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黒鴉銀蠍抄  作者: 偽薬
1/27

(一)

 狗賓ぐひんという名の、来歴だけは大層な家の跡取りとしてこの世に生を享け、此の世の仕組み、家の在り方に一切の疑問を持たぬまま、父に言われるがまま学び、鍛え、そして妻を娶った。

 正式には十二代狗賓正十郎。

 父は無論十一代狗賓正十郎である。

 重ねて来た時代こそ大仰であるが、ただの下級士卒。受け継ぐのは大層な名跡と、家付きの郎党数人、後は猫の額ほどの土地の付いた隙間風ばかりの襤褸家。

 陽の出る前からその襤褸家を出、主家であるこの国の長の住まう城に日参する。城主とは言葉も交わさず目も合わさず、ただただその他大勢の家臣団とひと塊りになって床に這い蹲る様に辞儀をし帰ってくるのみ。それが本来の仕事ではないが、現今その行動によって狗賓家は保たれている。それでも無論有事の際は敵の矢面に立ち、我が主と城を守らなければならない。

 しかし今は永い永い平時である。平時にやらねばならぬことといえば、常に主に叛意のないことを示すことのみ。今日は昨日と同じ一日。

 抑揚のない毎日を生きている。

 ほぼ百年の間争いのない安閑な国なのだ、それも致し方あるまい。

 南北に長い日輪国国土の背骨のあたりを縦に走る牙状連峰。

 その峻険なる峰々の狭間にある小国、それが我が国蔵座ざざである。

 無為な日々だとは感じていたが、疑問を覚えることはしない。否、疑問の存在を横目で見つつ、考えぬ振りを決め込んできた。少し考えればおのれの生き様に大いに不信を抱くことは明々白々で、それを十分感じ取っていたが故の回避である。

 どのような者とて自分の生きてきた来し方に疑問を持ちたくはあるまい。建設的な答えの出る疑問であるならば兎も角、どうにもこればかりは我が手ひとつでは解決儘ならぬ。

 それも又、逃げ、か。

 しかし我が家のような小さき門でも自分の存在を頼りに生を繋いでいる者もいるのだ。妙な考えを起こし自分の一存で突飛な行動を起こすわけにもいかぬ。そうだ。そう思っていよう。いやいや、自分は以前からそう思って生きてきたのだ。

 その日。

 帰途の道々、赤や黄に染まった紅葉を眺めつつそんなことをぼんやり考えていたのは覚えている。その後に考えたことはと言えば、冬支度に皆で於朋泥を干さねばなるまいとか蕎麦粉の備蓄はどうだったろうかなどといった、恐らく前の年の同じ時季に考えていたことと同様のこと。何も変わりはしない。それでいい。

 三人扶持の小家である狗賓家などでは主城に出仕する際も徒歩である。否、そもそもこの国では馬に乗れるのは一部の特権階級のみであり、高々一介の、それも下級士卒である我が身など、たとえ大戦が起ころうとも馬の轡すら取れまい。何故なら馬とは高貴な生き物であり、その馬に乗ることのできる者となれば尊い存在であるか、重い任務を課せられた者でしかないのだ。実にわかり易い。

 だからその日も、城から家までの片道半日近く掛かる道程を晩秋の昼過ぎの緩い日差しを受け歩いていた。

 この土地にしては珍しく、その日は風がまるでなかった。

 供周りの者などおらぬ。郎党は冬支度に忙しく、ただ辞儀をし帰るだけの主に付き従っている暇はないのだ。また、悪い意味で安定してしまっているこの国では一人で山道を歩いていようとあまり身の危険を感じるようなこともなかった。野盗や山賊はもう少し山の辺の方に行かねばおらぬ。そしてそうした輩らにすら、この土地に住まう者が極めて貧しく、盗る物も剥がす物もないことが知れているのだ。また、特別産業もなく、遠方から商用で訪れる者もほとんどない。

 山賊ですら敬遠する土地なのである。

 生意気に国と名乗ってはいるが、その実山肌にへばり付くように点在するいくつかの寒村を勝手に纏めて名乗りを上げたのがはじまりだ。

 山を挟んだ隣国にはその名を天下に轟かす軍事大国があり、蔵座など恐らく小指一本で捻り潰してしまえることだろう。今まで隣国が攻め込んでこなかった理由は一重にこの国が切り取るに足らぬ小国だったからだ。

