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黒鴉銀蠍抄  作者: 偽薬
10/27

(十)

 その奸計の最終的な段階へと至るための号令は、酷く粛々と、それでも確実に、大多数の蔵座国民が一切なにも気づかぬうちに発せられた。

 最初の餌食となったのは、東の館の女主こと鈴蘭。しかし彼女は当初、陥れる側に立っていた筈である。いわずもがな鈴蘭自身そう思っていた。

 闇嫌いの西の女の、館の蝋燭の灯を消せ。

 追い詰めよ。

 その児戯のごとき行いでまさか人死にが出るなどと鈴蘭は想像だにしていなかったし、見た目とは裏腹に小心である彼女にとって人死にの出た事実は、日を追うごとに大きな負担となっていった。しかも一人ではない、二人、三人と増えていくのだから、時々刻々酒と脂にまみれた身体に重く、実に重く覆い被さっていったものだ。

 そんな中での、御山様の久方振りの訪館である。じわじわとはらわたを焦げ付かせるような精神的荷重を喰らっている最中での、今彼女にもっとも緊張を強いる状況。それが渇望したものであっても尚。

 相当無理をしたに相違ない。

 長年放って置かれた身だ、館に来てまで何もせずに帰るのではという懸念は鈴蘭の背中にのべつべったりと張り付いていた。再びはない、そう思っていた。

 最後の機会なのだ。国主を受け入れその貴種をこの身に宿さねば、自分はいったいなんのためにこの世に生を享けたのか。自分だけではない、一の家臣である伊福部を筆頭に、東館の住人皆がそれを望んでいる。自分の身に期待を寄せている。鈴蘭はそう肚に溜めて思った。

 些事であれ大事であれ決心は必要である。

 決心は身に緊張を生み、果報を引き寄せる力となろう。しかし当然、過度の緊張など毒でしかない。

 緊張を更なる緊張で誤魔化していた鈴蘭はだから、消し去ったと安堵していた怪異を目の当たりにし、


 狂ってしまった。


 怪異とは、いや怪異なのかどうかも甚だ怪しい、提灯の灯かりと奇妙な音。

 せんぽくかんぽく。

 いったいそれのどこにそれほどまでに怯えていたのか、今の鈴蘭にそれを問うても明確な答えは返ってこない。

 勝手に類推するならば多分、西館の主人を追い込んでいるという精神的な負い目が逆様に自分を追い込んでいってしまったのではないだろうか。

 ともかく鈴蘭は切望していた主君の胤を身に宿すことなかった。ただただ最後の機会を(おそらく永遠に)逸してしまったことのみ事実として残った。


 西に続いて東の館の女主が狂乱したとの話を、正十郎は最初誰に聞いたのだったか覚えていない。

 正十郎は正十郎で、

「なんで自分が…謀反などと」

 おのれのことに手一杯であった。

 今も妻を説得しようとあれやこれや提案していた。説得といっても、要は蔵座を遁走する手筈を一方的に捲し立てていただけであるが。

 妻、桜は存外冷やかであった。

「当然です、旦那様に叛意などなく、あらぬ嫌疑を払拭せぬまま逃げ出しては二心は誠であったかと要らぬ誹りを受けましょう」

「立ち去った後に誰になにをいわれようとどうでもいいではないか。こうして愚図愚図している間にもだな」

 上意を受けた捕り方が狗賓家を囲むかもしれぬ。そう思っただけで正十郎の尻の毛はそそけ立った。まるで居た堪れぬ。

「どうでもいいから早く支度をせいッ。なにも要らぬというのなら今すぐ出立するぞ」

 つい声を荒げてしまう。それでも桜は、頬をやや上気させたのみで動こうとしない。最悪の場合は妻だけでも逃がさねばと思っていた正十郎は、予想していなかった事態にやや戸惑いを隠せない。

