(十七)
蔵座国兵法指南役、道了尊に振られた仕事はそれほど難しいものではない。しかしどうだろう。今の道了尊は、足裏の感覚鈍く、膝は笑い、喉は渇き、唇は罅割れていた。なにをそれほど緊張することがあるのか。最前からそれを考えている。
この身に慣れぬ加圧は、責任、だろうか。
今までであればおのれの行動の失敗は、当然おのれの身に跳ね返ってきた。しかし今回は違う。簡単な作業だとはいえ、道了尊の尖った双肩に数人の命運が掛かっている。それがとても重く、酷く大儀だ。
「いや。数人じゃあない」
後背に感じる蔵座国民の営み。ただその頭に浮かぶ営みも、もれ聞いた話を頭の中でいい加減に継ぎ接ぎしただけの、つまりは道了尊の勝手な想像に過ぎない。
夜半までは雨が降り止みを繰り返していたようだが、今は雪が降っていた。
蔵座の城を仰ぎ見る。
蔵座城が貧弱な防衛施設すらまともに備えぬ山城とはいえ、当然ながら人と比ぶれば堅牢にして巨大である。これをどうにかしようというのだから大変だ。
大股十歩ほどで跳ね橋を渡り、矢倉の載った城門を潜り、城域内部中庭に至った。
唾を飲み込んだつもりが空気ばかりで喉の奥が鳴った。今日は背に負った長大なる鎌がことのほか重く感じられていた。
確かに度胸は据わっている。
しかし道了尊とは元来、責任やら重圧から逃げ出した男である。肉体的な苦痛や苦境には強くいられるが、内奥に掛かる負荷に対しては酷く弱い。今までをおのれの好きなように生きてきた付けであるがため、本人はいた仕方なしと思ってはいるが。
他人に寄らず。故に期待されることも請願されることもなく。面倒事には近寄らず、厄介事からは逃げ出す。そんな日々を送っていては精神力など練磨されるわけがない。
もしかすると生まれ故郷である蔵座へ久方振りに帰ってきた理由のひとつには、どこかでそうした自分と決別するのだといった前向きな思いが働いたのかも知れぬ。
中庭の真ん中に一本ある老松を見るともなしに眺めながら、そのような自己分析を頭の隅でして、そしてそれをふるい落とすように一度強く頭を振った。
「おや、先生。今日和」
声を掛けられた。
振り向いて見てみれば頬に大きなほくろのある、眉毛の濃い中年士官が立っていた。名は知らぬ。それでもその顔立ちには見覚えがあった。
「ああどうも」
「道了尊先生、今日はなにか御用事で? あれでしたら自分が取り次ぎましょうか」
「ああ、いや」
そこまでは考えていなかった。今や自由に城に出入りできる立場ゆえの怠慢である。
士官はやや訝しそうに眉根を寄せ、顔を斜めに道了尊を覗き込んだ。
「用もないのに城を訪れるとは、妙ですな」
どうせ自分の存在を快く思わない幾人かのうちのひとりなのだと道了尊は判ずる。そしてそれは間違っていない。士官の黒目の一枚向こうには毒があった。
嗚呼名はなんといったか。名を思い出せば適当なことをいってこの場を凌ぐのだが。
どうしてこの世には名などあるのだろう、はなから人に名などなければ名を忘れたときのこの煩わしさもなくなるだろうにと勝手なことを考えつつ、それでも士官の濃い眉やら大きな目やら青い髭剃りあとやらを具に見ているうち、不図思い出したことがあった。
道了尊は猫背気味であった背筋を伸ばし、わざとらしい咳払いをひとつ落とした。
「今日はまあ、大した用ではないのだ。それよりもあれだ、狗賓の行方は知れたかね。出仕せんようになって久しいと思うが。まさかあの噂、真であったかな。これは本当に上官の監督不行き届きであるな」
