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黒鴉銀蠍抄  作者: 偽薬
14/27

(十四)

 半弟である伊福部福四郎を、閑職ながらも国主の覚えのいい職務に宛がったのは、石切彦十郎いわきり・ひこじゅうろうその人である。自身は蔵座の顕職に就いている。官位こそ高くはないが、権勢は国主の次位。どうしてそれほどまでに蔵座国主の信を得、重用されるのか。それは偏に、石切が頼益の幸福を考えて行動している事実、それを頼益がしかと認識しているということなのではないだろうか。


 否、その判断はやや希望が勝ち過ぎていまいか。


 確かに重用はされている。しかし主君頼益は、我が反対を押し切ってあの大兵の士を常に近侍させてもいるではないか。加えてあのようにいかなるときも常に傍に侍るなど。生まれも育ちも定かでなく、言葉遣いも覚束ぬ木偶の坊である、あの士官をだ。

 その名すら俄かに思い出せない。つまりは石切は、自ら木偶の坊と評して憚らないその士官に対して、浅からぬ嫉妬の念を抱いていた。

 生まれも育ちも定かならぬ。

 石切にとって血とは、一種の対人判断基準である。特に自分が側近を選ぶ際などには欠かせぬものであるとさえ思っていた。良血なれば才能豊かであると、そのような愚論を有しているわけでは決してない。それはまるで逆で、良い血脈、家柄とはそこを根幹とする個人の足枷であると思っていた。その足枷が大きく重いものであればあるほど、否も応もなく、当人の意思など関係なく、少なくとも安定だけはするだろうと思えるからだ。

 安定とはつまり動かぬこと。石切にとって信の置ける人間とは、不動の者である。不動であるならば善人だろうが悪人だろうが関係ない。

 乾いた手のひらでぺたり、と頬を撫でた。

 水気に乏しいが張りのある肌をしている。生来あまり屋外を好まなかったせいかしみもなく、皺も少ない。ただ頭髪だけは年齢以上に白かった。

 国内最高峰の重職にあり、且つ見栄えも悪くないのであるから、石切という男は大層婦女子に人気がある。

 どうでもいいことだ。

 それでも、孫も数人いる身でありながら、棹の乾く暇のないことは紛れもない事実であった。ちなみに今も裸女を抱いている。ぐったりとしたその女の艶やかな黒髪に雑に手櫛を通しながら、天井の木目を眺めていた。

 名をくだ、とかいったか。

 どうにも石切という男は他人の名前を覚えるのが苦手であった。おのれの職務に関わりのない者であるとそれは一層顕著である。

 ともかく、

 堕府が動くという。

 七鍵も動くという。

 実質的に蔵座を取り仕切っている身である石切の耳には玉石混交実に様々な情報が齎される。しかしその情報のすべてを自分の位置で止め、決して主君に言上することはない。国政に頭を悩ませるのは頼益の仕事ではないからだ。頼益はただ只管に三光坊家の現当主でありさえすればいい。頼益が安定していること、それが蔵座の国益に繋がるのだと石切は頑なに信じている。

 枯地と寒風。夏寒く冬が長い。山岳地帯ゆえ耕地も限られている。生産能力に乏しく、国を訪れる者も少なく新規産業は来ず根付かず、そんな貧国蔵座にとって、現状を維持すること、それだけでそれは国益である。

 極論を述べるならば、蔵座という国名がなくなったとしても、この土地が変わらずこの土地に在り、この土地に住まう者、そしてその者らの精神が不変であるとしたならばそれは蔵座国の継続といっていえぬこともないとすら思っている。だが、さすがにその考えを他人に披歴したことはない。

 いずれ蔵座周辺で渦巻く不穏当な噂は、日輪津々浦々流布しているようで、敏感に利達の匂いを嗅ぎ取った善悪定かならぬ様々な人間が蔵座に出入りするようになった。その結果、誰の差し金かわからぬうちに兵法指南役などといった、何処の馬の骨とも知れぬ者がひとり正式採用となったものだ。あまりにも不必要な職役であるので石切はその者の名前はおろか顔も知らなかった。どれほど能力のある兵法家が来ようと、蔵座の国力では守るも攻めるも無駄な足掻きである。

