(十五)
昼日中は快晴であった。
日輪という名は日の輝きを由来にしていると聞く。では蔵座は、ザザという国名は、いったい何に由来しているのだろう。
飴買鴻は鼻先に雨の匂いを感じ、緩く吹きつける風の来し方に目を遣った。
牙状連峰の急峻な稜線の向こうに黒雲の塊が見えた。
あれは乱を孕んだ雲だ。
ややあって耳に遠雷が届く。
山向こうでは雨が降っているのだろう。
蔵座は山の斜面にへばり付くようにして存在する国であるから夏には鉄砲水がよく起こる。希少な農地を流されてはたまらぬと、村民の幾人かは個人的に灌漑土木工事を施したりもしているのだが、如何せん人数人の力など無力に過ぎる。尤も、あと幾人人数を足せばうまくいくといった話でもない。国がなにもせぬから農民は個々で動くしかない、それだけの話だ。加えて、そもそもが自然を制御する、自然に手を加えるという所業ゆえ、そうした行為を忌避する習俗は御多聞にもれず蔵座にもあり、忌避するどころかまるで呪われた所業であるかのように嫌悪し排除しようとする者も少なくない。在るものを在るがままに受け容れる。それが自然の摂理であり、在るものを在らぬように加工する行為は、人は自然の一部ではないという驕った考え方に立脚していると、その嫌悪の根本にはそうした理屈があるのだ。そのような考え方を土台に日々生きている者たちが大部分をしめるこの国だが、それでも命やそれを支える土地や財産は守らねばならぬ。
自然に抗うことが呪われた行いであるならば、喰いもせぬのに殺し合う戦などはその最たるものか。国土の拡大や、利権の奪取や、はたまた純粋な英雄欲や、その他の様々な理想や想念も日輪の版図を変えることの理由にはならぬ。そんなものは人の本質とはなんら関係ない。
人は争い、血を流す。それはおそらく人のさがなのだろう。さがとは人の根幹であり、根幹など容易に変えられぬ。それでも人は変わることができると、他ならぬ人がいう。変わること能う前に、幾ら我らは変わることができるのだと声高に叫んだところで、そんなものは一切信用に値せぬ。
人とは生来、満身に受けた呪いを引き摺って生きてゆくものであるのだ。
それは諦観か。
それは達観か。
どちらでもいい。
人は牙を持って生まれなかったがゆえ、有り得ぬおのれの牙を過大に顕在化させたい衝動に駆られるもの。
その牙は通常、人ならば人へ、国ならば国へ向けられる。通常人が砥いだ牙のその対立項に国は立ち得ない。そんなものは無謀を通り越した愚行といえよう。
国に戦いを挑む者など、幼き日の寝物語に聞く異国の英雄譚にしか存在し得ぬ、
はずだった。
時折自分はなにをしているのだろうと酷く不安になるとこがある。只管に破滅に向かっているのではないかと。
奴は本物なのか、と。
その問いは今も答えの出ないまま胸の奥にある。矢張り自分を凶の道へと向かわせしめたのは、もう時間がないという事実一点に尽きる。愛した女の命の限りはあとどれぐらいであろうか。一年か。それとも明日か。それを考えるととても息苦しい。
奴は自分以外にも、蔵座、つまり三光坊家が倒れることを希う者どもを集めている。その内容を詳しく聞いたことはなく、また尋ねたところで答えてくれる者でもない。
今はとにかく、自分のできることすべきことを確実にこなすだけだ。
それでも不図、そうしたことに集中する理由は、やがてくる耐えがたき苦痛を想像したくないがための逃避なのではないかと思うことがある。否、逃避なのだろう。せめて命のあるうちに、愛した女の見たい世界を見せてやろうと奔走する行為は、愛した女の消え失せた世界に恐れ戦く自分を想像できないがゆえの誤魔化しでしかない。