 身の小ささが幸いして大国の視界には入らぬのだろう。

 それでも自分にとっては、蔵座が世界のすべてである。

 足裏に伝わる、乾き切った枯葉とその下の多分に水気を含んだ土の感触。時折足を取られる。

 放と白い息を落とし、顔を上げたその時目の前に青味の掛かった銀の長髪の男が立っていた。

 見慣れぬ奇異な衣服を身に纏っている。

 白い革製の外套に、同じく革製の黒い穿き物。そして黒革の靴。白と黒。男の顔色も矢鱈と白いが故、まるで無彩色だ。

 背景の赤と黄が男の色のなさを余計に際立たせている。

 自分は声を掛けることもせず、暫時その男に見入った。その時は不思議と身の危険は感じなかった。

「狗賓正十郎様でいらっしゃいますね」

 金属的な、聞き様に依っては耳障りのする声。しかし実によく通る声だ。

「確かに自分は狗賓だが」

 男は残雪と名乗った。

 姓はないらしい。

「用件は何だろうか」

 と言いつつ腰の太刀に手を遣る。これは警戒というより士卒が故の習性に近い。

 残雪は空を見ている。

 少し雲が出てきたようだ。

「用がないのならば行くが」

「お急ぎで」

「まあ」

 いい加減なことを言って煙に巻いてしまおうかとも思ったが、自分の嘘の拙さを痛いほど知っている為正直にそのままを言うこととする。

「陽のあるうちに於朋泥を干さねばならぬ」

「於朋泥。ああ大根のことですか。この辺りはまだ古語を使う土地でしたか」

 残雪はちらとも表情を変えずそんなことを言った。

「そう言うあなたは中央から御出でか?」

「生まれは北国です。確かに堕府には何度か行ったことがありますが」

 堕府だふとは日輪の中央に鎮座する巨大な国家の名。此の世の富と叡智と力と美が全て集まった大都であるという。

 自分など話に聞くだけで、何だか腹の膨れる思いのする場所だ。それでも多少の親近感はある。実妹が行儀見習いで堕府の商家に奉公していた。

 残雪の服装はこの国でこそ異質だが、中央では普通なのかも知れぬ。於朋泥も中央ではダイコンなどと言うらしい。

「それで用件は」

 油断するわけではないが、どうやら残雪は丸腰である。

 それでも半歩間合いを広げた。

 残雪はちらりと我が足元を見、

「愉しい話ではない」

 と言った。

 こちらを見る双眸もまた、酷く色彩が欠落していた。

 一度強く風が吹いた。

 残雪の銀髪が散り、革の外套が翻る。奇妙な男の視界が奪われたのを見て取るや、山道から飛び退き横の雑木林に落ち込んだ。特に何を感じ取っての行動ではない。漠然と漫然と厭な予感がしたのだ。

 雑木林とは言え何処にどう繋がっているかはよく把握している。幼き頃より散々親しんできた山である。少し早足になれば残雪と名乗った男は追ってこれまい。それでもやや時間を置き、上方の山道の様子を耳だけで窺った。物音はなく、どうやら追ってはこないようだ。

 何とも奇妙な男だ。


 風は一度吹いた切りだったようだ。


 立ち上がる。

 膝小僧に枯葉が一枚へばり付いている。

 そそ、と獣の気配がした。

 右を見、左を見、傍らを流れている筈の川の瀬音を聞いた。

 それでももう一度周囲を見、残雪の姿を探した。追ってきた気配は皆無であるし、何よりあの服装では山には入れまい。あのような固い靴など履いていては駄目だ。その上残雪は、とても山に分け入ってこれるような体力があるようにも見えなかった。飽くまで印象であるが。

 それにしても、自分に愉しい話ではないものを聞かせてどうするつもりだったのか。逃げておきながら興味は尽きない。話の内容は一体どのようなものであったのか。触りの部分でも聞いておけばよかったかしらと此処に至って要らぬ後悔をしてみる。それもこれも身の安全が確保できたことに因る慢心からくるものではあろう。

