(十八)
其の男は非力である。
腕っ節のみの話だが。
情報は武器であるという。
おのれの目的を成就させる為、有益な情報を得、有能な人材を当たる。その為其の男は蔵座の様々な場所に出没し、様々な人間と関わりを持った。その行動のひとつひとつ、人物のひとりひとりが男の見ている世界に繋がっている。
緩々とはじまった男の策略は、いよいよ仕上げの段階へと入っていた。
「馬に?」
「乗れんか」
「当然だ、馬など乗ったことがない」
狗賓正十郎は泥沼の底のような精神状態から脱し、今は比較的能動的に残雪と言葉を交わしている。
どうした心境の変化か。
慣れただけ、かも知れぬ。
残雪は朝も明けぬうちから狗賓家の郎党を連れて出、午過ぎに戻ってきた。
戻ってきた郎党は意気揚々と、黒鹿毛の大層立派な馬と、薄汚れた荷駄馬を二頭牽いていた。
それが先の会話に繋がる。
荷駄馬の背には柳行李がふたつ振り分けにされていた。
荷を山寺の中へ運び入れた郎党になにやら指示して、残雪は柳行李を開けた。
中には紅い具足が一揃い丁寧に入れられていた。
「馬といい、その具足といい、いったいどうするのだ、残雪」
「具足は貴様が身に付けるのだ」
「自分が具足を? 待て。い、戦はせんのだろう」
「せん」
「ならば」
残雪は正十郎の言葉を話半分に聞き流しつつ、緋い錣に下弦の月輪を模した前立ての付いた兜やら、矢張り緋縅が美しい大鎧やら、そのほかにも手甲やら脛当てやらを取り出しては丹念に見る。
「それを自分が」
正十郎は半笑いの体である。まるで現実感がない。それもそのはずで身を鎧うなど生まれてこのかたしたことがない。
それも、
「随分と古そうな物だな」
華麗ではあるが前時代的な具足であった。残雪は手に付いた埃を払うと、敢えて古い物を仕入れたのだと答えた。
「何故」
「そもそもこの具足は典礼用」
「つまり実戦では役に立たんと?」
「役に立たないこともないが、無駄な装飾ばかりが多くて戦いにくいだろう」
「ん、ああ。確かに酷く動きづらそうだ。これでは存分にやっとうもふるえまい」
「しかし反対に、今様の具足は機能性に重きを置き過ぎるきらいがあるゆえ、見た目の壮麗さに欠ける」
「壮麗、なあ」
「なんだ」
「いや。残雪からそうした言葉が出るのが、どうも」
「意外か」
「うむ」
残雪は爪に入った埃の塊を気にしている。いったいどれほど永い間放っておかれた物を運び込んだものか。
「確かに私はものの赴きを解さぬ朴念仁よ」
「いや、そこまではいうておらんが」
「しかし狗賓、今回はこの」
残雪は再び具足を見た。釣られて正十郎も目を遣る。
「見目の麗しさこそが肝要なのだよ」
具足のすべてを身に付けるのに随分と手間取り、あまつさえその格好で馬にも乗らねばならない。幾ら正十郎が不平を述べようと残雪はそうした意見は一切耳に入れない。
それでも桜などは、初めて見る我が亭主の立派な姿に小さな嘆息を吐いたものだ。
その後正十郎は庭へと引き出され、半ば無理矢理に郎党ふたりがかりで黒鹿毛の馬の背に乗せられた。
残雪は軽く腕組みをし、声を投げた。
「せめて駆け足程度はしてもらう」
「無理だ。もう一度いうが馬に乗るのは初めてなんだ」
加えてこんな重い物を着せられてと、正十郎はわざとらしく肩で息をして見せた。
正十郎を乗せている馬のほうは至って落ち着いている。余程人慣れした良い馬であるようだ。その姿も大層立派で、後ろで馬草を食む荷駄馬に比ぶればその威容は歴然としている。おそらく正十郎の生涯の稼ぎを宛てても手に入れられる代物ではない。
「残雪」
「金はな」
「いや、まだ何もいっておらん」
「違うのか。具足と馬の代金をどのように捻出したのか気になったのではないか」
確かにそれは残雪のいう通りだが、問い掛けて尚、どうせまともに答えはしまいとも思っていた。
ちなみに柳行李のもう片方には、具足と同じ仕様の馬用の装飾具が入っている。それとておそらく、聞けば目の玉が飛び出るくらいの値打ち物であろう。上品に輝く赤漆の艶が無言でおのれの価値の高さを誇示していた。
「まあ、うむ。高かったろう」
「ああ」
「そんな金、いったいどうやって」
残雪の考えはともかく、馬にしても具足にしてもその調達資金をおのれの懐から出したのであるならば。
残雪はからからと笑い声を上げた。
「単純なからくりよ」
「な、何がだろうか」
馬上の正十郎は慣れない格好に加えて慣れない視座を与えられ、鼻の頭に汗を掻いている。
「蔵座に販路を築きたい者がいてな」
「ハンロ?」
