表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
黒鴉銀蠍抄  作者: 偽薬
2/27

(二)

 西の騒ぎを東で聞き、それでも最初は痛快であったのだが、今はおぼろげながらも粘性の強い不安にねっとりと包まれ漫ろな気分となる。

 近く、数年振りに此処東館に御山様が訪れる。

 単純な話なのだ。手に持った二つのうちの一つが潰れ、使い古しのもう片方へと流れたと言うただそれだけのこと。

 数年来御山様がご執心だった西の寵姫がこの頃乱心気味故、とても寄り付ける状況にない。

 それで、長年見向きもしなかった当館へとやって来る。

 その事実のみは誠に悦ばしい。

「ふふ」

 このところ口元に寄る皺が酷く気になる。成るべく笑わないようにしているのだが、あまりに思い通りに事が運んでいる事実に思わず頬も綻んでしまうと言うものだ。

 無理矢理に笑みを仕舞い込み、若干張りの無くなった我が頬を縦に伸ばした。

 これでも数十年前は今生稀に見る美姫と近隣諸国に有名鳴り響いていたものだが、今は往時の烈輝の如き精彩に日々翳りを滲ませているに過ぎない。

 それでも、否だからこそか。

 私は、血筋さえ良ければ此処のような貧国の、それも側室などと言った位置に納まることはなかった筈の女だろうと思っている。

 重ねるが私は、その昔はそれはそれは見目麗しい…。

「ふん…」

 過日のおのれを振り返っても建設的ではない。それよりも久方振りに訪れる彼の男に老け込んだと思われないように、がっちりと身支度を整えなくてはなるまい。

 今の私は西の女に劣っている。若さは当然美しさも。その事実を冷静に認めながらも、巧くすれば現今の、日々何の希望も刺激もなく只生きていると言った状態から脱出できるかも知れぬと淡い期待に胸を躍らせる。

 不思議と御山様の御正室も西の女も散々主君の種を受けながら胤を身籠りはしない。

 私は過去一度、御山様との子を授かったことがあった。

 その子は生まれてすぐに消えるように死んだ。今では産声すら覚えていない。

 泣かなかったのかも知れぬ。

 西と違い子の生せぬ体ではない私は、実際既に半分以上諦めていたのにも関わらず、この機会を逃す手はあるまいとすぐさま気持ちを切り替えた。

 私は先達の知恵に縋ろうと東館に関わる全ての子を産んだことのある者を集め、話を聞いた。正直得るものはほとんどなかったが、それはそれで愉しかった。ただ、そんな馬鹿騒ぎを行い言いようのない不安を打ち消そうとする自分は矢張り、もう若くはないのだと痛感させられた。勢いで何でもこなせなくなっている。細々と下準備をして様々な事に対する心構えがやっと出来上がる。加えて今はある程度浮かれていなければ恐怖に身の細る思いがするのだ。

 隙あらば思い出す。

 まさか人が死ぬまでに事が発展するとは思いもしなかった。それではあまりにも想像力が無さ過ぎると詰られても致し方ないが、実際そうなのだから仕方ない。

 発端は最近この館に出入りしはじめた妙な男だった。

 其の男、名を残雪と言う。

 果たして残雪が先ず我々に進言したこと。


 目をこちらへ向かせましょう。


 それは言わずもがな、御山様の興味を私へ向かせようと言う意。

 私は目の前で低頭する痩身の男の正体を見極めることもせず、取り敢えず其の方法はと尋ねた。矢張り焦っていたのだろう。

 残雪の返答、即ち御山様の意識を当館に向ける為の案は、正直使えるのかどうかわからぬ奇妙なものだった。私は兎に角、上手くいくのかを執拗に尋ねた。残雪はそれには答えず、報酬は結果次第頂戴致します。結果が気に入らぬ時は此の身でも斬り捨てて頂いて結構と言い放ったものだから、これは面白いと相成った。