 逃げ出したのだ、只。いつも通りに。真正面から立ち向かうことをせず、物事に斜めから入り、安寧であるならばしがみ付き、危うければ掠めて逃げ去る。今までずっとそうしてきた。そしてこの先もきっとそうするであろう。

 枯葉が剥がれ落ちた。

 膝頭にできた染みに少し不快になる。

 幼い頃から、特に何に秀でるわけでも且つ何に励むこともせず、どうせ嫌でも父の跡を継ぐのだと言ったある種諦観に近い思いから特別勤勉でもなく、かと言って極端に逸脱することもなく、真面目な素振りを見せつつも適当に息を抜き脇道に逸れして今までを生きてきた。

 そんな自分でも、もしやおのれには特別な才能があるのではと思春期の少年に有り勝ちな妄想を抱いていた時期があり、しかも長じてからもその妄想を暫く引き摺ったものだ。未だその名残は抜け切っておらぬ。このような閑職に甘んじているような器ではないなどと思うことがある。

 但し、気は小さい。

 周囲にはそれを気取られぬようにしているが、本性の自分は他人と目を合わせるのも儘ならぬ。必要に迫られねば自分からは誰にも声も掛けぬ。

 加えて怠惰でもある。一日何もせずに毎日が成り立つとしたなら、喜んでその境遇に溺れることだろう。しかし、当然のことながら下級士卒の身ではそうもいかず、こうして城に日参し日々の糧を得ている。それでも物は考えようで毎日歩くだけで生活ができるのならそんな楽なことはないだろう。余計なことは考えず、足を前に運んでさえいれば問題ないのだ。

 面倒で苦手な人付き合いを極力避ける為、父が死んでその喪の明けぬうちに家臣連の中でも一際遠い場所に転居した。上役やら同輩からの酒だの賭けだのの誘いから逃げる為の方便としてこの距離は必要だった。自分の中では人付き合いの煩わしさに比ぶるならば、日々の遠距離移動の方が幾分ましに思えたのだ。

 他人との接触を厭うが故、間々鷹揚な人物ではないかと勘違いされることはある。

 それにしてもと思い返す。

 気配のまるでない男だった。ただ印象にだけは強く残った。

 異装に身を包んだ色彩のない男。

 帰ったら妻にでも語って聞かせようか。そう思いつつもきっと話しはしないだろう。夫婦仲は悪くはない。説明するのが億劫なだけだ。一事が万事そうなのだ。世間に自分の実が知れたとしたなら、果たして一体何人の人間が手元に残ってくれるだろうか。禄も低く栄達の見込みもない。その上ろくでもない人間性まで露呈して、それでも尚狗賓正十郎に従いますと額ずくとしたなら、そいつは余程の忠義者か、さもなくば極まった愚か者であろう。

 時々子飼いの郎党と自分との関係に就いて思うことがある。仮に、自分の後背に存在する狗賓という家名が消え失せた時、一体彼らはどうするのだろうか。

 今のところ我が家に崩壊の兆しはない。しかし何時何時頼りない当主の足元を掬おうと目論む輩が現れるとも限らない。ただ、極貧の狗賓家を引っ繰り返したところで、その者は謀反者の汚名以外得るものなど何一つないだろう。

 つらつらとそんな愚考を連ねているうち、家に着いた。

 茸のたっぷり入った味噌仕立ての鍋の匂いが鼻腔に届いた。蔵座の味噌は隣国のよりも一層渋味が強い。それが旨い。

 そしてこれでいいのだとつくづく思う。

 この変わり映えのしない毎日を守っていくことこそ自分の生き甲斐なのだ。

 その夜。

 大した憂さの溜まっていたわけではないのだが、珍しく夜半まで酒を飲んだ。頭の隅に残る奇妙な男の残像を斗酒で希釈したかったのかも知れぬ。

 と。

 一言も文句も言わず、さりとてくすりとも笑わず、まんじりと傍らに座っていた妻が、宵から強くなり始めた山風の一瞬の間隙を縫うように西国訛りの多少残る言葉で訥々と語り始めた。