「堕府七鍵間に物流を作りたいのだそうだ」
「堕府と七鍵の間に、ブツリュウ? ブツリュウとはなんだろう。しかしその二国の間になにかを築くなど無理だろう。その、決して相容れぬ二国に挟まれての今の蔵座なのだ」
「思想など所詮支配者の勝手よ。そんなものは民間には関係ない。背景がどうだろうと、品が良ければ物は売れる」
「それはそうだろうが」
「しかし現国主には興味を示されなかったのだ、その商人は」
「はあ、わかったぞ。それで自分が仮に国政を取り仕切る立場になって後、誼を通じたいと。その便宜をはかってくれと頼まれたのだな? その見返りにこの具足と馬を」
正十郎はひとり得心した。自分が国政をなどと口にはしているものの、虚ろのごとき一色塗れの瞳を見るにつけ、相変わらず現実感はまったくないようだ。
残雪はそんなところだといって黒鹿毛の斜め後ろに立つ年寄りの郎党頭にごく小さな合図を送った。
郎党は馬の尻を叩いた。
ぽくり、と馬は一歩を踏み出す。
「ああ、おい。う、動いているぞ」
「馬上でも話は出来る」
残雪も荷駄馬の背に跨った。荷を運ぶ馬にしては若干貧弱な体格をしているものの足取りはしっかりとしており、且つ残雪は馬に乗り慣れているようだった。
「ついてこい」
残雪はどちらかというと正十郎の乗る馬のほうにそういって、山寺の庭から出た。
正十郎は気が気ではない。このような目立つ装いで立派な馬に乗っていては、見つけて下さいと触れ回っているようなものだ。
正十郎は逃亡者なのである。
「村の者にみ、見つかってはいかんのではないか」
楽しめよ正十郎、折角の具足が泣くぞといって残雪は馬腹を軽く蹴った。
「せ、せめて残雪」
黒鹿毛の馬も早足についていく。
「残雪がこちらの馬に乗るほうが似つかわしくないだろうか。じ、自分は」
「あまり口を利くと舌を噛むぞ」
「自分にはこのような立派な馬は似合わん」
「似合うかどうかは見た者が決めよう。加えて高き視座は人を大きくする。上から見下ろすだけでおのれが少し強くなったような気がしないか」
「そんな気持ちになってもだな…じ、自分はどのみち傀儡なのだ」
ふん、と残雪は鼻から息をもらした。
「であればこそ。傀儡こそ美しく飾らねばならぬ。能力がないのであればせめて美しくあれ」
未だ根雪にはなっておらず、道はぬかるんでいる。それでも豪勇のごとき馬と農民のごとき馬は足を取られることなく軽快に四肢を動かし続けた。
人通りのまるでない道ならぬ道を抜け、正十郎にも見覚えのある山道に出る。もう少し下れば村落へと通ずる道に出るはずだ。
やがて川の音が聞こえはじめた。
「それは先の話だろう? 行き着く先が国主の座であろうと、今はまだ一介の兵、いや、最早兵士でもないのだ」
「家が見えてきたぞ」
あれは、と正十郎は無声音に発する。手造り蒟蒻が旨い二本松家であった。
残雪はすうと一度初冬の冷気を肺臓いっぱいに押し込み、朗々と大声を張り上げた。
「さあさご覧じろ。困窮極まる冬の蔵座へ狗賓正十郎が戻って参ったぞ」
平素は耳障りのする金属的な声であるのに一転大声を出したならば何ともいえぬ雅声であった。殷々たる大音声が牙状の峰々に響き渡り、ややあって軒から覗く顔があった。二本松家の気の強い女房だ。
「見よこの御姿。堂々たるものぞ」
二本松家以外にも近隣の者らがわらわらと集まり、馬に乗った正十郎の立派な具足、軍馬騎乗の姿に息を呑んだ。
はたして村落の者どもは自分をどう思っているのだろう。
現国主三光坊頼益にかわり、国の長となることを望んでいるのか。
国家反逆の謀反人として、酷刑に処されることを望んでいるのか。
はたまた、何処へなりと早く姿を消してほしいと望んでいるのか。
正十郎はやや俯き加減に、おのれの姿をなんともいえぬ眼差しで見つめる者どもの顔を見ることもできずにいる。
逃げ出したのだ、自分は。
正十郎はそう思っている。
しかし、実際。
狗賓正十郎を謀反人だと思っている者は村には誰ひとりいない。
蔵座の主城に奉職する者の一部が、狗賓の血統に対して僅かばかりの懸念を示しているのみ。
狗賓家を蔵座の捕吏が囲った事実もない。
それは残雪の捏造である。当然、狗賓正十郎をいいように扱うために。
だから村落の者どもは、正十郎が姿を消したことを聞き知った者らは単純に、正十郎は突如蔵座での暮らしを捨てどこぞの国へか流れていったのだろう、ぐらいに思っていた。
その齟齬には、おそらく誰も気づかない。
残雪以外は。
今、村落の者どもは正十郎を見、正十郎は何処ぞの国で成功を掴んで戻ったのだと、ごく短期間で豪く成功したものだとそう認識している。