 それは私の悪い癖である。思考よりも嗜好が先に立つ。

 奇妙な献策。

 西の館の蝋燭を消せ。

 西の女は極度の暗闇嫌いらしい。その話は彼女が此処蔵座に来た当時から有名である。

 因みに私は蜘蛛が嫌いだ。

 朝だろうが晩だろうが屋敷に出た蜘蛛は悉く潰させる。しかしだからと言って山盛り一杯の蜘蛛を寝床に放たれたところで、泣き叫びこそすれ何が変わるものでもない。

 そう思ったから私は当初、蝋燭の火を消して回れとは一体どれほど貧相な嫌がらせかと鼻でせせら笑ったものだ。

 西の女に不快感を抱かせる以外効果的な結果が得られるとは思えない。

 しかし残雪は、お試しになられてどうにもならないでも東様には一切痛みがありますまいとまるでこちらの肚を見透かすようなことを言うものだから、私も思わず先の宣言真であろうなとほんの少し語気を荒げて問い返した。

 残雪は一言無論と言い放った。

 なんなんだ、こいつは。

 棒ッ杭に白い布を巻き付けたような、その先に銀糸を束ねたような、凡そ生き物らしからぬ外見の癖に、矢鱈と人を喰ったところがある。

 声とて金属的でとても美しくはない。

 目付きも悪い。

 普通ならば聡明そうだと評されることの多い広い額も残雪の有している陰険さを助長しているように見えてならない。

 要は私は残雪にいい印象をこれっぱかりも抱いていない。初見時も、そして今も。

 何であれ私は、様々に残雪に確認することを怠っていた。

 どれほどふざけた内容であろうと、実行の可否を決定する私には矢張りそれを尋ねねばならぬ義務があっただろうに。

 結果、繰り返すが、彼の男の献策に則って事を起こし、そして死人が出た。

 責任転嫁ではないが、残雪を認め、馬鹿馬鹿しく思いつつも西の館の蝋燭を消すのを繰り返して以降の大まかな判断は、私がこの館に来る以前から私の側近として常に近侍してくれている伊福部と言う者に託していた。

 それでも物事の最終的な決定権は私にあったし、伊福部とて所詮部下。私が応と言っているものに対し強硬に抗弁することは殆どない。

 尤も私は、見も知らぬ者が落命したことについてあれこれ想像を巡らすほど物好きではない。ただその、世間的に大きな出来事を為した裏に他人の意見に左右された事実があったと言うことがどうにも許せなかった。

 伊福部福四郎は昔からそうであったように苦虫を万遍噛み潰したような顔の、米噛のあたりにうっすらと汗を浮かべて、無闇に奥行きばかりを感じさせる残雪の目やら額やらを見、ちらりと私を見るのを繰り返している。

