(十二)
浮ついた正十郎や、矢鱈に興奮している郎党たちはしかたないとして、比較的落ち着いていると自分で認識していた桜ですら、初見時は尼僧だと思った。
長年慣れ親しんだ狗賓の家を捨て、先導する銀色の背に誘われるまま辿りついた簡素な山寺にて出会った小柄な僧侶のことである。
面相筆でも用いたがごとき細く整った眉、紅を差してもいないのに矢鱈に紅い唇、肌理の細かい白い肌。頭を丸めていても女にしか見えぬ。本当に綺麗な顔をした男であった。
名を叢原というらしい。
桜は極めて純粋に、叢原の見目麗しきに嫉妬した。同時に嫉妬している自分を確認し、ああやはりわたしは落ち着いていると一層の落ち着きを取り戻したものだ。一方の伴侶、正十郎は庫裏の傍の板の間に蓆を敷いただけの急ごしらえの客間に腰を下ろし、忙しなくあたりの様子を窺っていた。痒くもないだろうに掻きむしり続けた首筋は赤切れている。
残雪はどいえば、一言暫くはここにいよと言葉を残し何処かへ出かけた切り、もう半日近くも戻ってこない。
この山寺に逃げ込めと指示したのは当然残雪である。家にいては当然捕り方に捕縛される。郎党などはその場で斬って棄てられるかも知れぬ。
なんの戦う、死は覚悟しておりますと騒ぎ立てる郎党に残雪は目もくれず、
「持ち出す物があるなら早く支度をするんだな」と正十郎のみに囁くようにいった。
誰がどれほど騒ごうとも正十郎が動き出さねば狗賓は動かぬ。最低限のことは心得ているなと桜は思ったものだ。
残雪は再び囁く。急げ、と。
正十郎はよろよろと立ち上がり、桜を含めた家の者にもそもそとした指示を出した。要約すれば残雪のいう通りにせよとのことだった。矢張り我が主は縋るものがなくてはまともに立ってもいられないのかと桜は胸中やや複雑であったのを覚えている。
ともかく今は山寺にいる。此処が安全であるのかは未だ知れない。ちなみに、この山寺へと至る山道の、更に先には東の館があり、その奥には壮麗で豪奢と噂に高い三光坊家の菩提寺があるはずである。
風はなく穏やかな午。叢原が手ずから淹れてくれた焙じ茶を飲みながら、仮にここへ逃げ込まず捕り方と一戦交えていたとすれば矢張り犬死にしていたであろうかと、半端な思考の点を額の中心におぼろに結び桜は考えている。
当然ながら正十郎に実戦の経験はない。剣技とて礼儀や行儀と同じ要領で嗜み程度に父から教わったに過ぎないようだ。いや、喧嘩程度ならば郎党頭の爺様のほうが場数を踏んでいよう。
桜は横座りに流した脚を組み替え、両手で包むようにして持った湯呑茶碗に目を落とした。飾り気のない素焼の湯呑。庵主の趣味であろうか、桜は素直にいい趣味をしていると感じ入った。
「いいいつまで」
「はい?」
「いつまで待たされるのだろうな」
沈黙を続けることに限界がきたのだろう、苛立たしげに正十郎がそう呟いた。桜はごく短く、ええと応じてまた湯呑に目を戻した。
「まさかあやつ、我らをここへ置いて安心させ、自分が謀反人をひっ捕らえましたと今頃御注進に及んでいるのではあるまいな」
多分その手の負の状況は考えれば考えるだけ、真夏の小虫のごとく湧いて出るのだ。端から噂を端緒にしての逃避行であるし、曖昧に曖昧を重ねて、不安を更なる不安で糊塗しての今である。
考えるだけ無駄だ。
それを踏まえての決意ではないのか。少なくとも桜はそういう肚の括り方をしていた。
「旦那様は彼の男を信じたのではないのですか」
「誰が信ずるか」
「でしたらどうしてここへ来たのです」
「…そんなものお前、なにかいい案があるのであれば、それは使わねば損であろう」
「それは信じているのとは違いますか」
