(廿三)
「伊福部福四郎について聞きたい」
やや落ち着いて後、その宵待の静かな問いかけに桔梗はゆっくりと頷いた。少し呼吸が苦しそうだ。
「伊福部様は、下賤ないいかたをすれば鈴蘭様が好きだったのです」
「なんと。いやしかし」
「はい。宵待様はわたくしと鈴蘭様、そして御山様の関係はご存じでありましょうか」
その、どこか含みのあるいいように、宵待は中途半端な表情で口籠った。
「御山様。つまり三光坊頼益公は、我が父。鈴蘭様は我が母。加えて頼益公と鈴蘭様は実の姉弟に御座います」
突然の告白に宵待は大いに戸惑い頭の中を整理しようと一度瞑目し、すぐさま瞠目し、結果混乱した。
「わたくしは呪われた子」
此の世に落ちてはならない忌み児なのですと、桔梗は細い首を捻り、色の白い顔を横に向けた。
「なんとも、その。なんと申していいか」
宵待は半身もろくに持ち上げられぬおのれに酷く苛立っている。桔梗の身辺情報を整理するのを放棄する一方で、なにか気の利いたことをいわねばと気ばかりが急いている。
透き通るように白い瓜実顔が宵待を見下ろした。
「わたくしは血の繋がった姉弟の間に生まれた不義の子」
繰り返す。
「な、ならば頼益は、自分の子をその、めか否、側室に」
桔梗は果敢なげな笑みを見せた。
「頼益はそのことを知ってるのか?」
「正直わかりませぬ。いえ、もしかすると知っていて側室に迎えたのかもしれません」
「知っていても知らなくても、ろくでもないがな」
その通りですと桔梗は受けて、
「汚らわしい。我が身に流るる血がとても忌々しい」
と唾棄するように続けた。
「いや…」
「よろしいのです。わたくしはそれを受け入れるところからはじまりましたから」
ならば果敢なげに見えるはその決意が根幹にあるが故なのか。
しかし西の女桔梗とは、もっと屈託なく、もっと無邪気ではなかったか。さては記憶違いだったかと宵待は考える。そもそも宵待は桔梗とこうして面と向かうのははじめてのことなのだ。よもやこのような状況で念願叶うとは思いもよらなかったが。
「ちなみに鈴蘭様、我が母は自らと頼益公に血の繋がりがあることも知らなかったと聞いております」
その落ち着いた声音から推し量るに、桔梗から悪感情の発露は感じられない。
「床に臥しておられる方にする話ではないのは重々承知しておりますが、耳に入れるなら早いほうがよいだろうと思いまして。いずれ貴方はこの国を支配なさるお方」
「お、俺が? いや。まあそれは…。しかしその、鈴蘭さんはその、あんたを産んでおいてあんたが実の子だと知らなかったっていうのかい?」
「はい。元々子のできにくい人であったそうですが、昔わたくしを産んだときも、死産であったと偽りを信じ込まされたようなのですね」
「誰がそのような嘘を」
まさか残雪がその頃からこの国に関わっていたのかとも考えるも、桔梗は予想外の名を口にした。
「伊福部様です」
「…あの爺さんが?」
「実の弟との間にできた子です、先行きなど未来などないに等しい。それでも女であったことが幸か不幸か、蔵座の村落でも他国でも知らぬ場所へと落とし、貧しくとも普通に生きてほしいと」
結局宵待は痛みを我慢して上半身を起こした。仰臥したまま聞ける話ではない。
桔梗は敢えて諌止はしない。
「しかしアイタタあんたは此処にいる」
「はい。長じてから自分の出生を知り、様々考えた挙句」
「…知ったって、誰から」
「養い親の家に文が残っておりました。毎年幾らかのお金を送るかわりにわたくしを養育してほしい旨書かれた文です。養い親は元々は城勤めだったようで、伊福部様と多少は面識もあったようです。縁といえば縁ですね。わたくしは伊福部様を頼りこの国に戻ること叶いました。ですが」
愛妾の身。
「端から汚れた身です、子を成さぬならどうでもいいとそのときはそう思いました」
「そのときは」
「わたくしにはある思いがあったのです」
「復讐…かい?」
「そうではありません。憎んでいないといえば嘘になるでしょうが」
「しかし、いくらあの爺さんの紹介があったとはいえ、来歴もはっきりしないあんたをよく頼益は側室にしたな…まあ、わからなくもないが」
怪我で体は酷く弱っているのに、いやそれがせいか、宵待は目の前に端座する女をまじと見てやはり美しいと感じ入り、あまつさえ欲情した。