「そのお鍋に使ったお蒟蒻なのですけどね。川縁の二本松様から買ったのですけど」

 自在鉤にぶら下がっている鉄鍋は既に空である。乾いた菜っ葉が底にへばり付いているだけだ。

 二本松家は我が家と似たり寄ったりの家柄だが、昔から郎党に手先の器用な者が多く、酒だの味噌だのをせっせと作っては安価で販売しているのだ。今晩の茸鍋に入っていた蒟蒻も、妻が今日二本松家で買い求めてきた物のようだ。

 少し灰汁抜きが足らない気もしたがそれは妻に言っても詮方ない。

「その時に、おかみさんが何とも妙な話を聞かせて下さいまして」

 言葉と言葉の合間に風の唸り。

 冷え切った隙間風が脛を撫ぜ去って行く。

「妙な?」

「ええ。妙な」

 妙、と聞いて残雪のことを思い出す。何故だかそれが腹立たしくて徳利に直接口を付けて残った中身を呷った。無頼を気取っても似合わぬことはわかっている。

「御山様の、お側室様なのですが」

「ん? 西か? 東か?」

 御山様とは蔵座国主三光坊頼益さんこうぼうよりますのこと。国のぐるりを囲む峰の一つに主城を構えたことにその呼称の所以がある。西か東かとは、その主城の西側に一棟、東側に一棟、頼益が愛妾を住まわせていることからくる、こちらは下々が勝手に呼び習わしている通称だ。

「西様で」

「ふむ」

 西様ならば随分昔に一度だけ顔を見たことがある。色白で瓜実顔の美しい女性だった。

 隙間風に囲炉裏の火が明滅した。

 妻は鉄鍋を鉤から外し土間へと置いた。

「それで西様がどうしたというのだ」

 胡坐を掻き腕を組み、土間に立つ妻の背に声を投げた。妻は無言で振り返り、しずしずと戻ってくると先と寸分違わぬ場所、姿勢で落ち着いた。

「ええ。西様」

 やや乱れた襟元を直す。妻も元々は名家の息女であったが今は随分と落魄している。

 因みに妻は勿体を付けて話しているわけではない。これが彼女の常なのだ。

「西様のご様子がこの頃少しおかしいそうなのです」

「どういうことだね」

「はい。何でも西様は二本松家の味噌の愛好家で居らして」

「我が家と一緒だな」

「はい。三日に一度は二本松家に下男が味噌だの何だのを買い求めに訪れるのだそうなんですが、その下男と申しますのが実に話好きな者だそうで」

「しかし二本松も味噌くらい献上すればどうなのだ。さすれば御山様の覚えも良くなると言うものだろうに」

「そんなことなさってはお正室様に睨まれましょう。巡り巡って二本松様は立場を悪くされますわ」

「そんなものかな。そうだな」

「それでその下男曰く」

 前歯の矢鱈に大きな、額の横に長い、見ようによっては愛嬌のある顔をした三十路男なのだそうだ。


 妙な事が起こり始めたのはアーいつ頃からかしらん。と語り始めたと言う。

 誰が最初に気付き、誰が最初に気に掛けたのかは定かではない。

 灯かりが消える。

 稚気溢れる女人であるところの西様は、夜の闇が怖いのだと言う。それ故館の其方此方には絶えず灯かりが点されている。無人の部屋であれ何であれ、西様の通る箇所には必ず灯かりがなくてはならぬ。館は広く、且つ西様の行動範囲は殊の外広いにも関わらず。

 視界が闇色に圧迫されるのを何より嫌う。

 その、灯かりが消える。

 濡れ縁に面した位置に立つ燭台ならば兎も角、風などそよとも吹かぬ館の奥の間に点された蝋燭の灯かりですら不図見遣ると闇に塗れているそうだ。

 最初は何者かの悪戯かと思われた。西様はわらわに仇なす輩は誰ぞと大層ご立腹のご様子だったが一向に犯人はわからなかった。それどころか誰一人として灯かりを消す者の影すら追えぬ。

 そして気付けば火が消えている。

 気味の悪い。やがてそれも通り過ぎ、西様は徐々に眠れずの病に落ちていった。高が灯かりの消えるくらい、闇夜に慣れればよいだけのことと存外周囲は若干冷めてもいた。しかし西様はそうは思えない。眠れず食えず、目に見えてやつれていった。

