(廿)
この国を変えよと残雪はいう。
正十郎は馬の一歩一歩に遅まきながらの決意を固め、後背に群れなす蔵座の民の圧力がいつしか興奮に変じ、あまつさえそれに酔いはじめていた。衆人の耳目を集めることを極力避けて生きてきた正十郎にとって、当然、他人の想念を背に負うことなど生まれて初めてである。その、生まれて初めて経験する興奮に身を震わせつつ、一方で頭脳が痺れるがごとき恐怖も感じている。興奮で恐怖を押し遣るのだ。
号令を発せよと残雪がいう。
「み、皆の者ついて参れ!」
声が裏返ってしまうのは愛嬌の範疇か。尤もそのような瑣末なことを気にかける者などいない。
正十郎は手綱をしっかと握り、残雪の見様見真似で黒鹿毛の腹を蹴った。馬は暫時なにかを考え大きな耳で背に乗せた男の様子を窺っていたが、やがて歩速を速めた。
残雪は正十郎の斜め後ろを行き、付き従う者どもに声をかける。
「歩みを速める、遅れることのないよう」
いの一番に郎党頭が野太く返事をした。それに釣られるようにして黒く染まった群衆らも声をあげ、あるいは拳をあげた。城に攻め入るにしてはほとんどの者が武器らしい武器など手にしていない。
戦をするわけではないと残雪はいう。これからこの群れがやろうとしていることは大いなる茶番である。小さかろうと貧しかろうとひとつの国の頂点を相手取った、命懸けの茶番劇である。
正十郎だけではない、蔵座に住まうほとんどの者はただ生を繋ぐことのみに腐心して生きてきた。一日の終わりに唇を湿らす程度の酒が飲めたなら御の字の、辛いことがほとんどの毎日をただ只管に。生きることは死なぬこと。
しかし、その必死に繋いだ生に近々破滅がくるのだと残雪はいう。話にしか聞いたことのない大国がやってきて根こそぎすべてを奪っていくのだと。
いったい残雪はこの先になにを見ているものか。それを知る者は、少なくともこの群れの中にはいまい。よもや大国に蹂躙される前に蔵座の民を破滅に導こうとでもしているものか。しかしこの浮かれた群衆の中に、そんな考えに思い至る者はただのひとりもいないようだ。その手の屈暗の思いは誰かが口にすれば瞬く間に全体に伝染するものである。
「狗賓、鬨をあげさせよ」
「どのように」
「どのようにも。貴様の思うように」
「鬨など…まるで軍を率いているようだな」
「これは軍よ」
「しかし武器もない」
「ああ必要ないからな」
「しかし本当に、蔵座は軍を出さんか」
「蔵座に軍はない。それは狗賓、貴様がよく知っていること」
「だが、軍はなくとも兵は、兵卒は二百人はいるのだ」
「不練不熟も甚だしい、腰に刀を下げただけの者。そもそも命令をくだす者がおらんでは指一本動かせまい」
「そんなものかな」
「組織とは本来そういうもの。動かす力と操る頭の均等がとれてはじめて機能する」
「それでも軍は軍だろう」
たとえ機能不全を起こしていようとも、武器を持った人間の群れがあの城にはいる。
「私を信じられんか」
「ああ、そういうわけでは」
正十郎は傾斜の上方、蔵座の主城を見上げた。大手門が開きそこから幾百の兵卒が突出する様を想像して、ぐ、と奥歯を噛んだ。
「自分は、死にたくないのだ」
「わかっている」
さあ下知せよと残雪は声で正十郎の背を押した。
正十郎は二度ほど頷き、一度口を開け残雪になにかを尋ねようとし、残雪に手のひらで制せられ、ようやく意を決したように息を吸い込んだ。
「我は狗賓正十郎である。我は蔵座の正当なる王である!」
正十郎はちらりと残雪を見る。残雪は表情を変えることなく、瞼のみで頷いた。
「我に従うは正義である! 昔日三光坊に簒奪されたものを取り返す、因ってこの行軍は正義である!」
正義だのと、似つかわしくないことを叫びつつ正十郎は思う。残雪の望むとおり絢爛豪華な傀儡になってやろうじゃないかと。せめて後ろに従う寒民たちのために。
「ただ我に従って駆けよ! えいかァ」
郎党頭が応と答える。
「えいか!」
「応!」
「えいか!」
「応!」
声を飛ばしながら馬速をあげる。
群衆は遅れまじと足を速める。
