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ブラッドが落ち込んでいる頃、同じように、アリシアも落ち込んでいた。ため息をつく目の前に、お茶が置かれた。
「ありがとう、ユーナさん」
ガンディ商会の店内は、夕食時ということもあるのか、閑散としていた。今日は、絵を持ってきたわけではない。ガンディの妻である、ユーナに報告にきたのだ。
そっとお茶を飲む。この辺ではあまり見られない、甘みを足したお茶だ。体に染み渡る優しい味がした。
「それでアリシアちゃん、私、新しい服を用意しているのだけれど」
「私の話、聞いてました!?」
「聞いてたわよ? ブラッドったら、ほんっと、駄目な子ねぇ」
もはや青年になったブラッドに対して、夫人の目線はいまだ、子供の頃と同じだ。自分の息子も同然に育ってきたブラッドが、歯がゆくて仕方がない。
「とにかく。ブラッドのことはどうでもいいわ。あなたの気持ちを聞いているの。どうする、着てみる?」
包んであった服を取り出して見せてくる。アリシアは、出て来たその青が自分の描く青にとても似ている、と思った。
そもそものきっかけは、もうずっと前のこと、自分が今まで一度も、ブラッドの店に行ったことがないと気付いた時だ。料理自体は何度も何度も食べた。けれど、それはあくまで、アリシアの舌に合わせて作ってくれる、アリシアのための料理だ。貧しい暮らしをし、粗野な生活をしてきた人生に、高級な料理が入り込む余地はなかった。
ブラッドの店は、格が高い。田舎町ゆえ、王都と比べればそれは高いとは言えないのかもしれないが、少なくともこの界隈ではそうした部類に入る。彼の料理は、それに見合った人々に対して作られている。
それが彼の本質なのではないか、と思う。存分に、感覚と腕を発揮して作られたそれらを、十年も経つ関係の中で一度も口にしたことがない。それは、本当のブラッドを知らないに等しいのではないか、と。
ブラッドの店に行ってみたい、と相談するのは、ガンディではなく、夫人のほうにした。あの店主ならば、行けばいいじゃねぇか、と返されて終わりのような気がしたからだ。多分あたっている。
夫人はと言えば、さすがに機微が分かっていた。人が見た目によって印象を左右されることを、いやというほど知っている人だ。
まずは服装から、と、上から下までひと揃えを用意してくれたことに、アリシアは本当に感謝している。
そしてこれらの計画には、もうひとつ、意外な効果があった。
スカートが足にまつわりつく感覚は、アリシアに大きな影響を与えた。綺麗なカットで、まるで誂えたかのように体に馴染んだ形は、傲慢ととられることを承知で言えば、アリシアをとても美しく見せた。顔の造作がどうどいうことではなく、けれど、柔らかく結ばれた腰のレースが意外に似合うな、とうっかり思った。
昔。あんなに優雅ではないけれど、レースのリボンを持っていた。今はもう捨ててしまったけれど。
「着てみます」
そう答えると、夫人はにこりと笑った。奥の部屋へと入り、ワンピースに袖を通す。すとんとした形で、高い位置にベルトがついている。前の物よりも、幾分、日常的な服なのだろう。
踵の痛みを告白したせいか、靴は少し、踵が低めになっていた。
「着るものは、一緒にいる相手に対する気持ちと同じよ。尊敬する相手には、控えめでしっかりしたものを、気軽な相手には砕けた服装で。
でもね、裏返せばそれは自分のために着る、自分のための服でもあるわ。
あなたのための服を見つけなさい。今は私が手伝ってあげるけれど、大切なのは、自分で選ぶことなのよ」
アリシアは肯いた。
そして、そのままの格好で外に出た。
海を右手に見ながら、だらだら坂を下る。人家が少なくなったころ、左へとゆるやかに曲がり、やがて海を背にする頃に、目の前に大きな建物が見えて来た。すっかり見慣れたその灰色の壁沿いに歩き、現れた簡素な入り口から中に入る。
窓口があり、そこに一声かけてから、木造の床を踏んで奥へと進む。窓が開いているのだろう、廊下には風が通っている。
少し隙間が空いている左手のドアを、小さめに叩いて、返事がないまま中へと入る。
ふわり、と風が舞う。窓が開いていたのは、ここだったらしい。
窓際にはベッドがひとつあり、そこに、上半身を起こして外を眺める一人の男がいた。アリシアは、微笑みながら近づき、声をかけた。
「アリシアが来たよ、お兄ちゃん」
男は反応を示さない。何を見ているとも分からない目をして、ぼんやりとどこかを眺めている。何が見えているのだろう。アリシアはいつも、それが知りたいと思う。
男は、アリシアの兄だ。もう十年以上、こうやって、ものも言わぬ自ら動くこともない生活をしている。ここは、そうした人々が集まる医療院だった。医療とはついているが、兄に対してもう治療はされていない。現状で出来ることはもう、試しつくした。それでも、兄は兄には戻らない。
年の離れた兄だった。アリシアが八歳のころ、兄はもう十五で、すっかり大人だという顔をしていた。もちろん子供っぽい面のほうが多かったが、小さな妹にとっては大きな存在だった。
