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黒鴉銀蠍抄  作者: 偽薬
11/27

(十一)

 それで、なにからはじめればよい。


 狗賓正十郎は板の間にて、胡坐に腕組みの姿勢で微動だにせず、寒気強まる時季にあって大汗を掻いていた。昨夜からろくになにも飲んでいないためか矢鱈に粘度の高い汗で、次から次へと額やら首筋やら鼻の下やらに浮いて出るもまるで伝って落ちることがない。

 酷い脂汗である。

 眉間にこそ深い縦皺が彫られているものの目は虚ろであり、時折、唸りなのか呼気なのか喉の奥から妙な音がもれ聞こえる。

 桜は即身成仏したかのような夫を眼前に置き、膝を折り刻を待っている。

 戦うと決めたはいいがはたして何をどうしたものか。曲がりなりにも軍人の末席を汚す身である正十郎にさっぱりわからないのだから、その妻である桜などには余計にわからない。それでも気端の利く郎党などは家中を引っ掻きまわして武器になりそうな物を見つくろっていたが。

 桜は無為な胸算用をする。

 もし捕り方が十人だった場合、我が家の男手は四っつであるからひとりが二人以上を相手にする計算である。

 もし二十人だった場合ひとりが五人を…。

 桜はその無為な遊びをやめ、我がことを考える。男はそれでも、戦って傍目に潔死を咲かせた幕引きができようが、はたして女衆はどうしたらよいのだろうと。正十郎にはああいった手前おくびにも出さないが、実際桜はおのれの死に様を模索していた。

 汗みずくの石地蔵からは当然、妙案の出る気配はない。

 桜はひっそりと鼻から溜め息を抜き、立ち上がった。立ち眩みがした。

「旦那様」

 汗が一筋、正十郎の頬を伝った。

 ぱくり、と口が開いた。桜は不謹慎にも好物の味噌汁の実を想起する。

 唇は渇き罅割れ、急に口を開けたものだから端が割れて切れている。咽喉の奥から絞り出した声らしき音は矢鱈にがさがさしていて桜には何ひとつ聞き取れなかった。

「なんと仰られたのですか」

 正十郎も立ち上がった。足が痺れたのだろう二、三足を散らしてやや足を開き気味に直立すると、

「やはりお前だけでも逃げてくれんか」

 といった。

 桜は緩く首を振る。

「私はこの地に残ります。子でもおれば何としてでも逃げねばならぬと思っていたでしょうが」

「ともかく郷里に帰ってだな」

「蒸し返すのですか?」

「いや。うむ。しかしな」

 正十郎は桜の強い視線に耐えられぬように腰に提げた二本差しに目を落とした。祖父から父、そして自分へと受け継がれてきた名もなき刀である。まだ人を斬ったことはない。自分も父も祖父も、おそらくその先の父祖たちも。

 貧しいが平穏な国に生まれ、このまま波風の立たない人生を静かに送るつもりだったのだが。それを常に願い続けた毎日であったのだが。

「桜」

「あい」

「残るであれば、うむ。せめて、せめて自分の死に様を見ていてくれないだろうか…ああいや、実際死にたくはないのだが」

 死ぬ。死ね。死ぬ。

 屈暗気質である正十郎にとって妻の叱咤激励は発奮材料に繋がらず、単純に重荷でしかなかった。笑顔で死んでこいといわれているようなものである。桜は敏感にそれを気取っていたが、敢えてそのことには触れない。