「信じてはおらん。あんな怪しい者…。だから利用できるのならしてやろうと」
「そんなものですか」
目の下に濃く隈取りがされていて正十郎は一種凄惨な顔つきであった。発する言葉も最早支離滅裂でくるくる内容が変わる。ここへ辿りついてしばらくは桜もいちいち考えて正十郎の言葉に返事をしていたがやがて億劫になってしまった。しかし、ついいい加減な返事をすると、
「なんなのだその答えは! 生き死にが掛かっておるのだぞ?」
怒鳴る。最前よりこれの繰り返しだった。
さすがの良妻も疲れも手伝って腹立たしさを覚えるというものだ。
軽快に尻でも引っぱたき、しゃきっとなされませなどと快活にいえたならばどれほど溜飲が下がるものか。
す、と障子が開き美僧が低頭して現れた。
透かさず正十郎が喰らいつく。
「残雪は? 残雪はまだ戻らんか」
咳き込むように問う正十郎を微笑で押しやって、女のごとき僧侶は足の裏を床面からほとんど離れさせぬ独特の歩行法で滑るように室の真ん中へと至った。
今この場にいるのは、桜、正十郎、郎党頭の三人。
叢原は若干潤んだ瞳で狗賓家の人々を見、やがてゆっくりと口を開いた。
「御食事の御用意ができました」
ひとり正十郎のみが声を荒げる。
「飯など喉を通るものか! 残雪を呼んで来い!」
正直空腹感を覚えていた桜はその言葉には大いに不満だったのだが、とりあえずは何も言葉を挟まず、ただ僧叢原の顔を見た。
叢原は微かな困惑を片頬の翳りで表わし、
「拙僧も存じ上げないもので」
とだけ答えた。それでも何事か返そうとする正十郎の肩にそっと手を乗せ、桜は意識して優しく柔らかな口調でいった。
「旦那様。旦那様も私も、家の者も皆昨日から満足に食事を摂っておりません。折角御用意なすって下すったのですから」
蕩けるように甘い声であったが、正十郎の肩に桜の爪が軽く喰い込んでいる。痛みを与えることで、判れと訴えている。その握力に対し口中なにかを呟きつつ正十郎は小刻みに叢原に頷いて見せた。
腹が膨れれば少しは落ち着こう、そう桜は思っている。貧国蔵座のうらぶれた山寺で供される午餐に寄せる期待などないが、それでも気分転換にはなるだろう。
よろよろと歩く正十郎を支えるように斜め後ろに立ち、まるで介添えでもするように桜が続く。よほど桜のほうがしっかりとしている。そしてそんなことは狗賓家では暗黙の了解事項であった。桜の後ろを守るように郎党頭が続く。他の者も三々五々現われて、結局狗賓家一同ぞろぞろと縦になって歩いた。これでは施しを受ける流浪民である。
庫裏に沿うように歩き、叢原が食堂と呼ぶ離れの小屋へと一団は入った。
残雪がいた。
正十郎は撥ね飛ぶような突発的な動きで残雪に駆け寄り、大方の予想通りその薄い胸倉をつかんだ。
「貴様はァ!」
などと一見力強そうに大声を発しているものの、実際桜には正十郎のその姿は残雪に縋っているようにしか見えない。とはいえ桜にしても残雪の姿を見、どこか肩の荷が下りたような気になったのも偽らざるところではある。善しにつけ悪しきにつけ、残雪には他を引き摺るなにかがあるようだ。桜としてはその何かがなんであるのか、良か不良かを早急に見極めたいところである。
それでも結局泰然とした態度の怪人が気に入らなくて、声を投げた。
「申し訳ありません、残雪さん。これから御食事ですのよ」
「なにをいっているのだ、桜。こいつには訊かねばならぬことが山のようにあるだろう、飯など食うてる暇はない」
どうしてこの男は自分のことですぐ頭が一杯になってしまうのか。少しでもいい、ほんの少しでもいいから共に生きる者のことを考えてほしい。桜は一度瞑目し、ごく小さな溜め息を落とした。