 もしや東の館の謀かと勘繰る者すら出始めている。


「東様の?」

 東様は見たことがない。

 妻は浅く頷いた。

「御正室様はご病弱でいらっしゃいます。その上西様がお倒れになったとなれば、御山様は自然」

「待て。滅多なことを言うものではない。それに真実東様が、そのわけのわからぬ話に一枚噛んでいるのだとしてもだな」

 そのような迂遠で効果があるのかわからないような手段をわざわざ取るだろうか。掛ける時間と労力に見合うだけのものを得られるとは思えない。

「それは旦那様が暗闇が平気だからでは御座いません?」

「確かに自分は闇を恐れはしない。しかし、どうせ脅すのならばもっと」

「いえいえ。眠れず、食が細り病に伏せったところで東様が直接何かしたとは誰も思わないのではありませんか?」

「何を言う。実際その下男もお前も東様を疑っておるではないか」

「あら」

「あらではない。いずれにせよ下手なことはあまり口に出さぬことだ。聞き流しておけ」

「ええ、それはわかっております。ただですね、何と申しましょうか」

「興味が湧いたか」

 白昼の自分が正体の知れぬ男に同じ思いを抱いたが如く。

「そうで御座いますわね。気になります」

「それでその後はどうなのだ。城では終ぞそのような話は聞かぬが」

「それは旦那様が同輩の方と仲良くなさらないから」

「それは関係あるまい。それで」

 妻はやや反意のあるような顔をしたもののすぐに目を伏せた。感情の抑制ができる女なのだ。

「それはそれだけなのです、今のところは。ね、妙でしょう?」

「まあな。しかし今のところとはどういうことだ」

「だってまだあのお館では毎夜蝋燭の灯かりが消えているのでしょう?」

「今晩もか」

「話が真実なら」

「ふん。そうだ、その下男の嘘かも知れん」

「そのような嘘を言っても何のいいこともないですけれども、その下男さんにとって」

「しかし、蝋燭な。使いもせぬ部屋に点してあるのを消して回っているのだろう? 案外西様の館の財政事情は逼迫しておるのではないか?」

 ハハと似合わぬ空笑いをし、座相を少し変えた。妻はそうですねえと、囲炉裏の真ん中に燻ぶる弱々しい火を見つめた。我が家の照明といえば、今現在その消えそうな炭火だけだ。自分の稼ぎが悪いから蝋燭など買えぬと重ねて冗談を言おうかとも思ったが、それこそ柄でもないと思うに留めた。そこまで酔ってはいない。

 自分を見つめる妻の大きな瞳が、何だか責め苛んでいるように感じられた。勿論それは勝手な思い込みである。

 妻はですからねと少し調子の外れた明るい声を上げた。

「明日かその次か、また二本松家に行ってみようかと思いまして」

「二本松と言うより、西の館の下男に用があるのだろう。しかしお前にそんな下世話な一面があったとは」

「下世話でしょうか」

「下世話だろう、他家の出来事に気を取られている」

 それを切り文句に立ち上がった。

 もう眠い。どうせ明朝も払暁の頃家を出なくてはならなのだ、夜更かしは響く。

 尤も眠かろうが二日酔いだろうが十分勤まる仕事ではあるが。


 翌午。

 同輩の、イイズナとかイイジマとか言う名の目付きの暗い男に西様の館に就いて何か知らないかと尋ねてみた。否、用件がそれだけであったなら何も好き好んで他人に声を掛けたりはしない。偶々である。偶々イイ某の方から物を尋ねられ、物の序でに尋ね返したに過ぎない。

 便宜上飯島で統一する。

 飯島からの質問は他愛のない内容だった。

 飯島は普段まるで口の利かぬ男が逆に質問を返してきたものだから正直面食らったようだった。その面食らった様を見て若干こちらの気も引けたが最早仕方あるまい。米噛と脇の下にうっすらと汗を浮かせながら返答を待った。

