(十九)
その日の訪れは蔵座国国主三光坊頼益にとっては、まさに晴天の霹靂であったろう。
頼益という国主は、暗愚は暗愚なりに自分という人間は名にのみ実があると認識していた。そして頼益なりの理屈であるが、自分が連夜貪るように女色に溺れるのは下の者が自分にかわって執政の主導権を握り易い様敢えて駄目な国主を演じてやっているのだと、人知れず思っていたものだ。
政治能力も統率力も人徳もない、そんな自分を弁えていると思っている。
であるからそれでいいと、蔵座はそうして運営されていくのだと信じていた。自分が能天気に女の尻を追いかけ続けてさえおれば蔵座は安泰だと。それで永劫、今の生活が続くと信じていた。
三光坊頼益、やはり暗愚。
破壊者は雷光のごとし。
迅速に、しかし地を這う虫を思わせる気配のなさを以て蔵座の中枢に出現した。
破壊者は尾に猛毒を有した銀の蠍である。
蠍に関わった者の話を聞いたならば、まるでその者偶然を操るがごとき、神算鬼謀縦横無尽の印象を受ける。
だが、その者の目線を辿ってみればなんのことはない。その者は単純にして的確に、おのれの息のかかった者を幾人も蔵座の要所に配置したに過ぎない。ときに名を騙らせ、または取引をし、或いは買い取って。
蠍の為す所業に、偶然を操るがごとき、神の手のような畏怖感を覚える者は得てして目線を蔵座側に置いている。実はそうではないのだ、地べたは蔵座でも、立脚点は蠍の策中にあると知るべきである。
どこまで行っても蠍の掌中から脱し得ぬ。
当然だ、小さいといえど一国を動かそうというのだから、自然、策も大きくなろうというものだ。
無闇に動じず、じっくりと蠍の動静を観察せねばならない。
地を這う虫の毒の尾は、刺されたが最後。悶え苦しんで死にたくなくば、その毒虫を見つけ次第叩き潰すが得策か。しかし気配なく足音なく、姿を現したときは背後を取られている。
残雪の策略は幾つもある。
正十郎はこの二日でなんとか駆け足まではこなせるようになった。とはいえ結局、馬を御せるようになったわけではなく、馬の動きに体を合わせられるようになったというほうが正しい。
それでいいと、残雪はいう。
見た目こそ肝要と。
ならばそれでいいのだろう。
紙のように白い顔をした桜に見送られ、一番鶏の声とともに正十郎を先頭とした一団は山寺を出た。正十郎以外の郎党らは具足こそ身につけていないものの、総じて黒い装束である。
正十郎はおのれのほとんどを残雪に委ねているが、ひとつ懸念があった。
「村落の者は来てくれるだろうか」
全身を墨に染めて。
「集まりが悪ければ策を変えるまで」
「変えるのか? 今更」
とはいえ正十郎は残雪の頭の中を知らぬ。これから人の業を超えた行いをなそうというのに。
あれほど蔵座に反旗を翻すことに前向きであった桜でさえも、出立の朝はまともに正十郎と目も合わせなかった。
これから向かうのは、死地なのだろう。
浮かれているように見える郎党らも、実際は興奮に脳がやられているだけなのかも知れぬ。
「まあ、あれだな。集まりが悪いようなら日を改めても、なあ。なんだかんだいっても策を変えるのは厭だろう?」
「日は変えぬ」
「そ、そうなのか」
「悠長に構えていられなくなったからな」
蔵座執政代官石切彦十郎邸に密偵として送り込んでいる女から情報が入り、隠密裏に七鍵と通ずる可能性があるとは、残雪はいわない。
「来るかな」
「貴様が気に病むことではない」
残雪の背筋は伸びきっていて、馬の操る手綱捌きも堂にいったものだ。
正十郎の言葉は止まらない。
「昨日の時点で、まるで墨に近づく者はいなかったと聞くぞ」
昨日は昨日だといって残雪は痩せた荷駄馬の腹を軽く蹴った。馬は鼻先を一度上げ軽く嘶き足取りを速めた。正十郎(を乗せた馬)も続く。
川のせせらぎ。
