俺にお前を、殺らせるな
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
おや、どうしたい、こーちゃん? 遠慮しないで、もっと肉食べていいんだぜ。たくさん用意したんだから。
――生き物の肉を食べることに抵抗を覚えている?
ははあ、あれだな。無性に殺生することに対して、嫌気がさしてしまう感じだろ?
分かる分かる。昔、私も同じような感覚を抱いてね。生き物全般を殺すことが嫌になってしまったんだ。食事そのものもベジタリアンに近づいて、肉の類を頬張ることをよしとしなかったねえ。
でも、今となっては割り切れるようになってきたよ。だってさ、歩いているだけにしたって、その一歩一歩に多くの命が懸かっているんだぜ。私たちの足の下でさ。こちらがいくら気にしたところで、彼らは自粛してくれない。思い思いに、餌を求めたり、相手を探したりと遠慮なくさまよっている。
まさに「動物」。動いてこそ物足り得るわけだね。だったら私たち人間も、求むるままに動かなかったら、それは動物といえるのかな? それが他者を慮ったものだとしても、生物的には望まれる行いじゃあないかも知れないよ?
――ふむ、容易に納得できそうにない、か。
よし、それじゃひとつ、殺生に関して過敏になった男の話をしてあげようか。
平安時代の話になるんだけど、彼はもともと、相当、高い位についていた貴族だったらしい。よく宴席に参加する機会に恵まれた彼は、特に肉類を好んだ。
当時、食べることを許されていた肉は、イノシシやシカなどだった。牛や鶏なんかは人々の生活に直結しているから、その数を減らす真似は戒められたらしい。その点、前にあげた二種の動物などは、作物を荒らす可能性を持っているから、罰を下すという意味合いもあったのかもしれない。
表向きは周りに合わせて、仏の教えを守っているように思えた彼だが、誰も見ていないところでは、ひときわ肉を頬張っていたとのことだ。その栄養のためか、彼の身体は横だけでなく縦にもその長さを増し、歳を経るにつれて十分すぎるほどの貫録を備えるようになったとか。
だがその彼も、身体に痛風を始めとした、様々なガタが来るようになると、とたんに若き日の肉食を、疎ましく思うようになってしまった。
今のような科学的知識が乏しい時代だ。医者も陰陽師たちも、彼の体調不良については「仏の教えに触れる、肉食を繰り返してきたからだ。我欲のために殺生を続けてきたからだ」の一点張り。専門家に口を合わせられると、素人には反論するすべがない。
身体が弱れば、気力も沈む。周囲が自分よりも出世していく姿を見る彼は、自分の太ももの肉を、ぐっとつねってむしり取りたいと思うほどの屈辱を覚えるようになった。
その怒気を溜め込んで家に帰るたび、胸が急に痛み出し、脈のひと打ち、ひと打ちに、釘が混ざっているかのような痛みが、体全体へと押し出されていくんだ。
毎日毎日、血を針へと変えるかのごとき苦悶の中で、彼は医者たちに告げられた言葉を、しきりに思い出していたのだとか。
「喧騒に飽いた」。ある時、彼はそうつぶやくや、慌ただしく政争から身を引き、隠居生活に入ってしまったんだ。
出家こそしなかったものの、彼が屋外へ出る機会はめっきり減った。外を出歩いては、アリを踏みつぶしてしまうかも知れない、といってね。そして一日中、蚊帳に囲まれた空間の中で写経を繰り返すようになった。
そして食べるのは米と野菜と、みそなどのわずかな付け合わせ。あれほど食べ続けた肉に対しては、あからさまな嫌悪の表情を浮かべ、下げさせる。
彼は殺生を拒むようになっていたんだ。蚊帳の中に居続けるのも、蚊を含めた虫たちと接する機会を避けるため。食事を運ぶ者たちにも、飯が入った器を蚊帳の足元に置くように指示し、麻の網越しに一番近い場所へ座る。そして狙いを定めてから、さっと内側へと引きずり込むんだ。
その動きは、餌を捕える生き物の舌のように、機敏なものだったとか。
だが、しばらくすると彼は蚊帳から出てきて、場所を移る旨を告げる。ふとんの中に、小さい虫が這っているのを見たというんだ。いつの間に入り込んだのか知らないが、看過できない、と。
たいていの者ならば虫を処理しておしまい。しかし彼は不殺生を自分に課している身。たとえ爪の先ほどの小さな虫であろうとも、おのずから道を開けることを選んだんだ。
そうして彼の判断のもと、何度か移動を繰り返したんだが、やがて彼は頭をかきむしりながら、使用人たちを叱責し始めた。
「お前らは足元に頓着しないのか。動く時に、幾匹も踏みつけておるぞ」
告げられた者は、一様にぎょっとして足の裏を見るが、そこにはいくら目を凝らしても、虫の身体の類は張り付いていない。しかし、それを素直に告げると「節穴か!」と、また罵声を浴びさせられるんだ。