思った通り士官はあからさまに表情を曇らせ、居心地の悪そうな顔をした。人を攻撃するときは意気揚々と、自分が責められればわかり易く嫌悪を示す。
この男は狗賓正十郎の直属の上司である。
「行方も、消えた理由もわかりませんが、まあ、」
「まあ?」
「そのうちわかりましょう」
と小声でいって、士官はなんだか斜めに去って行った。おのれにも負い目があるというのに、どうして他人に対して強く出られるのか理解に苦しむ。
ともかく、と道了尊は気を取り直し入城した。その懐には数冊の本がしまわれている。伊福部も、もうひとり、飯綱という残雪子飼いの者も今はおそらく、蔵座城の要所要所にここ数年の堕府の動静を纏めた書物を(それとなく)置く手筈となっている。
堕府の歴史。
その文字情報を設置した上で、飯綱は下級士官や兵卒その他雑役夫などに、伊福部は上級士官、政官、そして実兄であり実質蔵座の執政を任されている石切彦十郎に、そして道了尊はずばり、国主に対して堕府の様々な情報を耳に届けなくてはならない。
国主の耳に入れるといっても、実際に道了尊が話をするのは常に横に侍っているあの大兵の士だろう。
ともかく、話だ。
ひとつ、大国堕府の黒い歴史。
ひとつ、堕府兵の残忍な所業。
ひとつ、敗戦国の哀れな末路。
それら以外に堕府兵の軍装から戦争理念、率いる軍勢の規模や指揮官の能力、果ては兵卒の好む兵糧や酒の種類まで、微に入り細に穿った説明を施す。そうした先にいったい何があるのか、それは残雪しか知らぬ。
道了尊は城に入って先ず、辛うじて顔を見知っていた飯綱を探し出し首尾を問うた。
飯綱は暗い顔を綻ばせることなく、皆存外素直に聞いてくれていると答えた。それは純粋に情報として摂取しているという意味か、それとも現実感のないお伽噺でも聞いているような感覚か、そこまではわからないものの怪しまれずに耳に入れてもらえているのは喜ぶべきだろう。
「ところで飯綱殿。貴兄はその」
と道了尊が語尾を濁したのへ、
「残雪殿のことか」
と飯綱がやけにきっぱりとした口調で返した。場所は蔵座城西端にある、平素あまり利用されることのない梯子段の踊り場である。灯かりに乏しく、杉材の匂いが薄闇に充満しているものの、夏期に比べれば息苦しさは少ない。
みしり、と僅かな動きにも音が鳴る。
潜み話にはもってこいの場所といえよう。
「そうだ、残雪のことよ。貴兄、なんぞ聞いてはおらぬか。その、あやつの頭の中というか」
「自分が聞いているのは今回自分がなすべきことのみ。いつもと変わりません」
「しかし気にならないか? いったい堕府の話を城の奴らに聞かせて、つまるところどうするつもりなのか」
「この国を救うのでしょう」
「それとて真実であるかどうか」
「お迷いですか」
「…いや。迷いというかな。ああ否、迷いはない。もとより漂泊の身、今の身分が不相応と弁えてはいるよ。ただな…」
いい、道了尊は人差し指と親指で鼻先をつまんだ。いい加減闇にも目が馴染んできたようだ。
道了尊の煮え切らぬ態度に、飯綱は特別表情を変えることもない。
「残雪殿は」
「…なんだろうか」
「残雪殿はすべてに於いて自己完結なさっているお方です。我々に意見を聞く前から既に答えは身の内にある」
「それはつまり今回、我らはあやつの道具に過ぎぬと?」
「どう取るかは各々の勝手だと思います。ただ自分は、自分が道具でも構わないと思っております故。所詮情の通った間柄ではないですし、この先そうなることも有り得ない。残雪殿は我らを利用し、我らも残雪殿を利用する。お互い利用価値のみで繋がっている、それだけです」
