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それはあの日の雨のように  作者: 有沢ゆう
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 当日、ブラッドはかなり早めに到着した。何と言うこともなく、そわそわと落ち着かなかったからだ。表面上は落ち着いた空気を出しつつ、店内に入り、給仕係に案内を頼む。ついついその仕事ぶりを観察してしまうが、示された席にすでに先客があったことに目が釘付けになってしまった。


 ごく普通に座っているだけで、華やかな雰囲気を放っているこの席を設けた男は、ブラッドよりもだいぶ前についていたらしく、彼の前にはすでに小さな空の茶器がふたつ。聞香杯を楽しんでいたらしい。桃に似た香りが漂っている。


「やあ、どうも。今日は無理を言ってしまって済みません」

「あ、いえ。お早いですね」

「いやいや、楽しみで、つい」


 またぞろ、不安になった。この入れ込みよう。がっかりすることにならなければいいが。

 給仕がひいた椅子に座りながら、再び店内を見渡す。勉強のため、と称していろいろな店を食べ歩くブラッドだが、ここは初めてだった。趣味の良い花器と控えめな薔薇、添毛織物を使った布張りの椅子、そして壁に掛けられた店に溶け込む絵画。アリシアのものだ。

 いずれも格が高く、下世話なことを言えば、値段の張りそうな店だった。


 アリシアは大丈夫だろうか?

 マナーは教えてあるが、気後れするようなことになるのは可哀想だ。

 とはいえ、それはシャレイアの責任ではない。彼はアリシアがどんな人間かを知らないし、その上で、彼なりのもてなしをしようとした結果なのだろうから。



 時間は、予定の少し前を指している。せめて遅刻だけはしてくれるな、と祈るような気持ちで到着を待った。

 席は上席で、美しい川沿いの遊歩道が見える、奥まった場所だ。扉は見えず、来たかどうかが分からない。ふと、外に水鳥が飛来したのが見えた。そういえば、父に任せてもらえた会食の日程が近い、と思い出す。鶏が好物だというその主賓に合わせて、今現在、あれこれと試行錯誤しているところだ。これといった出来のもが見つからなくて、ブラッドは少し、悩んでいるのだった。

 あれが良いかそれともこれか、と考えていると、テーブル脇に立つ気配がある。失礼にならないよう、視線を下げたまま目をやると、ひらひらとしたスカートの一部が目に入った。


「全く、何してるんだ、アリシアは」


 思わずつぶやいた声に、応える者があった。


「あら。遅れてしまったかしら。急いだのだけれど、ごめんなさい」

「え?」


 え?


「とんでもありません。お忙しいところをお呼びだてしたのは、こちらです。初めまして、シャレイア・ヴァリと申します。

 アリシアさん、ですね?」


 立ち上がり、手を差し出すシャレイアに応え、握手をして微笑んでいるのは、確かにアリシアだった。呆然とするブラッドを無視する格好で、彼女はシャレイアの引いた椅子に浅く腰掛けた。背筋を伸ばし、脚を綺麗にそろえて座る。その足を包むのは華奢な靴で、踵がひどく高い。そうと分かるのは、整えられた裾がひざ下で揺れる、スカートをはいているからだ。


 言葉も出ない。座ったきり仲介の役目すら放棄したブラッドを、シャレイアが戸惑ったように見ているが、ちょっとまだ立ち直れそうもない。

 そんな自分を、ようやくアリシアがその視線で捉え、そしてくすりと笑う。


「どうしたのブラッド、魂を抜かれたような顔をして」


 空きっぱなしになりそうな口をなんとか閉じて、給仕がそれぞれにメニューを配る間、落ち着こうと努力をした。

 そうして口に出たのは、


「その口紅は、見覚えがある」


だった。どうでもいいことでお茶を濁そうとしたはずだったのに、席に着いた二人の反応は、ブラッドが思ったよりも強烈だった。目を真ん丸にするアリシアと、一瞬驚いた後、


「ええ、あなたがくれたものよ」


と応じるアリシアの言葉に、苦笑するように顔を緩ませたシャレイア。おやおやとでも言いたげな給仕の片眉を上げた表情は、思わず出てしまったものだろう。

 これではまるで、牽制したようだ。女の口紅はみだりに触れてはならない領域だ。極めて個人的で、そして極めてセクシャルだ。

 つまりブラッドは、口をついて出た言葉で、シャレイアに対して、そこに踏み込む権利が自分にはあるのだと主張したに等しい。

 なぜだろう。そんなつもりはなかったのに。


 黙り込んでしまったブラッドをしり目に、二人は各々、絵画の魅力について語りだし、意気投合していった。それは、シャレイアの部下らしき人間が、そろそろ、と困ったような顔で呼びに来るまで続いた。