 問題なのは国主だった。

 頼益公が今更国防意識なぞに芽生えたのだとしたら、最悪だ。

「否。下手に戦意のあるを他国に知られたとするなら」

 石切は横向きになった。後背でぐうとかすうとか寝息が聞こえた。

 杞憂だ。国主になにも考えのないことは誰もが知っている。流れ者の兵法家を雇い入れたのも結局、発作のようなものだ。

 石切は踵で女の脹脛のあたりを蹴り、短く茶を淹れろと命じた。本当は酒が飲みたかったが、じき暁が訪れよう。

 女はおどろ髪のまま億劫そうに起き上がると、酷く緩慢な動きで火箸を手に取り火鉢の中の灰に埋もれた残り火を探った。

 石切も口元を擦りつつ半身を起こし、障子越しの外を見た。夜が明けてもいないのに仄明るいのは、もしかすると

「雪か」

「ええ。今朝は大層寒う御座います」

 そう返答する女は裸である。

 石切は咳払いをしつつ立ち上がると、乳房を抱き抱えるように背を丸める女の肩口をつかみ、やや乱暴に布団の上へ転がした。

 女は眉間に翳りのような幽かな嫌悪を漂わせ、ゆっくりと体を開いた。

 石切は女の柔肌に顔を埋めながら思う。

 この国の未来のことを。

 この国の行き先を決めるのは自分である。不遜であろうと僭越であろうと結局、大事は意志のある者でなければ成し遂げられぬ。

 大事。

 現行蔵座の継続。おそらくそれが、最も困難であろう。

 女の、大きく潤んだ瞳と目が合った。

 考えねばならないことがもうひとつ。

 大層な精力漢である主君、三光坊頼益公のことだ。

 頼益が耽溺していた寵姫、西の館の桔梗がこのところ気狂いの病に罹り人事不省に陥っているという。加えて、頼益使い古しの東の館の鈴蘭までも、死んではいない桔梗が死んだだの、化け物の姿が見えるだの、挙句久方振りに訪れた頼益に対して、怒鳴りつける引っ掻く髪の毛をつかむといった乱暴狼藉を働く始末。本来であれば手打ちにされてもしようのないことを仕出かしたのだが、どうやら頼益は怒りよりもまず驚きと、悲しみに襲われたようだ。あれだけ愛でてやったのを忘れたのかと、東の館から逃げ帰ってきたときはすっかり落ち込んでいた。

 石切にいわせれば、散々好き勝手遊んでおいて何をかいわんやである。

 それがそれだけで終われば特に問題はなかったのだが、前述したとおり頼益は精力漢なのである。それも並外れた。否、精力漢というよりは性行為中毒者だろうか。

 石切の考えねばならぬこととはつまり、女に飢えた国主に新たな側を用意しなくてはならないということ。そしてその側女はどのような女でもいいというわけではなく、

 石切は不図おのれと繋がっている女を見下ろした。

 障子から入る雪明りのお陰で造作くらいは再確認できる。

 おお。

 悪くない、と思う。詳しくはわからぬが国主の好みとも合致しそうだ。それにこの女であるならば、西東の場合とは違いある程度我が意思を反映できるのではないか。悪くないどころかこれは。