「ふん、随分と割り切っているな。しかし残雪の最終的な目的は蔵座を救うことではあるまい。俺はそう思うが」
自分にはそこまで興味はないですと、飯綱はそっぽを向いた。耳が小さい。
道了尊は背の鎌を置き、小さく唸りながら階段に腰を掛けた。
「寒いな」
「冬ゆえ」
「しかしゆうべは神鳴であった」
「はい。冬の雷は吉兆です」
「西では凶兆よ」
飯綱は暗い目に一層の闇を宿し、
「繰り返しますが、お互いに利用価値があるならば利用するまで。それでいいのではないでしょうか」
薄闇の中の暗い眼差し。
道了尊は飯綱の闇への旺盛な順応性を見て取って、こいつも自分とは違うのだと思い知る。しかしそれも勝手な思い込みだ。まったく自分には、勝手な思い込みや判断が身の根底に染み付いていると道了尊は厭になる。
「俺にはどうにもそうした割り切り方ができんでな」
だからこうして帰ってきてしまった。その一言を飲み込み、道了尊はいう。
「いやさ、悪かったな。俺も与えられた役割をこなすとしよう」
飯綱はなにも思うところがないのか、否、飯綱という仮面のせいか、極めて無表情なまま、もうよろしいですかと道了尊に問うた。
年齢はやや道了尊のほうが若い。
道了尊は諾と頷いて、鷹揚に手をひらつかせた。飯綱は無言で階段を下りていった。
迷いも悩みも振り払ったはずだがと道了尊も億劫そうに立ち上がり、立て掛けてあった鎌を背に負い直す。
なにを迷って居やがるかと、おのれの太腿を拳で打った。
「残雪が使えんなら斬るまでよ」
嘯く。
今はもう遠く、飯綱の背にその声は届いているものか。
救国の想いならば道了尊のほうが強い。
残雪はそれを理解している。
どこで仕入れたか、道了尊の裏を知っている。当初その事実に気づいたとき、道了尊は酷く狼狽し、そして困惑した。
道了尊とは仮の名である。
自分がそうだからといって他人までとは限らぬが、所詮道了尊にとって名など便宜上付いているものでしかなく、だから詰まるところ道了尊でなくてもかまわない。
伊福部や飯綱などは公職にある身ゆえ偽名など使っていないだろうが、おそらく残雪は偽の名であろうと道了尊は睨んでいた。
ぎしり、と梯子段を一歩上った。
見上げれば遥か上方、闇に細く灯かりがもれていた。そこまで行けば国主のいる居室まではもう少しである。
おそらくは衛兵に呼び止められるだろうが気負うこともない。自分は国主の信を得られた兵法指南役なのだ。
堂々としていればいい。
我褒めだろうともと道了尊は思う。胸を張り背筋を伸ばしてさえいれば、自分は大層な偉丈夫なのだ。
段を上り切り、木戸を開けた。上階詰めの兵卒がひとり、歩み寄ってきた。
「道了尊先生ではないですか。どうなされたのです、大階段も使わずに」
兵卒は道了尊の背に穿たれた暗い孔に目を遣り、そして道了尊の顔を見た。
道了尊は後ろ手に階段の戸を閉め、
「なに、闇に慣れる訓練よ」
と、途上考えたいいわけを述べた。
兵卒はハアとかヘエとか唸って、それで用件はと言葉を継いだ。
「ああ。今日は頼益公に教示したいことがあってな。この本を知っているか」
そういって懐から単色刷りの冊子を取り出した。
兵卒は本を見るなり、
「ああ、自分も本日城内の様々な場所でその本を見ました」
といった。
「読んだか」
「いえ。勤務終わりにでも読もうかと思っております」
娯楽の少ない国だ、新しい本などに対して(内容がどのようなものであれ)の反応は早い。
「そうか。うむ、よく読むといい」
「それでその本がなにか」