それでも、誤魔化せるうちはいくらでも誤魔化しておいたほうがいいと思ってもいる。
この魂は弱いのだろうか。
強いとはどういうことか。
辛うじて残っていた朱色の残照が一瞬にして薄墨を刷いたような暗い空へ変じ、飴買が再度天を見上げるのと同時にあたりを閃光が包んだ。
雨粒が。
一滴。
「桔梗の具合はどうだ」
飴買は上空に向けていた目線を、声のあったほうに動かした。
「伏せっています。良くない」
「そうか」
「東の女を追い詰めたいのだとしても、桔梗様を担ぎ出す必要はなかったでしょう」
場所は蔵座主城の西側、西の館に程近い空き家である。もとは馬喰か、母屋の脇に厩が見える。しかし今は天井も床も抜け、雨は降り込み放題だった。
「他の手立てもないわけではなかったが」
残雪はいつもと同じ、長い銀髪を束ねることなく殺した白の長い外套姿。上下を黒い衣服で包み、履物も黒い革製の靴であった。蔵座ではついぞ見掛けぬ異装であり、酷く目立つはずなのだが、残雪という男はどうやら気配を消すすべでも体得しているようで城でも村落でもそれほど噂にはなっていなかった。或いは余計な場所には姿を現していないのかも知れぬ。
「それは随分な答え様。桔梗様の御体のことは何遍も説明致したはずです」
「桔梗たっての願いだ、無下に断ることもできんだろう」
なにを情のある振りをと飴買はいわない。非難や誹りに何かしらを感得する男ではないからだ。
「どうしてもやめさせたかったのなら、貴様から本人にいえばよかったのだ」
「自分は」
「桔梗の好きなようにさせたい」
「そうです」
「ならばもうなにもいうな。貴様はそれほど愚かではないはずだ」
雷雨は激しさを増す。
そんな中でも、
「もうせんぽくかんぽくは出んよ」
残雪の声はよく響く。
声質はいいわけではない。金属的で聞きようにとっては酷く耳障りする。
「せんぽくかんぽく」
それはある日を境に東の館の女主人、鈴蘭を悩ませた妖のものである。その名の本来は新仏を墓所へと誘う、此の世のものならぬ小さき葬列であるという。しかし東の館付近に出現したそれは、残雪を中心とした西の館に勤める幾人かの仕組んだことであった。本当にあやかしがいるなどと信じているわけではないが、闇を捲ればなんとつまらない話ではないか。
それでも使いようによっては人ひとり動かすことができる。
残雪は桔梗や飴買の見守る中、まざまざとその事実を見せつけたことになる。
手始めに、
桔梗の闇を嫌う性分を誇張し巷間に流布する。
桔梗の存在を疎ましく思う東の女主人鈴蘭は、桔梗に更なる闇を与え気狂いの病に陥れるため画策するも効果過剰となり、やがて西の館で人死にが出る。
下男、
女官、
士卒、
と西の館で死者が出るたび、墓所にほど近い東の館から見える奇妙な葬列、音、提灯の灯かり。
追い詰めたはずの鈴蘭は逆様に追い詰められ、そして四人目の人死にが出たとの話。
そぼ降る雨の中現れる妖のもの。
せんぽくかんぽく。
彼らの担ぐ座棺を注視する鈴蘭。
座棺の蓋が開き顔を覗かせたのは、
桔梗。
じわじわと追い立てられ追い詰められ、最も気の張りつめている晩に見る、決して見たくはない女の顔。
効果は覿面。
鈴蘭は絶叫し、発狂した。
こうして、国主を遠ざけ且つ鈴蘭を追い詰める、当面の桔梗の願いは叶った。
飴買も飯綱として残雪の下に付き、東へと差し向ける噂の流布などの一役を担った。
閃光
轟音
「近いな。飴買、腰の物を外しておけ。雷神は金気を好む」
飴買は残雪の言葉に素直に従い、腰の二本を外すと破れ屋の奥に放り投げた。安物ゆえ失せても一向構わない。