「死に様ですか」

「とにかく自分の最期を見届けてくれ」

 正十郎にしても、独りで逝くなど想像しただけで寂寥感に肝が冷える、とはいわない。安くも男児の威厳を保ちたいという欲求がそこにはあった。

 その威厳なぞがあるが為に、気丈な妻を捨てひとりで遁走できないともいえるが。

「わかりました」

「そしてできれば、お前だけは生き残る道を探して欲しい」

「どのような屈辱を強いられても?」

「屈辱だと?」

 口籠り、そして、それは度合いにもよろうがと呟く。そのようにぐじゃぐじゃと余計な言葉を繋ぐのがよくないのだと、どうしても正十郎という男は学習できない。

「だからいっている、今のうちに逃げよ」

 これでは堂々巡りだ。

 桜は緩やかに頬の上辺を引き上げると、

「好きに致します」

 といった。

 そして薄く開いた障子戸の隙間から中庭を見る。その視線にどういう意味があるのか正十郎にはわからない。いや、わかろうとしないだけかもしれぬ。

「私は往生際が悪くて。未だ良策はないものかと思案しております。私の頭の中にはそうした知恵の浮かぶ場所などこれっぽっちもないのですけれど」

「自分の頭の中にもない」

「…旦那様。でしたらあの、ざ」

 待てと正十郎は右手のひらを桜に向けた。

「あいつか?」

 さすがにそこは素早く察して、正十郎は脳裏に生気の薄い男の顔色を思い浮かべた。

「あいつは…」

 あの肚に一物持った怪人は、どんな場合に於いても何事か腹案があるような様子に見受けられるが、はたして。

「まああのような者」

「あのような者ですが、なにか知恵があるのではないでしょうか」

「そう思うか」

「何となく、ですが」

「しかしな、繋ぎをつけようにも何処にいるかを知らぬ」

 正十郎も隙間から外を見る。

 主家に背くことを思ったとき、最初に思い浮かんだ顔が誰あらん残雪であった。

 頼るのではない、利用するだけだ。などと決意してみてもそれは多分同じことである。


 皓、と山鳥が啼いた。


「まあこちらが探さずとも、あの男は用があれば勝手に」

 などと冗談めかしていうものの、それは実際正十郎の願望であった。溺れる者は藁をも掴むというが、今の正十郎にはその藁もないのだ。

 狗賓正十郎にとって、自分に対し寛容なる愛情を以て接する妻も、一応の恭順を示す郎党も、今はまだ藁以下であった。

 追捕の手は迫っているのだろうか。

 噂話を端緒にしているのであれ罪状が罪状であるから、こちらの顔を見るなり斬却というようなことにはならないと思うが、それでも首を刎ねられるのが数日後に延びるというだけだ。せめてみっともなくならぬようにしなくてはなるまいと正十郎は思う。もっともみっともなくあれば助命叶うというのなら誰の足でも舐めよう、とも。正十郎とは、それほど生き続けることに執心している男であった。否、諾々とであれ生き続けることのみに誇りすら抱いている感がある。

 ならばやはり、逃げるか。

 正十郎は桜を見た。

 桜は桜色の唇の端を左右に引き、

「逃げては確実に追わるる」

 金属質の声。

 不意に後背から聞こえた声に虚を突かれた桜は腰を抜かす。

 正十郎は短く、嗚呼ともらした。

 影に身をまみれさせた銀髪の男が立っていた。

 残雪。

 桜より上背はあるのに、どうして後ろに立っていたのが気づかなかったのだろう。中腰になっていたものか。いや、そんなことはどうでもいいと正十郎はやや頬を上気させ、口調だけは荒々しくいった。