 館の一番広い畳敷きの部屋の上座に私、その横に立つ伊福部、残雪は下座の一番端で低頭し押し黙っている。

 私は目だけで伊福部に問い質せと言った。

 伊福部は喉に痰を絡ませながら残雪の名を二度読んだ。

「どうするのだ、人死にが出たぞ」

 死んだのは名も知らぬ館付きの下男。

 残雪は垂れていた頭を少し上げ私を見た。

 私は目を逸らす。

 残雪はだから如何と言った。

「如何だと? 貴様は死人が出るかも知れぬとは一切言っていなかったではないか」

「お尋ねになられませんでしたので」

「何だと?」

「それで、それに何か問題が」

「何だと!」

 伊福部の声は少し震えている。一方の残雪は一切揺るぎのない、聞き様に依っては自信に満ちた雅声で、

「何の影響もない」

 と言った。

 確かにそれは残雪の言う通りだ。

 実際御山様の顔をこの東館に向けることに成功している。只後味が悪い。

 私は言葉を挟んだ。

「しかし残雪、失敗云々は元より、貴様は結果が気に入らぬ場合も如何様にもせよと言ったな」

「はい」

 残雪は再び丁寧に辞儀をした。銀髪が扇状に広がって、昼下がりの陽の光を鈍く反射させている。

 慇懃なのか無礼なのかも判じかねる男だ。

「気に入らぬ。私は死人が出るなどと思っておらなんだ。これでは寝覚めが悪いぞ」

「それは困りました」

 まるで困窮している様子もなく残雪は言った。

「気に入らぬぞ。なあ伊福部爺」

 伊福部は姫がそう仰せであるならとぼつりと言った。未だに私のことを姫と呼ぶのは今更聞き咎めても仕様がなく、且つ幾度姫はやめてくれと言っても一向止めてくれぬ。

 こんな薹の立った姫などおるまい。

 私は生唾を静かに嚥下して、残雪の後ろ頭のあたりを無感動に眺めた。無性に煙草が欲しくなった。

「残雪」

 そう言えば残雪は手土産に大都で流行っているという刻み煙草を献上してきた。この国の煙草よりも幾種類か混ぜているらしきそれは女の私にも吸い易く感じられた。恐らくは相当高級な品であるだろう。若しかしたら私が煙草好きと言う事実を何処かで聞き知ったのかも知れぬ。

 大都。

 堕府になど一度として訪れたことはなく、そしてこの先も訪れることはないだろう。

 この寒い国で一生を閉じるのだ。その点に今更不満はないが、だからこそ、この国に埋まる一生を少しでも有意義なものにしたく望む。

「残雪よ」

 私の二度目の呼び掛けに残雪は再び面を上げた。床に垂れていた髪が一筋額に垂れ、ある種凄惨な顔付きとなる。

 矢張り私は残雪を正視できない。

「あ、あのな。貴様もし仮に私が結果に不満を持ち、貴様を斬って捨てると今言ったとしたらどうする」

 すると残雪は折っている膝と膝の間を少し開け、その上に柔らかに握った拳を置き、白面を軽く傾げ一度天井の辺りを見、やや置いて後、先にも増した冷たく鋭い目線を私に寄越した。

 私は今度はその荷重のあるが如き視線に絡め獲られ目を逸らせなかった。

「あ」

 痛い。

 突き刺さる目。

 残雪は薄い唇を開けた。

「愚かなことを」

「な」

 私が残雪の言葉を理解するより早く伊福部が抜刀し、

「愚かだと!」

 残雪の眼前に抜き身を突きつけた。

 はらりと、銀糸の如き長髪の幾筋かが畳の上に落ちた。

「何たる讒言! 身分を弁えられよ!」

 残雪は失礼をと自らの膝元に落すように言うと、まるで女官の如き細く長い指を一本出し、伊福部の構える刀をつと横にどけた。

 伊福部の顔に朱が差す。捲れて見えているかいなの筋がびくりと収縮し、

「伊福部! よい!」

 私は思わず大声になって言った。

 大きな口を開けてはまた皺が深くなると言うのに。

 いけない、冷静にならなくては。

 この館を守るのは最終的には私なのだ。落ち着け落ち着け。下賤な者に対処する為に仮面を被れ。

「残雪よ」

「はい」

「確かに御山様は遠からず此処を訪れる。貴様の思惑通りな。望みの物を申せ、可能な限り褒美として取らせよう」

 このような鼠輩早々に手を切るが得策だ。

 すべては招き入れた者の落ち度だ。


 誰が残雪をこの館へ招じ入れたのだ?


 残雪は褒美はと言ってわざとらしく間を置いた。

「とく申せ」

「褒美は、後もう少しこの館にお仕えさせて頂くことでしょうか」

「ならぬ!」

 真っ先にそう言ったのは伊福部である。

 恐らく伊福部は、私がぼんやりと抱えている残雪に対する不安をもっと明確な形で捉えているのだろう。今までそれをわかっていながら敢えて忠実な老僕に尋ねることをしなかった。

 残雪は感情を乗せぬ冷たい目で伊福部をちらりと見遣り、私に言った。

「他家の下男の死一つ、あまりご動揺あらせられるな」

「何を」

「もっと大局的に物事を捉えられよと申しております」

「大局的? 何の事を言って…」

 私がごにょごにょと口籠っていると、伊福部がやっと刀を収め元の位置に戻った。

 残雪は言葉を発する。

「宜しいか。この計画は西の主を生かさず殺さず。生かしておけば御山様は西館に入り浸り、殺さば新しい西の住人を何処からか連れて参りましょう。しかし西の主が適度にご乱心なされている間ならば、いつか治ると言う思いから御山様は西様を手放すことはない」

