そして尚血を吐くほどに慟哭した。
いったいどれほどのときが経ったろう。
悼みはまるでひかぬ。それどころか時間を追うごとに弥増していくような気さえしている。それでも飴買は、幽鬼のように立ち上がった。
目指すは蔵座の城。
桔梗のいうとおり飴買には蔵座にてやらねばならないことがある。そして不甲斐なき国主を支え、守り立てねばならぬ。それが蔵座のためならば、それが桔梗の願いであるならば、捨て去るつもりだった飯綱の面を再度被ることなど造作もないことだった。
飯綱が立ち去るのと同時に泣き顔を袖で覆った女たちが桔梗の抜け殻に群がった。泣きながらも女たちは西の館の女主を送り出す手筈を滞りなく整えることだろう。
もう西の館に飯綱の居場所はない。
元よりこの世におのれの場所のある者などいないのかも知れぬ。遍くそれは幻想だ。おのれの居場所など多分、自分で見定め、宣言し、守っていくものなのだろう。
後悔止め処なく。
いちを振り返れば二も三も、少しはましだったのではと思える考えが頭を過ぎる。あの時ああすれば良かった、こういえば良かったと。本来的に飯綱はそうした無為なる思考に時間を費やすことのない人間であったのに。これはいったいどうしたことだろうと若干の戸惑いを覚えるものの、桔梗の死に、おのれの根幹が揺さぶられるほどの喪失感を受けたのだということまでには飯綱は気づきはしない。
頼益が去り、東の館の住人は消えた。
やがて後背に佇む西の館も跡かたもなく消え失せることだろう。
其処に在った記憶諸共。
蔵座城には正十郎の姿はなく、天守には宵待の姿のみがあった。
「狗賓様は」
「ああ、飯綱か」
寝室に籠ってしまわれたと、宵待は苦笑しながら告げた。
「早々にお籠りですか」
「明日からすべてやる、きちんとやると申されてな。まるで稚児よ、先が思い遣られる」
「そのようなこと、最初からわかっていたではありませんか」
明かり採りの格子からは冬の風。それでも今日は幾分冷気も少し緩んでいる。陽も出ていないというのに。
「実質宵待殿がこの国を作るのです」
「お前が補佐してくれるのだろう?」
「はい、有能かどうかは知れず。そのつもりです」
「この国はどうにかなると思うか」
「無理にでもどうにかせねばなりますまい。そうでなくては貴方の嫌いなあの男に鼻で笑われてしまいましょう」
「俺の嫌いな男? …ああ」
そう答えて宵待は笑った。
「ところで飯綱、お前は何者だ」
「何者とは?」
「蔵座の生まれではないようだし、いったいどこから流れてきた」
飯綱は伏し目に、視線を横へ流す。特に意味はない、強いていうなら謀るのが少し面倒に思えただけだ。
もう二度とおのれの本性を見せようと思える者に出会うことはないだろう。そうした思いから飯綱は、
「無用な詮索はなさらないでもらいたい」
塵の積もった木の床に滑らせるように、小さく、とても小さくそういった。
宵待は鼻を鳴らし、さもつもらなさそうに外を見た。
「あ」
目線の先、遥か遠くには銀色の長髪を靡かせて颯爽と闊歩する怪人の姿があった。
「の野郎」
次の瞬間には宵待は天守の間を飛び出していた。
宵待の両肩の張った背を無感動な眼差しで見送り、飯綱は内耳の奥に残雪にいい含められた言葉を響かせる。
狗賓には子がない。
いずれ継嗣、次なる蔵座の王についての話題が紛糾することだろう。そのとき貴様は、狗賓が国主となった時のように、再度民衆に選ばせてはどうかと提案するのだ、と。
尤も残雪はこうもいっていた。
私が生きている以上、そうならなかった場合は再度蔵座を訪れるつもりでいると。
その言葉の裏側にどういった思惑があるのかは知らぬ。しかしそれでも、桔梗の願いを叶えてくれた残雪の言葉ならば従ってもいいと、飯綱はそう思っている。
それが蔵座の繁栄に繋がるのかとだけは問うた。すると残雪は、
「繁栄云々は知らん。ただそうすることで、蔵座が日輪の歴史から消え去ることだけは免れよう」
といったものだ。
人を喰ったものいいは本当にお手の物である。
その残雪の背を、宵待は追っている。
遠目に見える銀色と黒色。