一生を擲っても手に入らぬような具足と馬とを手に入れた、成功者。
「どうだ、狗賓」
「どうもこうも…」
「皆、貴様に羨望の眼差しを向けている」
「逃げ出した者であるのにか」
「しかし良い具足を纏い、立派な馬に跨って戻ってきた」
正十郎はおのれを見る。
黒く艶めいている馬のたてがみを見る。
「皆、自分を羨ましいと?」
「当然だ」
溶けた雪でぬかるんだ道に馬蹄は鳴り響きはしないが、それでも颯々と歩く(実際うまく身動きがとれず背筋が伸びているだけなのだが)正十郎を見て、二本松家の女房が声を投げた。
「ぐ、狗賓さん? 本当に狗賓さんなのですか?」
その夫は正十郎の同輩、貰いもほぼ変わらぬはずだ。それでも味噌を作ったり酒を作ったり蒟蒻を作ったりで商いをしている分、二本松のほうが暮らし向きはいいと思われた。いいとはいっても高が知れているが。
「皆はな、貴様の今の姿を見、蔵座の貧しきを再認識し、他国の富裕を夢想している」
「他国とは」
すると残雪は、
「近くこの国を堕府が押さえる」
吼えた。
集まった有象無象は音に聞く日輪最大国家の登場に、戦慄と羨望とが綯い交ぜになった眼差しで正十郎を見た。
そういえば正十郎には堕府に行儀見習いに出している妹がいたなと誰かがいえば、そういえば隣の男の着ているものは堕府人の装いではないかと答える。
ある程度種を蒔けば後は各々勝手に実を育てることを、残雪は熟知している。
「狗賓殿は蔵座出身の情けとして、一度堕府を出、この国の民を啓蒙しに参ったのだ」
すると民衆は啓蒙とはなんだろうかと顔で示す。実にわかり易い。
「堕府とは壮大にして力強き国。必要なものであるならばまるごとすべてを呑み込み、不必要なものであるならば徹底的に排除する。堕府が今手に入れたいのは蔵座のあるこの土地である」
その話なら旦那に聞いたと、二本松の内儀は頬に手を添えた。
残雪はゆっくりと馬を歩かせ、集まった者どもの顔ひとつひとつを見た。
「どうだ、堕府に呑み込まれて後生き残れる自信はあるか。自分は堕府に必要な人材であると思うか」
正十郎は内心穏やかならざるも残雪を見守るしかない。
「今ならば狗賓殿が堕府に取り成してくれよう。但し、蔵座の城を押さえるのに協力した者だけだ」
槍も刀も扱えんわと誰かがいえば、
「そんなものは必要ない。蔵座の城など大堕府の威光の前では紙細工に等しい。蔵座が現今兵として出せる数は百にも満たぬ。一方の堕府は、十万だ」
マンとはなんだといった言葉にはなにも返さず、
「狗賓殿が堕府へと説明し易いよう、諸君らの姿勢を示しておくべきなのだ」
と述べた。
「二日後、我々は蔵座城に参る。それについてくるだけでよい。諸君らが協力してくれた姿は、堕府の使者の耳目に必ず入れよう。自然狗賓殿も諸君らを堕府へと連れて行き易くなるというものだ」
媚を売れといっておるんかといわれれば、
「それで生き残れるのならばそんな楽なことはないぞ。多少の誇りを捨て、かわりに手に入るものは大きい」
衆愚は正十郎の姿を見る。
「それでも堕府に与するなどできぬというのならば、待つのは死である」
死。
重いが、実際にあまりその言葉を現実的に受け止められる者は少ない。
所詮人は現世利益に目を奪われるもの。
蔵座が自棄糞になったとしたら、儂らは斬られるのじゃないかねと年老いたひとりがいう。
残雪は一瞬苛烈に吹いた風に長い髪を散らした。
「明日この場に木桶に墨を用意しておこう。その墨で着ているものも顔もすべて黒く塗り潰すのだ。さすれば万一我らが失敗しても、諸君らの素性は知れず、蔵座の上層から睨まれることはない。尤もそれで生きながらえたところで、やがては堕府の本隊が蔵座を攻めよう」
誰が誰やらわからんのでは堕府の使者だかにも顔を覚えられんのじゃと、先ほどの老人が尤もなことを尋ねる。
「全身を黒く塗るのは意志の固まったときに行う蔵座の習俗であるとでもいっておいてやる。顔は私が覚えてやろう」
皆はお互いの顔を見、半端な表情をかたちづくっては首を捻っている。
残雪は馬上、静かに、しかし深く寒気を吸い込み、
「血の正統は狗賓にある」
続けて、
「大義は我らにあるのだ」
いった。
「諸君らの賢明なる判断に期待する」
正十郎は結局一言も発せず、残雪のその言葉を切り文句に騎乗のふたりは去った。
翌日同所には確かに杉材の大きな木桶になみなみと入れられた墨が用意された。
しかし墨は丸一日誰にも触れられず、
残雪の宣言した二日目の朝が明けた。