「まあ、そうであろうな」

 何せ西の女は御山様のお気に入りだ。

「さりとて御山様はかなりの精力漢」

 私は思わず笑い、そして惨めな気持ちになる。そう、あの男がひと月もふた月も女を断てるわけがない。

 正妻は病身、寵姫は乱心、その状態が長く続くのであれば。加えて、情愛の濃い男である、病んだ者を捨てることは絶対にない。

「ふふ。惨めだわ」

「そう卑下なさるな」

「黙れ!」

 私は思わず尖った言葉を残雪に投げ付けていた。このような惨めな状況に縋らねば自分の生きる導も得られぬ状態は矢張り喜んで受け入れるものではなかったのだ。今頃になって気付く。

 しかし残雪は何も臆することなく、

「過程や方法を深く考えなさるな。得ようとしている結果にのみ自尊の心をお持ちあそばしくださいますよう」

 と私にはよくわからないことを言った。

 知った風な口をと伊福部が口中呟くのがわかった。


 結局私は残雪を切ることはできない。

 みっともなくとも何でも、兎に角私はこの先も輝きたいのだ。今のような飼い殺しの生き方は矢張り私には似合わない。


 残雪は当面の生活費という名目で僅かばかりの米と味噌と、そして酒を所望した。但し当人はまるで下戸らしい。

「其の方は何処で寝泊まりしているのだ? どうだ、当館に…」

 どうせ雇い続けるならそうした方が良い。

 下手に其方此方動き回られても適わぬし、今後斬り捨てる場合も手元に置いておいた方が都合が良い。しかし残雪は、何処其方に宿を求めてあります故と私の申し入れを柔らかく固辞した。

 本当に喰えぬ男だ。

 喰えぬ男は一度深々と頭を下げ音もなく立ち上がると、すと障子を開け暫時外に目を遣った。

 眩しいのか、はたまた目が悪いのか眉間に縦皺を彫り、瞼を窄める。

「このあたりに大きな墓所があると聞きましたが」

「ボショ? ああ」

 それは本当にこの館の目と鼻の先だ。かと言って濡れ縁から見えるものでもない。

 墓所と言っても無縁仏から野垂れ死にからそうした不遇な死者を含めた新仏を半ば放り投げるように埋葬する場所に過ぎぬ。家族のある者はそれでも、卒塔婆くらいは立てられるが。

 因みに三光坊家の菩提寺はその墓所を足元に見た小高い丘の上にある。

「少し離れた所にな」

「そうですか」

 残雪の質問の意図は何なのだろうと思いつつ、自分もいつかはその墓の群れのいずれかに埋葬されるのだと思った。

 丘の上か下かはわからぬが。

 少し寂しいような儚いような気分になる。

 残雪はまた参上致しますと言葉を残して立ち去った。

 伊福部はその背を睨みつけたまま、暫く残雪の立ち去った方向に顔を向けていた。

 気付けば外は雨。


 その夜。

 ちりちりと燃える蝋燭の火に見るともなしに目を遣りながら、今尚降り続ける雨の音を聞いていた。

 この数年寝酒がなくてはまるで寝付けぬ。今夜は揚げた餅に軽く塩を振った物を宛てに一人飲んでいた。

 風はない。

 それでも蝋燭の火は揺れるものなのかとそんなことを考えている。

 折り曲げた膝の中がきりきりと痛む。肉体的な衰えでおのれの老いを実感するのは厭なものだ。

 何の気なしに触った顎の線が気に入らなくて手に持った揚げ餅を庭に放り投げた。伊福部がこれを見ていたなら烈火の如く怒ることだろう。

 色々と堅物なのだ、あの爺さんは。

 だからこそ律儀に、自分の人生を私のような女に全て捧げている。それもこれも往時私の父にそう厳命されたからに他ならないのだが、伊福部とて伊福部なりの理想の一生と言うものがあった筈だ。