二本松家が近づく。
正十郎は空唾を呑んだ。
居た。
しかしひとり。あれは、
「二本松の」
総代。気の強い女房から話を聞いて、それから何を考え今に至ったものか。決して気の狂った同輩を諌めに現れたわけではないことは、彼が身に纏った黒衣からも知れる。
「たったひとり。残雪よ、たったひとりで何ができる」
後ろに徒歩にて従えた郎党らを加えても四人である。
「これからよ」
残雪は戛と馬を前へ出し、
聞け
天高く声を放り投げた。
姿は現わさずとも、村落の者皆残雪の声にに耳を寄せているのは気配で知れた。
残雪は馬を疾駆させ村落を巡り、
歌うように宣告を放った。
夏は風の冷たさに泣き、
秋は実りの乏しさを嘆き、
冬は寒さと飢えに苛まれ、
春に同じ一年を繰り返す気鬱さを思う。
家の継続には子を生さねばならぬ。しかし産まれても育たず、育っても喰わせるものがない。人は老いる前に死に、病になれば打ち捨てられ、要らぬ児もまた殺される。
蔵座に生まれ蔵座で暮らす諸君であるならばそれはごく普通のことであろう。それ以外の生き方が自分にあると、自分にもできるとそんなことは僅かばかりも考えたことはあるまい。
しかし考えろ。
時間はもうない。
我々は堕府の先遣隊である。
堕府はじき蔵座を呑み、おのれの身の一部とする。諸君らは単純に蔵座の民から堕府の民となるのか。残念ながらそれは違う。堕府領には堕府人しか住めぬ。
なにを以て堕府人かと問われたならば、こう答えよう。
堕府人とは、
大堕府に利を成す者の総称である。
たとえば狗賓正十郎。狗賓は堕府に認められた者である。狗賓殿は堕府に有益なるものを齎した。
よいか。
大堕府は蔵座の寒民など要らぬ。蔵座の土地を管理するには、堕府から相応の者を派遣すれば足りる。堕府が欲しいのは堕府に利を与える良民のみである。勝手なことをという思いもあろう。しかしこれは当然のことである。侵略と支配に一切の公平さは存在せぬ。
それでも、堕府に与せよ。
一命を賭して守る価値が今の蔵座にあるか考えよ。生き残るには今、この瞬間を逃してはならない。
蔵座は堕府に勝てぬ。
堕府は蔵座を諦めぬ。
さあ出でよ。
家を出、顔と衣を墨色に染めよ。
堕府に協力するのだ。
蔵座から三光坊を追いだすのだ。
ひしゃげた家からこぼれおちるように若い男がひとり、道へ転がり出た。
「ほ、本当に堕府の軍勢は来るか」
残雪は馬上、若者の顔を穴の開くほど見、
「待ってみるか」
といった。
若者は一度振り返り、戸口に心配顔で立つ若い女房と子、老いた父母を見つめた。
「若人よ、今朝はなにを食べた」
「なに喰った、だと?」
「答えよ」
「栃餅だが。あと、於朋泥のおここ」
「腹は膨れたか」
「ふ、冬に、は、腹が膨れっほど喰えるもんかッ」
「蔵座ではな」
残雪は雑嚢から干し肉を取り出し、若者に手渡した。
「これは」
「豚肉の塩漬けを干したものだ。そうだな」
猪は見たことがあるだろうと問うと、若者は干し肉を握りしめたまま何度か頷いた。
ぷん、と塩と香草の匂いが辺りに漂い、条件反射的に若者の腹が鳴った。
「喰ってみろ」
「これをか?」
戸口に固まる家族は若者の動向を固唾を飲んで見守っている。
若者は両手で干し肉を鷲掴みにしたまま、ゆっくりと、酷く緩慢な動作で静かに口に入れた。
噛む。
噛む。
噛む。噛む噛む。
蔵座では手に入らぬ海の藻塩と香草の独特の香。脂の旨味。赤身の甘味。若者が咀嚼するたびに、干し肉の匂いが緩々と周囲に拡散していった。
周囲に点在する家々はひっそりと静まり返っているものの、その状況を見守っていようことは冬の朝の凛とした空気に時折走る、罅割れのような感覚で知れる。
噛む噛む噛む。
いつしか若者は鼻水を垂らし、あまつさえ涙まで流していた。