桔梗は宵待の色味がかった眼差しを受け止め、そしてさらりと受け流した。
「その頃は御正室様も今よりお元気であられましたし、鈴蘭様もお若く、それは美しくあられた。ですからきっと、新しいおもちゃが欲しかったのでしょう」
ただのおもちゃではない。
とても美しい、玩具だ。
「あんたはその、鈴蘭様とは似てはいないのかい?」
「似ているようです」
頼益は時折桔梗の顔を見てはなにごとか考えているような表情を見せていたそうだ。しかし桔梗に、その表情の意味を頼益本人に尋ねられるはずもなく、結果国主がおのれの実の娘と知っていて桔梗を側室にしたのかという疑問は宙に浮いたままとなった。
「わたくしはとにかく国の中枢に入ることをだいいちに考え、そして、この国を変えることのできる者とその時機を待ったのです」
「この国を変えるためにあんたは蔵座へ戻ってきたのか」
祝福されぬ生まれを作り出した張本人の側室となってまで。
「ただ蔵座に戻ってきてもどうにもなりません。でも確かな算段があっての行動でもありませんでした」
「たしかに国を変える気ならそれなりの立場に立たないとどうにもならんだろうが…。こういっちゃなんだが、この国はそうまでして守るような国かい? そもそも何をどう変えるつもりだった」
「いずれ訪れる外圧に屈するか、内から崩れ落ちるか、それはわかりません。でも遠からず蔵座は国として立ち行かなくなるのは火を見るより明らかではありませんか」
だから宵待は蔵座を守らなくてはならぬ。
「つまりあんたと俺の望みは同じってことなんだな。しかし俺はともかく…ってあんた、俺の素性は、ああ知ってるんだな」
「はい、存じております」
答えて、桔梗は両手を突いて深く丁寧な辞儀をした。
「よせ、そんな有り難いもんじゃねえ。それより身を擲って尽力するほど、この国にいい思い出なんぞあるまい」
なにせ生まれてすぐに何処とも知れぬ家に落とされたのだから。
桔梗はゆっくりと頭をあげた。額の真中に一筋静脈が浮き、目は軽く充血している。
「生まれた国とはそういうものではないのですか」
その言葉は宵待の耳に少し痛い。
あのとき、決められた将来に嫌気が差し、すべてを投げ出して逃げ出さなければなどと要らぬ後悔する。
「俺がこの国を逃げ出して十年くらいか。その頃は頼益は」
「聞いた話では国主を継ぐ以前は高位の文官だったはずです」
「ふん」
まるで覚えがない。尤もその頃は名も違っていただろう。
「ともかく、一度俺が消えて、頼益が国主になったことはあんたにしてみれば不幸中の幸い?」
宵待は桔梗が頷くのを待つ。そうして自分の心を少しでも軽くしたかった。
「貴方様が消えても消えなくてもわたくしの身の汚れは変わりません。それでもわたくしはこの国に戻ってきて、どうにかして蔵座を良い国にしようとしたことでしょう」
凛としている。
身の汚れがと繰り返しているが、なんのこの女は美しい。
「それで残雪か。あんたはあの男を信用しているのか?」
「信用といえるかどうかわかりません。ですが残雪様の持ってこられた策が最も実現可能のように思えました。とても不思議なこともいたしましたけど」
結果として間違ってはおりませんでしたわと、桔梗は口元を袖口で隠した。
「残雪とはどうやって知り合った」
「伊福部様の話はよろしいのですか」
「いや、その前に聞きたい」
「飴買を介しました」
「アメカイ妖怪?」
「ああ、飯綱という名前なのですね、普段のあの人は」
「飯綱だと? あんた、あの男と繋がっていたのか」
「詳しくは存じませんが飯綱がこの館に出入りするようになったのは、彼が蔵座に出入りする前だと聞きます」
「てことは仕官したのか。あいつはわざわざ蔵座に仕官したってのか?」
今の蔵座など。
こんな未来のない国に進んで仕官するなど信じられぬ。そして宵待は、会話の内容がどんどん本分から離れていることを失念する。
「仕官なのでしょうか。飯綱という名の士卒の籍だけ残っていたから拝借したと、わたくしにはそういっておりました」
「飯綱、なあ…」
蔵座城天守での出来事を思い出す。あのとき、銭神廿郎が現われなければ宵待は確実に残雪の命を奪っていた。