「いやです、逃げませぬ」

「何故だ」

 問い返す間もそわそわと落ち着きがない。

 それも致し方ない事態ではあった。

 狗賓正十郎の血筋を辿った先は此の地、蔵座国建国の祖である。であるからその子孫正十郎は、(正十郎本人は極力目立たぬことを常に心がけ、まるで地虫の如く慎ましやかに生きていたにもかかわらず、)現今の一士卒という立場に憤懣を覚え、国家転覆の計を縷々練っている。

 勿論噂である。正十郎にはそのような危険な思想はない。しかしその噂は今や蔵座国内に隈なく蔓延している。何処からわいて出たものか、まさに青天の霹靂である。

「逃げねば捕縛されるやもしれんのだ、自分はもとより、お前も。この家の者皆もだ」

 戸板の隙間から、仲のいいのだか悪いのだかわからぬ夫婦の尋常ならざる会話を気を揉んで注視していた郎党たちの喘ぎのような感嘆符がもれ聞こえる。

 正十郎はその声を耳の端に引っ掛けつつ、

「噂は虚だ、当然。しかし一度自分を捕縛して後、実は潔白でしたと簡単に開放すると思うか? 卑しくも一国の長の決断、簡単には覆すまいぞ。いやさ勝手な虚構を捏造するかもしれん」

 桜はまさかといって大きな目を更に大きくする。

「だいたい旦那様はそのような大それたこと考えるお方ではありません」

「だから。勝手な噂が拡まっているのだ。もし本当に捕り役を派遣するような事態にまでことが及んでいたなら、もう自分の力ではどうもできんし、もちろん抗うこともできん。狗賓家は滅んでしまうとそういっている」

「ですが。濡れ衣を着せられておめおめと逃げ出すと、旦那様は仰っているのですよ」

「くどい! 濡れ衣であろうがなんであろうが上に目をつけられれば終わりなのだということがどうしてわからんッ。狗賓の血筋とはそうした面倒なものなのだ。だから自分は極力目立たぬよう今まで生きてきたのだ。それをなんだ、逃げ出すことがそれほどみっともないか? 清廉潔白だといい張って、投獄され拷問され、最後には首を刎ねられるほうがいいというのか? それとも捕り役に一太刀浴びせて花と散るか? 冗談ではない! くだらん意地を張るな!」

 桜は激昂する正十郎を困ったように眺めていたがやがて俯き加減に大きな声を出さないでくださいませといった。

「どうしてわからん。自分だけの話ではないのだ、桜やほかの者たちにもかかわることなのだぞ」

「わかっております」

「わかっておらん!」

「わかっておりますよ。ただ私は、このまま逃げることがはたして良いことかと」

「やはりわかっておらん。嗚呼どうして話が通じんのだ! 命の危機だぞ。抗ってどうにかなる程度の話ではないのだ!」

 いって正十郎は地団駄を踏むような仕草を見せた。桜は更に困ったように眉尻を下げ、

「理解しております、わかっております」

 若干うんざりしているようである。しかしそれは正十郎にしても同様である。否、いつ来るとも知れぬ上意を携えた使者たちに戦々恐々としている分、その度合いは正十郎のほうが深い。

 ひとりで逃げようかとも瞬間頭をよぎったりもしたが、さすがにそれをしてしまっては士卒や男としてという以前に、人として終わりのような気がしている。さすがにそれは避けねばならない。