 矢張り他人と会話をするのは苦手だ。

「西様の?」

 飯島は怪訝そうな眼の色を見せ、やや間を置いてああと如何にも気のなさそうな声を上げた。

 余りそんな目で見るな。見る見る自分の中に後悔ばかりが肥大していく。考え過ぎなのかも知れずそうでないのかも知れず、そして多分そんなことは世の大半の人間にとってどうでもいいことなのだろう。

 そもそもどうして尋ねた。昨夜の妻の言葉が引っ掛かっていたものか。

 飯島は先と微塵も変わらぬ怪訝そうな雰囲気を眉間の辺りに漂わせたまま、

「どうも昨夜、下男を一人突き殺したらしいよ」

 と言った。

「突き殺した?」

 確かに西様は幼少の砌より槍術を学ばれてきたとは聞いていたが。

「うむ。御山様より守り槍として下賜された大槍で顔面を一突きだったらしい」

「またどうして」

「そのようなこと知るものか」

 その下男とは、二本松家に顔を出していたあの下男なのだろうか。

「その下男とは」

「ん? ああ。今後どうするのだろうな雑役をこなす下男は確かあの館には一人きりしか居ない筈だからな」

「その話、本当なのか」

 そう言うと飯島は、あからさまに厭そうな顔をした。当然だろう、噂の真贋など家臣連にはあまり重要でなく、又確かめようもないことだ。

「噂でしょうよ、噂」

「ああ、そうであったな。うむ」

 何ともしどろもどろになる。同輩と言えど目の前の飯島は自分よりも恐らく十は若い。しかし傍から見れば自分などよりもよっぽど落ち着いて見えることだろう。

 と、飯島は声の調子を一段下げた。

「そんなこんなで御山様もこの頃は西の館からは足が遠退いているらしいな」

 そこまで話して飯島はもう宜しいかと片手を挙げて去って行った。

 その背を見るともなしに目で追いながら、果たして今飯島の脳裏に自分はどう認識されているのだろうとそればかりが気になった。

 妙な奴に妙なことを尋ねられたものだと思っているに違いない。

 それにしても。

 事態は大きく動いていた。

 妻は今頃本当に二本松家に出向いているのだろうか。そうだとしたら見事妻の思惑は空振りだったわけだ。何せ尋ね事をしたい相手は既に死んでいるのだ。

 顎の先を摩り、ここは兎も角一刻も早く帰らねばと思い、早々に城を後にした。

 用心の為に昨日の帰路はなぞらなかった。


 その日の夕餉は吹かし芋と醤油で炒った川虫だった。

 郎党らは屋敷の離れで花札に興じている。時折風に乗って笑い声が耳に届いた。

 食後の茶を淹れようと立ち上がった妻を片手で制し、

「あの、あれだ。行ったのか」

 ぼつぼつとはっきりしない声で尋ねた。

 妻は大きな目でいいだけ自分を見つめ、声に若干の喜色を乗せいいええと答えた。

「行きませんでした。ほら、旦那様この頃尻が痛い尻が痛いと仰っておりましたよね。この時季の板の間は応えるとか、藁菰はむず痒いとか。それで」

 と妻は自分の腹の辺りを指差した。見れば尻の下に継ぎ接ぎの座布団が敷かれていた。

「おお。あ、いや。気付いていなかったわけではないぞ。いや。うん。ありがとう」

 すると妻は少し寂しそうな笑みを見せ、無言で茶の支度をはじめた。

 まんじりともせず妻が再び落ち着くのを待つ。

「旦那様は昨日、下世話なことと仰いましたからね。やめました」

 膝元に出された茶碗に手を伸ばし一口啜った。口が灼けるかと思うほど熱い茶だった。

「ああ、そうだな。しかし昨夜はあれほど興味を持っていたではないか」

「ええ」

 見るともなしに妻の表情を窺いながら尻の位置をずらした。成程座り心地は悪くない。しかし言われねば気付かぬとは自分もどうかしている。

 気のせいかも知れないが、妻の目に含みがあるように感じられる。否、勘違いだ。考え過ぎだ。そう思いつつ結局口を開いた。つまりは話したかったのだ、今日仕入れてきた話を。