残雪は正十郎に揺さぶられるまま、それでも色素のない目だけは情けない良血の末裔を見据えている。
「残雪、残雪よぅ。お願いだから、こんなところまで連れてきたのだからよぅ」
まさか泣いているわけではあるまいと、桜はするすると我が主人の顔を窺うため移動した。
正十郎は泣いていた。
目を真っ赤に腫らし、あまつさえ鼻水まで垂らして。
「頼む。頼むから助けてくれ! 自分はまだ死にたくはないのだ!」
結局そういうことか。流れのまま生き、降ってわいた危地に立ち向かうこともせず、かといって覚悟もせず。
「まるで間違っている」
その残雪のよく通る声は誰に向けられたものか。正十郎は勿論、桜も郎党も皆きょとんとしている。
残雪は桜を見、言葉を重ねた。
「聞こえなかったか」
聞こえなかったわけではない。桜にはその言葉が自分に向けられたものだとは思わなかっただけだ。
正十郎はゆっくりと手を離した。
桜は一歩前へ出、問う。
「どういうことでしょう」
なにが間違えていると仰るのですと、桜は必要以上に毅然とした態度を整えて残雪と正面向き合った。
「だいたいわたくしは」
あの時はなにも言葉を発していない。覚りの怪でもあるまいに、他人の胸のうちがわかる道理がない。
「継続のみを是としてこれまでを生きてきた者に死を決心せしめることも又、諍いを避けることこそ至高としてきた者に戦いを嗾けることも、間違いも甚だしい。愚挙だ」
心を。
「貴方は心を読むのですか」
残雪はその問いは無視し、
「戦いを厭うことがそれほど気に入らんか」
「そ、そんなこと、わたくしは一言も」
「追い立てられ立ち向かわぬは、悪か」
「悪とかそうしたことは」
「答えよ」
「い、今は非常時。そんな悠長なことはいっていられませぬ」
「そんな答えは要らん」
「何なのです、その傲慢な態度は!」
「本性を隠していたのはお互い様だろう。なかなか好戦的な女ではないか」
「無礼な」
「礼儀が必要な場所でもあるまい」
「わ、わたくしは好戦的なわけではありません。しかし今の状況を考えたとき、狗賓の血を少しでも輝かしいものとするには、いえ、汚さぬためには」
「戦うしかないか」
「はい」
「無能だ」
「え?」
「貴様はなにも考えない方がいい」
「な…」
「例えばもし蔵座から遣わされてきた捕り方と一戦交えて、いったい狗賓になんの利があるという」
「他国に逃亡するよりも蔵座での死を選ぶことの、いったいどこに疾しいところがあるというのです」
「狗賓家すべて死して後、蔵座の上層はおのれらに都合のいい話を捏造するのみ。狗賓を礼賛する話など後世に残らんよ」
「それは」
「当然理解していただろう」
「なにを。…まさか」
「どうして戦えなどといった」
「理解してなど…」
「答えよ」
「わたくしにはわかりません」
「本当か」
「はい…」
「ならば余計な口を出さぬことだ」
「わ、わたくしは狗賓の嫁です!」
「その名乗りは無事生き残ってからにしてもらおう。とにかく今は私の邪魔をするな」
「貴方のいうことを聞いておれば生き残れると、絶対大丈夫だと、そう仰るのですね」
「曖昧な。気になるのなら少しは具体策でも問うたらどうなのだ」
「具体策? 尋ねれば答えるとでも」
残雪は桜の問いに頷くでもなく、ふいと呆け面で成り行きを見守っていた正十郎に顔を向けた。
「狗賓、この寺を根拠地としてこの先進めていく。今から貴様はこの寺の主だ」
いつの間にか食堂に入ってきていた叢原が正十郎に向って目礼する。
「その前に最終確認だ、私に従うのならばここに居よ」
正十郎はまばらに髭の生えた汚い顎を撫でながら、悩む振りをして見せる。中途で会話から放りだされた桜は、先ほどまでの興奮を鎮めようと深い呼吸を繰り返していた。