蔵座に居ては良質の蛋白質を得る機会も少ない。獣肉の味に涙するのも無理からぬことかも知れぬ。
「うまい…堕府の…嗚呼うまい。…堕府の人間は毎日こんなものを」
残雪はなにも答えず、ただ後方遠くに据えられた木桶に目を遣り、無言のまま馬腹を蹴った。
「だ、堕府に協力すれば暖かい寝床がもらえるか?」
「請け合おう。私はそのためにここへきた」
残雪は駆け去った。
そして再び、先と同じ宣告を繰り返す。
気づけば若者は疾駆し木桶の墨を頭から被った。そのまま、体が、そして気持ちが凍えて身動きが取れなくならぬよう大声で、
「うまいもんとあったけえ寝床と! 俺はそれを手に入れる!」
いって、走る。
村落を巡る残雪を追う。
二本松も走った。
正十郎と郎党らは互いに顔を見合わせ、ついていったほうがいいのかを思案している。相変わらず残雪からはなにも聞かされていない。ということはつまり、狗賓家が今動こうが動くまいが関係ないのだろう。尤も動いたところで徒に残雪の背を追うばかりで、なにをすればいいのかまるでわからぬ。正十郎を筆頭とした一団の視野は酷く狭まっている。だから、先の若者にしても二本松にしても、昨日の段階で残雪に金で買われている事実に勘付くことはない。若者の思わせ振りな演技に疑いを抱くことすらないだろう。
ただその愚鈍さと純朴さは、残雪にとっては良である。
堕府に拠ることで壮麗な装い、それに付随する豪奢な生活を手に入れたであろうと思わせる正十郎を主軸に、蔵座では比較的成功した者と認識されている二本松が先陣を切って黒衣を纏い、次いで家族を抱えた類型的な蔵座貧民の若者が付き従った。
残雪が二日置いた理由も、敢えて丸一日考える時間を蔵座の民に与えるためである。
考えれば考えるほどろくな記憶のない来し方をいいだけ反芻させるために。
残雪が適当に家々を巡って正十郎のもとに戻ってきた頃には、後背に十数人引き連れていたものだ。
それらは純粋に、残雪に煽られた者どもである。
「残雪」
「さあ、行くぞ」
「行くとは」
十数人は息を切らして頬を赤く染め、そして全身を墨色に染めた。
「蔵座城だよ」
「こ、この人数でか」
「今から村落の大通りを抜けていく」
郎党のひとりが背に負っていた幟(これも墨色一色である)を一本一本集まった者どもに手渡していった。
「同じようにいうのだ」
「なにをだろうか」
「先程私がいったのと同じように。多少ならば意訳してもかまわん」
そして残雪は、正十郎の乗る馬の尻を盛大に引っ叩いた。
「はじめるぞ狗賓!」
疾駆する黒鹿毛を追う残雪。
その後を幟を手に走る、墨衣の一団。
「叫べ狗賓、夏は風の冷たさに泣き」
「な、夏は風の冷たさに泣き!」
「秋は実りの乏しさを嘆き」
「秋は実りの乏しさを嘆き!」
残雪は顔を斜めに、後方にもいう。
「諸君らも一緒に叫び給え。冬は寒さと飢えに苛まれ」
「冬は寒さと飢えに苛まれ!」
たちまち言葉は十数人の合叫となる。
その声と勢いに、今の今まで悩んで家に隠れていた者たちも意を決する。
このままじっとしていてもやがて訪れるのが死であるならば、悪足掻きでも動いたほうがいいと。
誰でもそう思う。
叫ぶ正十郎、
付き従う黒い集団。
勢い弥増すその声が届いたわけではないのだろうが、
蔵座の城、天守からの遠望。
頼益はあれはなんだろうかと首を傾げた。
横にはいつもの男と、今日も道了尊の姿があった。
遠く、牙城の麓のほうに黒い染みのようなものが見える。
そういえば、と若干芝居がかった口調で道了尊が口を開いた。
「堕府軍が蔵座に侵攻するとかいう噂があったとか」
所詮噂は噂である。その程度の噂ならば数年に一度耳にする。しかし道了尊は、やはりどこか地に足のついていない口振りで、
「黒。あれは黒い軍装をまとった兵士の群れではありませぬか?」
といった。頼益が待てと牽制するのも聞かず、
