(廿一)
初めに大国堕府が侵攻してくるという噂が下地として有り、やがて牙城を駆け登り来襲してきた黒装の群れ。
日輪にて、小国蔵座の存在意義など無いに等しく、故列強に挟まれた立地条件でありながら戦に巻き込まれることなどないと高を括っていた者どもの周章狼狽振りは傍で見ていて腹立たしいものだった。城を守ろうとする者はごくわずかであり、蔵座の兵の大半はつい先ほど飯綱らに先導され逃げ去ってしまった。無論それが残雪の設定した策謀であり、今の状況は、立脚点を残雪側に設定した場合まずまず好いといえる。しかし宵待は、おのれの元居た立場柄諸手を挙げて今の状況を喜べるものではない。逃げ出した身でありながら生国の現況に憤慨するなど身勝手も甚だしいと理解しながら、それでも。
残雪はこの後、残った兵卒らは同士討ちをはじめ更にその数を減らすといった。
蔵座を只管に守らんとする者。
堕府に名を売らんと欲する者。
その相容れぬ志を持った同士は、迫りくる堕府の偽兵の圧力に曝され、やがて堤防が決壊するかのようにぶつかり合うだろう。否、ぶつかり合わずとも、売名側からすれば目の前でおのれに背を向ける蔵座兵などは、堕府に阿るに当たり格好の獲物でしかない。手を拱いて見ているはずもなし。
宵待は天守から正門付近を見下ろした。すると、正門上への矢倉に登る梯子がなくなっているのに気づいた数人が右往左往しているのが見え、更にはその背に忍び寄る影がこれも数人あった。
宵待は短く反応した。
見る間に忍び寄った人影は抜刀し、同輩を背中から斬り伏せてしまったからだ。
正門付近だけではない、耳を澄ませば明らかに今までとは異質な混乱の声がそこかしこからあがっている。
国主頼益は嘆く。きっとおのれが混乱していることを、おのれの混乱ゆえ気づいていない。散々その頼益に殴りつけられていた児喰も顔を硬くして蔵座城の地べたで行われている狂乱を凝視していた。
やがて攻城側は正門を破壊し、蔵座城域に進入してくることだろう。さもなくば裏切った蔵座兵が閂を抜き去って開門せしめるかも知れぬ。
宵待は舌打ちをする。
このままでいいのだろうかという焦りにも似た思い。そして蔵座の、気概も気骨も技術も馬力もない弱兵に対する落胆。
偽の脅威を操り恐怖を煽り、先ず保身を考える者どもを退去させ、そして同士討ちを誘発させ、悠々と正門を潜ってやがてこの騒擾の元凶がやって来るだろう。
本当にこのままでいいのか。
不図宵待が横を見遣れば、忠臣を殴っても埒の明かぬことにようやく気づいた国主が、今度は歯を鳴らしていた。おのれの命があとどのくらい保つのか考えているものか、逃げる算段を編んでいるものか、不摂生と酒色とで浮腫みきったその顔からは判別はつかなかった。児喰の顔は変わらず硬い。
このふたりはいったいどうするのだ。
それに意識を払いつつ、宵待は突如あがった歓喜の声に外を見た。
閂が外され門が開く。
予想できていたことだが、蔵座に於いて一命を賭して城を守ろうとする者より、一も二もなく逃げ出す者、そして大国に媚び諂おうと仲間を殺す者のほうが多いとはなんと嘆かわしいことであるか。
頼益はどう思っているのか、宵待はとにかくそれが気になる。
そして。
今ならば殺せる。
丸腰だが頼益ひとりぐらいならば首をねじ切ることは可能だ。但しすぐさま児喰に斬って捨てられることだろう。
今のところ宵待は死ぬつもりはない。
自分には為すべきこと、為さねばならぬことが山積しているを痛感しているからだ。加えて残雪からも頼益は殺すなと厳命されていた。
無論宵待は無能な国主を生かす理由を問うたが、その答えはなかった。