この群れは確実に謀反の奔流である。その流れに身を委ねることに当初二の足を踏んでいた者も、ひとたび入ってしまえば今度は群れから弾かれることを怖れる。
行軍はやがて駆け足になり、
そして、
おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
弥増す勢い、
叫ぶ自身の声と周囲の声とに群れは酔い、正十郎を先頭にした一団はひと塊りとなって城目掛け疾走を開始した。
決して緩やかな登攀ではない。
それでも勢いは止まらない。
ここまで窮まっては、最早群衆の頭の中には走るか死ぬかしかない。
正十郎は声を飛ばし、無銘の刀を抜き先陣を駆ける。
黒い一団も吼えつまろびつ、走る。
野太く逞しく生命力の煮え滾った応声はやがてうねるように天空高く舞い上がり蔵座の主城へと轟いた。
蔵座城中央、老い松のある中庭では飯綱が叫んでいた。
「堕府の軍だ! 見よや外を! 堕府の軍が攻めてきたぞ!」
正門にある矢倉に駆け上がった数人が更に叫ぶ。
「黒い! 黒い一団がッ!」
早くも軽い恐慌状態である。
「いったな、黒は堕府の軍装だッ」
飯綱も表面上慌てて見せる。とにかく兵卒を煽らなければならない。
指示を仰げと何者かが叫べば、いったい誰にだとどこかから声が飛ぶ。指揮系統すら整っていないとは、飯綱は呆れ、そしてこの国はやはり壊されるべきなのだと確信する。こんな国は存在する意味も意義もない。
「いいか、黒一色は堕府軍だ。堕府軍が攻めてきたのだ!」
「ひ、率いているのはまさか」
狗賓か、狗賓ではないかと矢倉の上でいい合いがはじまる。謀反の意があるというのはまことであったか、などと。そちこちで得手勝手に言葉を交わしている。
蔵座兵に愛国心はあるのだろうか。
日輪最大にして最悪の黒い軍と、冷えて干乾びている国と、天秤にかけて果たしてどちらが重いものなのか。他人の感情の機微を察することに長けていない飯綱には判断がつかない。
そうこうしているうち、数人が守りを固めるのだといって駆けだした。
そう、堕府の軍といえど見えているのは三十人程度である、戦って戦えぬこともない。ただ籠城戦はできまい、弓も矢も足りぬ。武具を揃える余裕があるならば、蔵座は先ず冬の糧食を蓄える。案の定、どうするのだ、なにをすればいいと防衛意識が増すほどに混乱も増していく。散々恐ろしいと聞かされた軍が攻めてくる焦燥感に、蔵座の弱兵が耐えられるか。大多数は耐えられまい。
愉快ではないがそれも残雪の予言通りであった。
寄せ手から鬨の声があがった。その声は城内の混乱に拍車をかける。
何度も何度も鬨があがる。
その声が堕府軍ではなく蔵座の民を黒く塗っただけのものであることを知っている飯綱でさえ、どうしてか身震いがした。
派手な音を立て戸が開き、上階から幾人かの男が血相変えて飛び出してきた。先頭は伊福部福四郎であった。
飯綱は声を投げる。
「伊福部様、いかがなさいましたか!」
伊福部は答える。
「堕府の軍が来ておる!」
逃げるのだと血を吐くようにいって伊福部は搦め手門のある方向へ駆け去った。蔵座城の西の端にあるその裏門を抜けた先には、誰が作ったものか、蛇のごとくうねった細い道が七鍵方面まで延びている。
次々に搦め手門のほうへと走り去る、上級士官らの冷え固まった表情を見るに、どうやら伊福部は煽動に成功したようだ。
飯綱は叫んだ。
「せ、拙者も連れて行ってくだされ!」
今この時機を逃さば死ぬると顔に書いて、慌てふためき恐れ戦く男を演じる。兵卒の恐怖心を煽り、ひとりでも多く逃走に向かわせなくてはならない。
それが残雪から与えられた仕事である。
「拙者も逃げます! 堕府になど敵うはずもなし!」
すると飯綱は、どうやら主戦論を唱えている同輩に肩をつかまれ、あまつさえ罵声を浴びせられた。
飯綱は体を捻って手を振りほどき、両手を広げて叫んだ。
「愚かなのはどっちだ! 今見える堕府軍を退けたとて、いったい後方に何千何万の兵が控えると思っているのだッ。戦ってどうにかなるものではない。くわえて堕府になど降ってみろ、それは無抵抗のまま殺せといっているようなものではないかッ」