正十郎は掠れて痰の絡まった声で小さく、わかったといった。
「いい答えだ」
残雪は表情を変えず、それでも声は満足そうにそういった。
桜は既に見切る。残雪のような男といい争っても無駄なのだ。なにをいおうが、どう答えようが多分、残雪の都合のいいようにことは運んでいく。感情に乗せられ言葉を重ねてしまっては揚げ足を取られ、いいようにあしらわれるだけだろう。かといってだんまりを決め込むのも性に合わぬ。つくづく付き合いにくい男だと桜は珍しく顔を顰めた。
矢庭に残雪の講義が始まった。
食堂の木の壁に白布を張り、その上に簡単な蔵座の相関図を書き込んでいく。筆は淀みなく動き、且つ文字は秀麗であった。
正十郎はどう思っているものかと、桜はそっと横に座る主人の顔を盗み見た。
目が血走っていた。顔全体がてらてらと光り、まるで油壺に首を突っ込んだような案配であった。血走った両の眼を以て、正十郎は徒に白布を凝視している。
粗方書き出し終わったのだろう、残雪は筆をしまい正十郎らのほうへ向き直った。
「さて。この国蔵座であるが、いわずもがな今は頼益のものだ」
「頼益など呼び捨てになさって…」
いい掛けて、その国主に盾突こうとしているのだからそんなことを気にする必要もないのだと、桜は浮かせかけた腰を元に戻す。残雪は鼻を鳴らし、続けて、
「さて、狗賓。国主に歯向かう以上、その先にあるのは今の頼益の位置である」
といった。
「い、生き残ればな」
「生き残る術は私が持っているよ」
「あ、ああ」
不思議と残雪は正十郎には柔らかい応対をする。桜がそう感じるだけだろうか。
「頼益の位置に行くに十分な素養を貴様は持ち合わせている」
「血か…」
「血だ。狗賓家十三代当主。三光坊などより本来格は上である。それは記録が証明している、揺るがぬ事実だ」
「事実」
頭ではわかっていても実感する機会などまるでなく、それどころか正十郎はそうした来歴を表に出さぬことに腐心しつつこれまでを生きてきた。
残雪は再びいう。
「既に事は始まっている」
狭い村だ、一家揃って何処ぞへ出奔したことなど隅々まで広まっていよう。
正十郎はぼんやりと二本松家の蒟蒻の味を思い出す。
最早後戻りはできませんものねと桜が独りごとのようにいい、正十郎が大きな溜め息を落とした。残雪は僅かにも表情を変えず、淡々と続けた。
「私は血統至上主義者ではない」
「ならば何故こだわる」
「狗賓の血は、衆愚を納得させ得る大義名分としては申し分ないのだ。蔵座の頂点から頼益を引き摺り下ろすためのな」
「引き摺り下ろしてどうする、否どうしたいのだ」
そこまでいう必要はあるまいと残雪は吐息と共に呟いた。
「必要なくはないだろう、自分には聞く権利があると思うが」
すると残雪は、相変わらず平坦な口調ながら極めて微かな怒気を孕ませて、
「権利などなかろう」
そういい切った。当然正十郎は何故だ、どうしてだと喰い下がる。
「貴様は蔵座から追っ手のかからぬ身になりたい、それを叶える代わりに私は狗賓の血を利用する。後、私が蔵座をどうするかなど、今の貴様に聞かせても仕方あるまい」
「しかし」
「今はとにかく、目の前の難局を乗り切ることに神経を集中させるが賢明だと思うが」
と残雪は不意に細めた目を横に流した。
食堂の入口、小柄な僧侶の後ろにふたつの人影があった。
そのふたりを、正十郎は見知っている。
ひとりは確か東館に詰めるイフクベとかいう初老の士。もうひとりは、
正十郎はよろけるように前へ出、
「道了尊…先生」
掠れた声を発する。
「残雪、これはいったい」
そう。
伊福部福四郎しかり、道了尊しかり、蔵座に仕官する者らである。