城門が開き、紅い具足を纏った男が入城してきた。馬子にも衣装とはよくいったもので知らぬ者がその姿を見れば、さぞ立派な大将が現われたと感嘆の声をあげるに違いない。続いて貧相な馬に乗った銀髪の男。そして見知った顔が数名。
「む」
震えてばかりいた頼益が唸った。無理もない。残雪が天守には届かぬ程度の声で黒い一団に何事かを伝え、それを聞いた者どもの大半が城から去ってしまったのだから。
裏を知っている宵待に当然驚きはないが、まるで実を知らぬ頼益や児喰などにはさぞかし奇異な光景に映っていることだろう。
着実に残雪の策は段階を上げている。
しかしどうしてか、やはり宵待の心中はさざめく。
このままでいいわけはない。
やがて、引き返させた偽堕府兵と、門域に待機させた家付きの郎党らのかわりに、造反した蔵座兵数人を引き連れた正十郎が天守にやって来る。
「児喰殿、如何なさる」
児喰高明は憤怒相で考え、やがて重い口を開いた。
「斬る」
「誰を」
「蔵座に仇為す者はすべて」
「御尤も」
すると児喰は床を鳴らして次室へ消え、やがて宵待から引っ剥がした得物を手に戻ってきた。
「貴殿もこの国の兵法指南であるならば」
「みなまでいわずとも、当然そのつもりでおりますよ」
宵待は大鎌を手にし、一度頼益を見た。
頼益は威厳など欠片もなく、床にへたり込んでいた。圧迫し続ける恐怖に心のどこかが壊れたような、そんな顔をしながら。
派手な足音が響き、激しく戸が開いた。
児喰が動く。
非常に大柄であり総身を鎧うがごとき頑健な体躯であるから動きは愚鈍であろうと、宵待は勝手に判断していた。
一番乗りは儂じゃ!
ならば一番槍は儂が!
目の色を変え国主へ殺到する蔵座兵に相対し、児喰は軽々と太刀を操り次から次へと斬り棄てていく。その刀術は非常に洗練された殺人剣であり、宵待の嗜好する近接戦闘に特化した攻守一体型の刀術であった。
宵待は児喰の動きを具に見ながら、児喰の操る刀術を自分が学んだのはどこであったかと考えていた。児喰は元々蔵座の者ではない男だと聞く、前歴はどこぞの国の有能な士卒であったのかも知れぬ。
三人、四人、五人、六人、
まだ絶えぬ。掘っても掘っても残雪も正十郎も現れない。大方天守へ至る途上、残雪が造反兵どもに蔵座国主の首の価値を滔々と説いたに違いあるまい。
七人、八人目の首は天井まで跳んだ。その一撃で児喰の太刀は曲がり、最早なにも切れそうにもない。それでも腰のもうひと振りを抜かないところを見ると、脇差のほうは飾刀なのだろうか。
「道了尊殿、助太刀頼む」
道了尊こと宵待は一歩も動かない。当然それは残雪との約束事である。
九人目。
「道了尊殿!」
斬ってはならない。
すべては現行蔵座の内輪での殺し合いにするのだ。
其処迄極まった状況を一体何処の何奴が覚えているという。その策を耳にした宵待の率直な感想に対して残雪は、貴様が見ているといった。意味がわからんと素直に返せば、偽りに偽りを重ねていても要所では実を得よとの返答。余計に意味がわからねえとやや荒く問うたならば。
人間、それほど嘘ばかり吐けるものではないと傲然といい放ったものだ。
九人目は太刀を大上段に構え、間合いも考えずに突進してきた。
児喰はおのれの太刀を横に薙ぎ刀身にたっぷりと付着した血のりを無防備にあいた九人目の刺客の顔面へと飛ばした。刺客は一瞬怯み、その間隙を突かれ児喰に顔面を鷲掴みにされ木の床に強かに叩きつけられた。床に、刺客の頭を中心に放射状に黒い染みが広がっていく。なんという怪力であるか。
児喰は返り血で真っ赤に染まった体を起こし、
「道了尊!」
大喝した。
「情けなし、臆した」
宵待はいって、児喰の血まみれの顔を睨みつける。児喰は臆したのならば去んでも構わん、足手纏いだと吐き棄てた。