 土や砂利や熊笹を叩く雨垂れの音。

 それ以外に何も聞こえない。

 酒がなくなった。替わりを持ってこさせようと片膝立ちになる。

 と。


 せんぽく、かんぽく、


 せんぽく、かんぽく、


 雨音の間に間に聞こえる。音としてはっきりそう聞こえるのではなく、無理矢理に文字として表すなら、


 せんぽく、かんぽく、


 軽快なようでいて何処か物悲しい音だ。

 蔵座の風習で死者を弔う場合、死者が生前愛用していた食器を一つ墓に供える。供える物は何でもいいのだが、大概は飯茶碗を選ぶことが多いようだ。

 それが午の会話に出てきた墓所に所狭しと並んでいる。

 それはもう夥しい数である。

 それでも縁者の絶えた者たちにとっては墓それが標となっていた。

 その飯茶碗などが雨に打たれ、そんな奇妙な音を鳴らしている。


 せんぽくかんぽく、


 加えて、

「提灯?」

 櫟と白樺の雑然と林立する雑木林。ほとんど真闇であるが、うっすらと見える木々の影の向こうに火の灯かりが見えた。確かあのあたりは墓所へと向かう細い道が延びていた筈だ。

 誰かを葬るのだろうか。

 こんな夜中に?

 こんな雨の日に?

 しかし私には関係ないことだ。そろそろ眠らなくてはと思いつつ、私は木々の間に明滅する提灯の灯かりから目を離せずにいた。

 もしかすると罪咎のある者を葬ろうとしているのかも知れない。

「違う」

 此処数年蔵座にあって、死罪になるほどの大きな罪を犯した者はおらぬ筈だ。

 ならば。

 遠くにある人影の顔は見えない。

「ああ」

 まさか下男の埋葬か?

 そして今更に実感する。

 本当に殺されたのだ、顔も名も知らぬ下男は。そしてそのきっかけを作ったのは誰あらんおのれである。

「私は…」

 残雪の策に乗っただけ。

 それもこれも御山様の胤を身に宿す為でありひいては伊福部やら誰やら其やらこの東館に関係する者どもの幸福の為…。

 わかっているそんなものは自己欺瞞だ。

 ただ、今は、それでいいのだと誰でもいいから一言言って欲しかった。

 時季外れの蛙の声。


 自分の言葉をきっかけに死んだ者がいる。


 まるで童女が嫌々をするように頭を抱え左右に激しく振った。この数年結うことなくなったおどろ髪が更に乱れる。

 気付けば雨は止んでいた。

 提灯の灯かりは動くのを止めていた。

 あの場所は間違いなく墓所である。どうしてそれがわかるのかと言えば、雨がやみ月が出、その月明かりに黒々と影を屹立させている千年桜の姿が提灯の小さな明かりの真横にはっきりと見て取れたからだ。

 あの化け桜は墓所の真ん中に生えている。

 矢張りあの提灯の灯かりは下男を埋葬する為のものなのだ。

 館の主が乱心し、そして突き殺した下男。

「ふん、どうでもいいわ」

 強がる。誰に聞かせるものでもない、自分の縮む心に対してである。口に出し音にして言い聞かせるのだ。

 明日も残雪はやって来よう。


 翌日。

 残雪は陽が昇って間もなく館を訪れた。伊福部などは露骨に嫌悪感を表わし入れずともよいと怒鳴った。私はと言えばあの後飲み繋いだ酒が未だ後ろ頭の奥の方に残っているような、自分が粕漬けにでもなってしまったような、つまりは二日酔いの状態で只座っていた。眼球の奥から耐え難い倦怠感が染み出てくるようだ。