飯綱にしてみればどちらの色も同じに見ゆる。どちらもおのれの思いだけで世の中を生きている、そんな色だ。
しかしそれは飯綱とて同様。
おのれの見たいものを見、欲するものを喰いして今まで生きてきた。この先もそれは根本的に変わらぬ。蔵座に居る理由だとて突き詰めれば桔梗への未練を永遠に燻らせていたいだけなのだ。
飯綱の中の飴買鴻は、胸の深奥に冴え冴えと横たわる甘美な刃物を抱き抱え、今を永遠に、愚直にこの山間の寒国を良き方向へと導いていくことだけを考える。
誰の為でもなく。
その髪色はどこへ行っても目立つのだ。
宵待は長い手を伸ばし、白い革の外套を引っつかむ。
「待て!」
残雪は別段驚くこともなく、酷くゆっくりと振り向いたものだ。
「逃げるつもりか?」
「やるべきことはもうない」
この先どうするかは蔵座次第だと残雪は繋げ、我が肩をつかむ猛禽の脚のごとき腕を払った。
「蔵座はまだなにも変わっちゃいない」
「当然だ。私はそのきっかけを与えたに過ぎない」
「なにを偉そうに」
「貴様は一度捨てた祖国で、再度国政の中枢に立ちたいと私に希った」
「そ、そんな風にはいってないはずだ」
「そうか。しかし私にはそう聞こえたぞ。もっと確りとおのれの意思を伝達する術を学んだほうがいいな」
「お、俺が悪いってのか」
「くだらん、いいの悪いの決めてどうなる」
問答で残雪に敵うはずもなく。宵待は唾棄するような仕草を見せて、結局いい淀む。その隙間に、相変わらずまるで感情の伴わないまま、そうだ折角だと呟き残雪は懐に手を入れ小柄を取り出し宵待に差し出した。
「ついでといってはなんだが、これを狗賓に返しておいてくれないか。私にはやはり無用のものなのだ」
宵待は幽かに面倒臭そうな顔をするも、割合素直にそれを受け取った。
「無銘だが悪いもんじゃない。もらっておけばいいものを」
そういわれて残雪は、薄く鼻で笑った。
「あの男は私を恨んでいるだろう」
「当然だ。結果がどうであれ、いっときは殺されかけたんだからな」
「なればこそ狗賓と再び会うことあれば、私を刺すにその小柄ほどちょうどいいものはない」
なにを、それはと宵待は言葉を探す。しかし所詮、残雪のごとき男に掛ける言葉などない。
「それで、私になにか用なのか。生憎人と落ち合わねばならない故」
そういわれると宵待自身、残雪に対して明確な用件があったわけではない。それどころか、今後一切関わり合いになるのをよそうとまで思っていたのだが。
「け。今までどこに隠れていたんだ」
「寺にいたが」
「ああ、寺か」
当然である。残雪の蔵座での滞在先はあの山寺しかない。
「あそこの叢原はな、空を読むことに長けている。なかなか使い勝手がいいぞ」
「空?」
宵待は曇天の空を仰ぐ。夜半には雪が降るかも知れぬ。
「天候だよ。尤も、先行きを読めるだけで晴れだの雨だの自在に操れるわけではないが」
「いや」
それが本当ならばこの先蔵座の大いなる助けとなろう。宵待は無意味に奥歯を噛んだ。
「行ってよいか」
いや待てと宵待は手のひらを突きつけた。
用件こそないが、いいたいことは山ほどあったはずなのに、こうして面と向かうとまるで要領よく言葉が出てこない。
「と、ともかくお前はろくでもない奴だ」
「そうだな。もういいか」
人が待っていると繰り返す残雪の目線の先に、寒村には馴染まぬ緋が一点。
「あれは…」
西の女? いや、違う。
「…見たことない女だな」
残雪は無言である。そして宵待に見切りをつけて歩きだす。
「おい」
歩みはやまない。
残雪は足音もなく颯々と歩く。駆け足で追おうとする宵待へ振り向きもせずいった。
「銭神には弟がいる」
「今更なにを」
忘れようとしていた名だった。
否。実際このところの日々の煩雑さに、綺麗に忘れ去っていた。その腕を切り落とし、結果命を奪ったというのに。否、だからこそか。
宵待の足は止まった。
短絡的なところはあるが、あの優柔不断の塊である狗賓正十郎と組ませるにはちょうどいいのかも知れぬ。
人格の良し悪しはまた別の話。
「精々寝首を掻かれんようにな」
そう言葉を残し、残雪は立ち去った。