「城でな、ちらりと耳にしたのだが」

「はい」

「上役に珍しく雑用を仰せつかってな。否、普段は行かない所を歩いておったのだ、その時。其処はまあ、仕事が終わった者どもがよく屯している場所なのだがな」

 如何にも偶然に聞いたことであることを装うとして前置きが長くなる。

 妻は一度口元を綻ばせ、すぐにハイと真顔になった。

「ああ、うん。昨日言っていた下男なのだろうかな。どうやら西様が突き殺したそうなのだ」

「え? 突き殺した?」

 物騒な話の内容に妻の顔はあからさまに曇った。色々と知りたがっていた割に、斬るの殺すのと言った血腥い話は苦手なのだろう。確かにそうした世界からはあまりにも遠い所に暮らしている。妻も、そして自分も。この国の者たちすべて。

「そう厭そうな顔をするな」

 話したことを後悔させるな。

「大体が飽くまで小耳に挟んだ話だ、本当かどうかはわからん」

 何処か必死で取り繕う。それでも妻は口元を押さえ、ううとかああとか極小さな声を洩らした。

「まあ単純な憶測だが」

 と言いつつ、何を自分は我が妻相手に予防線ばかり張っているのだろうと少し阿呆臭くなった。

「昨夜お前が言っていた灯かりを消して回る者。それがその下男であったのではないのかと思うのだ。火を消して回った理由は殺された今となってはわからないが」

「はい、ええ」

 謎を眼前に持ってくると妻の興味は俄然湧いたようで途端に表情に朱が差した。下世話なわけではないのだ、不可解な事象に心動かされる質なのだろう。抑揚のない毎日に拘泥するがあまり妻のそうした性質に今頃になって気付いた気がする。

 その前に。

 自分は今まで、妻のことを知ろうとしていただろうか。

 まあいい。

「真相がどうであれ西様が蝋燭の火を消していたのは下男であると、そう思ったのは間違いないのだろうな」

 そうのようですねえと少し浮ついた口調で返す妻を横目で見つつ、何の愉しきこともない毎日、噂話に花を咲かせるというのも娯楽の一つであるかも知れぬと思う。

「それで西様は今」

「それはわからん。ただ御山様もこの頃は西館には行っていないようだ」

「はあ」

「なんだ」

「いえ。もしかするとその火の消える話も下男を刺した」

「突いた」

「はい。突いたと言う話も、すべて御山様の興味を引きたいが為のことかも知れないと思いまして」

「蝋燭云々はいいとしても、気を引きたいが為に人まで殺したと言うのか?」

 幾ら出所が不明の話と言えどあそこまで城中に広まっているのだ、対応する何らかの事実はあるはずだ。火のない所に煙は立たぬと言う。であるならば。

「いやいや、それは得心がいかぬ」

 少なくとも自分の中では異性の気を引くことと他人を殺めることは決して等しいものではない。

「ですが、西様は。いえ、東様も同様ですわね。御山様に目を掛けてもらう以外に生きている意味を見出せないのでは? 館に御山様が訪ねてきて幾日か逗留する。それ以外の日は、ええ。いつ御山様が訪ねられてもいいように自分を磨く。いつまでも御山様からの寵愛を得られるように」

「まあそうだな」

「言うなれば座敷牢ですものね、館住まいと大層なことを言っても。ただ、御正室様にお世継ぎがなく、その上で西様東様どちらかが男子をお産みあそばせれば別ですが」

「子供な」

 我が家には未だ子はない。

 再度妻の表情を窺うも、妻は囲炉裏の火を見るともなしに見つめていた。時折そうした目をする。

 思いもしなかったことだ。

 遠目にしか見たことはないが、あのような豪奢な建物が座敷牢とは。言い得て妙だが、強ち的外れでもない。

 しかし何れ形は変わる。御山様が西様、東様に求めた美しきものもやがては変容していくだろう。そして、果たして人は一度に何人も愛せるものなのだろうか。同質の愛情を持って。

「ふん」

「何か?」

「いや。人間万事程々が良い」

 妻は不思議そうな顔で自分を見返した。

 す、と目線を逸らした。

「まああれだ。うん」

「何で御座いますか?」

「御山様は御山様だからな」

「仰っている意味がわかりません」

「いや」

 もう寝ると言って立ち上がった。

 今日と寸分変わらぬ一日を明日も享受する為に。

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