 取次ぎに出た下女がどう説明したものか、残雪は音もなく廊下を渡り、矢張り音もなく襖を開けた。

 膝を折り低頭している。

 私は暫く男にしては少々小振りな残雪の頭を眺めていた。

「残雪よ」

「はい」

「私は矢張り人死にが出るのは好かぬ」

「そうですか」

 声音が微々とも変わらぬ。

 まるで平板でまるで感情の籠らない声だ。

「そうですかではない。これ以上人が死なぬようにはできんのか?」

 できんのならばもうやめにしたいとは言えぬ。そんなことを言って眼前の男を放逐してしまっては、一体どのような場所でどのような放言をされるかわかったものではない。

 残雪を手放すのなら斬らねばならぬ。しかしその命令とて私には下せまい。

 私がもっと冷静に、そして冷徹に物事の判断ができる者であったならば。

 残雪は私の許しも得ずに面を上げ、さてと小さく言った。

 口調や仕草は老成して見えるが、まだ年若い。

 因みに残雪の今の行為、無礼打ちで斬り捨てられても文句は言えない。しかし私も、そして伊福部も、そのような血腥い真似の出来ぬ人間であることをどうやら残雪は早くも見抜いたようだ。

 根拠はないがそう思う。

「東様」

「私は」

 鈴蘭じゃと続けようとして結局やめた。このような男にその名を知らせ呼ばせて何の得がある。尤も特別隠しているわけでもない故調べれば直ぐに知れることではあるが。

 残雪は明らかに不躾な、まるで値踏みでもするかのような目線を私に送り、

「通称で呼ばれるのはお嫌いなのですか、鈴蘭様」

 そう言った。

 ここまで来ると流石に悪寒が走る。しかし物は考えようで、純粋に結果のみを求めるならば残雪のような男は矢張り必要なのかも知れない。

 結果とは無論、御山様の御落胤を此の身に宿すことである。

 年齢のことを考えるなら時間は余りない。「ふん。鈴蘭とて通り名じゃ」

「存じております。本当の名も」

「よい。言わずともよい」

「それでいいのです」

「なんだ?」

「結果にのみ拘泥なされよ。潔くあるのは美徳ではない。確かに時間はないのですから」

「何を」

「いえ」

 何なのだこの男は。覚りの怪か?