堕府という国は侵略後、余程の有能な者でない限り投降を認めない。それは史書にある事実である。
「ならば逃げるが得策。それとも貴殿らには堕府に登用してもらえる自信がおありか」
飯綱はとうに逃げ去った伊福部らの背を追う振りをして、そして一度立ち止まり、
「居残る愚はないぞ。考えずともわかる、蔵座に殉ずる価値はない」
主戦論者の後ろで、いまだ判断できず、ただ只管に周囲に迎合することのみに意識を寄せている兵卒どもに向けて、必死の形相を形作り飯綱は逃避への啓蒙を続けた。
生国ぞ、捨てるのかと何者かが叫んだ。
「ただそれだけだ。そんなもの一命を擲つ理由にはならん!」
「現世利益のみに人は生くるのではないぞ飯綱! 義を重んじずして何が士であるか!」
その義とやらを自分たちの都合のいいように解釈し振り回して、いったいどれほどの国がどれほどの民を苦しめていることか。大義名分を押し立て、したり顔で行われる虐行ほどたちの悪いものはない。
人を支配するに義を前面に押し出すは、おのれの統治力のなさを声高に喧伝していると同義である。
それは残雪の言葉だ。
鬨の声が近付く。
身を燃されるがごとき焦燥を表情に出して飯綱は怒鳴り返した。
「義で飯が喰えるか、子を育めるかッ。逃げるのだ、最早指揮を与える者らも逃げ出したのだぞ!」
主戦論者ではない士卒が口を挟む。
「しかし御主君をお守りするのが」
守りたいのは主君ではなく、おのれの将来だろう。しかしそれは、彼らの中では完全に同じものなのだ。但し、それが同じものであるとおのれで気づいていない点が、なににも増した罪であろう。
「女色にうつつを抜かしてばかりの何が主君か。その主君のせいでこの状況ではないか。少しでもまともな国主であるならば、せめて有事の対処くらいは決めていようぞ!」
違うかと飯綱は問う。問いに対する答えはない。それでも表の鬨に色を失くしつつ兵卒の群れは互いが互いの顔色を窺い続けた。なんのことはない、今すぐにでも逃げ出したいのだが、先頭切って逃げ出すのが憚られるだけなのだ。この期に及んで今後の処世に頭がいっている。伊福部が引き連れていった上層部ほど逃げ足が速いというのも問題なのだろうが、その見切りの良さが又人の上に立つ者の特性ともいえる。喫緊時の判断に情を介在させない。おのれの行動指針に情を挟みこんでいては指の一本も動かせなくなることを、蔵座の上層といえど理解しているのだ。
彼らの行動基準は保身であり、利益だ。今はそう、国を守る義理よりも、おのれとおのれの身内を守ることのみに専念する割り切りこそが必要なのだ。今求められているものは確固たる信念などではなく、迅速な判断であろう。人生経験の足りぬ兵卒どもにはそこがわからない。
まったく骨が折れる。
「この国を守ることに未来など微塵もなく、ましてや国主の楯になるなど美談でもなんでもないぞ!」
数人足を踏み出そうとする。
もうひと押し。
「蔵座での美しい記憶を思い出せるか。なにひとつあるまい。命を賭すならばもっとましなものにしろ」
いろいろ模索しながら言葉を発したが、どうやらそれが殺し文句となったようだ。最初はばらばらと数人が逃げ、やがて堰を切ったように蔵座城兵のほとんどが我先にと裏門へ殺到した。
やはり飯綱は鼻白む。
残雪の思惑どおりに運ばねばならないのだが、それでも。
ことの成功は、おのれが命を懸けても構わないと思っている女の願いを叶えるために必須であると認識しつつ、それでも。
城門の向こうから偽堕府軍の雄叫びが聞こえる。既に相当近い。
それでも逃げ出さぬことに自己を確立している者が数十は残っていようか。数少ない軍備に身を固め、一点大手門に視線を注いでいた。その眼差しは只管に真摯であり、飯綱のように世を謀って生きることに長じた者には若干眩しく映った。
潮時か。
煽るだけ煽って逃走を促し、次の段階へ入らなくてはならない。