「矢張り現れおったか残雪。貴様知恵者であろう、この状況どうにかせい!」

 残雪は姿勢よく立ち、どこを見ているものか瞼は半分以上閉じていた。

「よもや当家が置かれている状況を知らぬとはいわせん」

 すると闖入者残雪は伏し目のまま鷹揚に頷き、無論と短く返し続けて、

「条件がある。この危難を乗り切るにあたり我が提案を退けぬこと」

「条件などと。民間が生意気な」

 正十郎のその言葉に、残雪は音が出るほどの勢いで目を見開いた。

「官であろうが民であろうがどうでもいいことだ」

「なに」

「問われたことのみに答えよ。時間がないのだろう」

 正十郎は桜を見る。これまでずっと重要なことは常に妻に相談し決めていた。

 桜は腰を落としたままのかっこうで、やや戸惑いがちに頷いて見せた。それを見た正十郎は残雪の喉仏の辺りを見て頷いて見せる。

 残雪はふんと鼻を鳴らす。

「契約成立で宜しいな」

「う、うむ」

 残雪は殺した白の外套を翻し、隙間ほど開いていた障子を勢いよく左右に飛ばした。

 白んだ外界。

 赤茶けた道。

 枯れた木々。

 残雪は道を指差し、

「やがてあの道をここへ、蔵座の士卒団がやってくる」

「やはり来るのか」

「ああ。進発を見、私はここへ来た」

 そこへ正十郎がなにかをいい掛けるのへ、

「五人。しかしまずまずの手練であると推察する」

「何故だ」

「士卒をひとり捕縛するのに手間取っていては、国主の権威に関わろう」

「冤罪も甚だしいがな」

「しかし蔵座では実情、国主の意思が法である。その法に照らさば今度の件は冤罪ではない」

「む。御山様が自分の存在を疎ましく思ったから、捕らえよと?」

「そこまでは知らぬ」

 風が吹く。

 乾いて、酷く冷たい蔵座の初冬の山颪。

 残雪とはじめてあった日のことを正十郎は思い出している。

 残雪は短く、とりあえずこの家から逃げるといって続けて、荷物があるなら早く支度をせよと命令した。正十郎には家財のことはわからず、刀と防寒着さえあれば良かった。

 桜はすっくと立ち上がり、あれほど逃げ出すことを厭うていたわりにはさっさと逃げ支度に取り掛かる。正十郎がそんな妻にないかをいい掛けるのを目ひとつで制して、

「要はそのような無法な意思でも通る体制であるということよ」

 と残雪はつまらなさそうにいう。

「なんだ、貴様の想像ではないか」

「強ち間違ってもいまい」

 正十郎ごときが突っ込んだところで残雪は

揺るぎはしない。

 確かに問題というなら、狗賓の血は確かに問題なのだ。正十郎の父祖が国政とはなんの関わりもない人間であったなら、少なくとも現今このような憂き目に遭ってなどいまい。

「本当に貴様、どうにかできるのだな」

 正十郎は続けて尋ねる。

「貴様、自分を利用していったいどうするつもりだ」

「今はいえぬ」

「騙しているのではあるまいな」

 そもそもこのような噂を拡めたのだってといいかけて、さすがに民間の者に城内に噂を拡めるような真似のできようはずもないと正十郎は思い直す。

 残雪は黒目に感情を乗せず、ただ正十郎の汗まみれの顔を見返している。無言。釣られて正十郎も黙る。


 皓。


 皓、皓。


「ま…まあもっとも自分などを騙してもなんの得もないだろうがな」

「得はあろう」

「あ?」

「貴様は本来蔵座を支配する身である」

 正十郎は残雪の薄い唇を注視する。

「本来とか申すな。そうしたことを考える者がおるから今回のこの騒ぎが」

「旧支配階級の血に生まれたのだ、余計な勘繰りは仕方なしといい加減に諦めるがいい。それよりも狗賓、この国の情勢を理解しているか」

「貴様、誰に向って」

 呼び捨てなどとと膝を曲げた正十郎を今度は指三本ばかりの動きで制し、残雪はゆるやかに言葉を繋いだ。

「いいか。内憂外患。この国はな、このままだと中からも外からも腐れ落ちる」

「腐れる…?」

「国主は稚拙だ」

「あ、ああ」

「そして隣国は軍事国家」

 軍神の棲まう国、七鍵。

「七鍵があるがゆえ、この小さき国は更なる大国にも狙われる」

 堕府。

「堕府が侵攻してくる、とかいう。しかしそのようなこと、にわかには」

 信じられぬ。正十郎は発作的に喉の強い渇きを覚える。

「貴様が信じようと信じまいと、彼の大国が此の小国を狙っているのは事実である」

 目の色から真偽を探ろうにも残雪の瞳孔は色温度の低い部分で安定しており、つまりは正十郎などにはとても読み取れるものではなかった。

「ちょっと待て整理させてくれ」

「今更か」

 そう、今更である。今まで散々整理する時間はあったはずだ。

「今更でもいい。待て。自分を利用して、どうしてこの国の憂いを払拭できる? あ、ああ今はいえんのか」

 すると残雪はふいと目だけで横を見、正十郎がその目線に釣られるのと同時に声をあげた。

「今の国主に蔵座を護る気概はなく、近侍する連中もその点を是正しようとする者はおらぬ。これは何を示していると思う」

 不意に問われ正十郎はそれでも考える振りをして見せた後、結局わからんと答えた。

「蔵座の首脳に堕府と通じている者がいるのだ」

「通じてる?」

 といって、やや時間をかけじわじわと残雪の言葉が正十郎の脳髄に染みわたっていく。

「ん? なんだと? まさか、そのような」

「頼益は全幅の信頼を置いている何者かから一方的にあがってくる虚偽の報告を鵜呑みに信じている可能性がある。加えて頼益は無類の女好きである。仮におのれが感じ取ったこの国の瑕疵があったところで、その夜に抱く女のことを考えたなら忽ちに忘却するほどのな。私も名を知らぬ何者かは、国主を適度に禁欲させ、要所で適当な女を宛がえばよい。今のところ頼益が軍部の改変を望んでいないところを勘案するに、どうやら賢く立ち回っているようだな」

 残雪のその言葉の裏には、その程度の賢さなど自分は簡単に看破し、且つ上回っているのだという自信が見え隠れしている。

 残雪には多分奥ゆかしさという美徳は欠如しているのだろうと、正十郎は思う。

「その者を主座から引き摺り下ろすにも、替わりが必要だ」

「替わり、それがまさか自分だと」

「確認しなくてはならない話か」

 残雪の鷹揚な態度にやや慣れつつある正十郎は、少し身を寄せ改めて問うた。

「御山様の替わりを自分にさせると、貴様はそういっているのだぞ?」

「私だけではない、噂の内容も然り」

「まあそれはそうだが」

 残雪は我が耳を指差す。

「耳障りの問題よ」

「耳障り?」

「主君の代替だ、有り触れた血脈ではつまらなかろう」

「つまらないとかそういう問題ではない」

「そういう問題だ。狗賓、貴様が思う以上に人とは卑俗で下賤なものだ」

「貴様の人間観など知らぬ…」

 もしかすると残雪とは狡猾というよりも、

 正十郎は再び汗を掻く。

 残雪は淑女のような指で、す、と正十郎を指し示した。

「私が欲しいのは狗賓の血よ」

 正十郎は一歩大きく後ずさり、対抗するかのように残雪を指差して、喉も割れよと大喝した。

「血で、血で政治はできんぞ!」

 残雪はいう。

「そんなもの望んでおらん」

「ならばなにを」

「蔵座の民を納得させるのに、わかり易い題目が必要なのだ」

 正十郎は軽く顎を落とす。

「それだけ、か」

「それだけだ。荷は軽かろう」

 飽くまで落ち着いている。要は正十郎は、頼益に替わる神輿である。頼益よりも正統な分、或いは民の目には煌びやかに映るのかも知れぬ。

「狗賓、私はこれでも」

 正十郎は落ち着きのない安堵と予定調和な落胆を胃の腑に落とし、言葉の続きを待つ。

 残雪は今日訪れてはじめて双眸に人間らしい光りを宿し、


「この国を救いに来たのだ」


 はっきりとそういった。

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