「…残雪よ」

「はい」

「…あ。うん。…今後も貴様と誼を通じたいと思う」

 伊福部が片膝を立てそうになるのを目で制する。

「しかしだ。先に言った通り私は人死にが出るを好まぬ。つまりは成るべく人が死なない方法を採りゃれ」

 私の言葉に残雪は暫時蛇のように固まっていたが、やがて薄い唇を開いた。

「鈴蘭様、言葉とはそれだけのもの。本来言葉自体には裏も表も御座いませぬ。おのが意を十全に相手に伝えたいと欲さばそれ相応の量を舌先に乗せねばなりませぬ」

「それが…」

 何か言葉足らずなところがあったろうか。私の要求は単純であるし、失言もないように思う。自分なりに言葉を選び冷静に話したつもりだ。

 いや、待て。

「あ。あの、成るべくと言うのは」

 残雪はすっくと立ち上がり、また参上致しますと薄い背から発し颯爽と退出した。

 私は何かを掴もうとしているような中途半端な姿勢のまま、とりあえず伊福部を見た。

「姫。あの男の策では死人は想定内。一度関わりを持った以上今更どうもならないようであります」

「伊福部」

「しかし若し、姫がこれ以上犠牲となる者を出されたくないのであれば。この伊福部福四郎、初めて人を斬らせて頂くことになりましょう」

「爺…よい。もうよい。誰も斬るな。人死にが出たとて所詮は西館。顔も名も知らぬ者。であるならばそのような事柄我々には有って無きが如し。違うか」

 違う。だからそれは自己欺瞞だ。しかしそれでも、この先又顔も知らぬ赤の他人が斃れることよりも、幼い頃より実の父以上に親しんだ者に苦痛を味わわせることの方が。

 伊福部は音が出そうなほど奥歯を噛んで、何かを必死に耐えている。

「…しかし伊福部。一体あの男誰が引き入れた」

 私の愚痴のような言葉に、伊福部はこれ以上開かぬと言うほど目を開け、

「姫では御座らんのか」

 と言った。

「私は知らぬ。私が知らぬ間にあの男はこの館に入り込んでいたぞ」

「なんと…」

「本当に伊福部ではないのだな」

「滅相も御座いませぬ」

 繰り返すがこの館の諸々の決定権があるのは基本的には私であり、それ以外で考えられるとするならば伊福部しか居らぬ。

「何とも、気に入らん」

「ええ。気に入りませんぞ、姫」

 明らかに残雪は誰かを謀ってこの館に出入りしている。それでも結果として御山様の胤を宿すことができたのならばそんな瑣末なことはどうでもよくなるのだろうか。

 しかし人死にはどうだろうか。

 これ以上その異常が続くとしたならば。

 私の精神はそれほどに図太くはないように思う。


 夕餉は白米、木の芽味噌を塗った煮蒟蒻、菜っ葉の漬物、牛蒡汁、御浸し、胡麻豆腐、湯掻いた独活に胡桃ダレを掛けたもの。

 忙しなく立ち働く下女らを横目に見、今以て尚西の主は残雪の策に因り恐々としているのだろうかと夢想する。もそもそとした思いに囚われているが故、上品な塗箸で蒟蒻だの飯だのを口に運んでいるのだがまるで味がしない。