兄は賢く、庶民ながら歴史を学ぶために学校に通っていた。いずれは王都へ、という話もあったほどだ。だが、ある日、兄は家の近くの海沿いの崖で発見された。自ら飛び降りたのだ、というのが、警護騎士団の結論だった。
そんな馬鹿な、と、アリシアと両親は猛烈に抗議したが、取り合ってはもらえなかった。まだ子供だった。兄がそんなことをするはずがない、という思いを、どう言葉や形にしていいか分からなかった。
両親は、あれから思い出が山ほど詰まった海辺の部屋を離れた。騎士団への抗議もすぐに諦めた。アリシアはそんな両親を見ていたくなくて、ひとり残ったが、交流はもちろんあった。
ある日。
雨続きだった。洗濯物も乾かず、着るものがなくなったアリシアは、困りに困って兄の行李を開けた。ひっぱりだしたシャツとズボンは、少し大きかったけれど、着ることができた。そこに両親が訪ねて来たのだ。
ほつれていた髪を束ね、いらっしゃい、と笑ったアリシアを見て、二人はしばらく言葉がなかった。そして、しばらくの後、あえぐように呼んだ。アラン、と。
鏡を見た。確かにそこには、兄によく似た姿が映っていた。華奢だった兄と、貧しさから食を削って暮らしているアリシアは、体系も雰囲気も、同じ血を感じさせるに十分な見た目だったのだろう。
以後、少しずつ両親は元気を取り戻してきた。そこに無言の願いを感じ取ったアリシアは、兄の服を着て、兄のように振る舞うようになった。いつからだろう。両親の前以外でも、ふと気づけばそんなふうな話し方をしていることに気づいた。奇異なものを見る目ももちろんあったが、もともと女らしさの少なかったアリシアは、知らずに見れば男の子のように見えることもあり、結局、そちらのほうが定着してしまった。
少し風が冷えて来た。アリシアは窓を閉め、兄に再訪を約束して部屋を出た。頷きも笑いもしないが、両親も自分も、努めて普通に話しかけるようにしている。
どれだけ言葉は届いているだろう。
はじかれて落ちた言葉が、きっと、兄の周りに降り積もっている。
再び外に出ると、すでに夕方といってもいい時間だった。日が落ちる前に帰ろう、と、今度は急ぎ、上り坂を行く。傾斜は緩いとはいえ、それほど体力のあるほうではないアリシアには厳しい距離だ。しかも、靴は履きなれない新品ときた。
ふう、と立ち止まり、海風に目を細めた顔に、ふと影が落ちる。坂の上から誰かがやって来たのだ。目を上げると、そこには、呆然とした顔の両親がいた。
「……ど、うしたの、お父さんたち、今日は仕事じゃ」
同じ縫製工場で働く父と母は、決まった日の決まった時間に決められた仕事をしているはずだった。アリシアは動揺を押し殺して、努めて普通の笑顔を作る。
が、両親は目をそらした。
原因は分かっている。この、海の色のワンピースだ。
「え、ええ、今日は、店主の都合で休みになったのよ」
母が答える。その目が、ちらりちらりとアリシアの全身を確かめているのに気づかないふりをして、そう、と頷く。これから兄のところへ行くのだろう。そのまま別れの挨拶をして通り過ぎかけたが、ふと聞いてみたくなった。
「ねえお父さん、お母さん。この服、どう?」
ささやかな期待を込めたつもりだった。二人は自分を兄に見立てたが、もう、アリシア自身はそれが無理なことを知っている。肩の線も、脚の形も、頬の丸みも、もう兄にはとうてい似ていないのだから。
「……お母さんには、そういうのはよく分からないから。ねえお父さん?」
率直に問われ、明らかに動揺した母は、しどろもどろでそう言う。答えを預けられた父は、肩をいからせて、
「くだらん。おい、行くぞ」
と、坂道をどんどん下っていく。母は困ったような顔で、しかしそれ以上の言葉をアリシアにかけることなく、そそくさと父に従った。
落胆の気持ちを、ぎゅっと押し込める。
アランがあんな風になって以来、両親の落ち込みようは酷いものだった。アリシアが兄の代わりをするようになってから、かなり前向きにはなったとはいえ、先行きの見えない病状に、二人が本当に安らぐ日はないだろう。
これは裏切りだろうか。
あんなに軽やかだったワンピースの裾が、海風にあおられて、重く足に絡みつく。
のろのろとした足取りで、ガンディ商会に戻ると、
「やあ」
と笑顔で迎えられた。褐色の肌と黒髪で穏やかに笑う、シャレイアだ。彼の口から滑り出るのは、アリシアの服装が良く似合う、といった類の誉め言葉で、それを聞いた途端、お世辞だと分かってはいたが、なんだか泣きたくなった。
本当の自分、なんて言葉は、とっくに卒業したはずだった。だぶだぶのシャツとズボンが平気なはずだった。
くだらない。全くだ。父のいう通りだ。こんなことで悩むなんて、馬鹿馬鹿しいことこの上ない。全ては自分のせいだ。ちょっと女らしい格好をしようとしたばっかりに、悩むはずのなかったことで悩んでいる。
そうして――それらが全て、ブラッドのためだというのが、一番くだらない。
お前には似合わない、とあの人は言った。
合間に短編を一本書いています。
「恋唄」 有沢ゆう