「おい」

 女は目だけで返事をする。

「お前、名をなんといった」

「もう三度目ですよ、そのご質問」

「問うたのは儂だ」

紅蛇くだ、にございます」

「やはりくだか。珍しい名だ」

「それも三度目です」

「生まれは。ふん、これも三度目か」

 石切はそういって、乱暴に引き抜いた。管は短かな悲鳴をあげる。

「生まれはここより東北です」

「そうか。訛りはないのか」

「さあ。物心ついた時から諸国を巡っておりましたので」

「なんのために国々を廻る」

「そんなもの、生きてゆくために決まっておりましょう」

「覚えているか、生国の言葉を」

「国の言葉」

 紅蛇は半身を起こし、楚々とした仕草で夜具を体に巻き付けた。その匂い立つような色気は国主を籠絡するには十分だろう。なにより紅蛇は若い。

「そうだ。適度な訛りは良い。適度な、な」

「良い、とは?」

「ひとつ国に永く居るとだな、そうした些細な差異に酷く興奮するものだ」

 石切にはこれでも、自分の尺度は極めて一般的だという自負がある。少なくとも大きく外れてはいまいと。

「些細な差異。左様なものですか」

 それではこれも、と紅蛇は打っ遣っていた足を軽く上げて見せた。

 真裸に白い足袋だけを履いている。

「興奮なさる?」

「うむ。故脱がせなかった」

 それを聞き紅蛇は然も可笑しそうな顔で笑う。笑うと頬に縦皺が寄り、石切のような男にとってはそれがまた色めかしい。


 頼益公も気に入る。


 なにせ自分が気に入った女なのだから。


 明日にでもそれとなく言上してみるか。できればおのれの側にしたく、手放すのは大いに惜しい気もするが、これ以上国主の欲求不満を募らせるのは得策ではない。尤もその前に、この女をどこぞの養子にさせなくてはならないだろう。書簡のやり取りのみで成立する簡単なことなのだが、やはりどの家でもいいというわけではない。この先蔵座の継嗣を生むかも知れぬ女である、取って付けた家柄であろうとそれなりの格式というものが必要なのだ。

 蔵座より西、優に一千有余年の歴史を数える都に棲む、名ばかりで金のない貴族の何軒かにでも当たってみるかと、彦十郎は肚の底で思う。

 紅蛇は石切の煙管で煙草を吸おうと、火鉢の熾き火に顔を近づけて、

「そういえば彦十郎様」

「なんだ」

「以前お話なされてた、あの、この国の正当な後継者でしたか。謀反の気配ありとか。名前がくとかぐとか」

「狗賓正十郎か」

「はい、そのぐぅひん。その後どうなされたのです? なんでも噂では叛意を露わに、おのれの血の正統を訴えているとかどうとか」

「なんの正統であるものか。真実蔵座を興したのが狗賓の先祖であれ、遠い昔に三光坊家に権限が移り、且つ敗残であるはずの狗賓が今以て蔵座に居を構えていることを考えたなら、おのずとこの国を統治するのがどちらが正しいかは知れよう。国主の座など力なき者が居座っていい位置ではない」

「ええまあ。それでその、ぐ、ひんさんは」

「さあな。近いうち詳しくことの次第を質すつもりではいるが」

 ぷかり、と煙の輪が薄明けの室内に漂う。

「でもそれが只の噂でしたら、ぐっひんさんはもう逃げてるでしょうね」

「狗賓だ。まあそれもそうだろう。根も葉もない噂であれ当然今後に多大な影響を及ぼす話だ。元々がどうして狗賓など生かしてきたのか、昔日のこととはいえ、少々」

 理解に苦しむと繋げたかったのだろうが、娼婦との閨とはいえ明らかな国政批判は口にできない。かわりに石切は紅蛇の煙管を奪い取り、大きく深く一回、肺臓の奥底に煙を押し込んだ。