 これでいいのだと言う思いと、全てを晒し断つべきものは断たねばならぬと言う思いが交錯して、やがて私は悪酔いでもしたような実に不快な気分になった。

 もう入らぬと膳に箸を置いた時、何ともとっ散らかった騒々しい足音が鳴り響き、午から姿を見ることのなかった伊福部が部屋に入ってきた。

 明らかに尋常ではない顔付きをしている。

 どうしたと。その簡単な一言を発するのが躊躇われた。

 伊福部は赤紫の顔で、暫く暫くと繰り返している。余程慌てているらしい。それだけで十分凶報であることが知れた。

 ここまできて御山様が我が館に来るのをお取りやめになられたか。

 私がまさか御山様がと言い掛けると伊福部は否さと首を振った。

「さ、左様ではありませぬ…」

「では」

「はい。西の館でまた人が死にました。あいや、殺されました」

「な…」

 それはとても厭なこと。

 しかしそれでも、待人不来よりはましだと何処かで思っている。それは私の心奥のほんの一部分の思いではあるのだけれど、とても深く重い思いだ。

「誰が。今度は誰が」

「侍女だそうで」

「侍女…」

 果して麻痺したものか現実から逃げているものか伊福部の言葉に心が萎縮することはなかった。

「殺したのは真実西の女か?」

「自分が聞いた話ではそういうことになっております」

「聞いた話な。誰から聞いたのだ」

「は。先の下男の死を知ったのと同様、村の者の噂話に御座います」

 そうだ。死んだの殺したのと騒いでいるが一切確証のある話ではない。

 昨晩のあの提灯の灯かりとて、村の者の埋葬だったのだ。きっとそうだ。

 食欲がすっかり失せた。

 私は膳を下げさせ、煙草の用意をさせた。残雪の土産の刻み煙草がまだ残っている筈である。

 細工物の煙管に均等に刻まれた煙草の葉を詰め、火鉢の火で吸い付ける。

「…何だこれは。あの煙草ではない」

 一口吸っただけで蔵座で作られた辛いばかりの煙草だと気付いた。

 私は館の消え物の管理をさせている下男を呼んだ。

 下男は何だか酷く萎れていた。明らかに様子がおかしい。

「あの煙草をどうした」

「そ、その煙草がそうで御座います…」

「嘘を申すな。味がまるで違う」

「しかしあの、日が経ち少し味も変わったのでは…」

 萎縮し脂汗を流す四十絡みの使用人に私は火の突いた煙草を盆ごと投げ付け、

「ふざけるでない! 煙草の味くらい区別が付くわ!」

 使用人は喉の奥から悲鳴を洩らし、地に平伏しただ只管に頭を下げた。

 どうやら売り払ってしまったらしい。

「その金は」

「あぁ…いや…」

「お前の懐かえ?」

「あぁ…」

 心底怯えている。そのあまりの怯え振りに多少の哀憐の情も湧かないでもなかったが、この男は私を見縊ったのだ。それを思うと怒りが肚の底から湧き起こる。

「金はお前の懐に落ちたのかと聞いておる」

「へ、へえ。それは高い値で買い取ってくれるという仁が現れやして」

「何者だ、それは」

「へえ。知りやせん、初めて見る男で」

「ふん…」

 家政のほとんどは伊福部に任せてある故目の前の震える男が信頼に値する者かどうか、正直私には何一つ判断材料はなかった。

 目を瞑った方がいいのだろうか。しかしそれでは他の者に示しが付かぬだろうし、何より今のこの忌々しい思いは一体どうすれば解消できるのだとそこまで考えて、不図西の女のことを想った。

 闇を嫌う者が延々闇に脅かされ追い込まれて、ある時ぽんとその闇を作り出していた者が知れる。例え勘違いでも謀られたのだとしても、信じ込めば犬でも親の仇であり、況してや精神的に追い込まれている状態…

 ぞくりとした。

 凝り固まった感情の爆発は往々にして取り返しのつかぬ事態を招く。もし今さっき、私の手元に煙草盆ではなく太刀や槍があったとしたなら。

「もうよい」

「へ?」

「もうよい去ね」

「へ、へへぇ」

「二度と顔を見せるな。この館に近付けば、次はその癖の悪い腕を」

 私が全てを言い切る前に男は脱兎の如き勢いで走り去った。

 男が走り去って後横を見れば、伊福部が畳に額を擦り付けんばかりの勢いで土下座をしていた。

「やめよ、伊福部。そちのせいではない」

 よくよく見れば伊福部は肩を震わせ泣いているではないか。そこまで気に病む出来事でもないと思ったが、私も居た堪れぬ気分となり早々に自室に引き籠った。

 御山様の久方振りの訪問と言う果報も霞むほど矢継ぎ早に厭なことばかりが起こる。ただでさえ鬱屈したものの発散が苦手な質であるのに、このままでは潰れてしまいそうだ。

 酒も飲まずに半ば不貞寝でもするように布団に入った。

 初冬の夜気に冷え切った絹の布団はなかなか暖まりはしない。

 闇に溜息を放つ。

 西の女はこの視界いっぱいに広がる黒が怖いのだ。

 闇とは一体なんであろうか。

 目に見える世界の様相が変わるだけで、例えばこの部屋の中は何も変わらぬ。当たり前と言えば当たり前過ぎる話であるし、改めてあれやこれや考えを巡らすようなことではない。

 しかし。

 本当に私の部屋の様相は午に見た時と今と同じなのだろうか。一度疑念を持つとそれは瞬く間に膨らみ、やがて頭の中を支配した。

 私は跳ね起き、記憶を頼りにあたりを弄った。

 記憶通りの物が記憶通りの位置にある。

 当然だ、阿呆らしい。

 布団に潜る。ほんの少し身を剥がしただけであったのに僅か付きつつあった温もりが綺麗さっぱり消え失せてしまった。まったく阿呆らしい。何をやっているのだか。阿呆らしい。

 闇に溶けた何者かが覗き込んでいたら。

 私は再度跳ね起きた。瞬間何か理由を付けて人を呼ぼうかとも思ったが、一方で何を無根拠に怯えていると思い直した。

 動悸だけが矢鱈に早い。

 何を下らぬ妄想に追い込まれている。

 そして音がする。


 せんぽく、かんぽく、


 雨も降っていないのに、無縁仏の墓標が鳴っている。


 せんぽく、かんぽく、


 遠目に提灯の灯かり。

 嗚呼あれは殺された侍女の葬列なのだ。


 雨が陶器を打ち、せんぽく、


 私は、


 雨が漆器を打ち、かんぽく。


 叫ぶように人を呼んだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