「痛い!」

「だから言ったろ、治癒魔術をかけてやるって!」

「駄目だ、外で靴を脱いではいけないって、ガンディのおばさまが言ってた!」

「それは……それはそういう意味じゃない! そのぅ、治療ならいいんだ!」


 黒幕はリゼールの母親か。服を見立て、薄く化粧を施してくれたのだろう。

 たしかに、彼女は多少年を召してはいるが、細身で身綺麗な、画商の妻としてふさわしい身だしなみのできる女性だ。しかしだからこそ、生まれてこのかた、踵の高い靴など履いたことのない女が、それで石畳の街を闊歩すればどんなことになるかに、思い至らなかったらしい。


 足を引きずるアリシアを支えながら、彼女の部屋まで戻ると、涙目の画家を座らせて靴を脱がせる。持ち上げて覗き込んだ踵は、うっすら皮がむけて赤くなっていた。


「血は出てない。痛みを取る魔術だけをかけてやるから、回復は自己治癒力に任せろ。あんまりかけると、そのうち耐性がついてしまうからな」

「けちかよ」

「けちじゃねぇ!」


 右手を上向け、呪を唱える。立ち上がった陣からふわりと光が溢れ、踵にまとわりついた。

 痛みはとれたのだろう、ふっと表情を緩めたアリシアは、


「助かった。世話をかけたね」

「もとはと言えば俺が頼んだんだから、いいさ。いいけどさ……お前、なんでそんなかっこしてんの?」


 すると彼女は、意外な答えを返してきた。


「いやだってブラッドが友達に会わせたいっていうから」

「と、友達? いや友達って感じではないんだが」

「そうだったみたいだね。今日、そんな感じした。ただ話があった時は、そう受け取ってしまったのさ」

「仮に俺の友達だったとして、それと、その格好と、なんの関係があるんだよ」

「いや、ブラッドが恥をかくんじゃないかと思って」


 あっさりとした答えに、胸を突かれる思いがした。言葉が出ないほど、打たれた思いだった。


「変な格好であんないいお店に行ったら、私は平気だけど、君はきっと体面を失うだろうと思ったんだ。だからおばさまに相談した」


 意味の分からない苦しい気持ちが沸き上がり、目のふちが熱くなる。なぜだか、泣きそうになった。理由ははっきりしない。そして実際に泣くつもりもない。

 けれど、ただ。

 アリシアの気持ちが胸に届いた。


 その一方で、複雑な心境にもなった。体面に拘る男だと思ったのか、とか、相談するなら自分ではないのか、とか。


「そのかっこ、好きか」

「うーん、悪くないよ」


 今までのまま、このままで、ずっと、過ごしてはゆけないものか、とか。

 にこにこと、スカートの裾を触れて見せるアリシアに、思わず言葉をぶつけた。


「本当はもっと前から、相談していたんじゃないのか? うちの客が、お前が結婚するという噂を持ってきた。あれは、お前がそうやって、今までと違う格好をするようになったから湧いて出た推測じゃないのか。

 俺のせいにしているけど」


 せい、じゃない、ため、だ。言葉を間違った、と思ったが、もう訂正はきかなかった。


「ほんとはお前がそう望んでるんじゃないのか」

「ブラッドは、こういう格好は嫌いか?」

「好きか嫌いかじゃない。お前には似合わない」


 アリシアの絵には、遠く、どこか見知らぬところへ駈け出してゆくような広がりがあった。誰もが夢見る、自由の世界。それは彼女が、何者にも縛られない、自由な気持ちを持っているから描けたものではないのだろうか。

 高い靴を履いて、膝をそろえて座るような、そんな彼女を見たい訳じゃない。体面なんかどうでもよかった。


「お前はお前らしくあってほしい」


 そう言った。

 彼女は――ゆっくりと笑みを消す。そして、奇妙に表情の抜け落ちた顔で言うのだ。


「私らしさって、何?」


 そして立ち上がり、奥の寝室の扉へと向かって行った。去り際彼女は、半分だけ振り返り、


「似合ってないことくらい、知ってるさ」


と言い残し、扉の向こうへ消えていった。

 ブラッドの目には、彼女の踵の赤さだけが焼き付いた。暗闇に灯るようなほんのりした赤。危険を警告する、色だ。




 のろのろと家路をたどる。

 潮騒の音だけがブラッドを見送っている。







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