(十六)
蔵座国。
牙状連峰の最も高い峰の中腹に主城を構えた、寒く乾いた国。
冬になれば更に大地は乾き、ただでさえくすんで見える蔵座の情景は拍車がかかったように白茶ける。強いだけで何の恩恵も齎さぬ風も、寒冷期は一段と勢いを増す。
雪は民の生活を圧迫するのみ。
去年も凶作、今年も凶作。否。はたして過去、蔵座に豊作の年はあったのだろうか。然して施策を為さぬ上層に文句を述べる者もおらぬ。
永いときを掛けて国民は学んだのだ。文句をいっても正論を述べても暴言を吐いても余計に腹の空くのみで何ら得るものはない。なにも得られぬものに対して心血を注ぐ暇も余力もない。ただただ暖かくなるまでおのれの命を落とさぬよう、息を殺してじっと耐え忍ぶのみ。それが蔵座で生きる民の、極めて建設的な越冬の仕方であると。
そんな民草を見下ろすような位置、牙城第一の山に張り付くようにして在る蔵座城。上質の杉材をふんだんに使用し、築城当時の流行を取り入れた一見壮麗なる山城である。
ちなみに築城当時とは今から百年ほど前。その頃というのは、蔵座に、そして日輪に現今のような乱の兆しのない、酷く安閑とした時代であった。故、その当時の建築思想は最早今の時代にはそぐわない。
日輪でも百年前を引き摺っているのは蔵座を含め数国しかあるまい。
攻められればさぞかし脆かろう。
それでも蔵座は、自国に価値のないのを理解していた。実際建国以来、国を揺るがすほどの戦乱に巻き込まれたことがない。旧態依然とした姿勢のまま今までをくるのもある意味仕方のないことかも知れぬ。
しかし、ここへきてその泥濘のごとき安寧が揺らぎつつあった。
手始めに、近年日輪全土に版図を拡げつつある大国堕府が、驚くべきことに小国蔵座に対して位置的な価値を見出した、らしい。位置的な価値とは、山を挟んだ向こうにある軍国七鍵に対しての牽制とでもいえばよいだろうか。
一方の軍国七鍵は目に入らぬほど小さき国が大国の手に落ちることにより、おのれの喉元に鋭き切っ先を突きつけられることを嫌った。その拒否反応こそが蔵座の価値である。
幾ら七鍵が日輪にその名を轟かせた軍国であろうとも、戦など所詮凶事、なるべくならば催したくはない。加えて、兵数や資金に上限の見えぬ大国堕府とことを構えるのは下策中の下策といえる。しかし堕府が蔵座を押さえたとするなら、ことあるごとに七鍵領土への侵攻を試みるに違いない。それは過去の歴史が証明している。ならば七鍵の取る道はひとつ。堕府より先に蔵座を押さえることである。
つまりこれは、堕府と七鍵、どちらが先に蔵座を握るかという競争なのである。
さて。握られる側、蔵座であるが今更戦に備えた防備を城に施すのは遅かろう。
城のぐるり、主城が背に負った山の一辺以外は空掘となっており、一応は薬研掘りに掘削してある。ただそれも籠城戦を見据えてのことではなく、単純にそれも百年前の流行りだっただけだ。そんなものが今となっては唯一蔵座城を防衛する術となっている。
唯一だ。
空掘が。
麓から城へ行くには、点在する民家の間を縫うように蛇行する道を抜け、更に牙状の山道を抜ける。折角の山城である。しかし蔵座主城へと至る道には、畝堀も掘っていなければ曲輪も二三、砦も二三しかない。過去、ないなら造れと進言する者が存在しなかったのものか。
尤も、畝堀や砦などの防御施設を設けたところで、それを有効活用するための弓矢も銃も数が少なく、火薬の備えもない。加えて硝石から火薬を精製する技術者もおらぬ。悲しいことに、仮に火器や飛び道具が充実していたところでそれを扱う兵卒の数も足りぬ。せめて逆茂木でも作るべきなのだろうが、そのような支度をしている様子もまったく感じられなかった。
それはつまり、蔵座には堕府が来ようと七鍵が来ようと城を守る、延いては国を守る気概がないのだ。唯一意思があるとするなら、国主三光坊頼益は七鍵を快く思っていないということ。稚拙な感情に根差した、屁のような意思である。
頼益とはおそらく、おのれが傀儡であることに満足している国主なのだ。ある程度自由と我儘の利く住まいと従者、あとは女がいればいいだけの男。国主の器ではない。それでも下手に国防意識に目覚められるよりはましなのだろう。今の蔵座を無傷で守るなど生半なことで叶う話ではない。少なくとも頼益主導のもとではどうにもならない。