それにしてもなんという強さだろう。本気で切り結んで、はたして勝ち目はあるだろうか。宵待は背に負った得物の感触を確かめつつ、考えている。
九人で止まっている。
造反兵はもういないのだろうか。ならばじき、狗賓正十郎が入ってくるはずだ。
宵待が児喰と現国主を捕縛する。そのように残雪に謀られて。
そして。
天守の間に現れた正十郎の首根っこをつかみ、狼狽する正統なる血脈の裔を床へ押し付けたのは宵待であった。
「な、ど、道…」
余計なことを吐かれては面倒と、首をつかむ手に力を込める。
正十郎はわけがわからぬまま、顔も、目も真っ赤にして、涎を垂らし、鼻水を垂らしてもがく。その面のあまりの酷さに憐憫の情がわく。
本当にいいのか。
ぎしり。
床板を鳴らして、残雪が現われた。これだけの騒乱を演出しておきながら汗ひとつ掻いていない。
「残雪」
宵待は呼ぶ。特に意味はない。
宵待に組み伏せられた正十郎も声にならない声をあげ、もがく。
残雪はまず腰を抜かしている現国主に目を遣り、次いで児喰を見た。宵待にも、その下で顔を朱に染めている正十郎にもひと目も呉れない。
正十郎が身に付けた具足が矢鱈に華美であるだけに一層物悲しい。
「残雪っ」
再びの宵待の呼び掛けにも残雪は現国主を見、
「これが現実だ」
といった。
元来感情の発露のない男であるが、その声は普段に増して低く、なにもかもを殺した声であった。
「ひとたび戦乱に巻き込まれたなら、貴様を守る者はひとりもおらぬ」
頼益は床にへたり込んだままの姿勢で低く唸り、
「だ、堕府は、堕府はこの国を、土地を望んでいるのか」
少なくとも残雪はそう触れ回って群衆を煽動した。
「来ん」
「な…」
おそらくすぐには頭に染み込むことのない緩やかな否定。
児喰は零れ落ちんばかりに目を見開いて、この奇妙な闖入者を凝視している。
「来ない、と? 今そういったのか」
「ああ」
残雪はこんなときでも颯爽と歩く。みたびその名を呼ぼうとした宵待にやはり目も呉れないまま、早くその謀反人を縛りあげろと命令した。
奥歯に罅の入る音が聞こえたような気がしながらも、宵待はそれに従った。懐にしまってあった麻縄で正十郎を縛り、猿轡を噛ませる。正十郎は涙目で、米噛に静脈を幾筋も浮かべながら震えていた。
宵待は正十郎を床に転がし、横目に児喰の挙措を窺いつつ頼益に近づく。
残雪は革の外套を翻し、頼益と宵待の間に立った。
「頼益殿はまるで知らんのだろうが、そこの者、本当の名を三光坊宵待という」
「さん…光坊宵待?」
「蔵座国の正当な世継ぎの身であった男だ」
「よい、ま、」
うつろな眼差しで宵待を見、頼益はおのれの煮えた泥のような記憶の海を徘徊している様子。潜っても漁っても出てくるのは閨の記憶ばかりだろうに。
「先ほどまでこの城に詰め掛けていた軍なのだが」
「だっ堕府の軍」
「あれはな、この国の民草よ」
ハァッと頼益は素っ頓狂な声をあげ、漸く立ち直りかけていたものが崩れそうになりながら、
「民ィ?」
やはり素っ頓狂な声をあげた。
「よくわかったろう。官も兵も、そして民も誰ひとり貴様の蔵座支配を認めていない」
「そ」
いわれなくとも知っていると頼益は今度は怒鳴った。怒ることでほんの僅か回復する。
「自分は張りぼてだ。名ばかりの国主だ。それのなにが悪い。皆好き勝手やってきてなにをいう」
「そうだな。まるで民心を得ていない。善政を施して民意を得る努力もなければ、恐怖で縛り付ける工夫もなかった。いずれこうなることは自明の理だったのだ。頭の隅でそれがわかっていながらも目先の快楽に溺れていたな」
「だからそれのなにが悪い! わ、私は、傀儡よ。ただ居ることに意味があるのだ」
「そうだな。しかし傀儡であるならば後ろ暗い過去のある血脈よりも、そこの」