「いやな。私も目に留まって斜めに読んでみたのだが、間違いは書いてないがどうも足りんのだな」
「足りぬとは」
「十あることを二、三しか書いていないというかな。頼益公がこの本を手に取って、仮にもし、堕府とはこういう国であったかと足りぬ情報を以てそれが堕府のすべてだと納得なされても後々宜しくなかろうと。老婆心ながらそう思ったのよ」
「なるほど」
失礼しましたと深く辞儀をして、兵卒は道了尊に道をあけた。
不図道了尊の耳に金属的な声が蘇る。
永らく続いた安寧に加え、最近国主に近侍するようになった大兵の士の存在が一層兵卒たちの気を緩めている。目立った用件を誇示せずとも、目通りは叶おう。
と。
まるで残雪の言葉通りでなんとも気に入らぬ部分もあるが、道了尊は兵卒の脇を抜け、畳敷きの小部屋に入った。
履物を脱ぎ、膝を折って腰を落とすと、今取次役を呼びますゆえと兵卒はいって、懐から錫の鈴を取り出し鳴らした。
その涼やかで軽快な音を聞きながら、道了尊はどうしても覚えられぬ大兵の士の名を思い出そうと眉間に皺を寄せていた。
瓢箪型の取次役がひょこひょことした足取りで現れ、愛嬌のある目つきをしつつも神経質そうな口調で用件を問い、この先は帯刀厳禁である旨を早口で告げた。その上で更に身体検査をし、やがて極めて細かな手の動きを以て道了尊を奥の間に導いた。
二十畳敷きほどの畳の間であった。
それを見た瞬間、頼益に聞かせる言葉の一部が決まった。
堕府の国主の間は優に百畳を超えておるそうです。
だからなんだといわれればそれまでだが、矢張り数量で比べるのは単純にしてわかり易い。だいたいにして、頼益がどのような反応をしても構わないと残雪はいっていた。ただ堕府とはこれこれこういう国であると、堕府の軍とはこうした軍であると、その情報を与えさえすればいいのだと。
この役は伊福部では足りぬ。飯綱など論外だ。無位無官でありながら、国主とこうして謁見叶う立場なのは道了尊のみであった。
床板を鳴らして大兵の士が現れた。
赤い眼光は真っ直ぐに道了尊を見据えている。道了尊は慇懃な態度を示しながらも、力を込めその目を見返した。
先ほど丸腰にされたというのに、文句付けやがったら斬ってやるなどと思っている。
「堕府について頼益公の耳に入れたいことがあるそうだな」
一言一言が大きく重い。
見た目といい声量といい、まるで坊主の説法に出てくる地獄の獄卒のごときである。
はたして頼益は居るものかと、道了尊は首を伸ばした。正面奥に御簾の降りた部屋があるが、室内の光量は乏しく人がいるのかいないのかまではわからなかった。
ここで語ったところで国主の耳に入らなければ意味がない。上申不要と判断され、目の前の獄卒で話が止まることも考えられる。
道了尊は平伏し大声で、
「堕府では酒場で女が歌い、舞うそうで」
聞き齧りの情報を発言した。
大兵は返答しない。
道了尊は耳を澄ました。
暫くあって。
…ほう。
国主は御簾の奥に居る。
善しと臍下三寸に力を込め、道了尊は知る限りの、覚えた限りの堕府の話を淀みなくはじめた。
この行為がいったいどこへ行き着くのか。
飯綱のいうように考えるのは止そうと思っている。考えるのは柄に合わぬ。
それでも残雪が蔵座を救うというのだから今自分はここにいる。
信じた以上は突き進むのみである。
ときを同じくして、伊福部も飯綱も堕府の情報をおのれの言葉へ変換して、掻き集めた者どもの耳へと入れていた。
堕府の軍は十万という。
軍装軍旗黒一色である。
精強にして獰猛。堕府人は肉を喰らう。
肉は獣であるとも人であるともいう。
堕府人は