彼はもはや、ただ蚊帳の中にいるのでは満足してくれなかった。床に触れていては、知らぬうちに虫どもを殺めてしまうと、怒るような、それでいてどこか泣きそうな、痛ましい声を出して、うなるんだ。
「駄目だ、駄目だ。床に触れてはならぬ、立ってもならぬ。どうする、どうする……」
写経も進まず、何日も頭を抱えた彼は、やがて人を呼びつけた。
大工だった。集められた一同に、彼は指示を与える。
「新しい柱を作って欲しい。家を支えることなど、考えずともよい。ただ動かないように固めてくれればよい。人ひとりがようやく入れるほどのすき間を開けて、この広間の真ん中に。仕事の間、殺生に関しては目をつむろう。早急に頼む」
おかしな言葉に首を傾げながらも、そこは仕事人。てきぱきと段取りを進め、速やかに施工を開始する。
床と天井の一部を削り、そこへはめるようにして、特大の木材が二本並べられる。
更に、その表面へ金によるメッキをする注文が成された。金は腐食に強い金属。木そのものだって、そのままでも人の寿命よりも長く持つものだが、その上に不滅たらんとする金の祝福を求める。
財を惜しまず、己が意志を貫かんとする彼の姿勢に、もはや文句をつけようとする者はいなくなってしまったんだ。
百日以上に及ぶ施工の末、かつてはがらんどうとしていた広間の中央に、場違いなあでやかさを振りまく金の二柱がそびえたった。それだけでも、他を圧する威容を感じさせたが、それをめぐる彼の奇行はとどまることを知らない。
柱を囲うようにして、新しく蚊帳を引いた彼は二つの柱の間に立ち、それぞれに両手両足を絡みつかせて、上り始めたんだ。その様はもはやサルのようで、雅を持って貴しとする貴族にあるまじき姿。女中たちが苦々しげに顔を背ける中でも、彼はひるまなかった。
「わしはこれから柱の上で過ごす」
その宣言を、どこか別の世界からの言葉のように、使用人たちは惚けながら耳に入れていた。
実際、彼は柱の間に食事の器と、現代での「おまる」にあたる樋箱を置くように、皆へ指示したんだ。
本気だ。本気で地に足をつかずに、過ごそうというのだ。
はったりだと、信じない者も多かった。だが、夜間警備である「宿直」の者たちが見たところでは、真夜中であっても、彼は二つの柱の中央。その上方に両手と両足を絡ませながら、寝息を立てていたとのことだ。
主人は、物の怪に憑かれてしまったのだ。そう嘆き、暇をもらう者が出始める。
一人出ると、そこに二人、三人と続き、二ヶ月が経つ頃には、彼に古くから仕えていたわずかな者しか残らなかったとのことだ。
結論からいうと半年後。彼は柱の上方にとどまったまま、往生を遂げる。
最後のひと月など、断続的に彼のおめき叫ぶ声が、蚊帳の中から聞こえ続けたそうだ。
「寄るな寄るな、上らせるな! 撒け! 油でもなんでもいい、撒け! すがりつくものを追い落とせ!」
近寄る者へと、下知を飛ばす彼。放っておけば、その声の強さが増すばかり。
器や樋箱を下げる者が、柱の根元へ申し訳ばかりの水をかけると、ようやく彼は落ち着きを取り戻すのだとか。
半年近く服を着替えなかった彼の臭いは、香なしでは鼻をつままざるを得ないような屋敷の臭さを、なお引き立てるほどだったらしい。そして器や樋箱を下げる者も、そこに横たわるブツに、口をおさえることも多くなった。
いずれも白い脂の浮かぶ、どろどろとしたこぶし大の肉塊が満たしている。それらは手の震えに合わせて、ぶるぶると震えるほどだったとか。
およそ、人の出すものではない。もはや数えるほどしかいなかった使用人も、更にその数を減らした。
いよいよ世話ができなくなろうかという、一歩手前。ある朝に、例の宿直の者が報告する。
主人の寝息が、昨日はまったく聞こえなかったと。
下からいくら声をかけても、微動だにしない主人。もしもこと切れているならば、早急に下ろし、しかるべき対処をしなくてはならない。金のメッキを施した柱と違い、人の身体は腐るのだ。
久しぶりに同じ高さで見る主人は、すっかり痩せこけていた。そして服にも烏帽子にも、汗というには生温い、粘り気と弾力を帯びた液体が染み込んでいる。揺らすだけで、耳にするのも不快な水音が響いた。
だが、主人の身体そのものは非常に軽くなっていた。恰幅の良かったころ、しこたま酒を飲んでふらつく主人に肩を貸したこともある古参たちは、非常に驚いたそうだ。
しかしそれも、一人が主人の亡骸を抱きかかえた時に起こった衝撃に比べれば、前座に過ぎない。
両腕に抱えられた、主人の首と両足。自然と、両腕、尻から胸にかけての半身は引力に引かれることになる。
それらが、床に落ちた。抱きかかえていた者の腕に残ったのは、首「だったもの」と両足「だったもの」。そいつらを部品に貶めた者たちは、自らの身を、静かに畳へ転がした。
腹の中におさまる臓腑。両腕の中へ詰まっていたはずの肉も骨も、音を奏でられるものは、何も残っていなかったんだ。
いつの間に主人の中が空っぽになったかは、もはや誰にも分からない。