狗賓正十郎。
「蔵座支配正統の家系のほうがふさわしい」
「な、なにがいいたい…」
残雪は革靴で木の床を踏み、居室の真ん中で止まった。
つ、と右手中指で額の真ん中に触れた。
「だが狗賓には死んでもらおうと思う」
ぐうとくぐもった唸りが響く。声も出せぬ身動きもままならぬ状況で、いったい正十郎はなにを思うものか。
残雪は容赦なく続ける。
「国を簒奪するに欲しいのは大義。しかし国を経営するに大義を掲げ寄り添った民意は邪魔だ。適度な均等を保つため、蔵座支配の正統なる血脈はここで絶つ必要がある」
それには宵待が言葉を返した。
「つまりは狗賓をいいように利用したということか」
「そうだ。蔵座を建て直すためだ」
「おめえナニモンだ」
「貴様と議論をするつもりはない」
「殺すことはねえ」
「ならばお前は王になれんぞ。今蔵座の国民は狗賓に心を寄せている」
「殺せばその民意とやらは離れるだろう。だいたい俺はこの国の王様になりたいわけじゃない。ただこの国を守りたいだけだ」
今回の混乱の根にあるのは残雪の作出した大いなる欺瞞であるが、堕府や七鍵が蔵座を狙っているのは事実である。
「正統であろうと狗賓は謀反人、やりようはいくらでもある」
まあそのあたりは私に任せておけと残雪はいって、一歩頼益に近寄った。
頼益は金切り声で叫んだ。
「こッ児喰! 斬れ! こやつらを斬れ!」
児喰は喉の奥から、刀がありませんともらした。
「そ、その腰の脇差はなんだッ、まさか竹光ではあるまい!」
それに答えたのは残雪である。
「抜けんよ。その脇差は児喰高明、七鍵軍任官の際に下賜されたものだ」
児喰は無言であった。
事実腰にさげた脇差の刀身には七鍵に生涯奉仕することを誓うと、同国特有のいい回しで刻印してあった。
「この国であれば七鍵王から頂戴した大事な刀をさげていても問題ないと踏んだか。そもそも名すら偽っていない」
「よく調べたな」
「お陰で貴方に関しては楽だったよ。私の武器は情報のみなんでな」
「情報が武器とは、耳新しい」
苦渋に満ちた顔つきのわりに児喰の声は明瞭であり、落ち着いて聞こえた。
「認識が甘かったな」
頼益はふらりと立ち上がり、膝関節に油を差したような奇怪な足取りで大兵の士に近寄るとその胸倉をつかんだ。
「い、今の今まで謀っていたのか! いったいなにゆえッ!」
「蔵座を隠密裏に七鍵のものとするため、拙者はこの国へ参りました」
「堕府に気取られぬためには蔵座の内部に食い込み、徐々に国主の意識を七鍵に近づけていくが有効と踏んだか」
とは残雪。児喰は尤もであると答えた。
「ならばあの、あの椿とかいうどこぞの貴族の娘も」
「椿姫ですか。さて」
正体が知れて尚、児喰の頼益を見る目には変化がないように見える。やはりともに時間を過ごすうちに情がわいたものか。
「とぼけるでないッ。あの女、ことあるごとに七鍵の話ばかり。いずれ堕府か七鍵、どちらかにつかねばこの国は滅ぶ。従うのならば七鍵にせよと枕を交わすたびに何度も何度も何度も…」
口角泡を飛ばす頼益を横から見、残雪は口元に手を当てた。どうやら笑っている。
児喰はやはり関係を否定した。
頼益は益々激昂する。
「ならばここへ呼んでやる! 椿! 椿!」
城の北側に建築中の新しい妾館はまだ人の住める状態にない。それゆえ頼益は驚くべきことに、新しい側室御牛車路椿を現在城内に住まわせていた。頼益の正妻は持病である肺臓の病を悪化させ、今や口を利くことも儘ならないとはいえ遣り過ぎの感は否めない。
はたして正室殿は今の状況に寝所で怯えているものか。
呼べど叫べど椿は来なかった。
それも当然で、既に石切彦十郎に連れられて遁走した後であった。