表立っているわけではないが蔵座に奉職する者らの中で、近い将来蔵座が堕府領となるか七鍵領となるか、虚実入り混じった情報をやり取りしつつの動きが様々あるようだが、実際そのほとんどの者がどちらに転んでもいいように、つまりは曖昧な態度を以て日々を送っている。
誰だってそうする。
誰だって蔵座のようなつまらぬ国と相対死にしようなどとは思わぬ。
それでも、今の蔵座は愛するに値せぬが、価値あるよう変えることはできると腹中考えている者も数人いる。
灰褐色の雲が空一面を覆い、昼だというのにあたりは暗い。
昨晩は雷雨があり、今は雪が降っていた。
風は凪いでいる。
そんな中防塵合羽をぐるぐるに巻き付けた旅装姿の士卒が、石切彦十郎の居館に消えていった。
庭の柿の木に鴉すら啄ばまぬ渋柿が皺くちゃに干せている。軒先には干した於朋泥が幾連にも吊り下がっていた。いい具合に水気が抜けて、後は塩樽に漬けこむだけだ。
縁を、先ほどの旅装姿の士が大股に渡っていく。その懐には、用心深くしまわれた二通の手紙があった。
一通は、日輪の中心に存在する永世中立国に寄生するが如き暮らす有閑貴族からの、紅蛇を養子として家譜に連ねることを了承する旨を記した手紙と証書。そして今一通は、七鍵からの密書であった。蔵座がもし七鍵と誼を通じたいのであればそれ相応の態度を示してもらおうといった内容が、慇懃無礼に、実に流麗な文字で認められていた。
そもそも最初に繋ぎを付けてきたのは七鍵のほうであった。蔵座という国にあって石切に目をつけたのは正しい。恐らく何事にも聡い七鍵国主自身の判断だと思われる。ちなみに石切は、七鍵の要求はなんでも呑む肚積もりでいる。蔵座国主の意思は他所へあろうがこの先どのような忍従を強いられようが、手を組むなら七鍵であろうと石切は常々思っていた。
その根拠を挙げよと乞われたならば、例えばひとつ、七鍵には領土拡大の欲はないように判断できること。
その理由として、此処数十年の七鍵の歴史を繙いてみるに、過去数度あった戦に七鍵は勝利していながらそれほど領土は拡がっていない事実がある。自国を淀みなく経営するには自然限度があると、暗に示しているかのごとし。
そのような思考体系を有する国主の治める国であるから、単純に大国堕府に自国を侵攻されないがために、先手として当国蔵座を押さえておくことを欲していると判断できるのである。
しかし繰り返すが、国主の意思は他所にある。
七鍵と手を結ぶのであれば国主を説得する必要があった。
石切はおのれの放った密使に隣室で待っているよう指示すると、先から目の前に立たせている、緋一色の衣服に着飾らせた紅蛇を足の爪先からゆっくりと仰ぎ見た。肌こそ日に焼けて褐色をしているが、それがまた鮮やかな緋色とまみえて野趣のある色気を醸し出している。敢えて素肌で、唇にのみ薄めた白粉を塗らせたのは石切の嗜好である。
髪はきつく結うことをさせず、根元から緩やかに、旋毛のあたりでやや大雑把に纏めさせた。手と足の爪に色は入れず、光沢だけを与えた。
想像していたよりも上々の出来に思わず口角が上がる。
紅蛇は鏡に映る、妙に飾られた自分を他人を見るような目で見ている。
国主は絶対に気に入る。
「わかっているな、紅蛇。今日からお前は、御牛車路家の椿姫だ」
紅蛇は鏡越しに石切を見、まなじりを若干窄めた。
「随分と大層なお名前ですこと」
「なんの名前だけよ。この世になにも成すことなく、人や物や金の価値のわからぬ者どもの名だ。なんの気兼ねがいるものか。そもそも金で買ったもの、汚すも堕とすも好きにしろ。但しきちんと仕事をこなしてからな」
「名を売り買いするなどわたしにはわからない話です。しかしお高かったのでしょう?」
この緋色のひとえなどよりもと、紅蛇は胸のあたりを摩った。さすがに触り心地が抜群に良い。
「どうでもいいこと。だいたいこの先のことを思えば高いことなどない」
誠意をもって今後蔵座が取るべきを道を国主に説くなどといった頭は石切にはない。おのれの策謀に則ってことを運ぶに心血を注ぐのみだ。それがこの国のためなのだ。