「幟が見えまする」
と大きな声で叫んだ。
「幟が!」
大兵が大股一歩で道了尊に近づき、その口を押さえようとした。
道了尊は半身を引き、触るんじゃないとやけにきっぱりいった。これ以上舐められてたまるかと、そう思っている。
身分を弁えろ、下郎。
あれは本当に堕府の軍であろうかと、道了尊を攫み損ねて佇立する児喰高明に頼益は尋ねた。しかし答えたのは道了尊。
「黒い幟と黒の軍装。黒一色は堕府軍の証しで御座る。物の本にもあったでしょう」
「ああ、本。本、な」
どうせ読んではいないのだ。しかしそんなことは道了尊は織り込み済みであるし、だいたい本など読まずとも、黒い軍といえば堕府であると日輪に住む者ならば誰でも知っている。
鬨の声が聞こえた。
頼益は再び外を見る。
染みのような黒は人の群れであり、真実ほとんどの者が墨色の黒衣。
曇天の下、山の麓から寄せる黒い集団は総勢百人はいようか。
その先頭を騎乗の者が先導している。
あはたそ。
「彼は誰そ」
頼益は外を指差す。
未だ爪を噛む幼癖の抜けぬ国主のがたがたの指先は遠く、赤い具足の武人と白い外套を風になびかせた怪人を指差していた。
誰かと問うているのは白いほうだろう。
児喰は首を横へ振る。道了尊もそれを真似た。
残雪よ、本当に大丈夫なのだろうなと心中念仏のように何遍も唱えながら。
同刻。
蔵座城の上級士官室では伊福部福四郎が。
兵卒のたむろする広間では飯綱が。
堕府が攻めてくるぞと声高に騒ぎ立てている。
平素焦燥することのないふたりであるだけに、額に汗し口角泡を飛ばし大声を捲し立てるだけで少なくとも兵卒らは動揺した。
伊福部の兄、石切彦十郎のみ臍を噛む思いで、久方振りに顔を合わせる弟の話を聞いていたものだ。
間に合わんか。
慌てる半弟を宥めることもせず、石切は今後の身の振り方を考えている。七鍵に亡命するか。ならば、あの女を連れて行こう、などと。
それでも只管に哀しかった。これで蔵座は戦乱に巻き込まれることだろう。何故なら堕府に支配されることを軍国七鍵が看過するわけがないからだ。
否。堕府に支配されただけで、蔵座は灰になったに等しい。堕府とはそうした国。
座を立つ際、どうして今回の事実を知り得たのだと半弟に問えば、半弟伊福部は微かに震える指で外を指し示した。
「遠く、堕府軍が襲来するのが」
先ほど聞こえた音は鬨かなどと石切はもらして、伏戸を開け放ち白茶けた外を見た。
黒。
遠くてよく見えはしなかったが、あの黒がすべて軍装であるならば、黒の単色揃えは間違いなく堕府軍の証拠である。
日輪で軍装を黒で統一している国は堕府のみである。
「あれは…」
石切は息をのむ。
「あなや、狗賓正十郎かッ!」
牙状の裾に広がった黒い染みは近づくにつれ形を成し、やがてそれが人の群れだと知れる。粗く数えて三十人は居ようか。中央の赤い具足は石切のいう通り狗賓。それに従う群れは黒い姿に黒い幟を押し立て、我々は大国の兵であると誇示している。行軍は速からず遅からず、威厳を保ちつつ且つ勢いを殺さぬほどの速度であると思えた。
伊福部がいう。兵は出すのかと。
「出さずばなるまい。しかしッ」
守るも迎え撃つも何もかもが不備である。それでも国主は守らねばならず、結果石切は大声で一度吼えた。
本当になにもかもが、ぬるい。
当面の懸念材料は狗賓正十郎の血のみであり、ならば過剰な警戒はせず、急がず、確実に段階を踏んで準備をしていけばよいとそう思っていた。
おのれの認識の甘さを痛感しつつ、予定が狂った元凶を蔵座では見慣れぬ風体の、白い男に見る。
石切は外へこぼれ落ちんばかりの勢いで前のめりになり、
「あの銀髪の男は何者だ!」
大音声で叫んだ。
その声が聞こえたものか。
銀色の長髪を風に靡かせた男は、
まっすぐ城を指差した。