 この期に及んで先ず考えることは保身。それがおそらく狗賓正十郎という男の本来の姿なのだ。そして人間である以上他の者も大差ないとどこかで思ってもいる。

「もうよい」

「なにがよいのですか」

「逃げるか残るかそれを今決めろ」

 桜が何事かいい掛けるのへ、

「早く!」

 正十郎の眉間が朱に染まっている。桜は溜息を落としそうな顔だけして、わかりましたと無声音に答えた。

「私は貴方の妻に御座います」

「そ、それはつまりともに逃げるということか? わかり難いいい回しをするな、はっきりと物をいえ!」

 さすがに桜は哀しそうな顔をする。それでも情けのない夫よりだいぶん気の強い妻は一度大きく息を吸い込むとこういった。

「私は貴方と共におります。ですがこの地から出るつもりもありません」

「なんだと」

「貴方に嫁いで以来私はもう、蔵座に骨を埋める覚悟でおりました。今更それを変えるつもりはありません」

「お前は蔵座の生まれではないだろう」

 正十郎が蔵座にこだわる根拠はその理由が一番強い。であるから桜のその決意は、とても理解し得るものではなかった。

「何処の生まれとか、そうしたことは関係ありません。そう決めたのです」

「それを決めたことを、知らん」

「いってはおりませんもの、当然です」

「ならばどうするのか。ここは出ない、しかし自分とともにおるというのであれば」

「決まっております」

「いや、しかし」

「逃げる宛てなどないのでしょう?」

「それは」

 まるでない。正十郎には国外に寄る辺などまったくなかった。ただ闇雲に遁走することのみを思っていた。その先がどうなるのかは敢えて考えることなく。

「私は野垂れ死ぬのは厭です」

「まだそうと決まったわけでは」

「決まりです。だいたいこれからもっと寒くなるのですよ? 寒さに眠ることもできず食べるものもなく、それでどうして生きていかれましょうか」

 小賢しく頭を巡らせずともその程度の想像子供にもできる。正十郎はそうした現実を見ぬようにしていただけである。

「しかし」

 そう。このまま座していて、いったい何の展望があるという。そうした思いを米噛のあたりに漂わせると、桜は敏感にそれを気取ってやけに明るく返した。

「戦うのです」

「なんだと?」

「戦うのですよ。どちらを向いても進退極まっていることに変わりがないのならば、せめて前を向きましょう」

「前を向いて…」

 死ぬのかと、正十郎は暗澹とした気持ちになる。当然の感情であるが死にたくはない。

「犬死にだ」

「それはわかりませんよ」

「わ、わかるだろう、ふっふざけるな! ふざけるな」

 どうして自分を含めて片手で足りる狗賓家の者らが、小さいとはいえ一国の権力を相手取って勝てるというのか。

「捕り方は訪れるでしょうか」

「今日か明日か、いつかはわからんが必ず来る」

「噂でも」

「根も葉もない噂ではない。根の部分、狗賓の始祖が蔵座を建てたことは事実なのだ」

「だから、旦那様を疑って」

「真偽のほどを確かめるには当人に尋ねるのが一番だろう。誰でもそうする」

 そして捕り方がここを訪れた時点で狗賓正十郎の罪業は確定し、その命は刑場の露と消えるのだ。

 一族郎党諸共。

 桜はそっと正十郎の手を取った。

「謀反ではありませぬ」

 向こう百年の汚辱。

「蔵座を本来の形に戻すための戦い」

 三光坊に居場所を奪われた狗賓の父祖。

「なにを籠絡しようとしている」

「籠絡ではありません。私はただ、旦那様がこの世にお生まれになり、そして蔵座に居続けるわけを、そろそろ明確に世間に披歴してほしいと思っただけです」

「蔵座にいる理由」

 今まで敢えて訊きはしなかったが。

 正十郎は生ぬるい唾を嚥下し、

「自分が世間からどういわれているのか知っているのか」

 とだけ返した。


 こそこそと。


 情けない男よ。


 血こそ尊いが。


 二本差しが似合わぬことよ。


 あんな者は男に非ず。


「はい」

「…そうか」

 狗賓正十郎に対する世間の評価はそうした負の感触を伴ったものばかりである。それを正十郎本人は世間と関わり合う煩わしさが何より苦手なのだという顔をして今まで聞かぬ振りをしてきた。

 逃避こそ狗賓正十郎のすべてであった。

 それももう限界か。いつかはこんな日が来るかも知れぬと夢想したことがあったが、


 まさか本当に訪れるとは思わなかった。


「自分は情けない男だろうか」

「はい」

「ならばどうして共にいる」

「幸せにしてくださると約束してくれましたから」

「それを今でも信じているというのか」

「いけませんか」

「戦っても死ぬだけだ。万が一どうにかなったのだとしても得るものなど何もないかも知れぬ」

「なにも要りません」

 そう。桜とは昔から無欲な女ではあった。

「ただ私は、少なくとも生きられる可能性に賭けてみたく思います」

「生きたい、のか」

「当然です」

「当然だな」

 潔く死ぬことを一種の美学とする風潮は蔵座にもある。

 桜はやけに澄んだ目で正十郎を見つめている。

 逃げても死、立ち向かっても死、それでも僅かばかりの可能性があるならば。その上。

「大義は我にあり、か」

 その事実は今まで正十郎の背骨とならず、重い足枷でしかなかったわけだが、こうなってみるとやはり揺るぎない自分というものを獲得するための、おのれにいい聞かせる強力な方便にはなりそうだった。