紅蛇は鏡に吐息をかけ曇ったところへ、自分の新しい名前を書く練習をする。国から国へ渡り鳥のように生きてきた女にしては紅蛇には学があった。
石切は一文字一文字区切って教える。
「御、牛、車、路」
紅蛇はゆっくりとそこまで書いて、ただでさえ姓などと書き慣れぬいい慣れぬのにと乱れてもいない襟元を合わせた。
「ちなみにその国はな、住居のある場所に因んだ名を付ける風習があるのだな」
「するとこの名も」
「なんのことはない、貴人の乗る牛車が往来する道の側に家があるのだ。字面こそ大層だがな、単純だ」
「この国のいう西の東のと、理屈は同じですわね」
「そうだ」
そしてお前が、西と東のその先に名を連ねるのだと石切は紅蛇の肩を掴んだ。華奢に見えて実際肉付きのいい女であった。
「彦十郎様」
「なんだ」
「このひとえ、香が焚きしめてありませぬ。匂い袋を頂けますか」
「要らぬ」
「ですが」
紅蛇は再度襟元を気にした。
紅蛇のいわんとしていることはわかる。
「そのままでよい。なにも気に病むようなことではない。頼益公もきっと気に入られる」
「そのような。閨であるならば然程気にならないのですが…」
「閨でしか会わん」
紅蛇の気にするそれが、彼女の野趣溢るる色気を一層増させしめているものか。
石切は無意識に鼻先を上げた。
「儂も嫌いではない」
更に目に力を込める。
「頼益公はお前に夢中になる。必ずだ」
「なりましょうか」
「容易くな」
自分が側として献上するを惜しく思っているくらいなのだと石切はいわない。いわずとも紅蛇ほどの女であるならば悟っているだろうと思っている。
「大切なのはそこからよ」
「仕事、で御座いますね」
「左様。閨の睦言で七鍵に従って欲しいというのだ」
「何故と問われたなら?」
「如何様にも。生家が七鍵と縁があるだの、七鍵に兄弟姉妹がいるだのなんでもいい」
「堕府が嫌いだと、それでも?」
石切は声を出して笑った。
「ああ、構わん」
女と同衾することのみに生きる愉悦を見出している頼益は、紅蛇の魅力におのれの好悪などけろりと忘れてふたつ返事で七鍵に与することを確約するはずだ。
それほどまでに紅蛇は、椿は美しかった。
うまくいく。
そして、頼益が七鍵と通じることに意思を固めてからが石切の本当の勝負である。
七鍵の要求を受け容れつつ、蔵座を国として維持させねばならない。名ばかりの国では意味がない。その為に石切は七鍵に与することを決めたのだから。
一方堕府は酷い悪食である。
なにもかも呑み込む。呑み込んでおのれの身の一部にせねば気の済まぬ、肥大した野鎚のごとき国家だ。それは一方でとても頼もしくあるが、矢張り蔵座のような小国に身を置く者としては只管に怖ろしくあった。
堕府に呑まれては蔵座はすぐに蔵座でなくなり、堕府の血肉となり得ぬ人やものは悉く淘汰されていくことだろう。それは過去、堕府に呑まれた南方の国で実際に起こった悲劇でもある。その国は、堕府に必要な箇所だけを、人体が栄養を摂取するかのように接収されて後、国土と人のほとんどが燃やされた。
石切は隣室へと通じる襖を開いた。
小姓時代から可愛がってきた士卒が、平身低頭膝を折り額ずいていた。
「七鍵にいずれ密書を運んでもらう」
「は」
「今回同様命がけの旅だ、今生に未練の残らぬよう、今のうちいい酒を呑み、いいものを喰い、女を抱け」
「は」
石切は半歩身を引き、おのれの背に立つ女が士卒から見えるようにして、
「顔を上げよ」
そういった。
士卒から短い感嘆符がもれた。
「率直に述べよ」
「美しゅうございます」
「抱きたいか」
「畏れ多いことを」
「なんのこの者、最前までは民間ぞ」
「しかし今は由緒ある家の御息女」
「その通りだ。まるで誑かし、小手先の騙しよ。しかしそれが蔵座を救う」
「は」
「いうのだ、それが蔵座を救うと」
「必ずや蔵座は救われまする」
「もう一度ッ」
「救われまするッ」
「もう一度!」
「救われまする!」
その通りだと肚の底から叫んで、石切はかいなの力のみで椿を引き寄せ、名残り惜しさを断ち切るためにその口を思い切り吸った。