残雪は後は飯綱に任せるようなことをいっていたように記憶している。
「飯綱、ああ、飴買か。あいつはナニモンなんだ」
誰ともなく呟くその言葉に、桔梗はわずか首を傾げた。
「いや、いいんだ。独り言だ」
まったく、それにしても。伊福部は国主を謀り、飯綱は偽名だった。おのれの来し方をきれいに忘れ宵待は悪酔いでもしたように気分が悪くなる。
確かに頼益は、逃げだした前任者から国主の座を引き継ぐ際に人臣の大部分を入れ替えた。重臣などは総替えである。お陰で宵待は誰ひとり自分の顔を覚えている者がおらず、兵法指南役などと身分を偽るやり方でしか国の中心に関われなかった。その、人物の入れ替わりの混乱に紛れ児喰高明が入り込み、飴買が飯綱の名を利用した。なにもかもが手緩いこの国ならではの話だろう。他国の管理体制、政治状況からはまず考えられぬ。
石切と伊福部の兄弟は宵待の代から蔵座に居たことになるが、所詮宵待の代、その先代にしても、国主は最高執政官ではなく神輿の上の飾りでしかない。神輿の上にましますモノとは即ち神であり、神などは妄りに下界の者と関わってはならないのだ。だから宵待は正式に蔵座の継嗣と定められて以降、身辺にはいつも同じ老人がひとりだけ近侍し身の回りの世話一切合切を切り盛りしていた。
早くに死別しているとはいえ親の顔も毛ほども覚えておらぬ。
宵待は無意味に桔梗の唇を見た。
「わたくしは」
「ん、ああ」
「わたくしは残雪様に、この国はこのままでは駄目になるといいました」
「うん」
「残雪様はその通りだと。だから変えたいというと、蔵座を変えるだけが望みかと逆様に聞かれました」
「それで」
「憎き父と、哀れな母をどうにかしたいと」
残雪は承知したと応え、母鈴蘭は実の弟との爛れた関係から(強制的に)脱却し、そして頼益は国を追われた。
伊福部様の話をいたしますねと、桔梗はそこでやっと肩の力を少し抜いた。
「伊福部様は鈴蘭様のことを思うがあまり、鈴蘭様の望みを叶え、且つ不義なる関係を清算したいと、真逆のことを願ったのです」
老僕の心中を察してみるものの、宵待のごとき男にはまるでわからなかった。
「鈴蘭様の望みとは今一度御山様の寵愛を受けること。伊福部様は鈴蘭様に好意をもったがゆえ望みを叶えようとし、それでもそうした関係はやはり良くないのだと思い悩んだのだそうです」
「どっちつかずのまんま、伊福部の爺さんは残雪のような男と関わりを持ってしまったってことか」
あのような男に揺れる心持ちのまま接触していいわけがない。宵待ですら意志は固く身の中央にあれども、常々残雪に引き摺り回されているような不快感がある。
「尤もわたくしはすべて理解しているわけではありません。ですから実際に鈴蘭様の館でどうした話し合いが行われていたのかはわかりませんけれども」
「確かにな。残雪に聞いてもまともに答えやしないだろうし」
実際には残雪は、伊福部の望みを大成させた結果副次的に鈴蘭の願いをも成就させたに過ぎない。しかしそれは多分、どちらでも一緒なのだ。誰の望みであれ大局的にはなんの影響もない。
それでも。
「鈴蘭様は気が狂れておしまいに」
当然だろうが、そこまでは伊福部は望んでいなかったはずだ。
「それなら聞いたことがある」
宵待は座相を変えようとして脇腹の傷を思い出す。
「…気が狂れるのがわかってたならあの爺さんは残雪の言葉に応じなかったと思うぜ。でもな」
「でも、なんでしょう」
「残雪ってのはどうも、そうなるのがわかっていたような気がするんだな」
「鈴蘭様の気がおかしくなることが予想できていたと?」
「ああ」
「根拠がおありで」
「いや、なんつうか直感?」
宵待の間の抜けた返答に、桔梗はそうですかと気の抜けた声を返して、つと天井を見上げた。宵待もつられて見るもなにもない。
桔梗は天井を見たまま、自分が残雪の策に乗り、結果として鈴蘭を狂気の坩堝に貶める一助となったことを訥々と語った。
「後悔してるかい」
「しておりません」
「強いな」
「時間がないのです」
宵待はその言葉の真意を問おうとしたが、桔梗の果敢なげな眼差しを見、つい口籠ってしまった。
「伊福部様は」
そして桔梗はやっと、老僕と、悲運の女主の最期を語りはじめた。