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「川が下流から上流に流れることがないように全てのものごとは不可逆的に変化することはないんだぜ」と検事は言った。
世界は終わっちゃったし君の右手はもう戻ることはないんだ。と彼は言った。
僕の無くなってしまった右手と彼の古びたトレンチコートがその終わってしまった世界を静かに暗示していた。
そうか、世界は終わってしまったのかと僕は思った。
一旦そこで完全に世界は収束していた。世界が収束すると僕の右手は消えて無くなった。そして彼の(おそらく)高価なトレンチコートもくたびれてしまった。世界が終わるとはそういうことなのだ。そして検事が言ったように僕の右手が戻ることも彼のコートがハリを取り戻すということは基本的にはあり得ないことだった。そして世界が再び動き出すことがないこともそこに含まれていた。
「これから僕はどうなるんですか」と僕は言った。
「下流に流されるだけださ」と彼は言った。
僕は無くなってしまった右手とは逆の左手でグラスを持ちウォッカを一口ゴクリと飲んだ。
しかしウォッカからも味は消えて無くなってしまっていた。家具が置かれる事のない部屋のような喪失感だけがウォッカに詰まっていた。まったくやれやれだなと僕は思った。せめてウォッカにくらいは味がまだあってもいいじゃないか。
カウンターの席には僕と検事以外の人間は見当たらなかった。カウンターは長く、終わりが見えなかった。遠く先は闇に包まれ確認することができない。照明はうす暗く、今にも眠るように消えてしまいそうだった。壁には埃まみれの時計がかかっていた。短針は7の少し前を指し長針は7と8の間を指していた。時計は動いてはなかった。おそらくその長針と短針は等しい距離感をこれから先、半永久的に保っていくのだろうと僕は思った。時計は正確に今自分のいるべき位置を把握しているのだ。そして目の前にはスペイン語やロシア語やらの文字が刻まれた酒瓶が綺麗に5段になって積まれていた。あるものは長い時の流れを表すように埃を被り、あるものは天井の灯りに浸され淡い煌めきを放っていた。
「飲みたい酒でもあるのかい」と検事が言った。
「いや、なんて書いてあるのかなと思って。アナタは何ヶ国語くらい話せるんでしたっけ」
「6ヶ国語だよ。日本語、英語、中国、ドイツ、フランス、スペイン。でも今になったら言葉なんてなんの意味もないさ」
「もう少しで僕らは言葉も失っちゃうんですか?」
「失うんじゃないんだ。捨てるんだ」と彼は言った。
彼は基本的に物事をシンプルに言う人間だった。多くの人間が1のことを3-2=と言い回す時代においても彼は構わず1と簡潔に言った。彼のそのような性格は時として彼から多くの人を遠ざけたりもしたが僕としては彼のそういう筋の通った性格に少なからず好感を持つことができた。なぜなら僕の周りには彼とは対極にいるようなとてもわかりにくい性格の持ち主がたくさんいたからだ。
ある人は僕が何かを質問しても何も答えてはくれなかった。ただ僕の瞳をみて「今までの私の行動から分かるでしょう?」とでも言いたげな顔をするだけだった。またある人は僕の質問したことではなく自分の言いたい事を言うだけだった。疑いを含んだ期待で彼らの言葉を丁寧に拾っても最後まで僕の知りたいことは彼らの口から出てくることはなかった。
そして彼らは言いたいことをいうだけ僕に吐きつけてクルリと身体を回転させ嬉しそうに帰っていくのだった。僕の周りにはこういう性格の人間が多かった、というよりはほとんどがこのようなタイプの人間だった。時代的に多くの人間には余裕がなかったのだ。結局のところ人は他人、ましてや僕という人間なんかにそれほどの興味を持つことはできないのだ。それと同時に僕の職業柄的にここにいる人間の多くは物事との適切な距離感というものを測ることができなかった。程度というものを彼らは知らないのだ。紳士がビリヤードが上手すぎないように、美女が酒に強すぎないことのように、世の中にはありとあらゆることに(もちろん人間関係もそうだが)正しい距離というものがあるのだ。ただ彼らはそんなことは知らなかった。やりたいことがあれば好きなだけそれをやるし言いたいことがあればとことん言うのだ。おそらく紳士がビリヤードに対して適切な時間だけ取り組んでいることなど考えもしないのだ。それはやりすぎてしまっては時間の使い方を間違えているということなど彼らはきっと思いもしなかったのだろう。
「もう僕らに必要なものはほとんどなにもないんだぜ。言葉もいらないし、味覚もいらない。右腕だって必要じゃないんだ。いつだって身体は軽いほうがいいんだ」と彼は言った。実に分かりやすかった。
「でも左手でグラスは持ちにくい」と僕は言った。
「持たなきゃいいんだよ。きっといずれグラスなんて持たなくなるよ」
「グラスはまだ必要ですよ」
「味のないウォッカでも飲むのか?」と彼は言った。
僕は黙った。