「残雪、貴方は刀は」
そう問われると残雪は腰のあたりを軽く叩き、狗賓にもらった小柄があるといった。
「ならば」
閃光
轟音
地響き
「身から離した方が宜しいのでは」
めりめりと何処かで木の燃える音がする。
「私には落ちんよ」
「どうしてそのようなことがいえるのです」
閃光
「私は」
轟音
「選ばれた男だからだ」
稲妻は残雪の側面を掠め梁を舐めるように走り去っていた。
残り香のような微弱な電撃が飴買の膝やら腰やらに凝って、やがて消えた。耳が痛い。
偶然か。
偶然だろう。それでも飴買は瞠目せざるを得ない。偶然であろうと今、稲妻が残雪を避けるように落ちたのは事実である。
事実とは何があろうと事実である。本来的に一切の揺るぎも余地もない。今の現象とて残雪のごく間近に落雷したに過ぎぬ。それを雷が残雪を避けて落ちたと受け取ってしまうのが危険なのだ。
「揺るぐな飴買」
事実を疑いはじめたらおそらく、飴買のごとき生真面目な男は深い闇に沈澱し生涯浮上叶わぬだろう。
しかし。
残雪が偶然をも予知し、利用できる者であったとしたら。
「貴方は」
ごく僅か飴買の声は震えていた。
「貴方はいったい何者だ」
「知らないほうがいいこともある」
気づけば雨はあがっていた。
降りはじめて数刻も経っていないというのに。
残雪は奥に歩き、先程飴買が放った刀を手に戻ってきた。
「曲がりなりにも士卒である身が丸腰では格好がつくまい。放るならもう少しわかり易いところに放れ」
礼もいわず刀を受け取り、飴買はいう。
「桔梗様にこれ以上無理はさせないでいただきたい」
「無理強いはせんよ」
意外とやわらかな返答に幾許かの安堵感を覚えたのも束の間、残雪はしかしなという。
「なんでしょう」
「気づかんか」
「ですから何を」
「あの娘、本来ならば既に死んでいる」
「は…?」
「丹を飲んでいるのだ、三度も」
「ですが桔梗様は」
すると残雪はしとどに濡れた長髪をうなじのあたりで一度強く絞り、
「目を曇らせるな、飴買。貴様の本来は聡明なのだ。桔梗を今以て生かせしめているものはな、この国を変えようと願う心よ」
「国を変える」
「それと」
残雪は右手人差し指を鴻の鼻っ面に突きつけた。
「執着」
「執着…」
「いずれ私にはわからんが、その精神的な支えがなければあの女は既に不帰の客」
「執着など、桔梗様がそのような下賤な」
飴買の中での桔梗はとても高潔である。
「どう考えようが貴様の勝手だ。どのような形であれ桔梗が生きていればよい」
「まだまだ利用されるのですね」
「当然だ。あの女には価値がある」
「生きていれば」
大事なのは桔梗本人がどう思っているかである。いくら飴買が他の誰よりも桔梗の近い位置に立っているのだとしても、桔梗の真実の心など到底知り得ない。
ならば。
「無駄な迷いは持つな」
「わかりました」
飴買の濡れた体を外気の冴えが包む。迂闊にも濡れてしまった。そう思いつつ飴買は尋ねた。
「桔梗様の価値とは、いったい」
おそらく残雪は、おのれの策謀に支障がない情報なら開陳するはずだ。そうした目で見つめる飴買の顔を、暫時無感動な眼差しで眺めて後、
「東の女、鈴蘭はな」
「はい」
「桔梗の実母だ」
「それでは国主は実の母娘を側に」
「確認せんでもわかることだ」
「しかし頼益公は」
「桔梗の父だ」
飴買は愕然とする。
なんと淫らで、なんと歪んでいることか。
動揺は悪と思い生きてきた飴買であるが流石に顔が強張りそうになるのを抑えている。
「桔梗は我が父が蔵座の王であることを知っている」
「そのようですね」
顔では平静を装いつつも、飴買は足もとが泥沼に沈み込んでいくような不快感に襲われている。