 悪くはない。

 否。重ねるが大義正義は狗賓にある。

 起つか。

 どうせ死ぬのなら大義に殉じたほうが外聞はいい。

「しかし、今まで代々平穏に暮らしてきたのにどうして自分の代でこんな憂き目に遭っているのだろうな」

「まことに」

 正十郎は我が手に視線を落とし、ごく小さな溜め息をつく。

 何処の誰なのかは知らぬが狗賓の血統をもとに有りもしない事実をでっち上げた奴がいる。その目的は知れず、また誰であるのかなど調べてどうにかなるものでもないだろう。

 漠然と悔しい。

 対象が明確でないゆえ怒りを像としてはっきりと結べはしないが、感情の燻ぶりは否めない。ならば何者か知らぬ対象の鼻を明かすためには、ここはやはり自分が起つしかないのだろう。

 それも想定内であるのかもしれないが。

「桜、片手で足る郎党を従えて、はたしてどれくらいもつだろうかな」

 冗談めかしていうも、郎党共が自分に従ってくれるとは到底思えなかった。

 正十郎は戸の隙間を見た。

 どの顔も父の代から我が狗賓に随従してくれている馴染みの者たちである。

「どうだろうか」

 はっきりとは尋ねない。否、はっきりと自分と共に死んでくれとは頼めないといったほうが正しいか。

「逃げてもよいのだ。自分ではなくお前たちだけならばそれほど厳しい追っ手はかかるまい」

 そもそもまだ、追捕方が蔵座城を発向したとの話は耳にしていない。

「戦って、万にひとつ生き残ったのだとしても、おそらく何もない」

 生き残る状態とはどういったものか、正十郎には想像もつかない。なにかの拍子にことが収まるのか、はたまた我が手で城方を殲滅するか。

 正十郎は鼻で笑った。

 ひとり、ふたりと正十郎よりも齢を重ねた郎党たちが部屋へ入ってくる。

「儂らにゃなにがなんだかさっぱりで」

「うむ。自分にもよくわからん」

 どうして自分がこのような憂き目に晒されているのか。

「ただまあ、死ぬ死ぬと。儂ら人間ができてませんで、死ぬのは怖えです」

 死の恐怖を克服することが人として成っているというのなら、正十郎はおそらく生涯半人前なのだろうと思っている。

 それでも死さば須らく。

「怖えですが、まあ」

 ほかになにもできんですしと一番老いた郎党頭はどこかはにかむようにいった。ほかになにもできぬから自分と共に死を選ぶということだろうか。その安易さに思わず反論しそうになるも、正十郎は結局自分と然して変わらぬことに気づく。

 正十郎自身、逃げる先がなく、避ける知恵もないがゆえの決心であるからだ。

「わかった。礼はいわぬ」

「礼なんていりません。思えば運が悪かったのでしょうねえ」

 決して忠誠心からではないと、郎党は素直に認めた。それでも正十郎にとってはありがたかった。生きられるとは思っていない、少し死ぬのを遅らせられそうだ、と。

「ともかく支度をしよう」

「死出の支度ですかな」

 そう皮肉をいうものではないと正十郎が主人らしい口調で諌めると、ばらばらと集まりはじめた郎党らは歯を見せ笑った。


 嗚呼我が身のなんと不甲斐なきことよ。


 狗賓正十郎はこうして周囲に流されるままに主家と戦うことを決めた。

 噂は噂のままに、三光坊頼益が鼻もひっかけずにいてくれよと心を奥底で願いながら。

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