「検事さん、あなたはいつまでここにいるんですか?」僕が短い沈黙を破った。
「わからないよ。でもね、間違いなくもう少しの間はまだここにいるよ。俺は結構色んなところに行ってきたけれど結局ここ1番居心地がいい」と彼は言った。
「らしくないですね」
「おれも歳をとったんだよ。歳をとるとね不思議と好奇心は消えてくんだ。霧が晴れてくみたいにね。うっすらと無くなっていく。そしてリスクを避けるようになる」
「検事さん、あなたにひとつだけ質問してもいいですか?」僕は言った。
彼はコートのポケットに手を突っ込んだまま回転椅子をクルリと回して体を僕の方へと向けた。そのとき「キー」という機械的動物の鳴き声のような音が誰もいないカウンターに響いた。彼はしばらく僕の顔を見た。僕は彼の顔を見た。彼の顔はなんだかとても疲れているように見えた。そして彼は僕の顔に書かれているはずの無い地図でも読んでいるかのような表情で僕のことを見ていた。
彼はポケットから右手を出し、別に1つじゃなくてもいい、2でも3つでも質問してくれよ。と言った。2つと言った時に指はピースサインの形を取り、3っつと言った時にはそのピースサインにもう一本別の指が加わった。彼の手も指も彼同様になんだかとても疲れているように僕の目に映った。ただ人差し指にはめられた指輪だけが居心地良さそうだった。そしてまた「キー」という音を鳴らし正面を向いた。
「いえ、一つで大丈夫ですよ」と僕は笑いながら言った。そして一つだけ彼に質問をした。
「検事さん、あなたはもしかしたらもう死んでいるんですか?」と僕は彼に言った。
彼はしばらく酒瓶の方を向いていた。
そして何か思い出したように「さあね、どっちだろうか」と言った。
「なあカトウ、お前から見たら俺はもう死んじまっているように見えるか?」と彼は続けた。
彼は初めて僕の方を見ながら言った。その質問からは彼なりの覚悟のようなものを感じ取ることができた。無傷の景色が揺らめくカーテンの向こう側に見え隠れするように彼の瞳の中にその純粋な覚悟はちらついていた。
「そうですね、分からないです。でも僕にはあなたが死んでいるようにも生きているようにも見えますね。あなたは時にこうしてすぐ横で話しているのにまるで録音かと思うほどに生命力が感じられないことがあります。でも時に、例えば僕が独りでいる時にあなたが横にいると思えるほどにあなたの言葉が何かのキー・ワードのように僕の脳内に向かって囁き続けることもあります。だからたまに思うんですよ。あなたはどっちの世界に住んでる人なんだろうって」
「それはきっと半分外れて半分正解なんだろうな」と彼は嬉しそうに言った。
「どういうことですか?」
「そのうちわかるさ」と彼は言った。瞳の中にあった鋭い石は既に水の中に沈み、輪郭を失ってしまっていた。
「でもね、出来ることならお前は早くここから出て行った方がいい。外に出るんだ。そして西に進むんだ」
「西ですか?」
「そうだよ。西だよ」彼はそういうとポケットからボロボロのセブンスターを出して丁寧に火をつけた。
僕は何故西なのだろうか?と思ったけれどその事に関して彼には聞かなかった。そのボロボロのセブンスターだけが僕らの間を一瞬、遮っていたのだ。
「あなたはまだここにいるんですよね?」
「ああ、俺はまだここにいるよ。ここは居心地がいいからね。でもしばらくしたら出るかもしれないけれどね」と彼は言った。
僕は慣れない左手でグラスを傾け、氷をカランカランと鳴らし、残りのウォッカの量を確かめ、そしてその味のないウォッカを飲み干した。それと同時にセブンスターが真っ黒な灰へと変わっていった。ウォッカもセブンスターも無くなってしまった。そして世界さえも既に消えてしまったのだ。それはゆっくりと静かに摩滅していったのだ。セブンスターが真っ黒な灰へと変わっていくように世界は穏やかに消えていった。後には黒い粉だけが残った。
世界がなくなった時、どうせなら何もかも無くなってしまってくれればいいのにと僕は思った。なぜ僕は世界と一緒に消えてくれなかったんだろうと思った。
なぜ世界から法律が国境がそして世界自身が消えていく間に世界は僕から右腕しか奪い去っていかないのだろうかと思った。
だってそれは明らかに不公平じゃないか。なぜ世界が、みんなが消えてしまって僕が残っているんだ。右腕だけが消されているんだ。僕はそう自分の既に無くなってしまった右手を見ながら思った。僕の右腕にはなんだか書きかけの日記みたいな目的のない中途半端なカーテンがうっすらと掛かっていた。
全く何故よりによって僕なのだろうか。僕は6ヶ国語を話せる訳でもとびきり有名な映画スターという訳でもないのだ。僕には妻も子供さえもないのだ。僕はなにも持っていなかったのだ。
「これ持っていけよ」と彼は言った。木目長のテーブルの上には車のキーが置いてあった。
「悪くない車だよ」と彼は微笑みながら言った。
僕はその鍵をとり西へと向かった。
世界が終わってから最初の春のことだった。