確かにそのような爛れた関係の末にできた子など、身の内に宿してはならない。どのような命も命に変わらぬと、そんな綺麗ごとは誰にもいわせない。
桔梗様を非難する者は悉く斬って棄てる。
「今は私に従っていよ。そうすれば今よりは少しましになる」
まるで心を読むようなことをいう。飴買は残雪の白面を見、いいだけ時間を置いて、やがて小さく頷いた。そう信じたからこその今のである。
籍だけあり当人はどこにいるのか知らぬ飯綱の名を騙り蔵座城に出仕する危険を冒すのも、他ならぬ残雪の言葉に信用に値するものを感じ取ったからである。おのれが聡いなどと過信してはいない。ある程度の分別はついているつもりであった。
残雪は甲虫の背のような瞳で飴買を見つめている。考えていることはおおよそ想像がつくが心の内までは読めない。内面の動きが一切表層に表れない男なのだ。
「飴買」
「はい」
「よもや桔梗の死に殉ずるつもりではないだろうな」
なにを尋ねるのかと思えば。飴買は何故か可笑しくなって、雨上がりの寒気の中頬が薄く上気するのが感じられた。
「いけませんか」
「勿体ないと思ってな」
「勿体ないなどと」
自分は物ではありませんと随分と落ち着きを取り戻した状態で、飴買は前に置くようにいった。
「残雪。貴方はこの国を救うという。しかし貴方の目の奥には光が見えない」
音の出るほど瞳孔を収縮させて、残雪は飴買の目を見詰めた。問うた言葉の意味が理解できなかったのかも知れぬ。
「結果論だろう」
「と仰いますと」
「私の歩む道に、後どのような評価がなされるのかは今の段階ではなにもわからぬ」
「そのような無責任な」
「正直に答えたまで。それとも耳ざわりのいい言葉を並べ立ててほしいのか」
「愚弄なさるな」
「私は策を行使するのみの者。予想する結果に善だの悪だの付与するのは私のすべきことではない」
飴買がなにか反駁しようと口を開けたところ、残雪は息継ぎも早々に尤もと繋げた。
「私の行動は正義であると、そう宣言したほうが精神衛生上宜しいというなら声高にいってやってもかまわん。無理はするな」
山寺に肩寄せ合って隠れているあの一家のように。
飴買は眉間に力を込め、穏やかさを装っていた仮面を一枚剥いだ。
「そうだ。貴様は言葉ひとつで気分を高揚させたり、ましてやそれを行動動機にできるほど単純な人間ではない」
確かにそれは残雪のいう通りであった。幼き頃から人の顔色を読むのが得意で、尚且つその顔色を喜色に変えることを得意としていた。反対にいえばそれができるということは他人を不快にする術も同時に有していたことになる。そんな子供であったから、長じてからも人の言葉そのまますべてを素直に身の内に容れるような人間にはならなかった。
「自分は残雪、貴方の理念や思想は正直どうでもいいのです。ただ桔梗様の望む世界を少しでも早く此の世に現出させるには貴方の力が必要と思ったまで。善悪や、いわんや自分の気分など」
「そうだ。矢張り貴様は賢い。自分の生き様に細々と理屈や理由を付けようと腐心する者など愚の骨頂。人とて所詮生き物、故只生きればいいのだと心得ねばならん」
残雪は荒れ家の庭先に出た。山の斜面に立つ家であるため、人が住まなくなった今、枯れて黄ばんだ熊笹がいいだけ繁茂している。
びちり、と濡れた地を革靴で踏み、残雪は背を向けた状態で右手人差し指を飴買に向けた。
「見たい世界があるのなら脇目も振らず邁進せよ」
「言葉も発さず」
「そうだ」
飴買は指を差されたまま、残雪の後背に向かっていう。
「そういう貴方は実によくしゃべる」
残雪は呵々大笑した。