 紅蛇は横目でその様子を見、どこか満足したように鼻を鳴らした。

「しかしその話、お前にしたか」

「どうかしら。私も彦十郎様に聞いたのだか噂話を耳にしたのだか覚えておりません」

 石切も紅蛇を見た。

 暫時沈黙。

 麓の農家から鶏の声。

 先に沈黙を破ったのは紅蛇であった。

「いえ。彦十郎と正十郎、お名前が似てらっしゃるものだから気になって」

「お前」

 ぐいと石切は紅蛇に身を寄せた。紅蛇は若干俯きに、微細に半身離れた。

「ふん。あまり詮索するものではない。下手なことをすればこのような国だとて身を滅ぼす種となろう」

 石切は煙管を紅蛇に戻すと立ち上がった。

「お出かけですか」

「そうだ。少し面倒なことになりそうなのだよ」

「面倒なこととはなんです?」

「同じことをいわせるものではない」

 いって薄く笑い石切は部屋を出て行った。

 ひとり残された紅蛇は暫く大きな目だけをきょろきょろと動かして、やがてうつらうつらと考え事をはじめる。


 ぐるぐるぐるぐる。


 日輪の東北部に生まれ、立ち上がり言葉を覚えてからこっち、諸国を延々巡ってきた。父の仕事であったか母の仕事であったか、今はもう覚えていない。

 父も母も紅蛇が記憶に刻む前に不帰の客となった。ただ、それを寂しいと思ったことはない。

 ともあれ紅蛇の父か母は、娘に愛情を注ぐかわりに独力で生きていく術を仕込んで、消えるように死んだ。否、それを親の愛情といっていえないこともないが、当の紅蛇はそうは受け取っていない。それどころか恨んでさえいた。他に生き様など沢山あるというのにどうして自分はこのように生きているのだ、と。それはつまり、そのようにしか育てなかった親が悪いのだ、と。

 独力で生きる術。

 ぐるぐるぐるぐるぐる諸国を巡り、有益な情報を仕入れそれを売る。紅蛇にとって情報とは商品であり、その商品を仕入れる為に様々な手を使う。それなりに苦労して手に入れた商品は、やはりそれなりの高値で捌けた。そうして国から国へ、まるで流行病のように飛び移りながら今までを来た。

 流れ流れて蔵座へ来たのは、大国やら軍国やらの不穏な気配を機敏に感じ取ったからであり、両国がなるべく穏便に手に入れたい国が、両国のちょうど中間にあるこの国であろうと個人的に踏んだからだった。つまり、蔵座でありったけの商品を手にして、堕府でも七鍵でも高く買い取ってくれるほうに売りつけようと算段を付けている。

 但し、両国の思惑外れ、隠密裏にことが運ばず戦となれば、ここのような小国はいいように蹂躙されることだろう。

 人がいっぱい死ぬ。

 その程度の想像は紅蛇にもできる。

 ぷかり、

「だからなに」

 他人の死を悼む心は、紅蛇にはない。

 石切や、今まで出会ってきた様々な輩のように紅蛇も自儘に振る舞い、果つるのみである。それを刹那的だというなら多分、紅蛇という女は他の誰よりも刹那的な思考の持ち主なのだろう。

 この頃少し、生き続けることにも疲れてきている。最後に大きな何かを仕出かして消え失せるのも悪くないと、半ば本気で考えている。

 所詮人はひとりなのだ。

 どれほど誰かを愛しても、誰かに愛されても死ぬときはひとりなのだ。

 きっと自分は、狂おしいまでに誰かを愛したいのだろうと紅蛇は自己分析する。今の排他的な感情は、そうしたおのれの渇望の裏返しなのだろうと。

 無闇に誰かを愛し、そして無償の愛をいいだけ感じたい。

 しかしそうなったらなったで、そうしたものはさぞかし邪魔なのだろうなとも思う。


 ともかく、思惑どおり国主の新しい愛妾候補にはなれたようだ。その先も巧くことが運んだとして、そこからどうやって優良商品を入手するかは紅蛇の腕の見せ所である。


 あの男の言を信じて行動したならば、必ず国主の側女になれるという。そしてそうなった暁にはある程度自分のいうことを聞いてもらう、とも。そのためにあの男は蔵座でも指折りの権勢家である石切に近寄る方法を紅蛇に授け、その後もなにかと良い指図を与え続けてきた。

 素直にその通りにしての、今である。

 紅蛇の感触では目標まであと一歩というところ。

 国主の側に収まればこちらのものだ。

 いいだけ情報を引っ張り出してやる。そう思っている。

 それと同時に、


 あの銀髪の男は何者なのだろうとも。

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