とりあえず一度城を出る。その前に正門上に設けられた矢倉が空になった間隙を突き、そこへと登る梯子を外しておく。幸いあたりは逃げる者と武器を取りに走る者でごった返しており、飯綱の奇妙な動きを気に留める者は誰ひとりもいなかった。
飯綱はそれでも後ろ髪の引かれるような思いを覚えつつ、搦め手門から城外へ出た。
我が城から我が兵が逃げ落ちていく様を見下ろしつつ、頼益はなにもできず、横に立つ児喰を殴りつけ、声にならぬ声をあげた。
「どうして逃げ出す! なぜ戦わぬ!」
児喰はなにも答えなかった。頼益は更に大兵の士を殴りつける。最早頼益にとって頼るべきは目の前の忠臣しかおらぬというのに。
「そうだ、石切を喚べ。石切ならば」
その石切は既に私邸へと駆け戻り七鍵へ落ち延びる支度に忙しくしていることなど、無論無能なる国主は知る由もない。特に児喰が仕えるようになって以降、意識的に身辺から遠ざけていたのだ、今更なにをかいわんやである。
石切彦十郎は利口に過ぎた。
その点児喰は茫洋としており、無口で、なにより国主に諫言を吐かなかった。
殴りつける。
児喰の口の端が切れ、血が滲んだ。
奥歯を喰いしばる児喰の横顔はまるで、寺門の両脇に屹立する一対の力士像を想起させた。
殴られながらいったいなに思う。
道了尊はその赤銅色に染まった横顔を見ながら思う。とりあえず、伊福部も飯綱も無事責務を果たしているようだ。
さて自分は。
国主を見た。
この男は遁走するか。それともしがみつくだろうか。この男にとってのみ、この国は極楽であったに違いない。
逃げねば斬るか。
今は丸腰である。
さすがに二本差しの大兵を相手に徒手空拳では分が悪い。
そして残雪は、頼益は殺してはならぬと道了尊に厳命していた。どのような状況であれ生け捕りにせよ、と。それにどういう意味があるというのだろう。道了尊としては首のすげ替えを行うのであれば、古いものはどんどん斬却してしまうが得策のように思う。
児喰がおらねば縊り殺すものを。頼益がごとき三一にいったいどのような利用価値があるというのだ。もとより三光坊は簒奪者の末裔。加えて頼益などは傍系の血筋。本来ならば玉座に鎮座すべきではない。
貧しくとも営々と続いていたこの国を、ここまで寒々しくしてしまうとは。
道了尊は実に腹立たしい思いでこの場に立っている。
是非とも目の前の出来損ないを斬り捨ててやりたい。
確かに道了尊がこの地で暮らしていた時分も、王家の継嗣と雖も冬期はろくなものを食べた記憶がない。
三光坊の直系の末孫であった自分がそうだったのだから野に暮らす民などは推して知るべし、と思う。それでも、その当時はまだ、蔵座に暮らす者の顔に今ほどの暗色は感じなかったが。
道了尊は自分の思い違いだろうかと、おそらくはじめて、現国主頼益、つまりは自分と血の繋がりのない従兄弟だか再従兄弟だかの顔を見詰めた。いったいどのようにして自分が逃げ去った後、三光坊の総代の座に座り得たものか。極めて無能であるのに。と。
道了尊は身を焦がさんばかりの、しかし酷く勝手な後悔に苛まれる。
蔵座城に兵法指南役として出仕している道了尊、本来の名は三光坊宵待という。その名の示す通り、現行蔵座国支配である三光坊家の、正真正式な後継者なのだが、元服も近い或る年にまるで発作を催したようにおのれの窮屈な将来に悲観し逃げだした過去がある。
蔵座を出奔して十年と少し、諸国を巡っている最中に生国の危難を知って戻ってみれば当時の自分を知る者はひとりも居らず、顔すら見たこともない男が自分の替わりに玉座へ座っていた。国主など空席にしておいてよい場所ではない。隙間が空けば空くほど悪いモノが湧く。当然だ。
ともかく。
現国主の不見識に大いに助けられ城内に出入りすること叶い、身勝手に国を捨て去った罪を償おうと算段を練っていた矢先、残雪と知り合った。
この国を変えるつもりならばもっとましな方法がある。
何故自分が過去の国王だと知り得たのかは何度問うても答えない。
それでも。
残雪の献策を耳にし、乗ることを決めた。
道了尊こと宵待に蔵座の危難を知らせた者と、残雪が裏で繋がっている事実を想像すらしないあたりは、やはり育ちの良さが出たものか。